fc2ブログ

NO288:建部大社の「頼朝公の出世水」

2019,5、建部神社 022-1r
その日は、2019年5月1日、天皇の代替わりの日、マスコミはどこもかしこもこの放送で一色、吾輩はそんな事「知ったことじゃない」とばかり、相方さんが仕事の為一人で瀬田川攻めに行ってきました、今までは瀬田川の右岸ばかりを攻めてきたので、今回は左岸側を探していたら、面白そうな神社に「名水」がある事を知り行く事に。
着いてみると、神社なのでそうなのだが、天皇の代替わりの祝典の催しがされていた。
2019,5、建部神社 045-1q
瀬田の唐橋を渡り県道を進んで行くと鳥居と長い参道に突き当たります。県道はそれてどこかに行きますが、車はまっすぐ進めば駐車場へ行けます。
2019,5、建部神社 046-1w
その鳥居の入口に大きな看板が二つ、一つは建部大社の見取り図。その横に建部(たけべ)大社の年表が書いてあった。
チョイト面白そうなので少々書き出してみる。
 
年表
    景行天皇の第二皇子で名は小唯(おうす)と申し上げる
景行27年(300年)  小唯皇子九州熊襲を平定 これより日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と名乗る
景行40年(312年)  東征の途次駿河国にて草薙の剣(天叢雲剣)で難を逃れる
景行42年(314年)  日本武尊野褒野にて薨去
景行46年(316年)  御妃布多遅比売命が神崎郡千草嶽に社殿を創建し日本武尊を祀られたのが当社のはじまりである。
                                                          (上記は建部大社小史による)
白鳳4年(675年)   近江の守護人として瀬田大野山に遷し祀る
天平勝宝7年(755年)大巳貴命を権殿に祀る 近江国一之宮を宣る
永歴元年(1160年)  源頼朝平治の乱に敗れ伊豆に流される途次当社に参籠源氏再興を祈願する(平治物語より)
寿永2年(1183年)   木曽義仲軍が平知盛軍と当社の森にて野戦を行う
建久元年(1190年)  源頼朝右大将として上洛の折神恩に感謝し幾多の神宝を奉納
承久3年(1221年)   北条時房軍により焼き払われる(承久の乱)
貞応2年(1223年)   現在の地に奉還され一夜にして社頭に3本の杉が生える爾来三本杉を神紋とした
貞応2年(1221年)   北条頼経により社殿再建
建武3年(1336年)   建武の戦い 足利直義軍当社を中心に十万騎が駐屯  
正平4年(1350年)   足利直義軍と佐々木軍との戦いにより社殿ことごとく焼失
応永6年(1399年)   将軍足利義持社殿を再建
応永14年(1407年)  足利義満前途を祈願に参拝
応仁元年(1467年)   山名軍の兵火により社殿炎上(応仁の乱)
文久元年(1861年)   社殿総てご造営なる 現在の本殿
明治元年(1860年)   明治天皇奉弊使差遣
  伝々
との社歴があるそうです。まあ由緒ある大社という事です。さらにその横に建部大社の成り立ちの大看板が図柄も派手に
2019,5、建部神社 047-1e
近江国 一宮
    建部大社(たけべ)  御祭神:日本武尊
          由緒
 社伝によると、景行天皇46年(316)御妃布多遅比売命(ふたじひめのみこと)が神崎郡建部の郷(御名代の地)に日本武尊の神霊を祀られたのが始まりとされ、その後、天武天皇白鳳4年に、近江国の中心であった瀬田の地へと遷し祀られました。
 古来「唐橋(日本三大古橋の一つ)を制する者は天下を制す」といわれてきたように、瀬田川を挟んでの戦が数多く、当社も幾度となく戦火に見舞われていますが、その度に再建され現在に至っています。
 御祭神日本武尊は九州の熊襲(くまそ)族・東国の蝦夷(えみし)を平定され、日本の基を作られた英雄です。武勇必勝の神・厄除け開運の神として篤い崇敬を集めています。

