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NO103:佐中の銘水「長寿の水」

  福寿の水神子畑 029-b
上の写真は、有名な「明延の一円電車」です。

今回は、嫁さん孝行?で「黒川温泉」に浸かりに行くついでに2ヶ所の名水巡りをしてきました。
佐中の名水「長寿の水」は兵庫県朝来市佐嚢佐中に在ります。我が家からはテレビでもてはやされています「日本のマチュピチュ・竹田城」の下、国道312号を姫路方面へ進み、
   福寿の水神子畑 002-b

   福寿の水神子畑 001-b
鳥取へ行く国道29号因幡街道へ出る国道429号へ右折して入って行きます。その途中から右折して佐中川を溯って行くのですが、神小畑(みこばた)という所に明延鉱山から鉱石を上の写真に有る一円電車で運んできて、そこで選鉱していた場所が保存されているので、とりあえずそれを見学に行く事にした。
   福寿の水神子畑 030-b
        一円電車の由来
この電車はかってマスコミ等で全国的に紹介さて話題を呼んだ有名な錫の鉱山”明延”の一円電車です。
昭和4年養父郡大屋町の明延鉱山と朝来郡朝来町の神子畑選鉱場の間6,1kmに鉱石輸送のための明神電車が開通しました。
昭和20年この鉱石運搬電車に、従業員とその家族の交通の便をはかるためはじめて客車が連結され登場したのがこの電車です。
最初の料金は50銭でスタート、昭和27年に1円に改訂、昭和62年3月明延鉱山の閉山により明神電車が廃止されるまで長期間料金1円のまま据え置き有名になりました。
1円電車の客車は3輌あり、くろがね号、わかば号、あおば号と命名され、永年に亘り地元住民の足として重宝がられました。
本来の使命を終えた後、くろがね号は養父市大屋町明延の地に、わかば号は神子畑の地に、あおば号はかつて兄弟鉱山であつた生野の地に居を移し、それぞれの地で観光に一役かう事になったものです。
    福寿の水神子畑 030-ab
ココの一円電車は化粧直しされ綺麗に保存されています。
その選鉱場に行く途中に標識が
福寿の水神子畑 024-b
これが、鋳鉄で明治時代に作られ今なお綺麗な姿で残っている橋です
   福寿の水神子畑 023-
   福寿の水神子畑 039-a
でその模様を東京大学の先生が
   福寿の水神子畑 019-b
    東京大学教授村松偵次郎記
この神子畑鋳鉄橋は今から約90年前の明治16年から18年の間に架けられた全鋳鉄製のアーチ(拱)橋である
下流の羽淵鋳鉄橋とともに日本に現存する鉄橋としては三番目に古いものであり全鋳鉄橋としては唯一最古のものである。とくにこの神子畑橋は殆んど改修を加えられることなく、建設当初の場所にその美しい姿を遺していて、日本の土木技術史上まことに貴重な資料であるばかりでなく、郷土の誇るべき文化財である。
明治初年以来フランスの技術団を招いて開発を進めていた官営生野鉱山は、明治11年この神子畑付近に良鉱を発見して開掘を進めるとともにその銀鉱石を生野鉱山において精錬するための鉱石運搬道(四里四丁五十四間約16,3キロメートル)を明治十六年四月より同十八年三月にかけて建設した。この運搬道の五か所にそれぞれ形式の違う鉄橋が架けられたが、この神子畑橋はそのもっとも上流の神子畑川に架けられたものであり、現在は三菱金属株式会社の所有である。設計製作ともに当時生野鉱山を所管していた政府の工部省において行なわれたものと考えられるが、この場所での建設は技師松井敬馬之助技手関某および諏訪某の監督の元に鉱石運搬の業を請負った山内安左衛門ら近隣の村民の労働によって完成を見たものである。橋長約16メートル経間14,2メートル、幅員約36メートル、主要部材のすべてが鋳鉄製である。
全鋳のアーチ橋は鉄橋の歴史においても最古の型式であって、1779年イングランドのコールフルックテールを流れるセパーン河に架けられて現存しているものを〇矢とするその細部に木橋、石橋の手法を残しているのも鋳鉄アーチ橋が鉄橋の型式としてもつとも初めのものだからであり、この神子畑橋においてもそれが見られる。
橋はその後錬鉄橋の時代を経て今日の鋼鉄橋の時代に至りその構造形式も進歩してきたが鋳鉄のアーチ橋はイギリスにおいてもまた日本においても産業革命の初期を飾るにふさわしい力強くしかもロマンチックな美しさを持っていた。しかし、今はほとんどその現存例を見ない。日本においてはもともと鋳鉄アーチ橋の架けられた例は稀で現在はこの神子畑と羽淵の二橋を残すのみである。
