NO306:奥比叡の霊水(冷水)

「弁慶水」を汲んで、今度は西塔エリアへと車を進めた。
「西塔」
東塔とは一転して静寂の地であるのがこの延暦寺西塔です。朱の色もあざやかな弁慶のにない堂(常行堂・法華堂)や椿堂、西塔の中心本堂である鎌倉建築の釈迦堂、また、何年もの間、風雪にたえた弥勒の石仏などあります。その他一般の人達の研修道場居士林もあります。あの有名な武蔵坊弁慶が住んでいたのもこの地域です。(東塔から西塔まで歩いて約20分)

西塔の駐車場に車はおいて、ここから西塔の境内に入って行きます。
チョイト解り辛いが西塔の各お堂の配置図です

参道に入り

東塔と比べると御参りの人達も半減ぐらいしているが、写真はなるべく人様を避けて逸しているのであります。
途中巡拝受付所があり、吾輩は諸堂(東塔、西塔、横川)巡拝見を買っているので、それを見せてスルー。

「にない堂」が見えてきた。その前の敷地に

「「真盛上人修学之地」と書かれた大きな石塔。恥ずかしいかな何者か吾輩は知らない・・・で

真盛上人修学の地:ここは、西塔南谷南上坊(後の真蔵院)跡です。伊勢大仰郷で御生誕の真盛上人(1443~1495)は、7歳、川口光明寺盛源律師に師事、14歳光明寺で剃髪出家得度、真盛と号され、16歳、尾張密蔵院に遊学、19歳、比叡山西塔南谷南上坊慶秀和尚の室に入られ、山を出ず、爾来の20年間ここで修業された。時あたかも、25歳から10年間応仁文明の大乱が起こり、41歳、上人が社会浄化のために黒谷隠棲へと決意されることになったのである。
というもの。
にない堂の右側「法華堂」

左側「常行堂」

弁慶が渡り廊下の真ん中で二つのお堂を持ち上げたという事から「弁慶のにない堂」(重文)と言われている。
同じ型のお堂が並んで渡り廊下でつないでいる。法華と念仏が一体である事を示し、比叡山では「朝題目・夕念仏」といって両堂それぞれ法華三昧、常光三昧の修業の道場である。
法華とは
誰もが平等に成仏できるという仏教思想の原点が説かれている[1]。聖徳太子の時代に仏教とともに日本に伝来した
念仏とは
仏教における行のひとつで、仏の姿や功徳を思い描いたり、その名号を口に出して呼ぶこと。サンスクリット語では"Buddhānusmṛti(英語: Buddhānusmṛti)"で、仏陀に対する帰敬、礼拝、讃嘆、憶念などの意。日本では一般的には、浄土教系の宗派において合掌礼拝時に「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶ)と称える「称名念仏」を指すことが多い
各ウィキペディアから
ブラタモリから、常行堂では、常に歩きながら(行)念仏を唱える修業をするお堂、中央に位置する阿弥陀仏の周りを90日間お堂にこもり「南無阿弥陀仏」を唱えながら日夜歩き回って修業をするそうです。
渡り廊下の下をくぐり抜けていくと、釈迦堂が眼下に見えてきます。

伝教大師ご自作の釈迦如来を奉っている。約四百年前織田信長焼き討ちのあと、豊臣秀吉が三井寺の金堂を移築したものである。鎌倉時代の建物で比叡山最古の木造建築である。(重文)

写真撮影禁止とは書いてなかったので、中の様子

境内の片隅には

広く静寂な境内を散策しながら

こちらには釈迦誕生の看板が

釈迦伝1
太子誕生:今から2500年ほど前、ヒマラヤの麓のカピラ国の浄飯王と后摩耶夫人との間に誕生されました。その頃カピラj城近くに住むアシタ仙人は、太子誕生にまつわる数々の奇端に驚き、太子に拝謁を願い出て抱かれる太子を拝し、はらはらと涙します。「なぜ泣くのか」とたずねると、仙人は「この方は王位つけば仏陀となられる方です」と予言しました。
続きは現地へ行かれて・・・
そして駐車場に戻り、出発
展望の良い「峰道レストランに到着

ちょうどお腹もへっこみ昼食時、食事を注文して待っている間散策

琵琶湖の対岸まで見渡せる展望レストラン。琵琶湖を映したが天気が良すぎてうまく写らず、おそらく技術が無いのだが(?_?)
そうこうしているうちに注文した「うな重」がきた。