という神社(大社)です。一之鳥居をくぐって参道を歩いて行くと、境内に向かって二之鳥居があります。吾輩は車で入って行ったので、二之鳥居の左横の駐車場へ入って行きました。駐車場からは垣根の間から手水舎に行きますが、二之鳥居からここまで来る参道には、先程の派手な看板と同じ図柄で日本武尊に因んだ物語が設置してあり
2019,5、建部神社 019-1r
一、ヤマトタケルの西征
ヤマトタケルノミコトは父(第十二代景行天皇)の御子:小唯命(オウスノミコト)として生まれています。
父はオウスノミコトに朝廷に従わない西国の九州:熊襲建(クマソタケル)兄弟を征伐するよう命じました。
熊襲建兄弟の館を見つけたミコトは、女装をして熊襲の女たちに混じり宴に紛れ込み、熊襲兄弟が酔ったところで忍ばせていた短剣で熊襲兄弟を討ちました。
熊襲兄弟を討った事から強者の称号である(タケル)の名をもらい、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の名で呼ばれるようになりました。
2019,5、建部神社 018-1t
二、ヤマトタケルノミコトと草薙の剣
西国征伐から戻ったヤマトタケルノミコトに景行天皇は東国征伐を命じます。途中、伊勢神宮に立ち寄り叔母のヤマトヒメから神剣:天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)と、火打具を授かりました。駿河の国に達したミコトに国造(クニノミヤツコ)たちは「沼に住む荒ぶる神に困っております」と、野に誘い出され四方から火を放たれました。
退路を断たれたミコトは、ヤマトヒメから授かった神剣で草をなぎ払い、、火打具で向かい火を放って野火から脱出します。
後に火で焼いた事からこの地を焼津(やいづ)静岡県といい、草をなぎ払った神剣は草薙の剣(クサナギノツルギ)と呼ばれるようになりました、
2019,5、建部神社 017-1y
三、后、オトタチバナヒメの入水
さらに東へ進んだヤマトタケルノミコトは、次に相模の国から船で海路を進み上総の国へ渡ろうとしました。
しかし、海が荒れ舟を進める事が出来ずにいると、同行していたオトタチバナヒメが、「私が海に入って海の神を鎮めましょう」といって自ら荒海に身を投じたのです。すると、たちまち荒れ狂っていた海は静まり、無事に対岸へつく事ができました。
2019,5、建部神社 015-1u
四、ヤマトタケルと伊吹山の神
東国を平定し尾張の国へ戻って来ると、今度は伊吹山に悪い神がいると聞きつけたヤマトタケルノミコトは、神剣:草薙の剣をミヤズヒメに預けて征伐に向かいました。
伊吹山を登る途中、牛ほどの大きな白い猪に出逢い、
「これは山の神の使いだな!帰り道で相手になってやろう」と大きな声で威嚇してやり過ごしました。
すると突然激しく雹(ひょう)が降り出し行く手をはばまれます。実は白い猪は山の神の使いではなく、山の神だったのです。怒りを買い雹に打たれて衰弱したミコトは、やっとの思いで山を脱出し故郷の大和の国を目指します。
2019,5、建部神社 014-1i
五、ヤマトタケルと白鳥伝説
大和の国を目指して歩き続けたヤマトタケルノミコトは、「足が三重弐に曲がり堅い餅のようだ」と嘆いた事からその地を三重(みえ)と呼ばれるようになりました。更に体調を悪くしたミコトは国偲びの歌を詠みます。
「倭は国のまほろば たたなづく青垣山隠れる 倭しうるわし」
と読み、伊勢の能褒野(三重県鈴鹿市)でついに力尽き息を引き取ります。・・・妻や子供たちが駆け付けると、ミコトの魂は白鳥にとなり能褒野から河内の志木(大阪羽曳野)へと飛び立ちました。今も白鳥伝説として語り継がれています。
看板の最後の止めに
2019,5、建部神社 020-1o
「幻の千円札」
昭和28年8月、日本で初めて作られた千円札。
東寺の最高額紙幣として発行されました。
図柄は御祭神である、日本武尊と当社の本殿が使用されています。
発光された枚数が極めて少なく、幻の千円札といわれています。
                        建部大社
初めて知ったこの事実、戦争終結で途絶えたのか?
2019,5、建部神社 006-1p
吾輩は、駐車場から神門へと進んで行ったので、仕切られた垣根を通り
2019,5、建部神社 008-1a
まずは手水舎
2019,5、建部神社 009-1s
手を洗っていると目の前の立札に
2019,5、建部神社 011-1d
御神水
当社では御神水として、エンコより自噴している霊水をお持ち帰りいただくことが出来ます。
