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NO371:龍野神社手水舎(力水)

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「お玉の清水」を汲み終えて、次に「力水」が在るという龍野神社のある龍野公園方面へ向かっていきました。
「力水」とは
大相撲における儀式の一つで、力士が土俵に上がったときに他の力士から渡される清めの水で、神聖な土俵に上がる時に身を清めるために使われる。
詳しくは後ほど書きますが、お相撲サンのお墓の参道に出ている水の事を行っているのです。
その龍野公園への道すがら、「醤油の郷:大正ロマン館」やら、醤油資料館がある所に寄って行くことにした。
先ずは、大正ロマン館
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大正時代建てられた龍野醤油同業組合事務所をリノベーションしたアンテナショップ:観光案内所です
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車が見える所に駐車場があり、偶然にも1台空きがあり、ソコに停めて町歩きに向かった。
この「大正ロマン館」は、お庭にカフェーがあり、館内には観光案内所、授乳所等もあります。庭の広場には大正時代のコスプレをまとったお姉さんと高校生達が何かお話されていたり、写真には写っていませんがカフェー&売店では多くの観光客の方達が休んでおられました。
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我が輩もお綺麗なお姉さんの近くに行ってみたかったのですが年齢的に?に見られるかもと思いパス、町歩きに出発。
童謡「赤とんぼ」を作詞した三木露風の生誕の地で、6才まで過ごしたとされる生家を修理して保存されていました。
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ぶらりと町歩き、龍野城の門
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さらにぶらりと
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古民家をそのまま使った県民交流広場「町カフェー」
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寄って行ってくれと言われたが、1人なので断り次の所へ
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粋な交番「あかとんぼこうばん」の前にある、うすくち龍野醤油醤油資料館へと
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建物の雰囲気が「大正ロマン館」と似通っていたので同じ設計者なのかと(^o^)
醤油と言えば、東のキッコーマンと西の東マルといったところが有名(我が輩の中では)ですが調べて見ると、キッコーマン(野田市)がダントツの1位で、東マル(たつの市)は5位ぐらいでしたが、歴史的には長く老舗中の老舗のようです。
そのヒガシマル醤油の元本社宅を資料館として運営されているようです。
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で、入館
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受付で入場料『10円』?聞いて100円の間違いかと思い確認しても『10円』とのこと、安いことの方が良いのだが何故に「10円」なのか不思議に思ったのだが聞きそびれて意味は判らず(?_?)
取りあえずゆっくりしておれないので、主なところだけを写真に撮ってきましたので紹介
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受付があるロビーにボイラーの焚口が構えてアリ見応えのあるモノあった。
大豆を蒸す(に使う)
選り分けられた大豆は、まず高温で蒸します。大豆は蒸すとたんぱく質の性質が変わり、麹菌の酵素の働きを受けやすくなります。また、大豆の殺菌という目的もあります。
順路に沿って
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原料処理場:淡口醤油の原料は大豆、小麦、米、塩です。麹菌が繁殖しやすいように、大豆を炊き、小麦を炒り、米は蒸して甘酒にします。淡口醤油の大きな特色は米を使うことです。また、塩は良質な水で溶かします。
ヒガシマル醤油は淡口が得意とし、淡口醤油は米を使うのが特徴
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麦炒、砕く
選り分けられた小麦は、高温で炒ってから砕きます。小麦は炒ると、でんぷんが麹菌のつくり出した酵素の働きを受けやすくなります。また、炒った小麦を砕くことで、麹菌の作用する面積が増えることにもなります。
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醤油を仕込むのに使う道具の数々(写真では判り辛い)
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次に回ったところは
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醤油の研究開発室、さらに
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社長室かな?
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仕込み罇
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圧縮機:熟成が終わった「もろみ」を押しつぶして醤油を絞り出す
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資料館のいわれ
 醤油の起源は古代にまでさかのぼる事ができますが、営業として現在の主産地。龍野・野田・銚子・小豆島などに成立したのは16世紀の事です。
 天正15年(1587)円尾屋孫右衛門、天正18年(1590)栗栖屋横山五郎左衛門によって始められた龍野醤油は、寛文6年(1666)円尾孫右衛門の創業以来うすくちを特色として栄えてきました。
 四世紀にわたる歳月の間に京・大坂の文化に育まれ洗練されつつ、日本人の食生活に深くしみこんだこの調味料は、次第に世界の食物にも味わいを加えようとしています。
 山紫に水美しいこの里に代々醤油を作り継いできた先人の工夫や愛情は、、古い道具や文章にひっそりと息づいています。
 菊一醤油造合資会社の本社として建てられ、浅井醤油合名会社との合併後の龍野醤油(株)ーヒガシマル醤油(株)の本社であったこの建物に、同社のみならず、龍野醤油協同組合各社の保管になる資料を中心に展示して、醤油のふるさとを偲ぶよすがといたしました。

