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NO304:宇治上神社の「桐原水」

2019,6,宇治上神社 054-1q
行く予定がお友達の件で変更した、瀬田川を下るバージョンを行ってきましたのでお届け致します。
左岸を攻めるパートⅡですが、瀬田の唐戸大橋から出発いたしました。
2019,6,宇治上神社 001-1w
右岸の方は何回も記事にしていますが、左岸の唐戸大橋を写したのは初めてです。その近くに、俵藤太「百足退治伝承の地」の石碑が立っていた。
その近くに2019,6,宇治上神社 002-1e
この内容はNO265:桜峠の湧水で書いていましたので・・・
瀬田川の左岸の道を下流に進んで行くと、石山寺付近の汽船乗り場から遊覧船が出発するところ・・・ハイパチリ
2019,6,宇治上神社 003-1i
左岸側は湧水・名水の情報が乏しく、田上高原の名所があったので、そちらへ行けばひょっとすると湧水があるカモと、瀬田川から離れて行った。
2019,6,宇治上神社 015-1u
下調べでは高原の奥にダム湖がある様なので、そこまで行って見る事にして
2019,6,宇治上神社 021-1o
こんな道を上って行きました。眼下には
2019,6,宇治上神社 018-1p
写真では分からないが水のきれいな渓流があったりして、写真には写していないが、ハイカーの人達やキャンプを楽しんでいるグループの人達と出会いながらの林道走行でした。
2019,6,宇治上神社 016-1a
こんなお不動さんの社があったり
2019,6,宇治上神社 010-1s
泣き不動?さんが立っていたり、そんななか
2019,6,宇治上神社 009-1s
通行止めのゲートで、ダム湖まで足を延ばすことは断念
引き返しながら再度湧水を探してみたが瀬田川に出てしまった。
2019,6,宇治上神社 022-1d
ここからはできるだけ瀬田川沿いにくだって行こうとしたが、関津峠に入って行った。
その頂上に差し掛かると、
2019,6,宇治上神社 023-1f
「大石義民の碑」なる石塔が目に入り寄ってみる事に
2019,6,宇治上神社 024-1g
大石義民=彦治・源吾の史実と背景
大石義民
1600年代前半の徳川幕府初期、大石村(当時は富川・東・中・淀・竜門の5カ村)の統治は膳諸藩(藩主は戸田氏)に属していた。
当時の大石村村民の暮らしぶりは、これといった生産物のない中、自然の恵みによる山の産品(薪、柴、木炭等)の商いをすることで何とか生計を維持していた。また、これら商品の運搬手段は人馬で膳所藩が管理する千佐馬野峠(通称・沢野峠・石の津峠)を越え、関の津浜から舟で大津、京都に運ばれていた。佐馬野峠を利用せざるを得なかった理由は、関の津浜以下の瀬田川の下流は、水の勢いが激しく船運の妨げとなっていて、人馬を使った峠越えが唯一の交通として重要な役割を担っていた。(857年天安の三関の一つ)問題は、この峠を人馬で越すこと、浜を利用するための課税が大変重く商いは難渋を極めたことである。こうした窮状を藩主にも訴え膳所を求めたが、聞き入れられず村民の生活の窮状は桝ばかりで困窮を極めていた。
 こうした状況を憂い、当時富川村庄屋「彦治」と、その弟「源吾」の兄弟が、村民の窮状を救うべく幕府巡検使に直接訴え出たのであった(1613年11月)。当時は、幕府への直訴は固く禁じられており、その罪で兄弟はこの地沢野峠に於いて極刑(磔ハリツケの刑)に処せられたのである(慶長19年1614年2月24日)これら兄弟の身を挺した必死の訴えが幕府に伝わり、税の減免を含む管理の改善が図られ、大石村村民の生活を救い人生に希望を与えたのである。
 私たちはお二人の尊い行動と犠牲の上に、大石学区民の今日の生活のある事を忘れてはならず、感謝と追悼の念を新たにするため、毎年の命日(2月24日)に「大石義民祭」を学区民あげて催行することにしている。
         2013年2月24日
我が当地でも百姓一揆の歴史があり、やはり首謀者は張り付けの刑で死刑に。今なお語り継がれています。
ソノ峠を越えて瀬田川へたどり着いた。
2019,6,宇治上神社 026-1h
ここで、右岸側の路と左岸側の道が合流し宇治市へ、その瀬田川を橋の上から
2019,6,宇治上神社 027-1j
上流側の瀬田川で下流側と言えば
2019,6,宇治上神社 028-1k
岩場の渓流、今でこそ南郷洗堰により水量を調整しているので穏やかな流れになっているのかも(?_?)江戸時代はもっと手ごわい急流だったかも・・・・というわけで右岸の道を下って行きます。
2019,6,宇治上神社 032-1x
時折瀬田川が見え隠れしながら
2019,6,宇治上神社 030-1l
曽東大橋を渡り左岸を走る道へ
2019,6,宇治上神社 036-1c
この辺へ来ると、天ケ瀬ダムのバックウォーターでダム湖状態に、さらに下って行くと