エンコとは:地下100mぐらいの水脈より湧出する自噴式井戸のことです。
当地区独特の古くから伝わる呼び名であり、昭和30年頃までは瀬田のあちらこちらで見られ、共同で利用されていました。
と書いてあり、さっそく目的の名水がある事を確認、で神門へと
2019,5、建部神社 012-1f
あまり参拝客が写っていませんが、吾輩が滞在している間にも入れ代わり立ち代わりと、多くの人が来られていました、
神門をくぐって行くと、正面に
2019,5、建部神社 024-1g
一夜にして成長したといわれる三本杉のご神木と、その裏には拝殿が見えます。その横を通って裏に回りますと、本殿が
2019,5、建部神社 037-1j
本殿にも行って参拝する事ができます。
神門を入って左には社務所
2019,5、建部神社 026-1h
その奥の方にちょとした日本庭園がありますが、御神水はそちらの方に出ていました。
2019,5、建部神社 028-1l
手前に、水みくじ用の水盤があり、社務所で「おみくじ」を買ってきて水に浮かべると文字が現れてくるというもの
2019,5、建部神社 027-1k
御神水が頂けるところの手前にも
2019,5、建部神社 029-1z
水琴窟がありますが、普通瓶は土中に埋めてあるがここのは全体が地表に出してありました。水を早く汲みたさに、優雅に耳を澄まして聞く事はできませんでしたが、水琴窟の下の石碑には「重蔵窯:信楽伝統工芸士・五代目重蔵」と書いてあります。
ネットで調べた所、何代目の重蔵氏か分りませんが、水琴窟を地表に出して聞ける瓶を考案されたようです。
ソノの奥に「頼朝公の出世水」の出ているところが有り
2019,5、建部神社 030-1x
吾輩が着いた時には先客がおられ、話を尋ねると「彦根から週に一度くらい汲みに来ている」と、美味しい水ですかと尋ねると「ありがたい水で美味しいですよ」とのご返事、水を汲まれるのをお待ちして、吾輩はペットボトル3本頂きました。
本来は正面の柄杓が置いて有ります井戸から汲むのだそうですが、現在は、地下から直接汲み上げているとの事、その横の蛇口から水が出て来ます。
「頼朝公の出世水」の名前の由来は、『源頼朝が平治の乱に敗れて伊豆国に流される道中、建部大社に立ち寄って源氏の再興を祈願、後に大願成就したことから付けられたそうです』
水質検査成績表(2018年10月16日)
2019,5、建部神社 031-1c
主な項目を上げてみると
一般細菌:0  大腸菌:不検出  カルシウム・マグネシウム:18mg/L(軟水)  味:異常を認めず  臭気:以上を認めず
との事、安心して飲む事ができる水です。
汲み終えた後、境内を散策
2019,5、建部神社 033-1b
願石とお食い初めの石
2019,5、建部神社 036-1n
願石
当社に古くから伝承されています霊験あらたかな白石を持ち帰り願い事を石に書き朝夕、願掛けをしてください。
無事願い事が叶ったならば石は神様にお返しください。
神社で本殿にお供えいたし貴家の安泰を御祈祷させて頂きます。
                   【初穂料 千円】
お食い初めの石
お子様が一生食べ物に困らないように、生後100日に行われる儀式で歯固めの石と称し丈夫な歯が生えてきますようにという願いを込めて(お食い初めの石)を添えます。
当社では福石と申し無料でお分けしております。願い石の回りにございますのでお持ち帰りください。
他にも珍しいものが有ったようですが、吾輩はここまでで建部大社を後にしました。

もっと詳しく知りたい方は「建部大社のHPを見て下さい」

「頼朝公の出世水」の独断と偏見の水評価は
琵琶湖の伏流水だとばかり思っていましたが、一般細菌・大腸菌が検出されていないという事は、別の水脈の水なのだろう
軟水で、爽やかな美味しい水でありました。(コーヒーにして)
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v
詳しい場所





関連記事
スポンサーサイト



コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

水汲みマン

Author:水汲みマン
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
湧き水のおすそ分け
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR