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NO319:醍醐寺の「醍醐水」

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まだ、2019年の記事を続けます。年末、車の一年点検(二年目)とタイヤ交換(冬用)に一日ディーラーに預ける事に成り、代車を借りて京都市内の水を探すことにした。探して標的にしたのは、金閣寺の「銀河泉」それと銀閣寺の「お茶の井」である。
有名どころであるので、簡単に水は汲めないかも・・・との思いも、また、HPで見ると現在では「水量、水質」から?であったため、とりあえず近くの銀閣寺から攻めることにして、そこがだめなら金閣寺もあきらめ「醍醐寺」へ行く事にしての行動であった。
車のディ-ラーは、国際会館の近くにアリ、銀閣寺の方が近く、そちらへ向かった。
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駐車場からすぐに、疏水沿いに哲学の道があり、春は桜で華やからしいが、今は秋、まぁ秋は秋でモミジも有ったりするのかも、しかし、そこを通り過ぎて銀閣寺の参道へ
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参道と言っても、門前町商店街
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美味しそうなアイスクリームや抹茶わらびもち等々抹茶尽くしの店やら、
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和風小物の土産物や、どうも女性好みのお店が多いいようで、女性は買い物好きなのかも?
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ここからが要するに参道という物かも、門をくぐり入って行くと
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銀閣寺の有名な生垣、藪ツバキ・くちなし・山茶花など四季折々の花を咲かせるようです。この角を曲がると受付が見えてきます。
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受付で拝観料を買い求めるのですが、ここで、「お茶の井」の水を汲むことができるのかと尋ねると、「今は、周囲が開発されて水は枯れている」との返事、それでは入っても意味がないと、拝観料を断って引き返すことにした。行きしま八橋のお店で帰りに寄らしてもらう・・・と言っておいたお店に
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寄ると、「えらい早いお帰り」とのお出迎え(*^_^*)約束の八橋をお土産に買って駐車場へ帰ってきた。
金閣寺もおそらく水を汲むことはできないだろうと判断(~_~;)予定を『豊臣秀吉の一大イベント醍醐の花見』で有名な醍醐寺へ行く事にした。醍醐寺の醍醐水は奥ノ院に出ているそうで、山登りをしなくては行けないのである(~o~)時間が必要であるとの事もあり、車を山科の方向へ進めた。代車の為カーナビも思うように動かせず、道に迷いながら昼前に到着、
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ど派手な山門(*_*; 豊臣家の家紋は理解できるが、菊の御紋は皇室と関係あるのかな(?_?)と思いつつ、その横にある一般観光客用受付で、入山料を払おうとすると、「奥ノ院」は別個に「女人堂」で買い求めてくれとの事、奥ノ院へ行く道順を教えてもらいそちらの方へ移動。醍醐寺は、下醍醐と開創の地と言われる上醍醐に分かれており、奥ノ院という名称は無いようだ((+_+))
というわけで
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境内の縁を(ここも醍醐寺の境内内デアル)歩いて
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この角を曲がれば、あとは間違うことはない。
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赤い幟旗が立っていると、道順が正しいと確信もてる。
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そのうちモミジが綺麗な通りに出て行き(最高の紅葉の時期は過ぎていたのだが)
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極彩色のモードで写したり
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オート(普通)のモードで写したりと、遊びながら進んで行くと
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それらしき参道が出てきた。
石柱には「西国11番札所」の字が見えます。そして、昔は上醍醐は女人禁制であったと思われる「女人堂」
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醍醐寺の説明では「女人禁制」のことは書かれていないが、醍醐水を頂いたお堂の入口には
