NO226:姫ヶ井の泉

 2017・4・9谷ク汲山 043-2q
菅原道真公が谷汲山へ参拝されたとき、この山の清水を汲み「閼伽の水」として竜宮の乙姫様が差し上げたことから、古来より谷汲山へお参りする巡礼のとき利用したといういわれが残る「姫ヶ井の泉」へ
とりあえずそこへ向けて国道303号を南下、と・・・道の駅「星のふる里・ふじはし」が・・・な!なんと温泉付きの道の駅
 2017・4・9谷ク汲山 014-2w
そこでは小型おーぷんかーのオーナーズミーティング中、
 2017・4・9谷ク汲山 015-2e
オープンカーを写したいがためにソ~と横の方に吾輩の車を止めてハイパチリ
予定が変更されたため、トイレ休憩程度で出発。「姫ヶ井の泉」の場所は住所・志津山の辺りに在る事しか判らなかった。
地図では、谷汲山「華厳寺」への参拝道を過ぎた辺りから山側へ入って行ったところに位置する事ダケ、
ところが、参拝道は国道303号には何本もある事を知らず、そのうちの一本を過ぎた辺りで山側の路地に入って行ったのだが田圃の中広くてわからず、探しながら走っていると「揖斐川歴史民俗資料館」なる建物が目に入ってきた。
こりゃシメタ・・・と尋ねて行き、次の谷汲山へ入る信号を過ぎてしばらく行くと「コメリ」があり、そのすぎた所から入って行けば「姫ヶ井の泉」があると教えてくれた。
言われた通り車一台が通れる道に入って行くと
  2017・4・9谷ク汲山 037-2r
それらしき朽ち果てた遺物が在った。「地域住民による定期的な清掃」と情報元には書いてあったが、どう見ても住民からは忘れられた存在のように見受けられる
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石の垣根の奥に岩を伝って湧水らしいものが流れている。この水が本来なら
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流れ落ちて来て小石の中に埋めてあるパイプを伝って黒い丸の中の水受けに溜まるようにしてあるのだが、住民による定期的な清掃どころか荒れ放題の現状では、清水もストライキを起こしているのか出ていなかった(+o+)
一度は汲む事を諦めようかと思い車に乗り込んだのだが、諦めきれず、大きな声では言えないですが、石の柵を乗り越えて神聖な所に入り込み、流れて来ている水を根性で汲んできた。二本汲もうかと思ったが、結構手間取り一本でやめにした。まぁ人が通らなかったので良かったが、こんなことはしてはいけないノダ(~_~メ)・・・誘惑に弱い吾輩デスタ(~_~;)
で、華厳寺へ到着
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駐車場も満車状態であったが、どうにか入れた
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おそらく谷汲山「華厳寺」では参拝者が一番多いい季節では・・・と思いながら門前町を散策
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大きなお犬様も御参り
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地元のテント村も盛況
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そして仁王門に到着
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華厳寺の境内図
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山門をくぐり参道を
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歩いて行くと、谷汲山「華厳寺」の由来記が
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  谷汲山根源由来記(チョイト多いいががんばってみます。途中で挫折するかも(^_^)/
 當山は人皇50代桓武天皇御宇延暦17年・・・・という所で挫折・・・例の如くウィキペディアから抜粋
歴史[編集]
永禄3年(1560年)成立の『谷汲山根元由来記』によると、華厳寺は延暦17年(798年)、会津黒河郷の豪族大口大領なる人物によって創建されたという。『由来記』によれば、大口大領は都の仏師に依頼して自らの信仰する十一面観音の像を造立した。彼は観音像とともに会津に帰ろうとしていたが、途中、美濃国の赤坂(現・岐阜県大垣市)で観音像が動かなくなってしまった。赤坂の北五里の山中に観音所縁の霊地があるというお告げを受け、大口大領は同地に草庵を建立。延暦末年に、当地で修行していた僧・豊然上人(ぶねんしょうにん)の協力を得て華厳寺を建立した。

延暦20年(801年)、桓武天皇の勅願寺となり、延喜17年(917年)には醍醐天皇が「谷汲山」の山号と「華厳寺」の扁額を下賜。天慶7年(944年)には朱雀天皇が鎮護国家の道場として当寺を勅願所に定め、仏具・福田として一万五千石を与えたという。「谷汲山」という山号については、寺付近の谷から油が湧き出し、仏前の灯明用の油が汲めども尽きなかったことに由来する。

西国三十三所霊場の中興者と伝承される花山法皇は徒歩で巡幸し、当寺を第三十三番札所の満願所と定め、禅衣(笈摺)、杖、及び三首の御詠歌を奉納したと伝え、鎌倉時代には後白河法皇が花山法皇の跡を慕って同行千有余人を従えて巡幸したという。なお、西国三十三所巡礼について触れた最も古い史料である『寺門高僧記』所収の「行尊伝」及び「覚忠伝」では、第三十三番の霊場は三室戸寺になっており、園城寺(三井寺)の僧・覚忠が三十三所霊場を巡礼した応保元年(1161年)には、華厳寺は満願所ではなかった。また、三種の御詠歌(後出)のうち、「世を照らす」の歌は作者が判明しており、花山法皇ではなく、前出の覚忠の作歌である[1]。

建武元年 1334年足利氏と新田氏の戦乱が起こり、新田氏一族堀口美濃守貞満の乱をはじめとする戦乱で幾度となく諸堂伽藍を焼失するが、本尊ならびに脇侍等は山中に移し難を逃れた。

江戸時代には薩摩国鹿児島慈眼寺住職道破拾穀上人によって再興された
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石段を上り詰めると多いきな提灯が釣られた本堂へ
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お参りをして、本堂を一周している時の一コマ
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そして本堂を後に
 2017・4・9谷ク汲山 065-2z
薄墨桜の郷へ行ったのであった。
「姫ヶ井の泉」の水評価は
今回三ヶ所を飲んでみた中、まだいけた方であったが、惜しくも5ランクまでは届かなかった
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v 
詳しい場所は

  
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