NO342:滋賀県の名水「京の水」

ネットで探していたら新聞の記事に『滋賀だけど、名水「京の水」という人気の湧き水がある』という記事を見つけた。
読んでみると、滋賀・三重県境を走る国道421号の「石榑(いしぐれ)トンネル」近くにある「京の水」と呼ばれる湧き水。古くから街道を歩く旅人に親しまれていたとされ、名前の由来は、伊勢(三重)から京を目指す旅人が、この地点を境に「京都圏」に入ったと考えていたことにちなむと伝わる。
これには強く関心を引きつけられ、早速行ってみることにした。しかし、一回目は時間が足らず、奇しくも正月が迫る暮れの29日に2回目を強行。その2回の紀行文を合体させて2021年初めての「お水取り」としてお伝えしたいと思います。

名神八日市ICで下りて国道421号を三重県いなべ市へ向けて行くのですが、鈴鹿山脈?の山間を登っていく山間の風景を一枚
その421号線の途中に、日本遺産に指定されている「永源寺」というお寺があります。
一回目の時は、時間の都合でよることができず、二回目の年末に行ったときに参拝できたモノで、

お寺の駐車場が少ないため、国道沿いに駐車場があり、そこから愛知川に架かる旦度橋という名前の赤い橋を歩いて渡りお寺に向かうのであるが、今回は境内にある駐車場に止めれましたので歩かなく境内まで行けました。その橋を渡りきった所に

禅の水(この水は飲めません)という水が流れていた。湧き水かどうかお寺で尋ねて見ることにして参拝することで境内へと

この右側に10台ほど置ける駐車場が有る。ソコを通り進んでいくと

永源禅寺という看板の横に、開山のいわれが書いてあり

開山 寂室元光禅師
永源寺の開山、寂室元光禅師は美作国高田村(現岡山県勝山町)で、正応3年(1290年)に生まれられた。13歳の時、京都東福寺の無為昭元禅師についてお勉学ののち、鎌倉の禅興寺で約翁徳倹禅師のもとで修行された。禅師28才の時、南禅寺に寧一山国師に招かれた。寧一山は宋国の台州生まれ、道を求めてやまない寂室はは遂に元国へ渡航、禅師31才の時である。
中国で7ヶ年、天目山の中峯和尚をはじめ各地で修行、、嘉暦元年37才の時、長州室津へお帰りになり、以後、吉備、甲斐、遠州等各地で雲水生活を続けられたが、佐々木氏頼の願いに依り、中国の天目山に似た当地に康安元年(1361年)永源寺を創建された。
永源寺町教育委員会
とのことである。
大歇橋(ダイケツバシ)を渡り石段の参道へ

永い石段を

ヒハーヒハーと歩いて登っていくと、16羅漢の石像が出迎えてくれた

「修行を完成して尊敬するに値する人」「悟りを得た人」「 悟りをひらいた高僧」を指します。 お釈迦様の弟子で特に優れた代表的な16人の弟子を十六羅漢といわれています。その辺から

参道が平らになり、進んでいくと

総門が見えてきた。総門をくぐると

参拝受付があったが、参拝者が少ないのか事務方はいなく、左の方に近代的な、自動志納金券売機が据え付けてあった。

こりゃ誰も見ていないで素通りしても解らないカモ・・・・・と思ったが、朱印所でパンフと交換する事とのこと、悪い考えは天から見つめられていますぞ!・・・ちゅうこと。
コロナ過で「緊急事態宣言」が当地域でも発令され、益々水汲みに行けなくなりました。・・・ゆえに、編集もノンビリと書いていきます・・・てか、今までもノンビリ~だったちゅ~の・・・と言われそうですが・・・(。-_-。)
山門(三門)に行く道すがら見た風景

そして、山門

寛政7年(1795)丹崖周桂禅師山門無きを嘆き、建立を発願し、彦根藩主に図り、四方に浄財を化縁して着工、7年の歳月を費し享和2年(1802)霊隠道泉仙禅師代に完工す。
楼上に釈迦牟尼佛・文殊菩薩・普賢菩薩並びに16羅漢像を奉安している。
平成10年、住職大雄老師の時、大改修された。
山門をくぐり抜けると