2019,6,宇治上神社 042-1v
関西電力専用道路が、この山の奥に「揚水式発電の喜撰山発電所」とダム湖があるらしい(?_?)そのダム湖に天ケ瀬ダム湖から水を送る
2019,6,宇治上神社 040-1n
遠くに見える水門、さらに下流へと
2019,6,宇治上神社 043-1m
そして見えてきたのが
2019,6,宇治上神社 046-2w
アーチ式「天ケ瀬ダム」へ到着、ダムサイトの入口近くにチョットした駐車場がありそこに止めて
2019,6,宇治上神社 051-2e
ダムに向かって降りて行くと、守衛さんの受付があり、そこで住所氏名を記入してダムへ入場へ
2019,6,宇治上神社 075-2t
一応、ダムへ入る心得
2019,6,宇治上神社 050-2r
ここは天ケ瀬ダム(鳳凰湖)です
朝8時から夕方4寺45分まで見学できます
2019,6,宇治上神社 050-2i
天ケ瀬ダム見学者の皆様へ
 ダムから放流するときは、宇治川沿いに設けたすぴーかーから前もってお知らせします。
 上流の琵琶湖から流れてくる大水は長期間続くので、お天気が良くても、川の水位が変動し流れも速いため、川に近づかないでください。
2019,6,宇治上神社 050-2u
危ない
特に緊急時にはサイレン音で警報を行います
サイレン音が聞こえたら、ただちに川から離れてください
で、ダムの見学とはあまり関係のない立て看板を読み、ダムの中心へ
2019,6,宇治上神社 072-2p
通路には源氏物語の説明パネルが設置してあり
2019,6,宇治上神社 055-2a
時間稼ぎのため内容を書いて行きます。途中で飽きるかも(?_?)
それでは源氏物語はどんな物語だったのでしょう?
源氏物語のあらすじ<第一部>
 昔天皇と美しく優しい妻がいました。しかし天皇には他にも多くの妻がいて、最愛の女性はその中では更衣という低い身分でした。その更衣の父はすでに亡くなっていたので、更衣は皇子を生んだ時も心細く過ごし、子の成長を見ることなく亡くなってしまいました。彼女を桐壷の更衣、天皇を桐壷帝と呼びます。
 皇子は美しく賢く育ちました。桐壷帝は皇子の行く末を考え、臣下の身分にして「源」の性を与えました。これが主人公、光源氏です。やがて、桐壷の更衣に生き写しの藤壺が妻となり、桐壷帝の心は癒されます。光源氏もまた、母の面影を求めて慕うのですが、それが許されぬ恋へと変わり、ついに藤壺は光源氏の子を宿してしまいます。この子は桐壷帝の十番目の皇子として育てられました。
 光源氏はその人生で、さまざまな女性と関係を持ちます。葵の上(あおいのうえ)は十二歳の光源氏の妻となり、やがて子を産みますが、うちとけることはありませんでした。六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)は前の東宮(とうぐう=皇太子)の未亡人で、光源氏と結ばれましたが、愛人の一人に過ぎない事を嘆き、物の怪となって葵の上に取り憑き、命を奪ってしまいます。
 光源氏の永遠の思い人は母親でした。母親似の藤壺に恋焦がれ、やがて藤壺の姪・紫の上(むらさきのうえ)を見い出し引き取ります。この紫の上が生涯最愛の妻となります。また、明石の君(あかしのきみ)は光源氏が須磨へ流されていた時に関係を持ち、後に宮中となる娘を産んだ女性です。そのほか、中級貴族の後妻だった空蝉、お互い名も知らず愛しあった夕顔(ゆうがお)、没落した宮家の娘・末摘花(すえつむはな)、いくつになっても恋多き源典侍(げんのないしのすけ)、名門のお嬢様・朧月夜(おぼろづきよ)。こうした多くの女性とのかかわりの中で、光源氏は成長して行きました。
 次第に光源氏は昇進し、栄華を極めました。壮年期は六条院という理想の邸宅に女性たちを住まわせ、准太上天皇(じゅんだじょうてんのう=上皇と並ぶ地位を与えられた人)に至るという、輝かしいものでした。<以上、第一部>
2019,6,宇治上神社 056-2s
源氏物語あらすじ<第二部>
 昇進し栄華を極めた光源氏でしたが、朱雀院(すざくいん)が女三の宮(おんなさんのみや)を源氏の妻にすると決めた時から、その輝きが曇り始めます。苦しむ紫の上と、女三の宮との間で戸惑う光源氏。やがて、親友の息子・柏木が女三の宮と通じ、男子が生まれます。これが「宇治十帖」の主人公の薫です。
 不義の子をわが子とする事になった光源氏は、かっての自分に思いを馳せます。
 その後、紫の上に先立たれた光源氏は出家を思いますが、物語では出家も死も直接描かれていません。「雲隠れ(くもがくれ)」という、本文の無い卷があるだけです。この卷は五十四帖には数えません。<以上第二部>
 光源氏が世を去ってからは歳月が経ちました。光源氏がさまざまな関わりをもった人々も、それぞれの人生を歩みます。「匂宮(にのうのみや)」「紅梅」「竹河」という、光源氏死後の人々の動向を紹介する橋渡しのような三巻を経て、物語の舞台は宇治の地に移ります。
