NO304:宇治上神社の「桐原水」

行く予定がお友達の件で変更した、瀬田川を下るバージョンを行ってきましたのでお届け致します。
左岸を攻めるパートⅡですが、瀬田の唐戸大橋から出発いたしました。

右岸の方は何回も記事にしていますが、左岸の唐戸大橋を写したのは初めてです。その近くに、俵藤太「百足退治伝承の地」の石碑が立っていた。
その近くに

この内容はNO265:桜峠の湧水で書いていましたので・・・
瀬田川の左岸の道を下流に進んで行くと、石山寺付近の汽船乗り場から遊覧船が出発するところ・・・ハイパチリ

左岸側は湧水・名水の情報が乏しく、田上高原の名所があったので、そちらへ行けばひょっとすると湧水があるカモと、瀬田川から離れて行った。

下調べでは高原の奥にダム湖がある様なので、そこまで行って見る事にして

こんな道を上って行きました。眼下には

写真では分からないが水のきれいな渓流があったりして、写真には写していないが、ハイカーの人達やキャンプを楽しんでいるグループの人達と出会いながらの林道走行でした。

こんなお不動さんの社があったり

泣き不動?さんが立っていたり、そんななか

通行止めのゲートで、ダム湖まで足を延ばすことは断念
引き返しながら再度湧水を探してみたが瀬田川に出てしまった。

ここからはできるだけ瀬田川沿いにくだって行こうとしたが、関津峠に入って行った。
その頂上に差し掛かると、

「大石義民の碑」なる石塔が目に入り寄ってみる事に

大石義民=彦治・源吾の史実と背景
大石義民
1600年代前半の徳川幕府初期、大石村(当時は富川・東・中・淀・竜門の5カ村)の統治は膳諸藩(藩主は戸田氏)に属していた。
当時の大石村村民の暮らしぶりは、これといった生産物のない中、自然の恵みによる山の産品(薪、柴、木炭等)の商いをすることで何とか生計を維持していた。また、これら商品の運搬手段は人馬で膳所藩が管理する千佐馬野峠(通称・沢野峠・石の津峠)を越え、関の津浜から舟で大津、京都に運ばれていた。佐馬野峠を利用せざるを得なかった理由は、関の津浜以下の瀬田川の下流は、水の勢いが激しく船運の妨げとなっていて、人馬を使った峠越えが唯一の交通として重要な役割を担っていた。(857年天安の三関の一つ)問題は、この峠を人馬で越すこと、浜を利用するための課税が大変重く商いは難渋を極めたことである。こうした窮状を藩主にも訴え膳所を求めたが、聞き入れられず村民の生活の窮状は桝ばかりで困窮を極めていた。
こうした状況を憂い、当時富川村庄屋「彦治」と、その弟「源吾」の兄弟が、村民の窮状を救うべく幕府巡検使に直接訴え出たのであった(1613年11月)。当時は、幕府への直訴は固く禁じられており、その罪で兄弟はこの地沢野峠に於いて極刑(磔ハリツケの刑)に処せられたのである(慶長19年1614年2月24日)これら兄弟の身を挺した必死の訴えが幕府に伝わり、税の減免を含む管理の改善が図られ、大石村村民の生活を救い人生に希望を与えたのである。
私たちはお二人の尊い行動と犠牲の上に、大石学区民の今日の生活のある事を忘れてはならず、感謝と追悼の念を新たにするため、毎年の命日(2月24日)に「大石義民祭」を学区民あげて催行することにしている。
2013年2月24日
我が当地でも百姓一揆の歴史があり、やはり首謀者は張り付けの刑で死刑に。今なお語り継がれています。
ソノ峠を越えて瀬田川へたどり着いた。

ここで、右岸側の路と左岸側の道が合流し宇治市へ、その瀬田川を橋の上から

上流側の瀬田川で下流側と言えば

岩場の渓流、今でこそ南郷洗堰により水量を調整しているので穏やかな流れになっているのかも(?_?)江戸時代はもっと手ごわい急流だったかも・・・・というわけで右岸の道を下って行きます。

時折瀬田川が見え隠れしながら

曽東大橋を渡り左岸を走る道へ

この辺へ来ると、天ケ瀬ダムのバックウォーターでダム湖状態に、さらに下って行くと

関西電力専用道路が、この山の奥に「揚水式発電の喜撰山発電所」とダム湖があるらしい(?_?)そのダム湖に天ケ瀬ダム湖から水を送る

遠くに見える水門、さらに下流へと

そして見えてきたのが

アーチ式「天ケ瀬ダム」へ到着、ダムサイトの入口近くにチョットした駐車場がありそこに止めて

ダムに向かって降りて行くと、守衛さんの受付があり、そこで住所氏名を記入してダムへ入場へ

一応、ダムへ入る心得

ここは天ケ瀬ダム(鳳凰湖)です
朝8時から夕方4寺45分まで見学できます

天ケ瀬ダム見学者の皆様へ
ダムから放流するときは、宇治川沿いに設けたすぴーかーから前もってお知らせします。
上流の琵琶湖から流れてくる大水は長期間続くので、お天気が良くても、川の水位が変動し流れも速いため、川に近づかないでください。