正面の石段を上がっていくと

手前正月飾り付けを終えた紫の幕の建物が「庫理」その奥が「御朱印所」ここで「志納金券」の検め場所にてパンフを戴く、その奥が本堂である「方丈」
今回は、二回目に行ったとき参拝した師走であったが一回目に行ったときお参りしておけば、また違った紅葉の景色が拝まれていたのであったが・・・残念であった。
そして、永源寺の最大の見所「方丈」本堂である

葭(よし)葺きの屋根の迫力は一昨年行った「白川郷の茅葺き」の屋根より圧倒されるモノであった。その前に立っていた柱は

柱の上部には「大圓鏡智」(大きな丸い鏡が万物の形を映すように、すべてを正確に照らす智慧)その下には銘日と・・・書いたものが、何のために建ててあるのか?であった。

本山古例の法要を行う道場である。元安心室と号し、佐々木氏頼が康安元年(1361)に創建。
しかし、度重なる兵火、火災によって消失の難にあった。現在の建物は明和二年(1765)第百十二代拙堂禅師の時、井伊家の援助により建立されたもので屋根は国内屈指の葭(よし)葺きである。
正面広縁には開山寂室禅師真蹟「瑞石山」の額が懸けられている。元来永源寺の山号は、飯高山と号したが、開創まもなく瑞石山と改号されている。瑞石の石の点は(書いてないが石の間に、が付く)角のある割れ石の意で、石は角のない丸石のことと伝えられている。
仏間正面には、本尊世継観世音菩薩(秘仏)、脇壇には、中興開山一絲国師の座像、歴代住持の位牌、井伊家及び壇信徒の位牌が奉安されている。
本堂の内部は

何人入れるんだろ・・・と思える大講堂である。その覗いた入り口の後ろには、粋な庭園?

パッと見、なんで逆さに『永源寺』と立ててあるのだろ~と思ったが、すぐさま解決😉更に境内の奥にまで入っていくと

風穴と書いた意味深な石垣、富士山麓の風穴は有名だが・・・
(風穴とは=洞窟の内外で生じる気温差や気圧差により風の流れが生じ、洞口(洞窟の開口部、出入り口)を通じて体感的に速い大気循環がある洞窟の一形態である)
と言うわけで引き返す事に

方丈以外にも、多くの建物がありますが、境内の奥の方から入り口の方を撮した風景です。
そして参道を下りていったのであった。

再度R421号に入り上流向けて走り出した。1回目に来たとき、この雰囲気をみて何時か必ず来てやろうと思った風景

集落の屋根越しの永源寺の建造物の屋根々、ソコを上がって行くと永源寺ダムに到着

ところがダム湖をみれば

水はスッカラカン・・・ダムの裏側も

水も無いが、土砂の堆積もスゴイ・・・・・何年に一度水を抜いて土砂をさらえているのかも??
そこから少し逆か上ると、1回目の時は紅葉の季節も終わりかけで最後の雅を醸し出していた大滝神社の美

2回目の時は

殺風景な鳥居周辺、で社

この大滝神社、昔から伝わる催し物がダム建設でできなくなった事が書き残された

社歴
祭神:角凝魂命(ツノコリダマノミコト) 天湯川桁命(アメノユカワゲタノミコト)
由緒
当社は、後醍醐天皇延喜元年11月の創立なり
(社蔵文書)式内川桁神社、神埼郡二社の内の一社なりと云う元別当本覚寺有り。明治9年まで式内川桁神社大瀧大明神と称へ来たえしが明治10年以降専ら大瀧神社と称うるに至れり。
本社は古来より信仰厚く、神崎、愛知二郡の田は皆この神の治むる所なりとして、159個村に及ぶ地方の農家の崇敬ことに厚く、渇水の神と春秋初穂を献納したることは、元文元年(1736年江戸時代)の書類に歴史として今尚其の崇敬者多し、大日本神祇誌に 川桁神社今在菅尾村日大瀧明神伝言祀天渇川桁命社前有愛知川両岸大石状如桁水自其上而 下如瀑泉呼日川桁其支流有湯川潤神崎、愛知2郡之田皆此神之所治云延喜列小社
祭礼 7月1日
特殊神事(瀧飛びの神事と云う)
此の神事は古来より行なはれ、例祭当日祭儀に引き続き氏子の青年に依って行なはれ、神社より一町余り上流奇岩重畳せる岩上より数十尺下深淵の大瀧に飛び込み青年の体躯は勇壮で躍動する龍神の如し井水信仰の本源となすものなり。
昭和46年愛知川ダム建設に依り尊い自然と伝統と歴史は湖底深く没する。
ここに記して後世に伝えん。
大瀧神社
と言うぐあいである。しかし、今回のようにダムの水を抜いたら大瀧が出てくるのであろうか、それともヘドロに瀧ごと埋まってしまったのか確認はしてこなかった。
先を急ぎながら川面を覗くと

