NO346:元祖名水そうめん流し店の「姫ヶ原湧水」

以前通りすがりに見つけていた「元祖名水そうめん流し・みやなか」のお店に、自由に汲んでお持ち帰り下さい。

という良心的なお店の名水をいただきに行ってきました。何時もの通り、行くだけでは能がないので、近場の名所も回ってきました。
兵庫県宍粟市にあるのだが、我が家から行くには地道で行くのが一番都合がよく和田山(雲海で有名な竹田城の近く:今が旬)に出て生野を目指して南下、途中から国道429号に入り鳥取から姫路に通じる国道29号へと入っていきました。
以前は酷い道だった国道も集落のふもと部分は回収されてきておりました

・・・が、峠を越えたあたりから林道に毛の生えたような道が残っております

この道を下りきったら国道29号に入り、

鳥取方面へ北上していきます。途中観光地の「原不動の滝」へ寄っていくのですが、日本の滝百選に選ばれているだけあり国道に大きな道路標識が出ていましたので入口はよくわかりました。

5分ほど走っていくと駐車場に到着

思っていたより立派な設備が整っている・・・という事は多くの観光客が訪れているという証。ついたときは駐車場も車がまばら、コロナの緊急事態宣言下のためか・・・と

おばちゃんに駐車料金を払い、ここからはテクシーで滝まで、

道中原不動を説明する看板が立っていたのでパチリと

原不動滝園地 氷ノ山・後山。那岐山国定公園
原不動滝園地 氷ノ山・後山。那岐山国定公園は中国山地の東部にあり、兵庫・岡山・鳥取の三県にまたがる約四万九千㏊の山岳公園です。
当園地は、国定公園南部の山と渓流などの豊かで美しい自然にふれあえる場所です。
原不動滝は、らくさ88mでブナ・モミジなどの原生林に囲まれ、岩肌を三段に滑り落ちるように流れる様が神々しいまでに美しい滝です。兵庫県か有数の名瀑で1990年に「日本の滝百選」に選ばれました。「宍粟郡誌」にも「仰げば崖頭、斜の水、一時に崩落して銀河の九天よりおつるが如し」と記されています。春は新緑、夏は沙羅の花花が咲き、秋は紅葉に染まる中で男滝と女滝が寄り添う姿は、私たちを幽玄の世界へと導いてくれます。
とのことでいやおなしにも期待が湧いてきて足も速まってきました。

・・・と、正面に山門が現れ、なにかお寺の境内に入って行く気持ちでくぐり抜け、さらに直線の参道?を進んでいくと

参道の縁に石碑が建っていた。名言なので書いておこう

ラッセルのことば
われわれは大地の子である われわれの生活には大地の営みの一部であり そこから栄養を吸収するのである
だから大地の営みを何らかの面で接触していなければ 人間は生きていけない 兵庫県知事 坂井時忠
と、心に栄養を戴きさらに歩いて行くと、何やら子供達の騒ぎ声が聞こえてきた。
道の下側から聞こえてくる。その方向を覗いてみると

川面で戯れていた。このときは8月の終わりでまだ暑い盛り、コロナ過でもあったが、夏休みの思いで作りなのであろう、水も綺麗で最高であろうと・・・こちらではお犬様も

を見ながら歩いて行くと、のぼり旗がはためいている橋にさしかかり、この橋を渡れば見えてくるかな~と・・・おっとどっこい、受付らしき建物が見えてきた。

入り口には、大人200円 小人100円の書いた看板が見える。滝を見るのに入観料が入るのかと思いきや、だあれ~も居なく素通り・・・・滝を見に行ってお金を払ったことなどないため、チョイと戸惑ったがそれだけ立派な滝が見られるのかな~~~と思いながら

案内ルートに沿って階段を上って、名前の付いた(かえでばし)吊り橋を渡りきると

さらに山沿いに遊歩道が整備されていて、さらに先のようである。

老体にはチト険しい道のりに思えた・・・が、ここまで来て引き返すわけには行かぬ・・・と、意を決して(チト大袈裟)先に進むことにした。
九十九折りとまでもいかない坂道を上っていくと下界には