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醍醐水と書かれた石塔の後ろには「女人禁制」との文字が
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成身院(女人堂)
 上醍醐へ続く参道は険しい。山道を登り、山上へ参拝するのをためらう人も多いい。
 そこで、上醍醐へ登らなくても、お参りできる「女人堂」が登山口に建てられた。
 西国十一番札所がある上醍醐への登山口に建てられた女人堂は、ここだけでなく、西国十番札所からの参道だった炭山(宇治市)、十二番札所へと続く笠取(宇治市)にもあったことが、国宝「醍醐寺文書聖教」の中にある「山城国上醍醐女人堂炭山観音縁起」(第九十三函十三号)等々によって知ることができる。
 現在の女人堂は桁行が9,8メートル梁間5,9メートルの入母屋造りであり、誠身院の本堂となっている。
 成身院は、後嵯峨天皇の皇后である大宮院の祈願所であり、慶長年間には三宝院に隣接する場所にあった。
 いつごろ、その名が移転したか不明だが明治二十二年頃に作成された女人堂の境内を示す図面(第717函三十六号)は、誠身院の図面と一緒に綴じられており、この頃既に、成身院と女人堂は一体とみられるような関係にあったと推測される。
                  京都市
明治33年2月3日と前出の石柱には書いてある。案外明治維新後神仏分離政策から女人禁制となったのかも・・・と、割ってに推測してみた。
と・・・さておき、
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奥に見える社務所で拝観券600円を払い登山道(参道)へ入って行くのである。ちなみに女人堂の境内の様子は
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前には数体の仏像が設置されています。
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ここから西国33番札所の中でも一、二位を争う険しい道のりの始まりです。そして、ここにも
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出発の「一丁」目の標識が,おそらく10丁で上醍醐に到着することだと歩き出す。
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しばらく歩いて行くと荒れた参道になって行った。
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早3丁目
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いよいよ坂もきつくなりだした。そうこうしている間に
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4丁目そして
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醍醐の花見
 慶長三年(1598年)三月十五日、秀吉は一世の善美を尽くした花見をこの槍山で催した。千畳敷とも呼ばれる平地には新しい花見御殿が建てられた。又、女人堂から槍山の間には、長束正家をはじめ各武将により趣向をこらした茶屋八棟が設けられた。
 この花見にさきがけて山内馬場先から槍山に至る両側には畿内より集めた桜の木700本を植えさせた。
 花見の当日、秀吉は、秀頼・北の政所・西の丸(淀君)・松の丸・三の丸を従え、山下の桜が一望できる槍山の御殿で花見の和歌を短冊にしたため桜の枝に吊り下げた。秀吉の栄華を誇る豪華な花見であった。
(保存資料)重文・醍醐花見短冊(131様・霊宝館所蔵)
       重文・花?浄観(旧花見茶屋・三宝院に移築)
       総本山 醍醐寺
と、この地があの有名な秀吉の桜観の場所であったようである。下から見た雰囲気は
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左の小高い場所である・・・が、今となってはイメージとのギャップが大きいと吾輩は感じつつ
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7丁まで来たのだと、ルンルン気分で登って行ったのでありました・・・しばらくして
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石段が出て来て、上醍醐が近づいている雰囲気!(^^)! 階段を上り詰めると
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それらしき建物はナイ・・・奥の方に石仏が立っているような・・・
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標識には、不動の滝 下山側「三宝院1,7k徒歩33分」 登り側「西国33霊場厄1,1k徒歩30分準胝観音堂」
と示している。オよよ・・・この標識に寄ればまだ30分歩かなければ着かない。
とりあえず休まなければ心臓漠々で登れない・・・。
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これが不動の滝でそのいわれはこちら(不動明王が祀ってあります)
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・・・と思ったが、山林火災の注意書である。