いつもの事だが、食べ出してから写す事を築くのだが、見苦しい食事中パチリ
そして「横川」ゾーンへと移動して行った。
ドライブウェイを走っていたら、

歴史と修行の道の看板、その横の方には

東海自然歩道~行者道の看板後ろがその道である様子
千日回峰行←詳しくはこちら
千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)とは、滋賀県と京都府にまたがる比叡山山内で行われる、天台宗の回峰行の1つ。満行者は「北嶺大行満大阿闍梨」と呼ばれる。
「千日」と言われているが、実際に歩くのは「975日」である。「悟りを得るためではなく、悟りに近づくためにやらせてもらっている[1]」ことを理解するための行である。
そして横川の駐車場、その場所から歩いて横川境内へ

受付で参拝券を提示して入って行きます。
横川:比叡山の中でいちばん北に位置する延暦寺。横川には聖観世音菩薩をご本尊とする。
舞台づくりの横川中堂(新西国第18番札所)を中心に、おみくじの元祖・おつけものの元祖といわれる元三大師堂(四季行動)また念仏思想発祥のの基となった恵心堂などがあります。それに野鳥の声を聞きながら西国三十三か所観音石仏をめぐれるのも都会ではあじわえない趣を残している地域です。
横川地域の参拝図

そして参道には

お猿さんが出てきたら写真に収めてやろうと、カメラもスイッチを入れて持ち運ぶことにした。

またも参道には看板が立っている。どこまで書き出そうかと現在思案中(;一_一)
この参道だけでなく、別の場所にもこのような看板が設置してあったので、一枚だけを書き出していく事にした。

1、道元禅師様ご誕生(曹洞宗の開祖)
道元禅師様は正治2年(1200)1月26日(旧暦1月2日)久我通親公(みちちか)をお父さまに、藤原基房公の娘をお母さまとして、京都の地にご誕生になられました。

1、出家得度 親鸞聖人(浄土真宗)
親鸞聖人は、平安時代末期の1173(承安3年)年に、京都の南東にあたる、日野の里で誕生されたという。父は藤原氏の流れをくむ日野有範である。聖人9歳の春、叔父の日野範綱にともなわれて、三条白川にある慈円(慈鎭)和尚の白川房で髪をおろして出家得度された。そのとき範宴となのられた。
残りの看板は、拝観して頂き読んでもらう事にして、さらに参道を進んで行くと

龍ヶ池が出てきます。

この池を「龍が池」または「赤池」といい、中央には「龍が池弁財天女」をお祀りしていますが、古来からの伝説によれば、元三大師と大蛇の物語が伝わっております
昔、此の池に大蛇が住みつき毒気をはいて修行僧や村人に害を与えていました。元三大師はこれを知り、大蛇に向かい”汝は身を自在に変化させる不思議な通力を持っていると聞くが本当か”とお尋ねになると、大蛇は本当だ俺にできないことはない、と答えました。そこで大師は、ならば大きい姿になってみよ、と申されると、”お安いご用”とばかりに数千倍の姿に変身しました。大師は再び、”では小さくなり私の手のひらに乗れるか”と申されると、”承知”とばかり小さくなり手のひらの中に入りました。そこで大師はすぐさま観音様の念力により閉じ込めてしまわれました。そして弁天様をここへお迎えして祀られ、小さくなった大蛇を弁天様の従者とされました。大蛇は大師に諭され、前の悪行を悔い改め、今後は弁天様のお使いとして「龍神」となり、自分の神通力を善行に向け、横川の地を訪れる人々の道中の安全と心願成就の助けをすることを大師に誓いました。
別名、雨乞いの弁天さまとしても知られ、龍神さまとともに、霊験あらたかな法力により私たちを守護くださり、ご利益をを頂くことができます。ご信心ください。
御用のある方は横川中堂受付にお申込みください。
と説明書きの看板には書いてあります。
その右上の方には

朱色に塗られた横川中堂の舞台造の橋げたが見えてきますが、行くのは後回しにして、先を進むと、左上には

根本如法塔が見えてきます。
慈覚大師が、石墨草筆をもって自ら書写した法華第一部八巻を納める宝塔を建てたのが起源であり、横川発祥の聖蹟であるところから根本如法塔と称している。との事、さらに
境内の地下からは如法経を埋納した銅筒や「金銅宝相華唐草文経箱」(国宝・延暦寺蔵)などが出土した。この塔は大正14年建てられた。