 光源氏の後を継ぐと噂される魅力あふれた貴公子が二人いました。一人は光源氏の末っ子・薫。もう一人は、光源氏の孫にあたる第三皇子・匂宮(におのみや)。
叔父、甥の関係にある同世代の二人は親しい友人であり、恋にかけてはライバルでもありました。
とはいえ、情熱的で行動的な匂宮に比べると、薫は常に控えめで、物ことを楽しまず、仏教哲学にひかれる青年でした。
薫はひそかに疑いを抱いていたのですが、母はなぜあんなに若くて出家したのだろう、それは自分の生まれにかかわりがあるのだろうか、と・・・。
この様な<宇治十帖>を解説したパネルが、ダムの通路の欄干に設置されていますが、解説はこれまでにして
2019,6,宇治上神社 069-2f
ダムサイトから見た鳳凰湖とダムの直下の風景
2019,6,宇治上神社 071-2g
ダムサイトはこれぐらいにして、天ケ瀬ダムを後にした。ここからは宇治川へと名前が変わる。ダムの下流に橋が見えていたのでそこから天ケ瀬ダムの雄姿を一枚
2019,6,宇治上神社 076-2j
橋から対岸に渡ると、川沿いに車が一台通れる道が続いていた。それとは別に直進すれば「三室戸寺」へ行くようだ。
2019,6,宇治上神社 079-2k
下の方からは、散歩に歩いてくる人もチラホラと、宇治上神社もこの通りに在るので下って行く事に
2019,6,宇治上神社 080-2l
宇治川の流れを左手に見ながら進んで行くと、やがて宇治の市街地が見えだしてきた
2019,6,宇治上神社 081-3n
カーナビには、宇治神社の横の方に駐車場が出ていたのでそこに(有料)止めて歩き出した。
宇治川の左岸には平等院があり、赤い橋が宇治川にかけられており、遊歩道となっていた
2019,6,宇治上神社 083-2m
この辺に来ると観光客も一気に増え出し、なるべく人様を撮らないようにしても写ってしまい、この場を借れて「お断りいたしておきます」渡る気はないのだが一応上がってみた。
2019,6,宇治上神社 086-2v
偶然人通りが少なく早速一枚、パチリと
ソコから見た宇治川上流
2019,6,宇治上神社 084-2x
そして下流域
2019,6,宇治上神社 085-2c
そして降りて行こうとすると
2019,6,宇治上神社 087-2b
橋の下は人だかりになっていた。
ソコから宇治神社の参道へ
2019,6,宇治上神社 088-2n
まずは宇治神社とは
2019,6,宇治上神社 091-2m
宇治郷の産土神で、古墳時代の皇子で菟道稚朗子(ウジノワキイラツコ)が祭神。毎年十月第一日曜日に開催される宇治茶祭りの時、宇治神社の宮司が名水汲み上げの儀から興聖寺まで先導します
ウイッキペディアから
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では山城国宇治郡に「宇治神社二座 鍬靫」の記載があるが、その2座はそれぞれ宇治神社・宇治上神社に比定される[1]。神名帳の「鍬靫」の記載は、祈年祭の際に朝廷から鍬・靫の奉献があったことを意味する。のちに近くに平等院ができると、両社はその鎮守社とされたという。

明治以前は宇治神社は「下社」・「若宮」、宇治上神社は「上社」・「本宮」と呼ばれたほか、両社を合わせて「宇治離宮明神(八幡宮)」と総称された[1]。
明治に入って宇治上神社とは分離し、明治44年(1911年)府社に昇格した。

菟道稚朗子(ウジノワキイラツコ)
『日本書紀』では「菟道稚郎子」、『古事記』では「宇遅之和紀郎子」と表記される。第15代応神天皇の皇子。天皇に寵愛され皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談で知られる。
拝殿(桐原殿)
2019,6,宇治上神社 089-3q
本殿(国の重要文化財)
2019,6,宇治上神社 090-3w
境内に有る社務所らしき所には誰も居らず、おみくじ類が販売されていた。平和な事で(^o^)/
2019,6,宇治上神社 095-3e
あまり見るものが無いので、本命の氏神神社へ
宇治神社の境内横から、「さわらびの道」と称される宇治上神社への参道へ入り
2019,6,宇治上神社 096-3r
初夏の漂う風景を見ながら歩いて行くと、
2019,6,宇治上神社 097-3t
宇治上神社の鳥居が見えてきた。しかし、カップルの多いい中、おっさんがリュック担いで歩いているのも異様な場違いの風景でもあったのかも・・・・・今にして思えば・・・(~o~)
2019,6,宇治上神社 098-3y
この巨大な石柱を見れば、やはり主役は「宇治上神社」であると思わされる。
鳥居をくぐり
2019,6,宇治上神社 099-3u
新緑の季節も、紅葉の季節もバッチリの参道を、<桐原の 水を求めて 我ひとり>詠み人知らずで季語無し
2019,6,宇治上神社 100-3i
宇治上神社
