NO140:中山寺奥の院の「大悲水」

宝塚の中山寺奥ノ院にある大岩(白鳥の石)の下から湧き出ていると言われている「大悲水」を、三遍目の正直でやっと貰いに行けました。
キッカケはこの映画でした

「ふしぎな岬の物語」公開日からだいぶ過ぎていたので、上映する劇場が限られ且つ上映時間も限られた中、初めて行く宝塚にある「シネ・ピピア」が一番都合がよく、行く事に決定!
時間的に余裕があったので、観賞後水汲みに行く計画も立てた。検索してみると、子授祈願・安産祈願で有名な中山寺の奥ノ院に「大悲水」またの名を「白鳥の水」という湧水が出ている事を知る。で、もって、当日ルンルン気分で出発したのはよかったのだが、「シネ・ピピア」に着くころには今にも雨が降りそうな雲行。奥ノ院は山の中腹に在り、現地まで車で行くのは不可能の様な場所、心配しながら鑑賞する。
この映画、「虹の岬の喫茶店」森沢明夫の小説を元に吉永小百合が企画立案したというものです。吾輩が観たいと思ったのは、お店のコーヒーを湧水を使って沸かしているという事ダケ、
あまり期待していなかったのだが、今から言えば昨年中に観た映画で一番泣けた!連れ合いも昨年中の観た映画で一番良かったといっていた。(この年になると泣けると良い映画となるらしい)、吾輩は柘榴坂の仇討の方が内容的には見ごたえがあったのだが(^_^)v
内容はさて置いといて、館内から出て来ると外は土砂降りの雨、これでは行けねぇな((+_+))という事で一回目のキャンセル。
二回目は、年末30日仕事も終わり、ちょうど空白日ができたので、一人で水汲みに行く事に、宝塚という所は、行かれた方は分かっていると思いますが、山の上の方までマンションや住宅が建っています。住宅が建っているという事は当然道もある。できれば奥ノ院の近くまで車で行けたらとの思いから、地図を調べてみると、中山寺から出ている道と、住宅街からその上にある自衛隊演習場を経て奥ノ院近くまで付いている道があった。
中山寺からの道は、おそらく登山道と思い住宅団地の道から行く事にしてカーナビにセットした。その日は天気も良く、少しぐらいなら歩いてもよいかな~と思いながら現地宝塚へ到着。カーナビが指示する通りに走って行くと、なっなんと、奥ノ院を正面に据え右側の団地に行ってしまった。こちらには奥ノ院へ通じる道はなし、でもう一度検索しなおして左の団地へ行くも、それらしき道には金網付の扉で厳重に管理されて車で入って行ける様子ではない。後で知ったのだが、この辺の一帯を長尾山連山と言って国有林に指定されている。地図で見た道は管理道の様であった。結局この日も諦め、前回の記事出雲大神宮の「真名井の水」をもらいに変更した。
で三回目になるわけですが、この日は正月四が日明け、吾輩は五日まで休みなもので、天気も良く急遽再再度挑戦することにした。
今回は、車で近くまで行く事は諦め、中山寺に初詣してから山道を登山することにした。でもって水はペットボトル3本をリュクに担いでもらってくる段取りで進めた。
先ずはは中山寺

全景の写真ですが、陰で見えにくいデスが左上に奥ノ院が有ります。

そして山門です。写真は山から降りて来た時に写したのでお詣りの人も少ないですが、着いた時は人をかき分けて入って行きました(チョイト大袈裟ですが).。そして参道

境内の中の写真は、奥ノ院から帰っての撮影。
この参道を進むと、なっなんとエスカレーターが石段の脇に設置されている

そして本堂

宗派は、真言宗中山寺派大本山で、寺伝では聖徳太子が建立した日本初の観音霊場との事、子授かりや安産の祈願で有名です。他の建物は、本堂の左側に在る

大願塔(かって中山寺に存在していた塔を2007年に鉄筋コンクリートで再建したとの事)
本堂の裏手一段高い所には

大師堂があります。弘法大師が祀ってあり西国三十三番観音霊場、二十四番札所であります。
その他、ちょっと変わったもので石の櫃(からと)なるものが

そして中には

そう石棺です。と言っても、お寺にはお墓は付き物ですから

石の櫃 兵庫県指定文化財
中山寺古墳は、時伝によれば第14代仲哀天皇(ちぅうあい)の后 大仲姫の墳墓とされ、別名「石の櫃(からと)」とも称されます。
古墳洞内の大きさは、横幅2,50メートル、奥行き3,60メートル、高さ3,20メートルです。石窟内には、石棺が安置されています。まさしく上代の陵墓制であることは明らかで、貴重な史跡といえます。
もう一つお勉強 ((+_+))

地蔵さんとは何ぞや(?_?)