 当山は平安の昔貞観16年(西暦874)に弘法大師の法孫聖宝理大師によって開かれたお寺であります。時に特に聖宝導師は、修験道(山伏)の中興の祖と仰がれ、その遺風を今に残す山で貴重なる道場でもあります。山上には平安、室町、桃山の各時代の国宝建造物や各種重要文化財が保存されています。又、全山が歴史的風土特別地区に指定されており、その保全の為、山林火災の予防には十分なる御協力をお願い致します。焚火の禁止は勿論、タバコの吸い殻の後始末、不用意に山の中に捨てないで確実に消して下さい。

お山は修験道にかぎらずとも、人間精神の道場である。頂上に立つ爽快さは、どうしても頂上に立つことなくしては体感できない。がんばれ、降りの道は苦しさを伴っても楽しい。人間精神を鍛える原始の場山こそはその価値を失はず、神秘の姿である。

  山ざくら つづくや上の 醍醐まで 「蝶夢」
    幾山河 遍路の遠き 浄土かな 「玄空」
       ひとりする 行きをたのしとおもひつつ
                醍醐山路の けはしきを踏む 「勇」

・・・と、不動の滝が中間点であり、さらに一汗汗をかけば楽しみが待ち構えるという励ましの言葉でもありました。
で、勇気を頂き、疲れも回復したところで上醍醐を目指して腰を上げた。
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石段を登り始めてフト石柱が目に入り、
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標識でウスウス感じていたが、10丁の標識、頂上では無いという事は、まだ残り10丁登って行かなければならないのだと心に思いながら、覚悟を決めて登って行った。
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しばらくすると赤いホコラの稲荷神社に到着。なぜこんなところに在るのか分からないが、遠方の法の見晴らしは良かった。
さらに登って行くと
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休憩している方と挨拶をかわし息を弾ませながらのお参り、有り難く感じる・・・と言うよりも虚無の感じで登って行く^_^;
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十五丁も過ぎたころ
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坂道の頂きらしき雰囲気が見えてきた。
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その先は少し下りの参道が続き気分的に一息つげる部分でもあった。そのうち
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トイレが出て来て、上醍醐に着いた様子、その先に山門が見えて、やっと着いた・・・(^_^)v
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  醍醐山の略史(チョイト長くなりますが、吾輩にとっては大事な内容であることにより)
 醍醐山は弘法大師の法孫である聖宝理源大師の開祖になる。醍醐とは五味のなか最上の滋味といわれ、それは牛乳を精製し酪となし精錬を重ねて出来上がったものをいい、弘法大師は真言の教えをして一切仏教の最善のものであるとし醍醐をもって喩とされている。
 醍醐寺縁起に聖宝尊師は貞観16年(874)「未だ令法久住の池を得ず普明寺に於いて仏法相応の霊地を祈念す、その希請に応えて五色の瑞雲当山の峰に聳え伝々」とあり、また「師、雲を望み訪ねて嶺にいたり、白髪の老翁来りて古葉をかき分け水を掬んで喫して曰く、ああ醍醐味なるかなと、師その化人なるを知りてこの山に伽藍を建て密法を弘めんとす、翁曰転法輪の勝地たり、密乗を弘めて衆生を利せよ。われ山主、永く和尚に献ぜん」と惣然と消え、そこに清涼な水が滾々と湧き出ていた。後に石を畳んで他日のしるしとす。更に山に大柏樹ありて三宝鳥その上に鳴く、その柏樹を伐りて梵音加持し准胝 如意輪の観世音を刻み堂宇を建立し、翁の言をかりて醍醐寺と名づくとある。
 延喜の聖帝醍醐天皇の叡信厚く勅願寺となり、山上山下に堂塔が建立された。このあと聖宝尊師の弟子観賢僧正が醍醐寺の第一世座主となり朱雀、村上両帝は五重の大塔を建立し、旧記によると五百有余の堂宇が立ち醍醐山万代の基盤が確立した。
 寺史に傑出した高徳を挙げれば、弘法大師の諡号(しごう)奏請に力をいたし高野山の廟窟を開いて親しく更衣(ころもがえ)(衣更?)し奉った観賢僧正、平安期に三宝を開基し醍醐山の繁栄をもたらした勝覚僧正あり、また東大寺再建に活躍した俊乗坊重源上人も山に住み宋版の一切経を施入し西大谷に湯屋を建て西国巡礼に薬湯を供したという。足利尊氏が深く帰依した南北朝の歴史に名を留める賢俊僧正、また南朝復興に画策した弘真僧正、足利幕府の黒衣の宰相と義満の支持を受けた満済准后等々枚挙にいとまない。文明二年の戦火により醍醐山の堂宇が悉(ことごとく)焼失したが豊臣秀吉の帰依を厚くし醍醐寺を中興した義演准后が、慶長三年三月有名な太閤秀吉「第五の花見」が行われたのを期に、ほぼ現在の伽藍に再興されたのである。