この貴重な美しい橋を今日まで保存された関係者の功績は偉大であるが、さらに多くの人々の協力によって
この美しい環境の中に永遠に伝えられることを祈ってやまない。
                三菱金属株式会社 明延鉱業所
                   維持昭和四十九年十一月
              ~あーつかれたバッテン <(`^´)>
この鋳鉄橋は生野まで鉱石を運搬する道として作られ、当時は馬車が走っていたとの事です。
更に奥に進んで行くと、選鉱跡が見えてきます。
   福寿の水神子畑 027-b
当時の姿が
福寿の水神子畑 032-a
一円電車は、鉱石を明延から運んできて、この選鉱場の一番上に着き、鉱石を下したとの事。それから鉱石を砕きながら有用鉱物を選び出し、最後の「シックナー」という
   福寿の水神子畑 036-b
この装置で、最後の最後まで有用鉱物を取り出すために液状になった鉱石と水を分離して精鉱を取り出したというものです。
最盛時には、神子畑地区に1300人という人々が生活をしていたという、今では朽ち果てて考えられない当時です。
拾数年前に来たことがありますが、最近は観光化されて、当時ハイカラであった旧事務所がセーム写真館として茶店にもなっていました。
   福寿の水神子畑 037-b
さて、神子畑選鉱所を後に再度引き返し、肝心な「長寿の水」を求めて佐中川をさかのぼって行くことに。
   福寿の水神子畑 018-b
集落を過ぎても一向に出てこない、道を間違えたのかいなと心細くなりながら進んで行くと、それらしき物が見えた。
   福寿の水神子畑 005-b
近づいてみると、立派な設備が作ってあり、その横には誇らしげに 佐中の銘水 長寿の水 (小さな字で)六甲のおいしい 水と飲みくらべて下さい 佐中のうまい水  その下には、佐中先年家→700mとも書いてあり、後程こちらにも行く事にして、まずは水を汲む事に 
   福寿の水神子畑 004-b
今回は、温泉行が待ち構えているためか我が連れ合いも積極的に協力してくれています。
私はその間に、例のスケベ心を出して水源の調査に
   福寿の水神子畑 008-b
見る限り、堰堤でためた沢水を地中からパイプで引いている様子、しかし、このような所は何処でもあり、ここにこのような設備を作っている事には何か訳があるはず、後程調べてみると「死に際の老人に飲ませたところ、一命をとりとめた」との伝説が語り伝えられており、それが元で「長寿の水」と附いたとの事です。これは想像ですが、この沢の上流から湧いて出ている水が流れて来て、太古とは言わないが、昔から日照りの日も途切れることなく水が流れ、周辺の人達から大切にされてきていたのではないでしようか。調べているうち、2009年頃の写真にはタンクは写っていなかったのですが、多くの人の利用があり汲み易く改良されて大切に守られているようです。我々にとってありがたい事です。
帰ってからコーヒーを沸かして飲むのが楽しみに、千年家に行って見る事に
   福寿の水神子畑 012-b
佐中の千年家のいわれが書かれた立札が
   福寿の水神子畑 013-b
      佐中先年家之由来
伝説によると、千年家の祖は近江の国(滋賀県)三上山に棲息する大百足(ムカデ)退治・・・
  ・・・1990年取材に訪れたTV局が「千年家」と称し以後通称として親しまれている。
              平成十年四月  佐中先年家保存会 
読めないので大まかに、関心のある方はこちらで三上山・百足退治藤原秀郷の末裔らしい

つまり、千年も経っていないという事 ^_^;
塀で囲まれ、中も見学することもできず早々退散することに、次の名水を汲みに引き返しました。

「佐中の銘水」を帰ってコーヒーを沸かして飲んだ結果、自慢するだけの事は有りましたが・・・
独断と偏見の味評価は
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v
一週間後
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vになってしまいました。

詳しい場所は  

大きな地図で見る


 
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