危ない
特に緊急時にはサイレン音で警報を行います
サイレン音が聞こえたら、ただちに川から離れてください
で、ダムの見学とはあまり関係のない立て看板を読み、ダムの中心へ

通路には源氏物語の説明パネルが設置してあり

時間稼ぎのため内容を書いて行きます。途中で飽きるかも(?_?)
それでは源氏物語はどんな物語だったのでしょう?
源氏物語のあらすじ<第一部>
昔天皇と美しく優しい妻がいました。しかし天皇には他にも多くの妻がいて、最愛の女性はその中では更衣という低い身分でした。その更衣の父はすでに亡くなっていたので、更衣は皇子を生んだ時も心細く過ごし、子の成長を見ることなく亡くなってしまいました。彼女を桐壷の更衣、天皇を桐壷帝と呼びます。
皇子は美しく賢く育ちました。桐壷帝は皇子の行く末を考え、臣下の身分にして「源」の性を与えました。これが主人公、光源氏です。やがて、桐壷の更衣に生き写しの藤壺が妻となり、桐壷帝の心は癒されます。光源氏もまた、母の面影を求めて慕うのですが、それが許されぬ恋へと変わり、ついに藤壺は光源氏の子を宿してしまいます。この子は桐壷帝の十番目の皇子として育てられました。
光源氏はその人生で、さまざまな女性と関係を持ちます。葵の上(あおいのうえ)は十二歳の光源氏の妻となり、やがて子を産みますが、うちとけることはありませんでした。六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)は前の東宮(とうぐう=皇太子)の未亡人で、光源氏と結ばれましたが、愛人の一人に過ぎない事を嘆き、物の怪となって葵の上に取り憑き、命を奪ってしまいます。
光源氏の永遠の思い人は母親でした。母親似の藤壺に恋焦がれ、やがて藤壺の姪・紫の上(むらさきのうえ)を見い出し引き取ります。この紫の上が生涯最愛の妻となります。また、明石の君(あかしのきみ)は光源氏が須磨へ流されていた時に関係を持ち、後に宮中となる娘を産んだ女性です。そのほか、中級貴族の後妻だった空蝉、お互い名も知らず愛しあった夕顔(ゆうがお)、没落した宮家の娘・末摘花(すえつむはな)、いくつになっても恋多き源典侍(げんのないしのすけ)、名門のお嬢様・朧月夜(おぼろづきよ)。こうした多くの女性とのかかわりの中で、光源氏は成長して行きました。
次第に光源氏は昇進し、栄華を極めました。壮年期は六条院という理想の邸宅に女性たちを住まわせ、准太上天皇(じゅんだじょうてんのう=上皇と並ぶ地位を与えられた人)に至るという、輝かしいものでした。<以上、第一部>

源氏物語あらすじ<第二部>
昇進し栄華を極めた光源氏でしたが、朱雀院(すざくいん)が女三の宮(おんなさんのみや)を源氏の妻にすると決めた時から、その輝きが曇り始めます。苦しむ紫の上と、女三の宮との間で戸惑う光源氏。やがて、親友の息子・柏木が女三の宮と通じ、男子が生まれます。これが「宇治十帖」の主人公の薫です。
不義の子をわが子とする事になった光源氏は、かっての自分に思いを馳せます。
その後、紫の上に先立たれた光源氏は出家を思いますが、物語では出家も死も直接描かれていません。「雲隠れ(くもがくれ)」という、本文の無い卷があるだけです。この卷は五十四帖には数えません。<以上第二部>
光源氏が世を去ってからは歳月が経ちました。光源氏がさまざまな関わりをもった人々も、それぞれの人生を歩みます。「匂宮(にのうのみや)」「紅梅」「竹河」という、光源氏死後の人々の動向を紹介する橋渡しのような三巻を経て、物語の舞台は宇治の地に移ります。
光源氏の後を継ぐと噂される魅力あふれた貴公子が二人いました。一人は光源氏の末っ子・薫。もう一人は、光源氏の孫にあたる第三皇子・匂宮(におのみや)。
叔父、甥の関係にある同世代の二人は親しい友人であり、恋にかけてはライバルでもありました。
とはいえ、情熱的で行動的な匂宮に比べると、薫は常に控えめで、物ことを楽しまず、仏教哲学にひかれる青年でした。
薫はひそかに疑いを抱いていたのですが、母はなぜあんなに若くて出家したのだろう、それは自分の生まれにかかわりがあるのだろうか、と・・・。
この様な<宇治十帖>を解説したパネルが、ダムの通路の欄干に設置されていますが、解説はこれまでにして

