NO335:天照の水「氷山命水」

峠を越えて、鳥取県の若桜町へ入って行った。
情報元に寄れば、氷ノ山の「わかさ氷ノ山スキー場」の何処かに在るという。とりあえずスキー場を探さなくてはと山を下っていった。
下っていくと、まもなく標識が見えた

標識の三叉路は広くなっており、キャンプ場からスキー場へ行けると思い曲がると

プレハブハウスの前に大きな看板に「天照の水・氷山命水」とデカデカと書かれていた。思いのほか早く見つかって拍子抜け?
何やら数人水道水のようなモノから水を汲んでいる様子。

お仕事の帰りなのか、水で体を拭いてスッキリしている様子。我が輩も

早速ペットボトルに入れること4本、コレでコンテナ8本のペットボトルが満タンとなりました。蛇口の上には茶借り1リッター50円の維持管理費を入れてくれとの募金箱、チョイと高い気もするが1,5×4の300円だが500円入れていると、地元の人らしき人が
「この水は、この奥に大岩があり、その下から湧き出ている水を引いているのだが、何年経っても腐らない美味しい水だ」
普通このプレハブにおじさんがいるのだが、今日は何故かいない。中にはイロイロと何かを販売しているらしいとの事、
水も汲み終えて、更に下ることしばらくすると

「古道:元伊勢街道」の標柱
『伊勢道は、かつては伊勢詣でに行き交う人々の街道でした。要所要所にはその当時の旅人の安全を守り、今ではその当時を物語る古いお地蔵さんや道標があります。また、ところどころに街道だったころの古い敷石や石墨が残されています。』
との事、その奥には

氷ノ山登山道の立て札が見えます。さらに下って行くと

「響の森」道路標識に出会い行って見ることに

氷ノ山自然ふれあい館という新しい施設がありました。中は

こんな感じの展示中心の建物内
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チョイと流れを中断させて頂き、先日我が輩のスマホにフィッシングメールが届き、あわや開けるところでした。
先ほどヤフーニュースでそのことが出ていましたので貼り付けておきます。
「日本郵便偽メール」
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元に戻ります。
関心も無かったの見回した程度で、丁度昼もまだ食べていなかったので食堂があるか尋ねて見ると、姉妹館のような宿泊施設の「氷ノ山高原の宿・氷太くん」にあるという。時間も1時を過ぎていたので、何でもオーダーストップが近いという。職員さんが聞いてみると言われたのでお願いすると後10分位だとのこと、それでは急がねばとお礼の言葉もそこそこに再度館外に

「ふれあい館」から歩いて行ける所にあり、そちらの玄関へ

山の斜面を利用して造られているので、橋を通って入って行きます。時間も間に合ったというよりも、連絡をして頂いてたおかげもあり食事にありつけて満足満足と言ったところ。本来予定していたのは、国道29号沿いにある川をまたいだトユから流れてくる「そうめん流し」のお店に行こうと予定を立てていたのだが、コロナで営業を自粛しているとの事であったので昼飯が食べれる所を探していたのでした。腹がが減っていたので食べたものを写真に写すのは忘れていたのだが、棚田百選に選ばれている写真があったので

写してきました。近隣の観光パンフレットを見ていると、ここから下っていった集落「ツクヨネ」という所に「大滝・権現滝」というのがある事が載っていたので、本来「雨滝」を相方さんに案内しようと思っていたのだが、時間の遅くなっているので今回は「権現滝」に変更することにした。
「つくよね集落」まで下りてきて、ツクヨネ神社の後ろの道から行く事ができると聞いてきたので神社の周辺を

探してみるのだが道が解らない。有名な滝でしたら立派な案内板が立っているはずなので、無いと言うことはたいしたことのない滝なのだろうと相方さんと諦めムードでいたところ、軽自動車から2人連れのギャル?が下りてこられたので、滝のことを尋ねると「私たちも今からその滝に行くので案内します」と親切に言ってくれたので付いて行く事にした。
その前に「つくよね神社」の生い立ちを紹介しておきます