 上醍醐への道は険しく難所であるが、開山聖宝尊師は宇多天皇の勅を奉じて大峰山修業の道を再興し役行者の芳躅(ほうたく)を明らかにした験者であり修験道の中興の祖と仰がれていることは忘れてはならない。現在の上醍醐から石山寺へ抜ける巡礼道も、昔は験者の往来する行者道でもあった。

この内容からすると、醍醐水と醍醐寺のかかわりは伐っても切れない内容があるようで、期待に胸が膨らんで行った。
・・・が、書き出しはシンドイの一言である。
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山門をくぐって行くと、右下に上醍醐の社務所が見えてきます。御朱印を頂くにはいく必要があるのだろうが、吾輩はパス。この近辺にはモミジが沢山あって見ごろを過ぎていたが綺麗であった。
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極彩色のモードで写しているのできわめて派手な色に写っている。社務所を超えたあたりに
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手洗いの蛇口から水が申し訳程度に出ていたが、醍醐水はここではない。このたもとに
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十九丁と彫った石柱があった。二十丁と思っていた距離が十九丁で終わっていた。どうも山によって測る物差しが違うようである(*_*;
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境内図から、醍醐水はこの上あたりに在るようなので、地図を見れば境内を一周してこれることから、水汲みは最後に(担いで歩くのが重いから)して、順路を逆回りに散策することで歩き出した。
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また上り坂を歩く破目になってしまったが、目的地が手の内に入ったのか、しんどさが今までとは違い、ハツラツと登っていけた。
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時には参道も良くなり
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そのうち鐘楼が見えてきたが、
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そこを右に折れてさらに上を目指した。そうで如意輪堂の足組が見えてきた。
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juuyoubunnkazaino
開山堂  重要文化財
最初延喜年間に建立され次いで寛冶6年(1092)に改築されたが、その後二回にわたり祝融にあい、現在の堂宇は慶長11年(1606)豊臣秀頼の再建されたもので、雄大な桃山時代調をよく発揮した山上最大の建造物である、その様式に於いては注意を要する点が多々あるが、外観に於いては、側面前端り間の扉で、ここでは縁が切断されており、扉が亀腹上にまで達しておることである。
堂の内内陣には、中央に開山聖宝理源大師、左に弘法大師、右に醍醐寺一世座主観賢僧正像が奉安されてある。
中には入れないようなので写真を撮るだけでパス。さらに奥に行くと
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天皇陵であった。
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白河天皇 皇后賢子
白河天皇皇女尊称皇后媞子内親王
白川皇后皇女尊称皇后令子内親王
   上醍醐稜
鳥羽天皇皇女禧子内親王墓
一、みだりに域内に立ち入らぬこと
一、魚鳥等取らぬこと
一、竹木等切らぬこと
         宮内庁
水を求めて歩いていると、たまに陵墓に出くわすことがあります。
で、恐れ多いいので、さっそく退散・・・次の所へ
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来るときに足組が見えた如意輪堂(重要文化財)
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如意輪堂は、醍醐寺開山の理源大師聖宝が上醍醐を開いた際、准胝堂と共に最初に建てた建物で、「醍醐寺縁起」では、創建を貞観18年(876)のこととしています。現在の建物は慶長11年(1613)建立のもので本尊如意輪観音と共に脇の間に毘沙門天、吉祥天が祀られています。(読みにくいのでHPからの拝借です)
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こちらが正面ですが扉は閉じられたままでした。
上醍醐の頂上(標高450m)の境内から引き帰し、鐘楼の左方面へ
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五大堂と言うらしいのだが、近づくと堂内から読経の音が聞こえてくる。境内は吾輩ただ一人、あまり気持ちの良いものではない(~_~;)
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五大堂
 醍醐天皇御願により、延期7年(907)に建立された五大堂であるが、再建の都度に祝融にあい、慶長11年豊臣秀頼再建の様式を伝え、昭和15年に再建されたものである。