ダムサイトから見た鳳凰湖とダムの直下の風景

ダムサイトはこれぐらいにして、天ケ瀬ダムを後にした。ここからは宇治川へと名前が変わる。ダムの下流に橋が見えていたのでそこから天ケ瀬ダムの雄姿を一枚

橋から対岸に渡ると、川沿いに車が一台通れる道が続いていた。それとは別に直進すれば「三室戸寺」へ行くようだ。

下の方からは、散歩に歩いてくる人もチラホラと、宇治上神社もこの通りに在るので下って行く事に

宇治川の流れを左手に見ながら進んで行くと、やがて宇治の市街地が見えだしてきた

カーナビには、宇治神社の横の方に駐車場が出ていたのでそこに(有料)止めて歩き出した。
宇治川の左岸には平等院があり、赤い橋が宇治川にかけられており、遊歩道となっていた

この辺に来ると観光客も一気に増え出し、なるべく人様を撮らないようにしても写ってしまい、この場を借れて「お断りいたしておきます」渡る気はないのだが一応上がってみた。

偶然人通りが少なく早速一枚、パチリと
ソコから見た宇治川上流

そして下流域

そして降りて行こうとすると

橋の下は人だかりになっていた。
ソコから宇治神社の参道へ

まずは宇治神社とは

宇治郷の産土神で、古墳時代の皇子で菟道稚朗子(ウジノワキイラツコ)が祭神。毎年十月第一日曜日に開催される宇治茶祭りの時、宇治神社の宮司が名水汲み上げの儀から興聖寺まで先導します
ウイッキペディアから
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では山城国宇治郡に「宇治神社二座 鍬靫」の記載があるが、その2座はそれぞれ宇治神社・宇治上神社に比定される[1]。神名帳の「鍬靫」の記載は、祈年祭の際に朝廷から鍬・靫の奉献があったことを意味する。のちに近くに平等院ができると、両社はその鎮守社とされたという。
明治以前は宇治神社は「下社」・「若宮」、宇治上神社は「上社」・「本宮」と呼ばれたほか、両社を合わせて「宇治離宮明神(八幡宮)」と総称された[1]。
明治に入って宇治上神社とは分離し、明治44年(1911年)府社に昇格した。
菟道稚朗子(ウジノワキイラツコ)
『日本書紀』では「菟道稚郎子」、『古事記』では「宇遅之和紀郎子」と表記される。第15代応神天皇の皇子。天皇に寵愛され皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談で知られる。
拝殿(桐原殿)

本殿(国の重要文化財)

境内に有る社務所らしき所には誰も居らず、おみくじ類が販売されていた。平和な事で(^o^)/

あまり見るものが無いので、本命の氏神神社へ
宇治神社の境内横から、「さわらびの道」と称される宇治上神社への参道へ入り

初夏の漂う風景を見ながら歩いて行くと、

宇治上神社の鳥居が見えてきた。しかし、カップルの多いい中、おっさんがリュック担いで歩いているのも異様な場違いの風景でもあったのかも・・・・・今にして思えば・・・(~o~)

この巨大な石柱を見れば、やはり主役は「宇治上神社」であると思わされる。
鳥居をくぐり

新緑の季節も、紅葉の季節もバッチリの参道を、<桐原の 水を求めて 我ひとり>詠み人知らずで季語無し

宇治上神社
宇治上神社は、明治維新までは隣接する宇治神社と二社一体で、それぞれ、離宮上社、離宮下社と呼ばれていました。祭神は氏神社の祭神でもある悲運の皇子兎道稚朗子(うじのわけいらつこ)のほか、父の応神天皇と兄の仁徳天皇を祀っています。本殿は平安時代後期の、寺社建築としては最古の物に属する建造物で、一間社流造の内殿三棟を左右一列に並べ、後世これらに共通の覆屋をかけたものです。また、その身舎(もや)の扉には、建立当寺の絵画が遺されています。なお、境内に湧出ている桐原水は、宇治七名水の一つとされています。(追伸:今や宇治七名水はここの桐原水だけになってしまいました)
さわらびの道(源氏物語48巻の巻名・早春)の突き当りに少し見える、石橋を渡り門を潜って境内に入ります。