と説明札を読み、もとの参道へ、すると弁慶水の時と同じ建物に遭遇、

これも湧水が出ている井戸なのかと周りを見てみるが、汲める場所が無いので水汲みはあきらめさらにさらに進もうとすると場違いな近代的なものに

どうも歩いている参道は「元三大師道」と言うらしい。と言う訳でその奥に建てられている元三(がんざん)大師のいわれを

元三大師は、僧名を良源(912~985)といい、慈恵と「おくりな」する。正月の三日に亡くなられたことから、元三大師と称せられている。
近江の人で、少年の頃比叡山に入り、早くから学徳抜群の誉れ高く、将来を嘱望された。五十五歳にして比叡山の第十八代座主に昇り、僧儀を改革し、学問・修業の興隆をはかり、人材の育成に力を注ぎ、比叡山の最盛期を築き上げたことから、比叡山中興の祖と仰がれている。
門下三千人といわれ、この中からは、我が国浄土教の祖とされる恵心僧都源信をはじめ、檀那僧正覚運、慈忍尊者尋禅、兜卒僧都覚超など幾多の名僧を輩出した。
大師は、ここ横川の地に住し、優れた法力を以て、種々の霊験を現され、仏法を守護し、多くの人々を救い護り導かれた。
生まれながらにして如意輪観音の化身と仰がれ、今日なお除災招福、五穀豊穣、善願成就を祈る多くの人々より「厄除け大師」、「角大師」として信仰を集めている。
また大師は、我が国における「おみくじ}の元祖としても知られている。
平成27年吉日 比叡山元三大師堂
さらに静寂漂う杉木立の元三大師道を

進んで行き、坂道の登り切ったところに

「おみくじ」発祥の寺、元三(がんざん)大師堂にたどりついた。

寺門を入ると正面に元三大師堂が正面に

四季行動ともよばれ、第十八代天台座主として十九年間在職され、延暦寺中興の祖として仰がれる慈恵大師良源(元三大師)の住房であった定心房の跡をついでいるお堂で、村上天皇の勅命によって春夏秋冬の四季に法華経の論議が行われたので四季講堂の名がついています。また、はじめは弥勒菩薩を本尊としていましたが、、今は元三大師の画像を本尊としてお祀りし大師信仰の根本道場となっているので、元三大師堂の別名でも呼ばれ、親しまれています・・・との事です。
大師堂中庭の隅には

誇らしげに石碑が立てて有ります。 ここで「ブラタモリ」から
ココのおみくじは、住職直々にお出ましになり、「元三おみくじ申込み」の用紙に「占ってほしい悩み事」を書いて住職に渡すと、住職が人生の悩み事かどうか判断して、占いをするかどうか決められるそうで、それから住職が本堂でご本尊にお伺いをたてるお経をあげてから、住職がおみくじ棒の入った箱から番号札を引き、その番号の引き出しから紙をだし、別室でその紙の説明をしてもらうやり方の「おみくじ」であり、自分で引くという行為は無いおみくじの様である。
で、ご本尊・・・?弥勒菩薩?

何処を探しても張り紙が無かったので、そ~とパチリ
大師堂を出て、さらに道が奥に続いていたので行ってみると

「天台宗修行道場」「比叡山行院」と書かれた門柱の後ろには修業道場により立ち入りを禁ずる・・・賛同のあるがままにとの看板、奥からは集団のお経が聞こえてきた。くわばら くわばら とそこから引き返し、参道のあるがままに歩いていると

鐘楼が目に入り、近寄ってみると、柱の縁に小銭が高く積まれていた。おそらく参拝者が鐘をついてお供えしたお金ではないかと考え、吾輩も今度は一突きごぉ~~~と、ハイ50円をお供えしておきました。
鐘楼の場から右に折れていくと横川中堂に向かいますが、参道はまっすぐ伸びていたのでそちらへ行ってみると、