宇治上神社は、明治維新までは隣接する宇治神社と二社一体で、それぞれ、離宮上社、離宮下社と呼ばれていました。祭神は氏神社の祭神でもある悲運の皇子兎道稚朗子(うじのわけいらつこ)のほか、父の応神天皇と兄の仁徳天皇を祀っています。本殿は平安時代後期の、寺社建築としては最古の物に属する建造物で、一間社流造の内殿三棟を左右一列に並べ、後世これらに共通の覆屋をかけたものです。また、その身舎(もや)の扉には、建立当寺の絵画が遺されています。なお、境内に湧出ている桐原水は、宇治七名水の一つとされています。(追伸:今や宇治七名水はここの桐原水だけになってしまいました)
さわらびの道(源氏物語48巻の巻名・早春)の突き当りに少し見える、石橋を渡り門を潜って境内に入ります。
2019,6,宇治上神社 111-3o
境内の様子ですが、ここでは社務所で巫女さんが神具を売られていました。「桐原水」は門を入って右側の社務所の奥に在りましたが、まずは拝殿に
2019,6,宇治上神社 102-3p
国宝の指定を受けている。
2019,6,宇治上神社 112-3s
裏から内部を覗いて見ると
2019,6,宇治上神社 107-3a
以前来た時には、梅雨の雨が降る中こんな多くの観光客は居らず、ひっそりとした佇まいの中で「結婚式」が執り行われていた。
こちら本殿
2019,6,宇治上神社 106-3f
国宝に指定されている
2019,6,宇治上神社 105-3d
ウイッキペディアから
境内[編集]
社殿のうち本殿は平安時代後期の造営で、神社建築としては現存最古とされる。流造、桁行5間(正面)、梁間(側面)3間、檜皮葺きの建物内に、一間社流造の内殿3棟が左右に並ぶ(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する)。内殿は左殿(向かって右)に菟道稚郎子命、中殿に応神天皇、右殿(向かって左)に仁徳天皇を祀る(左殿・中殿・右殿を順に第一殿・第二殿・第三殿ともいう)。左殿と右殿は組物が三斗で、組物間に蟇股を置くなど、形式・規模がほぼ等しいが、細部の様式から左殿の方が年代が上がるとみられる。中殿は左右殿より規模が小さく、組物を舟肘木とし、蟇股を用いないなど、形式にも違いがある。外側の桁行5間、梁間3間の建物は内殿の覆屋にあたるが、内殿と覆屋は構造的に一体化しており、左殿と右殿の側廻りや屋根部分は覆屋と共通になっている。左殿と右殿の内陣扉内側には彩絵があり、建物とは別個に「絵画」として重要文化財に指定されている。左殿の扉絵は唐装の童子像2体、右殿の扉絵は束帯・持笏の随身像2体で、剥落が多いが、平安時代にさかのぼる垂迹画の作例として貴重である。この本殿は国宝に指定されている[4]。

本殿前に建てられている拝殿は鎌倉時代前期の造営で、寝殿造の遺構といわれる。切妻造、檜皮葺き。桁行6間、梁間3間の主要部の左右に各1間の庇を付す。桁行6間のうち、向かって左端の1間は柱間が狭く、隣接する庇部分とともに閉鎖的な1室を構成する。建物右端の庇部分も1室となり、これらに挟まれた中央の桁行5間 x 梁間3間分を広い1室とする。屋根は切妻造平入りの屋根の左右端に片流れの庇屋根を設ける。切妻屋根と庇屋根の接続部で軒先の線が折れ曲がっており、こうした形を縋破風(すがるはふ)と称する。周囲に榑縁(くれえん)をめぐらし、内部は板床と天井を張り、蔀戸を多用した住宅風の構えである。この拝殿は、本殿同様に国宝に指定されている[5]。
2004年2月の奈良文化財研究所や宇治市などによる年輪年代測定調査では、本殿は1060年頃のものとされて「現存最古の神社建築」であることが裏付けられた。また、1052年創建の平等院との深い関連性が指摘されている。
との事、
他にも摂社がありますが、肝心の水汲みへ
2019,6,宇治上神社 103-3g
「桐原水」が湧き出している社
中に汲みに入ると
2019,6,宇治上神社 110-3j
が掛けてありました。湧いて出て来る水は
2019,6,宇治上神社 104-3h
小屋の奥の角から湧き出してきた水が溜めてある中、御影石が水を汲む足場に、水面より少し高く設置されているのだが、水面より5cmぐらいの高さしかない為、汲んでいると御影石の足場に水がかかり、その水が参拝者が覗きに来るたびに、靴の土埃が水に混ざって水たまりに流れて入っている様子。これではイロイロな方々の雑菌が水に含まれているのである。それでも我慢をして2本汲んできましたが、読者の方で、万葉の水を飲んでみたい方は、早朝参拝者の少ない時間帯に行かれることをお勧めします。
少々残念な気分に陥りながら境内を出ようとすると
2019,6,宇治上神社 113-3l
「離宮いろは」の紅葉の立札が目に入り読んでみた
 当社は江戸時代までは、「宇治離宮明神」・「離宮八幡宮」・「離宮上社」(宇治上神社)と呼ばれておりました。その当社の本・拝殿に寄り添うように一緒に時の流れを積み重ねてきた。