境内の様子ですが、ここでは社務所で巫女さんが神具を売られていました。「桐原水」は門を入って右側の社務所の奥に在りましたが、まずは拝殿に

国宝の指定を受けている。

裏から内部を覗いて見ると

以前来た時には、梅雨の雨が降る中こんな多くの観光客は居らず、ひっそりとした佇まいの中で「結婚式」が執り行われていた。
こちら本殿

国宝に指定されている

ウイッキペディアから
境内[編集]
社殿のうち本殿は平安時代後期の造営で、神社建築としては現存最古とされる。流造、桁行5間(正面)、梁間(側面)3間、檜皮葺きの建物内に、一間社流造の内殿3棟が左右に並ぶ(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する)。内殿は左殿(向かって右)に菟道稚郎子命、中殿に応神天皇、右殿(向かって左)に仁徳天皇を祀る(左殿・中殿・右殿を順に第一殿・第二殿・第三殿ともいう)。左殿と右殿は組物が三斗で、組物間に蟇股を置くなど、形式・規模がほぼ等しいが、細部の様式から左殿の方が年代が上がるとみられる。中殿は左右殿より規模が小さく、組物を舟肘木とし、蟇股を用いないなど、形式にも違いがある。外側の桁行5間、梁間3間の建物は内殿の覆屋にあたるが、内殿と覆屋は構造的に一体化しており、左殿と右殿の側廻りや屋根部分は覆屋と共通になっている。左殿と右殿の内陣扉内側には彩絵があり、建物とは別個に「絵画」として重要文化財に指定されている。左殿の扉絵は唐装の童子像2体、右殿の扉絵は束帯・持笏の随身像2体で、剥落が多いが、平安時代にさかのぼる垂迹画の作例として貴重である。この本殿は国宝に指定されている[4]。
本殿前に建てられている拝殿は鎌倉時代前期の造営で、寝殿造の遺構といわれる。切妻造、檜皮葺き。桁行6間、梁間3間の主要部の左右に各1間の庇を付す。桁行6間のうち、向かって左端の1間は柱間が狭く、隣接する庇部分とともに閉鎖的な1室を構成する。建物右端の庇部分も1室となり、これらに挟まれた中央の桁行5間 x 梁間3間分を広い1室とする。屋根は切妻造平入りの屋根の左右端に片流れの庇屋根を設ける。切妻屋根と庇屋根の接続部で軒先の線が折れ曲がっており、こうした形を縋破風(すがるはふ)と称する。周囲に榑縁(くれえん)をめぐらし、内部は板床と天井を張り、蔀戸を多用した住宅風の構えである。この拝殿は、本殿同様に国宝に指定されている[5]。
2004年2月の奈良文化財研究所や宇治市などによる年輪年代測定調査では、本殿は1060年頃のものとされて「現存最古の神社建築」であることが裏付けられた。また、1052年創建の平等院との深い関連性が指摘されている。
との事、
他にも摂社がありますが、肝心の水汲みへ

「桐原水」が湧き出している社
中に汲みに入ると

が掛けてありました。湧いて出て来る水は

小屋の奥の角から湧き出してきた水が溜めてある中、御影石が水を汲む足場に、水面より少し高く設置されているのだが、水面より5cmぐらいの高さしかない為、汲んでいると御影石の足場に水がかかり、その水が参拝者が覗きに来るたびに、靴の土埃が水に混ざって水たまりに流れて入っている様子。これではイロイロな方々の雑菌が水に含まれているのである。それでも我慢をして2本汲んできましたが、読者の方で、万葉の水を飲んでみたい方は、早朝参拝者の少ない時間帯に行かれることをお勧めします。
少々残念な気分に陥りながら境内を出ようとすると

「離宮いろは」の紅葉の立札が目に入り読んでみた
当社は江戸時代までは、「宇治離宮明神」・「離宮八幡宮」・「離宮上社」(宇治上神社)と呼ばれておりました。その当社の本・拝殿に寄り添うように一緒に時の流れを積み重ねてきた。
「いろは紅葉」・・・
そこから名前を『離宮いろは』となづけました。
『いろは紅葉』と言うのは、葉は小さく分かれた裂片を「いろはにほへと・・・・・・」都数えたことが由来です。
秋には褐色がかった黄色から紅色に紅葉として散り
春には濃い紫色の花を付けます。
宇治上神社

どうも子の紅葉がそれらしい・・・。

境内をでると偶然にも参拝者がいない空間に出くわしたので1枚パチリと・・・・・・・
追伸:宇治の観光に行かれる方へ、観光地(平等院・源氏ミュージアム・宇治神社)から歩いてでも天ケ瀬ダムに行ける距離ですので、都会の近くに在る雄大な人工物を見学に行かれることをお勧めいたします。
即断と偏見の「桐原水」の評価は
文中にも書きましたが、靴についてきた土ぼこりが泥水として井戸の水たまりに入って行き飲み水としては失格である。
まあ、沸かしてコーヒーにして飲むのならあまり差し支えは無いのだが・・・気分的にイマイチというところデス。
飲んだ感想は、万葉の味と言いたかったのですが・・・気分的か透明感の無い水でした。
(^_^)v (^_^)v (~_~;)
詳しい場所は
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