番外:平地峠の「お地蔵さんの真実」

NO:11 平地峠の「お地蔵さんの清水」の項で腑に落ちない部分があったのですが、今回資料が入りすっきりしましたので、その内容を書いていきたいと思います。
「平地地蔵の清水」を汲みに行った折、お堂の横に立てかけてあった地蔵さんのいわれが書かれた看板です。

平地地蔵
天保の頃、この地方に山賊が出没して通行人や、地域の人々を苦しめていた。天保三年(1832年)当時の常林寺住職月海龍吟は衆生を救うため、多くの信者から浄財を求め、近くの谷より仏相をそなえた石を見つけ、鱒留の石工松助に依頼し蓮華座の上に身丈一丈六尺(約五メートル)の地蔵尊を建立した。爾来、その功徳により山賊残らず退散したと言われる。
立像の石仏としては、府下でも有数のものであり、あざとり地蔵として信仰されている。
〇山門鎮静〇諸災消除〇万邦租楽〇諸録吉祥
大宮町
私はこれを読むまでは、江戸時代・文政五年(1822年)12月13日宮津藩下の百姓が一斉蜂起した、「文政百姓一揆」
その時に中心的人物であった石川村の「吉田新兵衛」を偲んで建立されたものだと思っていました。
しかし、大宮町という 町名が書かれてあったので、この内容が真実だったのかと思ったわけです・・・が、
書いてあっても今一腑に落ちない気分でした。
今回、安田正明 安田千恵子 夫婦 が歴史を掘り起こし 津田櫓冬氏の絵・文による絵本を読み、以前から思っていた事実を再確認した次第です。
著作権の関係上、歴史的な考証となるような事を大まかに書かして頂き、詳しく知りたい方は絵本を読んでいただくという事で進めて行きたいと思います。
大宮町作成の平地地蔵のなれ初めの説明内容は、当地常吉に昔から伝わってきた話である。
それが、なぜ地蔵さんを作った真実からかけ離れた内容で言い伝えられたのか?その辺を書きたいと思います。
まずは文政百姓一揆の事から

義士義民の碑(天橋立に建立)
宮津藩においては幾度か全藩的な百姓一揆があった。
わけても文政五年(1822)の一揆はもっとも大規模なものであった。江戸時代後期にかけて、藩財政窮乏化の一方で、藩主本庄氏は幕府要職について出費も嵩み、遂に来年年貢の三分の一銀納分の先納め、五万の領民に一律一日三文(のち二文)の日銭をかけるに至った。そして、その徴収のために役得公認の徴収役人を任命した。
加悦谷石川村枝村奥山村の新兵衛・為治郎・元蔵や、城下宮津の大工長五郎らは、同志を語らい、広く藩民を組織し、文政五年12月13日蜂起、村々の大庄屋・庄屋を襲い、城下に押し寄せ、日銭取りやめその他諸要求を藩庁につきつけた。藩士栗原理右衛門・百助父子、関川権兵衛らは百姓に同情的であったが、藩ははじめ栗原らを使って一揆鎮圧に当らせた。
鎮圧後藩は嫌疑のせんさくを厳しくし、多くの入牢者を出し、文政7年4月、為治郎は獄門、新兵ェ衛は打ち首、元蔵・長五郎永牢(牢死)、併せて関川は死罪、理右衛門・百助も牢に入れられた。百助は江戸の藩邸に訴えんと牢を出て逃走をはかったが、宮津領近江において捕史に囲まれ自殺した。文政9年2月のことである。文政7年大方の処分は終わったが、奥山村の多数犠牲者の家では、罰金の支払い等にも困ったので、この後長く村民は金を出しあって、犠牲者の家庭に同志的援助を続けた。
宮津市教育委員会
宮津市文化財保護審議会
以上は宮津市が建てた立札であるが、大事な部分が抜け落ちているようですのでその部分を書きだします。
・・・と思いましたが、
文政百姓一揆・・・ここのホームページに詳しく載っていましたので読んであげてください。
・・・で、「平地地蔵」は、ここ常吉の地に打ち首となった吉田新兵衛氏を悼んで建てられたものです。