朽ち果てた吊り橋が見えてきた。さらに上がって行くと

坂道は急になっていき、そこから「原不動滝」がみえてきた。

夫婦滝と言われる様相の二つの滝が合流しているが、こんなものかと思いつつさらに上がって行くと

ようやく山肌を上り詰めたようである。ここで、「原不動滝」のいわれを紹介しておこう

原不動の由来
往時この地に道範、道禎という二人の名僧があった。道範は験門の將といわれ、道禎は怪力で知られていたと伝えられている。
道範は常に摩尼嶽の行者窟にあって荒行を重ね数々の霊験を得たりという。或る時金色の龍、南西に飛を見て之を追い給ふに棲龍峡に至り水門に姿を失ったという。弥来、道範はこの金龍を本尊倶利伽藍不動明王と拝し奉り以後、この不動滝で荒行を続けられたとのこと。又、天保年間には長源寺十三世宥雄上人あって、九州島原一乗の資にして、この芳飾を尋ね右の行者窟には護摩堂を再建し、当不動滝の山頂には不動堂を立し不動明王を歓請し給ふという。
之より世に不動滝と称せられている。当邑では昭和初め頃からこの滝を中心に四国八十八ヶ所の祠により霊地の順拝を続けている。
殊に、近年は、氷ノ山那岐山後山国定公園の一名所と欧われ一躍訪れる人も増加しており将来は、この不動滝の名に相応しき環境と、この霊地の破壊なき発展を希求して由来とする。
トのことらしいです。チョイと読みづらいヶ所も有りますが・・・、そして登り切ると吊り橋が又出てきました。

しかし、なんと設備の整った滝であると思いながら吊り橋を渡りかけると・・・なんと

幸福の鐘が下がっています。男滝と女滝がある事からカップル、夫婦は共に手をつないで鳴らせば幸せになるという・・・と勝手に思い込み、我が輩は一人だったため素通りして吊り橋の滝見台を目指して

賽銭箱のある所に行く道中「原不動の滝」をパチリと

今一の写真なので、全体の二段爆を

賽銭箱に近づくに従って滝の下部もよく見えてきました

ついでに一段目も

・・・と言う滝ですが、この近辺の滝場にしては設備が立派で観光化されていました。滝も二段爆なら他にもありそうですが、夫婦滝になっている滝はそうそう有るものでは無いのじゃなかろうか?この滝を見て和歌山の「七重の滝」を思い出していました。我が輩の中では日本一の滝と思っています。
吊り橋上から眺めていると次から次へと観光客が来るので長居せずに引き返してきましたが、帰る道中

この有様であった。
帰りは気持ちに余裕が出来たのか、地元から大関になった相撲力士が紹介されていた看板をゆっくり読むことが出来た。

記念碑の由来
この碑は当地出身の力士で、大阪相撲の大関にまで昇進した「朝日嶽留蔵」の記念碑である。昭和43年6月町内相撲協会及び有志によって建立されたものである。
明治・大正時代も己に遠くなり、その勇姿や足跡を語るよすがもこの地には今は無い。
この記念碑の由来を説明する世代も絶えた現在(いま)、唯一近くから貴重な資料を得たので、これを機に碑の由来の記した。
その資料は、昭和50年6月に発行された播磨の総合雑誌「駟路(しろ)」に掲載された「朝日嶽留蔵」の一文を要約して紹介する。
朝日嶽留蔵は、明治22年当時奥谷村原、幸福嘉蔵の三男として生を享けた。
家は代々酒造り販売を業としていたが、祖父の代に倒産、その後林業に転じ留蔵も家事を手伝っていた。その頃この土地では山を主にした仕事が殆んどであった。留蔵は片道6キロの山道を17キログラムの木炭4俵を背負って厳しい作業に甲敢に挑んでいく中に、強靭な足腰と強い腕力が作られていった。
当時、大阪営林局(大林区)の委嘱により、国有地の植林事業をしていた神路宗一郎氏に見出され、同氏がが留蔵を地方頭取の免許を持つ小野五郎氏に紹介し、初めは行司木村越後の付け人となった。時に22歳、慎重162cm、体重75kgの小平でであったが入門が叶い三保ヶ関の力士として、稽古の虫と言われるほどの頑張りを続けた。故郷での厳しい作業で鍛えられた頑強な体力の賜であったと同時に強い精神力の人でもあった。
大正3年5月十両、5年6月に入幕、7年5月に前頭東十枚目で優勝、9年1月小結に昇進5月場所で2回目の優勝、やがて関脇を経て10年1月大関に張り出された。このとき留蔵は三十歳になっていた。
当時の相撲界は東京・大阪の合併興業が行われ東西の対抗相撲は大きく人々を沸かしたのである。そこでも朝日嶽の活躍の記録は多く残されている。
その頃満州(中国北東部)や朝鮮への巡業興業が行われそれに同行した朝日嶽は、巡業中ジュストマに罹りそれが因で大正12年惜しまれつ、引退した。入門以来、後援と厚遇を与えて戴いた鴻池家(現鴻池組)への感謝の日々であったが、昭和47年86歳でこの世を去り、今、静かに故郷の地に眠っている。
平成15年10月 波賀町教育委員会
との、地元の誇る人物であったようである。そういえば、原不動滝の由緒書きにも道禎という怪力の持ち主の僧が居たと書いてあった。何かの縁であったのかも(*^_^*)
と言うことで長いことかかった説明も終わり、「元祖名水流しそうめん」の店に向けて国道29号を北上していった。
しばらくするとダム湖に到着。