亥の子地蔵(北向き地蔵)
地蔵菩薩は、大地を包蔵するという意味の名前を持つ菩薩です。天空を象徴する虚空蔵菩薩に対して、大地を表す地蔵菩薩は、現世の人々はもとより、地下の冥界にあって苦しみの極まった地獄の中の人々も、救済するほとけとして、広く信仰されてきました。とくに釈迦入滅の後、次世代を担う仏とされる弥勒が出生するまで、無仏の時代に現れ、六道に輪廻して苦しむ衆生を救済し、延命をもたらすとされています。向かって左より、宝幢・宝処・宝手・持地・宝印手・延命・堅固・除一切優冥・不空見・除蓋障です。いずれも地蔵菩薩の徳を顕した名前です。
中山寺の亥の刻まいりとは,旧暦10月の亥の日に詣でて、ほうきにて地蔵尊を掃き清めて後に、自身を加持すれば、頭痛・肩こり・腰痛・中風・リュウマチ等に功徳があるといわれています。亥の子地蔵尊の縁日は、毎年旧暦10月の亥の日です。
と、これらのものを横目でみながら信徒会館のまえから細いみちを墓地に降りて行き、そこから目印の石柱壹丁を皮切りに登って行き出しました。

1丁、そして2丁

この時点では並行して住宅がまだ建っています。

ここまで来ると周りは梢ばかり、3丁

ところで、この1丁の長さはいかほどなのか?ウィキペディアでは
「条里制においては6尺を1歩として60歩を1町としていたが、太閤検地の際に6尺3寸を1間とする60間となり、後に6尺を1間とする60間となった。メートル条約加入後の1891年に、度量衡法によりメートルを基準として1200メートルを11町と定めた[2]。したがって1町は109.09091メートル、1キロメートルは9.16667町となる。」
ヒィハーヒィハーと息を切らせながら、4丁

この辺になると登山道も

さらに進み、5丁ー6丁


登山道も

広くなったり、狭くなったり、岩でごつごつだったりで山道イロイロ
ほんでもって、7丁ー八丁


道すがら、お地蔵さんが祀られていましたが、ここのは

岩のかけらを積んでの地蔵さん、これもイロイロ

9丁、そして

宝塚自然休養林(北中山国有林)
ここ北中山国有林は、かって、中山寺、清荒神清澄寺の森林であり、信仰の対象として大切に扱われてきた場所でした。明治4年に「社寺上地令」が布告され全国の社寺有地が境内を除き明治政府に上地されることになり、この北中山の森林も境内と一部の参拝道などを除き国有林として取り扱われることになりました。
このため、林中には夫婦岩をはじめ、様々な文化的な面影を今に伝えるものも残され、アカマツ、コナラ、ミツバツツジなど自然豊かな森林や眼下に広がる阪神間の眺望とともに、親しまれている。
また、この北中山国有林は、昭和53年に、市街地に近く身近に自然とふれあえる森林として「宝塚自然休養林」に指定されました。現在、地域との密接な関わりを背景に、地元の方々と行政機関の参加による宝塚自然休養林保護管理協議会を中心に、自然環境の保護及び育成に取り組んでいます。
今後も、宝塚自然休養林で楽しんでいただく皆様方の協力も頂きながら、この豊かな自然を守り引き継いでいきたいと考えています。
みんなで守り、育て、つないでいく森林・・・それがこの「宝塚自然休養林」です。
宝塚自然休養林保護管理協議会 事務局
宝塚市 公園緑地課 TEL・・・・・・
兵庫森林管理署 神戸森林事務所 TEL・・・・・
そして、夫婦岩園地

遠方には同じ高さまでベットタウンが見えます
眼下には

宝塚の市街、とポッコリ山(なまえ知れず)

少し歩いて10丁、

そこに夫婦岩が有ります

だいたいこの夫婦岩が中間地点だと言われています。少し休憩したおかげで元気回復
11丁~12丁


13丁

この付近に

夫婦岩まで0,6km:奥ノ院まで0,6km:最高峰まで2,0km 神戸営林署
俄然足の進みが早く14丁~15丁


16丁そして急坂を上がれば


17丁の所には

宇多天皇御自彫天神

盤座です(前回のブログで書いた)