恵心院と書いた立札。そこを入ってみると

その奥に、小さなお寺が

そばには信者さんが参拝者の方々を接待されていました。こんなの比叡山では初めて
で、中のご本尊「阿弥陀如来像」を写真に収めても良いかと尋ねると、「本人だけが利用するなら構いませんが、それ以外に利用される場合はお断りしています」との事、本尊の阿弥陀如来像の写真が恵心院の右のパネルに出されていたのでそれは映してOKとの事であったので

ハイパチリと・・・
2016年は恵心僧都(えしんそうず)(源信)が入寂されて一千年を迎え、天台宗では恵心僧都を讃える年とし、ご修業を積まれていたこの横川の地、恵心堂においてご本尊の阿弥陀如来とご縁を結ぶ、五色の紐をご用意いたしました。これは恵心僧都が入寂されるとき、ご自身の合掌の手と阿弥陀如来の手を結ばれたことに由来します。叡山浄土教の聖地この場所で恵心僧都を讃え、阿弥陀如来とのご縁を深くお結びください。
その左には、大きな板に「念佛法語」 (恵心僧都)がいっぱいに書いてあるが、吾輩は略
来た道を帰り、鐘楼を折れて

この道を下って行くと、舞台造の橋げたが見えたお堂「横川中堂」が見えてきました。

お堂の前の広場の隅に、西塔地域にもありました「平和地蔵菩薩」といわれる石仏が、こちらでは服を着せてもらい立っていました

横のプレートには、「平和地蔵菩薩」の説明が
天台宗では、青少年教化活動の一環として、毎年比叡山を会場に小・中学生を対象とした「天台青少年比叡山の集い」を開催しております。
この『平和地蔵菩薩』は、平成二十七(2015)年八月に第五十回の開催を記念して建立されました。
このお地蔵様は、右手指三本を上げ、左手に数珠を持ったお姿をされております。右手の三本の指は、研修生たちの「三つの誓い」を表しています。
「三つの誓い」
一、道心ある人となります。
(仏さまのようになろうとすること)
一、能(よ)く行い、能く言う人となります。
(良い事を行い、正しい主張が出来る人となります)
一、一隅を照らす人となります。
(自分のいる場所で一生懸命に生き、無くてはならない人になります)
今の自分を振り返ってみると、なんと恥ずかしい・・・失格デス(*^_^*)

横川中堂の「聖観音」でございます。撮影禁止の張り紙はありませんでした。

横川中堂
このお堂は首楞(リョウ・ロウ)厳院と称し、横川の中心となる大堂です。
第三世慈覚大師円仁上人が、嘉祥元年(848)に開創し、本尊に聖観音を祀った以来豊臣秀頼と淀君の再建したお堂は昭和17年夏、雷火で焼失しましたが、幸いに本尊聖観音は災火を免れ、昭和46年伝教大師入滅1150年遠忌の記念として、当時を偲ぶ朱塗の美しい舞台造が復元されました。
また、新西国観音霊場第十八番の霊場でもあり、善男善女の信仰のメッカです。
付近には横川全域に西国三十三か所の観音石仏めぐりも出来、静寂な霊域でもあります。
で、横川中堂の中へ参拝、

ご本尊が祀ってある周りには、信者さんがお供えした小さな観音像が沢山、こちらは本尊の横手、裏側は

しかしこれだけ並ぶと壮観な趣を感じます。お供えしか片の名前も書いてあったような・・・記憶があいまいになっており・・・((+_+))
と言う訳で、横川中堂からやっと駐車場絵たどりつき、奥比叡ドライブウェイの終点、仰木ゲートへ向けて出発
情報もとでは、この間に「奥比叡の霊泉」があるという、慎重に山肌を見ながら走っていると

それらしき雰囲気が見えてきた。気を付けて走っていなければ見落とししてしまうような所。

石垣の間から、結構な量の水が出ていた。その上水が汲みやすいようにと「とゆ」が入れてあった。汲みに来るのは良いが、通行料がいる事がネックになります。
水は冷たく、当時は陽気が暑かったので気持ちが良かった。
水をゲットし、ドライブウェイに時より出てくる展望台

こちらの琵琶湖は、琵琶湖大橋が一望でき、最後のゲート

仰木ゲートに到着。こちらからのゲートの雰囲気

「億比叡の霊泉(冷水)」の独断と偏見の水評価は
チョイト硬水寄りの水で、コーヒーがおいしく飲めた。
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_-)-☆
詳しい場所(たしかこの辺りで、正確では無いかも)
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