「いろは紅葉」・・・
そこから名前を『離宮いろは』となづけました。
『いろは紅葉』と言うのは、葉は小さく分かれた裂片を「いろはにほへと・・・・・・」都数えたことが由来です。
秋には褐色がかった黄色から紅色に紅葉として散り
春には濃い紫色の花を付けます。
     宇治上神社
2019,6,宇治上神社 115-3z
どうも子の紅葉がそれらしい・・・。
2019,6,宇治上神社 117-3x
境内をでると偶然にも参拝者がいない空間に出くわしたので1枚パチリと・・・・・・・
追伸:宇治の観光に行かれる方へ、観光地(平等院・源氏ミュージアム・宇治神社)から歩いてでも天ケ瀬ダムに行ける距離ですので、都会の近くに在る雄大な人工物を見学に行かれることをお勧めいたします。

即断と偏見の「桐原水」の評価は
文中にも書きましたが、靴についてきた土ぼこりが泥水として井戸の水たまりに入って行き飲み水としては失格である。
まあ、沸かしてコーヒーにして飲むのならあまり差し支えは無いのだが・・・気分的にイマイチというところデス。
飲んだ感想は、万葉の味と言いたかったのですが・・・気分的か透明感の無い水でした。
(^_^)v (^_^)v (~_~;)
詳しい場所は


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NO303:青垣町の「片渕の水源水(仮)」

img157-1q.jpg
相方さんが映画「新聞記者」を観に連れていけというものだから、近くのイオンシネマ「三田ウッディタウン」に行く事になり、急遽この方面で水汲みを探す事にした。この方面はたいてい行っているので在るのか疑心暗鬼で探してみると、なっ!なんと地元でも知っている人が少ないであろう水汲み場が青垣町にある事を発見。
映画の方は1回目AM9時20分、2回目2時20分のスケジュールであったので2回目の時間に行くとして、始めに水汲みをしてからという事に相成った。
映画「新聞記者」は、最近安倍官邸から邪慳に扱われている女性記者「望月衣塑子」氏の原案という事で、おりしも参議院選挙が始まったばかりという事もアリ、面白そうだとワクワクしながらの出発であった。
場所は、福知山から以前書いた酷道429号線を走り、生野方面に行かず、酷道427号に入り多可町方面に行けばあるという、その道の播州トンネルを抜けた1,5kmほど行ったところに在るらしい。
・・・という事は、青垣側から行けばトンネルの手前という事で、探しながら行くもトンネルに入ってしまった。カーナビには多可町側にある道の駅「杉原紙の里・多可」道の駅入れといたので、そこに着いてしまった。
2019,7,7青垣・大草田 001-1i
駐車場に入ると、止める所がないほどの盛況ぶり(~o~)仕方なく道の駅の対面にある「青玉神社」の第2駐車場へ止める事に。
この神社があったので、道の駅も作ったのではないかと思い、参拝してから道の駅に行く事にした。
2019,7,7青垣・大草田 005-1y
「青玉神社」のイワレは
2019,7,7青垣・大草田 004-1e
 当社は、播州、丹波、但馬の境
三国山頂に鍛治業の御神徳をもって奉斎されていた
 明応二年 安政三年の火災で宝物と記録を消失し 万延元年に三回目を奉建したのが、現代の神殿である 加美町随一の古社で昔からこのあたりを神郷と称し「かみの里」の発祥の地でもある
  湯立て祭り
 狩人の身の安全を祈る湯立ての神事は毎年7月15日直近の日曜日行われる 現代では湯立ての玉湯を浴びると、無病息災であると言われ、祈願する多くの参拝者でにぎわう
                     鳥羽区
との神社でありましたが、この神社の見どころは
2019,7,7青垣・大草田 039-1u
「杉原の里」と地名が付いているほど杉が有名らしく
2019,7,7青垣・大草田 003-1t
県指定文化財 青玉神社の大スギ
指定年月日  昭和43年3月29日
所有者:管理者  青玉神社

 県指定の大杉は、青玉神社の境内に7本あり、多可さ50~60M、根回り8~11メートル、目通り幹囲は4~8メートル、樹齢は約1000年といわれている。
 なかでも、社殿裏山にある高さ60メートル、根回り11メートルの大杉は、地上8メートルの所から2つにわかれているところから夫婦杉と呼ばれ、神木として住民から親しまれている。
   平成5年11月    兵庫県教育委員会
2019,7,7青垣・大草田 037-1p
これが御神木の夫婦杉です
2019,7,7青垣・大草田 035-1a
同じ内容は省略して、
 深き縁に結ばれた夫婦の睦まじき和合と行く末の長寿と繁栄を願う御神木として各地より広く信仰が寄せられている。
 又、幹や根にそっと手をあて、その霊気を頂くと「腰痛が良く直る」とも言い伝えられている。
   夫婦円満の秘訣
20代は  愛で
30代は 努力で