お祀りしてある、不動明王、降三世夜叉明王、軍荼利夜叉明王、大威徳明王、金剛夜叉明王、国土安泰、清除不祥の御誓願を持ち”五代力さん”の通称で尊崇され、毎年2月23日仁王会大法要が厳修されて盗難除、災難身代わりの霊符が授与される。
との事、そのうち度胸も終わり、お坊さんらしき方が出てこられ他ので、「醍醐水」の事を尋ねると、『湧き水は今は枯れてしまったので、地下水を汲み上げているとの事、下界の三宝院受付では「今は、醍醐水が出ているか分からない」と聞いていたので一安心。
五大堂から引き返し鐘楼の所を下り、来た道ではない薬師堂の方へと進んだ。
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この薬師堂は国宝となっていた。
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 この堂の創立は、延喜7年で開山聖宝理源大師の時に遡るが、現在の堂は保安2年(1121)に再建になったもので、山上伽藍に於いては最古の建造物で数少ない平安時代の遺構として貴重なものである。
堂内蟇股は、所謂本蟇股の最も古い例の一つである。
本尊薬師如来座像は脇侍の日光、月光、両菩薩と共に国宝に指定されており聖宝の弟子会理僧都作になるもので貞観後期の豪快な気分を十分に感じさせる優美な作品である。
又、歴代の聖帝が御病気の平癒を祈られる度に金箔を尊像にはり加えられた事は有名であり「箔薬師」の名で厚い信仰を集めている。
そして更に下って行くと、准胝堂跡に着いた。
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西国33観音霊場の札所でもあるご本尊「准胝観世音菩薩」があった場所で、ここで11番札を授与されていたのだが、あまりにも険しい山道を上がってこなければならないので、今では下界の観音堂で頂けるように移転されたようです。
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そして、この急な石段を下ったところに、醍醐寺発祥の地である醍醐水の出ているお堂が在ります。
降りて行った境内の中央に「「醍醐水」と言われるお堂が在ります。
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左に在る説明文
  醍醐水
貞観16年6月(874)聖宝理源大師当山開創のみぎりこのところに於いて地主神横尾明神の影現にあい『永く此の地を師に献せむ、よく密教を弘め群生を利済せよ、吾も亦濯護せむ』と告げ、落葉をかきわけ、その下から湧出した泉を汲んで『あ、醍醐味なる哉』の言葉をのこして忽然とと姿を消されたと伝えられ、、尊師は、そのところに石をたたんで閼伽井とされ笠取山の古名をあらためて醍醐山と称せられるにいたったもので、醍醐寺発祥の霊泉である。
醍醐とは、乳製品で五味の最上なるものの名称であるが、この寺の場合は、心の糧として仏法が最高であることをいわんとするものである。
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お堂に入って行くと、その横に蛇口があり
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貴重な水らしく、コップをレバーに当てて抑えると上から「醍醐水」が出てくるしかけで、吾輩はペットボトルに持って帰りたいがために、お参りの人がいない時を見計らい10分ほどかけて2本頂いたのである。夕暮れまじかという事もあり無事目的を達成できたのであります。
この境内にはほかにも国宝に指定されている「清龍拝殿」
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 創立は寛治2年(1088)であるが、この堂は永享6年(1434)に再建され現在に到っている。
邸宅風の手法を用いたつつましやかで親しみやすい建築で、古風で純粋な伝統的手法が繊細で垢抜けした姿で活かされており洗練された気品を備え、高く評価されている。
そして石段を再度降りていくと
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上醍醐めぐりの出発点にたどりついた。時間も12月第一日曜までは午後5時の閉門となっているため急いで下醍醐に向けて下山して行きました・・・が、
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女人堂の社務所は閉まっており
仁王門も
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扉は閉まっていた。その前の
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広い桜馬場(参道)も夕暮れ時の物寂しさが漂う風景となっていた。
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三宝院の受け付けも閉じ人影がいなくなっていた。

独断と偏見の醍醐水の水評価は
汗かいて登ってきた割には、イマイチのお水であったが、この水はそこに値打ちがあるのではなく、苦労してたどり着いた時のコップ一杯の水の有り難さを思い「頂く」みずなのであろう。
・・・が、しかし、吾輩の基準で行くと
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vでした。
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