引原ダムというもので、ダム湖は「溫水湖」という名前が付いているようです。
治水と利水(発電・灌漑)を目的に作られており、湖面はスポーツレジャーにも活用されており、当日も湖面では

家族連れがカヌーで遊んでおられたし、こちらではへっぴり腰で出発するところを見ていたら

ものの5分ほどで見事に立ちパドル捌きでスイスイと

しかし、写真をよく見てみると、どうもショートパンツの色が違うようで、カップルの女性のようです。
我が輩がカヌーを楽しんでいた頃はこの様なカヌーはなかった。どうもカヌーとサーフィンを融合したスポーツのようでござります。
でさらに北上、ここから数分ぐらいの距離で目的地に到着

元祖名水流しそうめんの店「みやなか」に着きました。
先ずは名水のくみ取り、それから素麺の舌づつみ・・・と、順番を待って

その横には、名水のいわれが書いてありました。
「姫が原の湧水」と

中国山脈の原始林の中を通り太古の神秘を秘め脈々と湧き出るこの神水はどんな日照り続きの時でも水量は変わらず、涸れる事がないのです。
その昔、山頂近くの亀ヶ窪に隠れ住んだ姫君が風味あるこの湧き水を汲みに山を降り身を浄める姿に里人は見とれる事しばしばありしと云い伝えられ、又この引原川に流れ注ぐところを姫ヶ淵と呼ぶようになりました。
爾来、山国の運搬にたずさわる荷役の者共は汗と埃にまみれて、この地にさしかかると冷涼たる風に誘われつい木陰に車を止め人馬共に喉を潤した憩いの場所として親しまれ、また軍国時代には演習や行軍に先かけて軍医が水質検査をなし指定休憩所とし強者共の喉を潤し水筒を満たした歴史と伝説があります。 みな様にお召上がり頂くそうめん流しの冷水はこの湧出る泉の清水で以って冷やしております。
湧き出る水量1分間に1200立 水温(年中)摂氏11度
毎年兵庫県山崎保健所の権威ある水質検査に合格しております。
で、湧き水を戴いたお礼に食わずに帰るわけにはいけねえだろうと、二回目の店内食事へと。
以前来たときの1回目の時に素麺を食べたので、うどんもメニュー二書いてあったので「うどん」を注文したが売り切れとの事、仕方なく素麺1人前と、それだけでは腹が持たないので「おでんとおにぎり」を注文

最初に写真を撮っておくのを、余りの空腹で忘れて、チョイと腹に入った時点で思い出し撮したのがこの食いかけ途中の写真です・・・お恥ずかしい(-_-;)
素麺は揖保乃糸系で腰があり、我が輩としてはもう少し柔らかい喉越しのスムーズな素麺が好みですが、名水も一緒に食べるという素麺は、それはそれで美味しいの一言でありました。
おにぎりとおでんを食べると腹も満腹になり、チョイと休憩をさせてももらってから帰宅の途に就きました。
その点ないの様子がコチラ

独断と偏見の「姫ヶ原湧水」の評価は
コーヒーが爽やか思える軟水の水のように感じました。
(^_^)/ (^_^)/ (^_^)/ (^_^)/ (^_^)/ です
詳しい場所
は
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