創立年代は不詳。古くから蔵王権現と呼ばれ、「安産守護の神」として参拝客顔多い。
祭神について次のような伝説がある。『この神、往古は須賀の山(氷ノ山1,510m)n頂上に鎮座し、山麓の因幡・播磨・但馬・美作の国々の総社(須賀神)であった。元暦の頃(1182~1184)兵乱のため衰頽(すいたい)がめだち、山麓の14ヶ村が下僊(げせん)について争った。この時ある古老いわく、「翌朝早く登った村に下僊す」これでー決す。つくよね村の者達ー計を案じ、翌朝を待たずに下山途中で引き返し、御神体を奉持して下僊す』と。
本殿は弘化2年(1845年)に建て替えられている。毎年5月10日と、旧暦9月3日の例祭では、古式ゆかしい祭礼行事が今に伝えられている。
さて、我らは「権現滝」を目指して案内人について出発。良かった天気も雨がパラパラと、車には折りたたみの傘が1本、すると案内してくれる彼女の一人が自分の車から傘を持ってきて貸して下さった。なんと親切な・・・・・と感謝、感謝

左上の本通りばかりを探していたが、こちらの細い道(旧道)であった。この先に小さい案内板が有った。ソコを右に曲がって進むと

屋敷の後ろを通る細い路地を進んでいくと、下界に滝が見えだした。

もうすこし進むと、滝に流れ込む川に橋が架かっており、その上から滝口を覗けるのである。

この橋を渡り少し下りていくと滝を見晴らす場所に到着

そこから見下ろせば滝はバッチリ見えるノだが

お姉さん方、さらに下りていきますが宜しいですか・・・と、確認するように承諾を求められて、我々も京都から来ているので何処までもついて行きます・・・と、返事をして更に進んでいきます。

細い山道を下りだし、雨降りの中足元も滑りやすく気をつけながら遅れないようについて行きます。

川原まで下りてきたのですが、お姉さん方上手く岩を伝って川に落ちずに奥の方へ進みます。

この辺に来ると周りの岸壁の様子が圧巻!おそらく長年かけて滝の水が織りなした風景だろうと

なんとか川にはまらずに遠くに滝が見えるところまでこれました。
この頃になると雨も本降りになり、服も濡れてきた。

滝壺の所まで来たが、先客もおられて狭い場所で順番に滝を「かぶりつけ」

権現滝の流れは優美な綺麗な滝です。我が輩は滝もですが、周りの雰囲気がアメリカのグランドキャニオンの様で(規模は雲伝の差ですが)この滝の見応えのある所です。

天候がもう少し良ければゆっくりしていたのだが、雨降りのため引き返す事にした。
つくよね神社の大杉を紹介して

で、予定では雨滝に行く予定をしていたのですが、時間が無いということで又の機会として、帰り道にあるという若桜町の観光地の一つ「不動院岩谷堂」に寄ることにした。

国道29号線に出て、帰宅方向戸倉峠を越えて養父市へと帰っていくのですが、その戸倉峠の手前に道路標識がありよく分かります。行動から脇道に入るとすぐに見えます。
公民館の前に赤い橋が架かっています

この正面に「岩屋堂」があります

岩屋堂は、ここからよりもう少し行くと車の駐車場があり、そこから見る方が雰囲気は宜しいようで・・・見出しの写真
この岩屋堂の右側にも本堂が岩穴の中に建てられています。

対岸の道からはチョイと判りづらく、本来の岩屋堂だけを見て帰られる方も多いのでは・・・と思われます。

重要文化財・不動院岩屋堂
不動院岩屋堂は、飛騨の匠が「国家安全」の祈願所を探す中で、この洞窟を発見し、今から1200年以上前の大同元年(806)に創建されたと伝えられている。ご本尊の不動明王は、弘法大師が33歳のとき、自ら彫刻され、お堂に安置したものだという。
その後、弘仁10年(819)に「神光」という修行僧が信徒とともに、七堂伽藍を建立し、妙見山神光寺と称した。
また建久3年(1192)に源頼朝が「国家安泰」を祈願して、岩屋堂を再建したという。
戦国時代、妙見山神光寺は、羽柴秀吉の因幡攻めの天正年間の兵火によって焼失し、岩屋堂のみが残ったという。
昭和28年(1953)に国の重要文化財に指定され、それに伴って
、昭和30年から32年にかけて解体修理が行われた。部分的に色の濃い部材が残されているのは、解体修理前の部材を使用して復元したためである。
との「不動院岩屋堂」の説明でした。で、我々は帰徒につきました。
独断と偏見の「氷山命水」の評価は
軟水で美味しく飲めたが、腐らない水と聞いていた内容とは裏腹に2週間前後から変色してきた。寄って
(^-^)/ (^-^)/ (^-^)/ (^-^)/ (^-^)/デス
詳しい場所は
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