最近パソコンが重く、開くにも数十分かかりおっくうになっていました。アプリや無用な保存物などを消す中で、ますますおかしくなり結局メモリーを一枚増設できることが判り、純正は何万円もするので凡庸品何千円で購入して変えたところ、今のところサクサクと動くようになり気分良く再開することができました。

と言うわけで続けていきます。
醤油資料館も足早で見終えて、力水が在るといわれる龍野神社に向けて出発。龍野神社周辺は、龍野公園になっており、付近は散策路として整備されていました。この界隈を見ていると観光街歩き整備が行き届き、財政豊かな市政だな~ト感じると共に、思いのほか観光客も沢山訪れていたことにビックリしました。
龍野公園は山腹周辺に作ってあり、カーナビに先導してもらい(賢い)着いた所が
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こんな所、そこからヒガシマル醤油が一望
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そして、水が豊富なのか
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聚遠亭(しゅうえんて)という立派な茶室を備えた江戸時代末期の建築で、書院造りを加味した風雅な数寄屋風の建物です。
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茶室側から撮した一枚ですが、立て札には
  西鶴句碑
花ぞ曇
  動き出たる
     龍野泉
文豪井原西鶴の「好色5人女」「世間胸算用」は日本文学の代表作として著名であります。
この俳句は西鶴が元禄4年の春(1691年)龍野の俳友 法雲寺住職 御風山春色法師を訪れ一席の句莛を開いた時の作である。
この日の俳句は春色の遺稿集「わたまし妙」に掲載されています。