40代は 我慢で
50代は 諦めて
60代は 信頼で
70代は 感謝で
80代は 一心同体で
そしてそれからは  空気のようなふれ愛で・・・
身につまされる 思いの方 良いのか悪いのかワカリマシェンが一度実践されては・・・
2019,7,7青垣・大草田 036-1a
二股に分れています。
青玉神社の謂れ
2019,7,7青垣・大草田 027-1i
   「青玉さん」
 この神社の北西に聳える三国嶽の山頂に播磨踊場という広い平坦な所があり、今も御手洗池という小池が残っている。そこに青玉さんが鎮座まし斎祠されていたという。
 青玉神社がこの地に創建された年代は定かではないが、境内の6本の大杉は樹齢7・800年以上かといわれ、又御神木(夫婦杉)は千年杉ともいわれている。これらの巨木から見て神社が建てられたのは相当昔のことである。
  休み石の謂れ
 その昔、井ノ岡(猪ノ岡)という狩人が(のちに稲岡大明神として祀られている)三国山へ狩に行った帰道、背中が急に重くなり、ここ迄やっと辿りつき動けなくなった。この石に腰掛け、しばらく休んだ後帰ろうと立ち上がれば背中が急に軽くなった。急いで村に帰りこの事を村の人に話した。村の長老がそれはきっと神さまやと言った。それから村の人は口々に青玉さまを背負って来たのだ。ここに神さまを祀れということだといって、その後この地を拓き清め青玉神社として祀ったそうである。
   その石がこれであります
2019,7,7青垣・大草田 028-1o
足、腰の痛い人 肩がこる人 こんな方を知っている人
一度拝んで下さい
祭神:天戸間見命(あまとまみのみこと)
    別名:天目一箇命(あまのひとつのみこと)
      なまって青玉となったとの説も(?_?)
2019,7,7青垣・大草田 026-1s
境内の杉の木立により静寂な空気が漂っており、ネットで見るとパワースポットにもなっているとか、興味のある方は一度参拝してはいかがかな。
で、時刻も12時に近づいてきたので道の駅で昼食にしようと、そちらの方へ
2019,7,7青垣・大草田 010-1h
館内の売店風景。入る手前の入口の所には地元野菜や地どりのから揚げ等を販売食堂は
2019,7,7青垣・大草田 009-1j
シャルマン(フランス語で魅力的他)を感じの当て字にした食道。吾輩から来た「釜飯」
2019,7,7青垣・大草田 007-1k
相方さんの「地どりから揚げカレー」
2019,7,7青垣・大草田 008-1k
何時もは、食べている最中に写真を撮る事を思い出すのだが、今回は食べる前に思い出したので写真に残す事ができました。
釜飯の炊き込みご飯は、いろいろな倶が入っていて、あまがらく美味かった。
カレーのから揚げを一個拝借して食べたが、柔らかくサクサクして美味かったが、カレーに合っていたのかは判りましぇ~ン
窓ガラス越しに見えた風景には、杉原紙の里と書いてある建物があり、そちらにも行って見る事に
2019,7,7青垣・大草田 006-1l
杉原川に架かる赤い木造の橋
2019,7,7青垣・大草田 012-1z
橋の上から川を見ると家族連れが寒い中水遊び
2019,7,7青垣・大草田 013-1x
その内ラブラドール・レトリバーが川の中へ
2019,7,7青垣・大草田 014-1c
熱かったのか、川底に座ってしまった
2019,7,7青垣・大草田 015-1c
カメラを構えて居ると、私を撮ってくれとお願いされて
2019,7,7青垣・大草田 016-1v
はいパチリ・・・と、そして対岸へ
2019,7,7青垣・大草田 017-1n
その説明書きが横に
2019,7,7青垣・大草田 018-1m
播州は南にたいへん水運のいい内海を持ち、北に日本の背骨中国山脈を負い、肥沃な平野が広がり、早くから人文が開けたことは、明石原人が発見されたことに象徴されるように明らかである。
 製紙についても、奈良時代すでに美紙の産地として聞こえ、平安時代紙屋院(官用の製紙所)の機構が衰えるや、椙原庄紙の名がにわかに都の文献に出るようになる。
 最も古いのは関白忠実の日記「殿暦」の永久4年の記事で、実に12世紀の初頭のことである。この事はおそらく紙を漉くのに適した椙原庄が、近衛家の領地だったことによるのであろう。
 それからこの紙は「椙原」または「杉原」と呼ばれ国内を風びし、人々の愛用を受け、中世には紙の品種を示す普通名詞となって連綿と近年にまで続いている。紙の歴史がこのように永いのは他に類のないことであろう。
 惜しむらくは現在杉原谷にこの紙を漉く者がいない。そこで歴史を考え、伝統を尊ぶ郷の人々が相談し、恰好の地を選んで杉原紙発祥の碑を建てようとするものである。
 播州は私の郷里でもあり、しかも先年杉原紙の源流を尋ね、帝国学士院会員京都大学名誉教授新村出博士に従って入村した縁によって、博士に題字を乞い、私が撰文した。
  甲南大学教授・文学博士  寿岳 文章