吉田新兵衛は幼少の頃、常吉の常林寺の寺子屋で円通住職に学んでいた。(新兵衛は石川・奥山【当時現川上】に婿養子に行ったのではないか)
円通住職をはじめ幼馴染や常吉の住民は新兵衛の打ち首に心を痛め、新兵衛を偲んでお地蔵さんを立てる話し合いが常林寺で持たれた。お地蔵さんを立てると住民も捕まってしまうという事から、常吉のもう一つのお寺 光明寺の鳳山住職が、平地峠の一番高いところに建て、そこを幕府が直接治める「天領」にしてもらえばと提案した。
それから三日後、常林寺・光明寺の住職ら三人で久美浜の代官所に人知れず出発した。
その当時久美浜の代官所に赴任してきた「蓑 笠之助」という人物は百姓たちの事を気づかっておられるとの事であった。
代官に出会えた三人は、それまでのいきさつを話し代官も尽力する約束をしてくれた。その後二年を経て常吉村は「天領」となり、久美浜代官所がおさめる領地となった。
それ以後、50もの寺の住職を中心に、丹後、但馬の村々から、京都・大阪からの旅人も含め75、000人もの人々がお米やお金を出し合い資金を工面した。
山々を探し求め地蔵の石を見つけ、石工の松助にお願いし四人の弟子たちと二年がかりで地蔵さんを彫り上げた。
2570人もの人たちが交代で平地峠に今でいう公園が作られ、そこにお地蔵さんが立てられた。
その後、「地蔵院」という草庵が建てられ新兵衛と幼馴染の、家族を飢えや病気で亡くした「恵照禅尼」がお守りするために住み続けた。
そして、地元の人々によって冬が来る前に蓑とわら帽子を着せる風習が今も続けられています。
また、宮津藩からこの件が怪しまれないように常林寺の古文書には、平地地蔵と新兵衛とのかかわりは一切触れられず、代わりに昔話風の「山賊退治に感謝して」という説明文となっているのだろうと、安田正明・安田千恵子夫妻はそのように解釈されているようです。
この本以外にも、「平智地蔵の謎」調査・分析/安田正明 安田千恵子 編著/福井禎女 が出版されています。
この事を書いていく中で、石川にも「大地蔵尊」がある事を思い出し、平地地蔵とのかかわりを調べてみた。
新兵衛・為治郎等追弔「大地蔵尊」

この地蔵尊は石川の神宮寺の境内に安置されており、大正15年ごろには地蔵堂の中に安置されていたが現在は写真の通りです。
石川村誌より(大正15年10月1日発行) 地蔵堂
一、本尊 大地蔵尊
一、由緒 嘉永二年建立
一、建物 梁行壹間四尺桁行尺壹四尺
一、信徒人員 1849人
与謝郡誌 曰
地蔵堂には一丈六尺の大地蔵尊を安置し文政五年冬12月宮津封内苛酷の誅求に堪へかねて一揆を起こし骸骨を刑場に捨て、領民を救いし義民吉田新兵衛同為治郎討追弔の為に常吉村平治庵の大地蔵と共に建立する所となりと。蓋し常吉村は吉田新兵衛(幼名・滋藏)の産地にて下常吉鈴木氏は其家なれになり。
以上石川村誌に記載されていた内容で、私も石川の歴史を勉強していればこのように悩まなくても済んだ事なり。反省

12月23日には平治地蔵(新兵衛地蔵)には蓑と笠が着せられ冬支度がされていました。一説には代官様の「蓑 笠之助」に感謝しての行いだとか・・・。


おわり
年表
1822年:文政五年 百姓一揆
1824年:文政七年 処刑
1830年:天保元年 平治地蔵建
1849年:嘉永二年 大菩薩蔵尊
1868年:明治元年 明治政府
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