で、龍野神社はその手前の石段から登っていくのですが、情報元ではその横の方に力士の石像がアリそこに水がでているとのことであったが、その参道の脇には
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井戸小屋のようなモノしか見当たらづ、石像は撤去されて井戸小屋にされたのかと「はやとちり」してしまい、ともあれ、龍野神社に参拝しコチラの手水舎にも湧き水が引いてあるとの情報元から、コチラでもイイかもと石段を上がって行った。
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質素な神社であった。
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龍野神社
龍野神社は1862年(文久2年)、龍野藩主脇坂安宅が藩邸敷地内に建安治主神(脇坂家の祖で豊臣秀吉の副将であり、賤ヶ岳七本槍の一人として知られる脇坂甚内安治公)を祀り、脇坂家の廟社であった。廃藩置県後の明治8年(1875)9月、一般神社とひとしい郷社(神社の資格)に列せられた。安治公は滋賀県湖北町出身で、これが縁で龍野市は同町と友好提携都市を締結した。
祭礼は4月5日から11日までの間の日曜日に行い、神輿の前後に甲冑武者・子供武者ら総勢三百余人が威風堂々と行列をつくって、城下町を練り歩く光景は、すこぶる壮観であり、数万人の観光客でにぎあう。
合祀社
野見宿禰神社
相撲の元祖野見宿禰を祀る。祭礼は龍野神社と同じ日。健康長寿の神として崇敬される。
玉嶋稲荷神社
  ・・・・・・・・・・・
末社
城山八幡宮
  ・・・・・・・・・・・
粟嶋神
  ・・・・・・・・・・・
水天宮
祭神天御中主神を祀り。水、安産の神として崇敬される
                  龍野史談会
水の神社が祀ってあると言うことは、昔から水が出る山のようである。
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で、石段を登っていくと龍野神社ですが、その右手前に手水舎があります。
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水がポタポタと僅かなしずくとして出ていたので、後ろに回ってみると山肌にパイプが埋め込まれ、それから手水舎に届いているのだが、
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途中が上手く接続されず
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大事な水がしたたり落ちている状態であった。これを修理して無事100%手水舎に流れて行くようになったので
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柄杓2本を交互に使い水を受け取り入れるにも、元々の水量が少ないのでペットボトル2本入れ終わるのに15分もかかってしまった。
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入れながら思ったのですが、山肌からエスロンパイぷが出てきているのだが、山からの湧き水にしては小細工ができすぎでチョイと不信感を持ちつつ、それでも自分なりに納得させて良しとした。無事水をゲットできたので力水とお相撲サンの石像を探すのは諦めてこの日は帰ることにした。
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しかし、帰ってきてから日が経つにつれて心のモヤモヤが大きくなって、お友達を誘って再度行くことにした。
二回目は時間に余裕を持たし、コチラに寄ってから、できれば海側に在るとされる播磨十水の一つ「篠井乃水」に寄れたらとの予定で再度、龍野神社に来たのでありました。
今回は「力士像」が在るといわれる「野見宿禰(のみのすくね)神社」を目指して探すことにした。
前回には目に入らなかった参道入り口が、今回はすぐ見つかり
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ここから上がって行くことにした。ちなみに龍野神社の石段からは30m程の横であった。
その前に
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   野見宿禰神社の謂れを(のみのすくね)
 野見宿禰と言えば、相撲の元祖とか、相撲の神様といわれていますが、こののみ宿禰神社には、大相撲の黄金時代を築いた有名力士達がたくさん参拝しています。
 横綱、千代の山、吉葉山、若乃花、栃錦、大鵬、柏戸、佐田山、朝潮、栃ノ海などが地方巡業で龍野を訪れた力士たちが角道隆盛を祈願しています。
 神社には、明治から大正にかけて日本の相撲ファンををわかした、八四名の力士や行司が寄進した玉垣があります。
   野見宿禰
 第11垂仁天皇(神話時代)のとき、天下の力持を豪語する大和国(奈良県)当麻蹶速(たいまのけはや)と、出雲国(島根県)の野見宿禰が、天皇の御前で「力くらべ」をして、蹴速を負かし、天皇より恩賞として領地を与えられ、宿禰は朝廷に仕えました(これが相撲の始まりと言われています)。
 宿禰が朝廷に仕えていたとき、天皇のおきさき日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなりました。当時は高貴な人がなくなると、お側近くに仕える者は、すべて後を追って殉死する習わしでした。
主君を守りお供えするということで、主君と共に墳に埋められることになっていました。
このような風習に天皇は深く心を痛められていたときに、宿禰は、「妙案があります」と、申し出て、出雲よりたくさんの土器を作る人を呼び寄せ土で人形や馬、器物(埴輪)を作らせ、行き人たちに代えて陵墓のなかに埋めることを提案しました。天皇はたいそう喜ばれ殉死をすることを禁じ、この方法を取り入れるように命じられ、宿禰を朝廷の埋葬の儀礼を執リ行う役に任じました。
  龍野の地名
 朝廷に仕えていた野見宿禰が出雲国に帰る途中、日下部里と呼ばれていたこの地で病気になって亡くなりました。報せをうけた出雲の人たちがたくさんやって来て、河原の石を手渡しで運び上げ、墓を作り、その墓を出雲の墓屋と呼びました。石を運ぶたくさんの人たちが、「野に立つ」姿から、人々は「立野」(たちの)と呼ぶようになり、後に、「立野」が「龍野」に改められたといわれています。
明治36年、土屋善之助氏ら有志が奔走し墳墓、参道を整備、現在の野見宿禰神社となっています。
         霞城文化自然保勝会