そして近づいて岩を見てみると

岩に彫ってあるスジが見えますかねェ~
宇多天皇の経歴(ウィキペディアより)
光孝天皇の第七皇子であり、母は桓武天皇の皇子仲野親王の娘・皇太后班子女王であった。父光孝天皇は即位後に関白藤原基経の外孫であり、陽成天皇の弟であった貞保親王をはばかり、元慶8年(884年)6月に26人の皇子皇女を臣籍降下させて源氏とした。定省王もその一人であり、源定省(みなもと の さだみ)と称した。この臣下時代、殿上の間の御椅子の前で在原業平と相撲をとり、二人の体が椅子にぶつかったため手すりが折れたという話が残っている[2]。
仁和3年(887年)には光孝天皇が重態に陥ったが、後継を指名しなかった。実力者の基経は天皇の内意が定省にあるとして、朝議を一決した。定省は8月25日に皇族に復帰して親王宣下を受け、翌26日に皇太子に立てられた。定省は基経の異母妹である尚侍藤原淑子の猶子であり、後宮に強い影響力を持っていた淑子は定省後継を熱心に推薦した。しかし基経自身は特に定省を気に入っていたわけではなかった[3]。立太子したその日のうちに光孝天皇が崩じたため践祚し、11月17日に即位した。
お詣りを終え、近づいてきた奥ノ院へ向けて老体にムチ打って登り出した。
間もなく18丁

上を見上げると

話しが少しずれますが、先週の金曜日連れ合いが揚げ下しの胃腸風邪(ノロウイルスかも?)に罹り、うつらない様に気を付けていたのだが、日曜日の昼過ぎになって体がだるく寝込んでしまい「休日当番医」に行くも、風邪だから解熱剤を出しておくので明日にでも掛かり付けの病院へ行ってとツレナイ診察、帰って夕食を食うやすぐさま「揚げ下し」遂に連れ合いの風邪が移ってしまった事を実感((+_+))、月曜日に病院に行き今日火曜日の夕方になり熱も収まり、少し元気がで出したかなぁ~というトコ。インフルエンザの検査では陰性であったものの、未だ腹はグルグル聞こえてくる。

やっと奥の院へたどり着き境内を眺めると、下調べで見てた本殿がえらい立派になっていると、それ以外にも境内全体を整備し直した感じでコンクリートも新しい。

こちらも真新しいようです

そして目的の湧水は、本堂の左裏に出てた。

リゥクにペットボトル3本大事に背負って持って上がって来た。それに水を頂く至福の時である・・・と、言うのはイョイと大袈裟カモ・・・水量も豊富に出ており、夏場なら「命の水」と思うであろう。そのうち次から次に水を汲む人

ところで、「大悲水」が湧き出てきている大岩の名が「白鳥石」というらしい、寺社仏閣に行くとその名前のイワレが書いてあるものだが、ここにはそのようなものが無かった(?_?)まぁ吾輩が見落としていたのかも知れないが、どうも気になって帰って来てから調べてみると、次のような事が書いてあった。
「聖徳太子が忍熊皇子(オシクマノミコ)の石棺を開けたら白鳥が飛び立ち、それを追って行くと奥ノ院の大岩に止まりそこの下から水が湧いてきた」という事らしい。
また、「大悲水」は、仏教用語「大悲」からくる
① 衆生の苦しみを救おうとする仏・菩薩の広大な慈悲の心。
② 観世音菩薩の別名。
奥の院の御本尊が十一面観音であり、山に登って来た人たちの「喉のかわき」を潤すところから来ているのかも
>>『三省堂 大辞林』の表記・記号についての解説を見る
あと、奥の院の詳しい事が知りたい方は調べて下さいネ~(^_^)/
吾輩は目的が無事達成できたので、休む事無く帰ろうとしたら登拝回峰行○○回成満者なる名簿の一覧

最高2000回の方も

2000回と言えば、毎日登っても約5年半 頭の下がる思いで奥の院境内を後にした。
「大悲水」の評価は、前回の出雲大神宮の「真名井の水」に似た水で、透明感のあるあっさりした水でした
独断と偏見の水ランクは
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v(^_^)v
詳しい場所は
大きな地図で見る
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