愛知川の心洗われる水面、そしてこの辺までダム湖となる渓流の面影

この谷間を上っていくと、奥永源寺渓流の里・道の駅

が有ったが、一回目の時は帰りに寄ってみると・・・先を急いで行った。途中

12月の寒い中、キャンプ場で多くの方達がテントを張って楽しんでいる様子を車窓から眺めながら先へと進んでいった。
周りを眺めながら上っていくと、1回目の時はアララ・・・石榑トンネルを抜けてしまった。

こりゃ三重県に入ってしまた。これではだめだぁ~・・・と、この様なときは地元の方に聞くのが一番と、先ほど通ってきた道の駅に引き返す事に

廃校を活用した道の駅、コロナ過でも多くの車が止まっていた。物産品を買って尋ねると、上っていくと右手にコンクリートの大きな建物が見えるので、それを目印に・・・とのことで再度石榑トンネル目指してGo、今度は慎重に右側を見ながら行くと

山の中これぐらいしか大きな建物は見えなかった。慎重に走りながら湧き水を探し続けると・・・これまたトンネル近くまで行ってしまった。再度引き返しゆ~くりと下っていったが・・・それらしきものは無く、旧道に入ってみることにした。
入ってみると

馬手の通り行列、我が輩はこの後、京都市内まで戻り出会う約束がある。もう少し時間的余裕が有り並んで入れて帰ることに決断。

看板に「京の水」と書いてあるので、この場所に間違いない!水質検査表も設置

入れているオジサンと話を、そこら中を回ったがここの水が一番との事、その乗ってこられた軽トラをみると

2リッター入のペットボトル上下合わして数にして100本以上か、来れでも1週間に一度は来ているとか、こんなの見たことねぇ~

これでは大分時間が掛かると、入り口の写真を・・・と思い本通りへ、するとガードレイルの縁に「京の水」の看板が倒れていたので、これでは解らないと、再度くくりつけて

また倒れて判らなくなった時は、その前には小さな「滝ヶ谷」と言う看板が有りそれも目印になります。

と、カメラに必要な所を撮して帰ってきても、まだ半分入れ終わったところだとの返事、これでは出会う時間に間に合わなくなると、我が輩の前に並んでいる二台の方々に訳を話して、取りあえず3本だけ入れさせて頂き、一回目は京都市内へと帰っていたのでした。二回目に行ったときはガラ空きの状態

我が輩はコンテナ2個分を汲んで正月の水用として持って帰りました。
京の水のイワレはこちら

名水 京の水
遠く江戸から伊勢路から鈴鹿を超えてここ近江の里 遙かなる京の都に想いを馳せる時、幾多旅人の喉を潤し心を癒やしてくれた事か、なぜか心を温めてくれる幻の水、此の水も地名もいつとわなく旅人が名付けたのだと伝えられる。古えより今も尚限りなくこんこんと湧き出づる清水
大自然の慈みに心から感謝し、私たちの大自然を大切にいつまでも後世に伝えましよう。
国定公園 鈴鹿自然愛護会
な!なんと!!素晴らしい訴え!!!
湧き水の想いを代弁して余り有る文章 ありがたや


二回目の時の帰り道は、今だ通ったことの無い第二名神から帰宅することに

鈴鹿峠を越えていなべ市の麓に下りてきた風景で、こちらから見た鈴鹿の山並み

を楽しみながら帰ってきました。
コロナの日々、緊急事態宣言が功を奏してか感染者も激減してきました。まだ油断はできませんが、府内の水汲み場なら「オオメニ」見てもらえるかな・・・と先日の日曜日に行ってきましたので、この項は終わりに致します。
「京の水」の独断と偏見の水評価は
軟水であるが美味しく飲めた水として、「正月用」のめでたい水に選び再度汲みに行った事から判って頂けると思います。
(^-^)/ (^-^)/ (^-^)/ (^-^)/ \(^o^)/
詳しい場所
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