と書いてあります。それでは参道を進んで行ってみましょう。
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登って突き当たりと龍野神社参道から脇に進んできた道と合流してさらに右上に石段が続いていました。石段を少し上がって行くと鳥居が出てきて
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それをくぐって行くと、お相撲サンの石像が見えてきて横には力水と呼ばれている水も出ていました・・・・・・が
良~く見ると
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「飲み水ではありません」と札が立っていた。  がぁ~ん・・・・が、しかし再度来た記念に煮沸するのだからと、汲んで帰ることにした。お連れに水汲みをお願いして(彼は難病を患っているため長く歩くことが困難)我が輩は野見宿禰神社にお参りしてくることにした。そして階段を、すぐソコに神社は在るものだと思いさらに先へと進んで行きました。上って行き角に突き当たると
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さらに左へと目印が立っており、曲がって見上げると
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長~く続く階段、それもさらに曲がって続いている様子、行くべきか引き返すか思案のしどころ・・・が当然行く方を選択!
先の見えない山登りだが、そうそう長いことはない・・・・・ワナと、
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突き当たりをさらに左へと階段は続いているがその先には頂上らしき景色が見えるようだと、自分自身に発破をかけて上って行くと、案の定公園らしき広場に到着した
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ヤレヤレと思いきや、さらに石段が・・・・・(^_^;)
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しかしその上を見ると野見宿禰神社の扉が鎮座している。よし!あと少しの踏ん張り・・・と、脛がガクガクするなか一歩一歩登り着いた場所は
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正面は神社の石の扉、その前は眼下に龍野市の町並みが
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眼下に開け、遠く瀬戸内海が・・・霞んで見えませんデスタ(^_^;)
石の扉は厳かで開けて入れない雰囲気を醸し出していた。少し休憩をしてから周りを歩いて行ってみた
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山の頂上まで道が続いていて上り詰めると、神社の社らしき祠の裏側に出てきた。
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と、龍野市街が一望できる場所に、大昔、野見宿禰氏は大切に町が見下ろせる場所に葬られて崇められたと言うことでしょう。

龍野神社の手水舎(力水)の水評価は
力水は飲んではいけないと書かれていたので、汲んできた飲んで飲んで捨ててしまいました。手水舎の水もチョイと?の水だが、コチラは1本は煮沸してコーヒーに使って飲みましたが、残り1本は何故か砂が混じり透明度も悪かったので飲むことは控えました。
しかし、まろやかなコーヒーで飲み口は悪くはなかった。で、評価は
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vにしておきました。
詳しい場所は



