寿岳 章子さんお名前は聞いた事があるが、寿岳 文章さんが父親という事は知らなかった吾輩
2019,7,7青垣・大草田 019-2q
杉原紙と墨との融合展の立カンにつられて
2019,7,7青垣・大草田 021-2e
展示室:写真右が「文章さん」左が娘の「章子さん」
2019,7,7青垣・大草田 024-2r
 よい紙には不思議な魅力がある。質が与える悦びである。そこではいつも堅牢と美とが結ばれている。私はわけても和紙が好きである。日本への賛美をここでも味わふ。近代の知識は紙を西洋化さす事に急いでゐる。私達は量に於いて助けを得たが、質に於いて失った物は大きい。人々は、紙の粗悪に無関心にすらなった。省みればそれを正しい現象とわ誰も云ふまいと思う。質を失ふ事は凡てを失ふのに近い。私は和紙の美を忘れることができない。
  「民芸運動と和紙」  寿岳 文章
2019,7,7青垣・大草田 020-2w
売店も見回ったが買うものが無かったので道の駅にオサラバして、再度水探しに引き返した
2019,7,7青垣・大草田 041-2t
道の駅で聞いてきたので、今度は見つかるはず(^o^)/
播州トンネルを抜ければ青垣町側、そこから最後のカーブの手前らしい。
しかし、トンネルを過ぎるとゆっくり走り、相方さんにも小さい目を大~きく見開いて探しながら下って行くと
2019,7,7青垣・大草田 041-2t
(後程写したので向きが逆です)
大きなクレーンが作業をしている後ろの方にフェンスと人影が見えたので車を止めて行ってみると
2019,7,7青垣・大草田 043-2y
親子連れの三人が水を汲みながら談笑をしておられた。尋ねてみると、例の探していた水である。
順番を待つ間、この水の元はと回りを見渡すと、上の方から1本のエスロンパイプが
2019,7,7青垣・大草田 045-2i
それと、フェンスの後ろの方には
2019,7,7青垣・大草田 047-2p
井戸の様なものが設置してあったが、この付近「マムシに注意」のお触書がフェンスに張って有った。
順番がきたので吾輩も水汲みを、水溜の様なコンクリートの箱ものの中から、1本のパイプがフェンスの間まで出て来て、そこから水が出ていた。水汲みをされていた方は「昼の時間は出る量が少なくなる、地元の使用量が多いいのだろう」と言われていた。
吾輩も水を汲み終え、映画「新聞記者」を観に出発して行った。
「新聞記者」ドキュメンタリータッチの内容だろうと思っていたのですが、なにがなにが、終わるまで目も離せないストーリで釘付けにしてしまった。
内容は話せないが、原案・企画・制作者『河村光庸』氏の寄稿
     「映画」こそ真の自由であることを願って  をお贈りして終わります
 2019年、新しい元号「令和」が始まり、参議院選挙、翌年に控える東京オリンピックの開催。かって経験したことのないような時代の大きなうねりの中で、人々はどこからどのような情報を得ていかなければならないのでしょうか。
 第二次阿部政権の発足以降、下がり続ける「世界の報道の自由度ランキング」(国境なき記者団)で日本は2016年、2017年には連続72位と、ついにG7各国の中で最下位となったことはすでにご承知かと思います。
 フェイクニュース、メディアの自主規制は蔓延し、官邸権力は平然と「報道の自由」を侵す・・・・・。
 この数年で起きている民主主義を踏みにじるような官邸の横暴、忖度に走る官僚たち、それを平然と見過ごす一部を除くテレビの報道メディア。最後の砦である新聞メディアでさえ、現政権の分断制作が功を奏し「権力の監視役」たる役目が薄まってきているという異常事態が起きているのです。
 それとともに、そしていつの間にか暗雲のように社会全体に立ち込める「同調圧力」は、人々を委縮させ「個」と「個」を分断し孤立化を煽っています。そのような状況下、正に「個」が集団に立ち向かうか如く、官邸に不都合な質問を発し続ける東京新聞の望月衣塑子さんの著者「新聞記者」に着想して、企画構想したのが映画「新聞記者」です。
 そしてこの数年日本で起きた現在進行形の政治事件をモデルにしたドラマがリアルに生々しく劇中で展開していくという映画史上初めての試みとなる大胆不敵な政治サスペンス映画に着手しました。
 「これ、やばいですよ」「作ってはいけないんじゃないか」という同調圧力を感じつつ制作過程ではありましたが、映画『新聞記者』は完成しました。皆さま、この機会に是非この映画にお心を向けて下さい。「映画こそ自由な表現を」の旗を掲げ、ご覧いただいた皆様のご意見ご感想を糧に、映画『新聞記者』は前人未踏の道を進んでまいります。

今回の選挙で安倍政権が大量に議員を獲得すると、ますます国民を『バカ』にした政治を繰り広げていく事でしょう。吾輩のブログの読者は少ないですけれど、心ある方は是非選挙に足を運んでください。
日本国憲法の 国民主権・基本的人権の尊重・平和 の三原則を守るためにも!