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NO370:お玉の清水

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今回は雪の少ない地方瀬戸内播州のたつの市へ行ってきました。
行く前に情報を検索したら、「お玉の清水」では、最近では枯れているような内容の情報でした。でも有名な名水なので現地を見る価値もあると思い予定に入れて、もう一ヶ所「力水」という名水?が有るらしいので2ヶ所回る計画を作り出発。
今回たつの市までの行程を、全行程高速道路を使う移動と、我が輩の頭の中で高速の部分を少なくしても時間的に余り変わらないであろう移動時間差を計ってみる思いもあり、行きと帰りの行程を変えて行動することにした。
行きは、我が町から最短距離であろうコースを兵庫県の和田山に出て、播但自動車道に入り山陽自動車道に乗り換えてたつの市へ入るコースを走ることにした。約2時間30分で行く事が出来ました。
帰りは、山陽自動車道から地元の京都縦貫道与謝野まで全て高速で帰ってきた時間は、約2時間15分(スピードは出しすぎ?)で結果15分佐であった。高速代の差額を考えるとどちらが良いのか一目瞭然であります。
それはともかく、たつの市へ入り、「お玉の清水」へ行くまでにたつの市の地場産業である「播州素麺」の史料館である、揖保乃糸・資料館素麺の里へ寄ってみることにした。
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思っていたより新しく立派な館であった。
入館をすると受付で、2階の展示室は300円の有料ということであったので入場料を払い入館。
取りあえず1階フロアーの展示
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「素麺すだれ」時間帯によっては実演演技を見れるそうですが、このときはなかった。
壁には
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素麺で作った「袈裟結び」重さ40kg400人分作れる量だの事。
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この階段から有料コーナーへ
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そうそう、受付で写真撮影は了解済みです。
先ず目に付いたのは
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遣唐使と共に中国から素麺の原形「索餅(さくべい)」が伝わったといわれています。
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全国の素麺産地で一番兵庫県(播州・淡路)二番長崎県(島原)三番奈良県(三輪)四番香川県(小豆島)五番徳島県(半田)六番岡山県(備中)と書いてあります。我が輩が知っているのは、播州素麺揖保乃糸とか三輪素麺と半田素麺ぐらいですが、小豆島の素麺が3番目とは知りませんでした。我が輩が好きな素麺は、細くてコシのある三輪素麺であります( ^o^)ノ
詳しくはこちらのトイト「素麺の産地」
昔の手延べ素麺の出来るまでを良くできた人形で紹介してあります
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次は
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そして
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見出しの写真で、さらに
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と、大まかに作り方が展示してありました。それにしても表情とい仕草といいよ~く出来た人形サン立ちです。
粗菓にも現代的な製造場所を見学するところや、素麺の各種試食が出来るコーナーもあるそうですが、我が輩腹が減っていたのでレストランへ直行、素麺を中心に各種メニュー
我が輩は季節限定の力にゅうめん、牛肉・餅入美味しい素麺
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持ちが入っていたので腹の方も満足したようで、素麺の里を後にして「お玉の清水」を探しに出発していきました。
情報元はたつの市の田園地帯に在ると書いていた。素麺資料館から北に進んでいくと
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まさに田園地帯、その一角の田圃の中にそれらしきモノが経っていました。
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あれではないかと的を絞って農道を進んで行くと
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農道の交差点に、気をつけていなければ見落とすような道しるべが立っていました。「お玉の清水」と書いた杭が
ソコを曲がり小屋の方面へと近づいて行きましたが、
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小屋の近くまで車を乗付けようと考えたが、誰かが水を汲みに来られたら・・・と思い小屋までは歩いて行く事に
小屋に着くと、側溝の元に名前の書いた杭が立てて有り、この側溝を流れている水がそうなのかと
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情報元では水は汲めないようなことが書いてあったが、見底を覗いてみるとコンクリー壁の底にパイプが埋め込んであり、そこから綺麗な水が出てきていた。これなら飲めるかもと、汲んで帰ることにした
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小屋の中には通称「ガッチャンポンプ」(正式名所は手押し井戸ポンプと言うらしい)が使えないように透明のビニールをかぶせて封印してあった
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情報元はこれを見て水が汲めないと思ったのか、はたまた溝この水が汚いと思ったのか
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我が輩は綺麗な水が出ていたので汲んで帰ってきたが、本心は田圃の農薬が染み込んでいるかも(?_?)・・・と思いながら
締めくくりに「お玉の清水」の謂れを書いてシメとします。
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「お玉の清水」については、いつの頃からこのように呼ばれたのかは不明ですが、鎌倉時代の女流歌人として有名な越部禅尼に縁のある榊原家(市野保)が所蔵している『越部君本書』(文化14年:1817)によりますと、歌人として名高い藤原俊成の孫娘で藤原定家の姪にあたる越部禅尼が、晩年に都より所領の越部上荘へ移り住んだときに付き従ってきた待女たちが化粧の水として使ったと記されています。
 この清水の東方には、因幡街道が通過しており、澄んだ冷たい清水は歩いて旅した昔の人達にとって、正に「玉露」の味わいがあったことでしょう。
                平成16年4月  市野保自治会

独断と偏見の「お玉の清水」の水評価は
渋みを感じた硬水でしたが、日にちをおくと渋みが取れて臣易くなりました。
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v
詳しい場所は


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