尚、吾輩の人生哲学は「人間は人間のために生きる」を心に秘めて生きています。

「片渕の水源水(仮)」の水の評価は
集落の水源に使用されている様で、一杯目を飲んだ時には硬水系かなと思ったが飲んでいるうちに、やっぱり軟水だ!と思えてきた水でした。水道水として無難な水でありました。
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v でした
詳しい場所は



NO302:昭和の名水百選「泉神社の湧水(御神水)」

泉神社 023-1q
今回は瀬田川~宇治川まで行く予定を、知り合いが一度水汲みに連れて行ってくれと言ってきたものだから、どこか美味しい水の出ているところがないかと探した結果、伊吹山周辺の水汲み場なら大丈夫だろうと想像のうえ「昭和の名水百選」に選ばれている米原市の泉神社の湧水へ行く事にした・・・・・・・が、知り合いは用事が出来た・・・と、ドタキャン(~o~)
泣く泣く一人で行く事に・・・・気を取り直してイザ出発。
カーナビに「泉神社」が載っていたので目的地に入力して高速へ、カーナビは舞鶴若狭道を案内するのだが、同じところを往復するのも『芸』がナイ、で、行は京都縦貫道から京滋バイパスに入り大津から名神へ入るルートにした。時間、距離、高速代総て若狭道周りの方がイイのだが、まぁこれも遊びだから・・・と、大きく琵琶湖?を一周してくるルートにした。
現地に到着
泉神社 001-1w
R365を走って行くと信号の横に「泉神社」の案内標識が出て来てソコの脇道を入って行くと上記の看板が再度出て来ます。そこを右に折れ山の中を
泉神社 003-1e
少々走り左に曲ると
泉神社 004-1r
駐車場が出て来ます。
泉神社 005-1t
大体3時間ぐらいで到着。車をとりあえずおいて下見に
泉神社 007-1y
この坂を降りて行くと、右に泉神社
泉神社 009-1u
左に「御神水拝授所」がありました。
泉神社 010-1i
まずは「泉神社」へ挨拶の参拝へ
鳥居をくぐりスグ、右横に「泉神社・御神水」と彫った大きな石碑
泉神社 016-1o
その後ろの石垣の中に「御神水」が湧き出て来て小川の様そう
泉神社 037-1j
こんな沢山出て来ている湧水も珍しい
泉神社 017-1k
名水縁起
 水は生命の源です。この湧水の辺には縄文遺跡中期の頃から人々が住みついた模様で、天智天皇のころには御領所となり、天泉所と名付けて伊吹の大神を水の神として祀りました。
 伊吹山系から湧出する豊かな水は大地を潤し、古代寺院の甍(いらか)を、中世には城館の威容を整え、村名も大泉から大清水と移りました。
 ミネラルを含む湧水は以来数千数百年、長寿の水と呼ばれて村人の健康と生活を支えてまいりました。昭和60年、環境庁「日本名水百選」の指定を受け、広く各地から参詣者を迎える事になりました。ここに、畏敬の念を忘れず後世に保存伝承する事を乞い希います。
      平成9年3月吉日
大清水泉神社湧水保存会  米原市観光協会
との事、本殿へ参拝と
泉神社 025-1s
立派な石段を登り
泉神社 026-1d
参拝家族連れが終わるのを待って拝殿へ、そして本殿は横から
泉神社 029-1f
社務所が無い神社にしては立派な神社です。参拝を終えて帰りの石段順路を降りて行くと
泉神社 032-1g
神社に似つかない鐘楼が見えてきました。 
泉神社 034-1h
  鐘楼に着くと先客がおられ、鐘が鳴る中その下に立、音が消えると出て来られた。
「何をしているのですか」と尋ねると、「鐘を撞いて真ん中に立っていると煩悩を洗い流してくれるいわれがある」ラシイ
吾輩は、煩悩まみれ人間であるので早速吾輩も、『ご~ん~~~』と打ち鳴らし鐘の真ん中に、煩悩が多かったのか鐘の音が消えるまで結構長く感じたのだが、今現在清く正しい人間になった様にも思えましぇん・・・・が (?_?)
撞き終わり、石段を下りて水汲み場へ、
泉神社 033-1a
近くの駐車場が開いていたので車を移動、今回はこれなかったお友達の分も汲んで帰らなければならなかったので、車を近くまで持ってこれたのは助かった。
泉神社 013-1k
  泉神社湧水の特色について
      (環境庁 名水百選 昭和60年3月28日)
 泉神社湧水は、太古の昔、千有余年、枯渇することなく滔々と清冽に流れ、区民みんな畏敬の念に堪えません。
石灰岩を浸透してきたミネラルを含む甘みのあるまろやかな水は、広く人気があり、近隣はもとより遠方からも大勢の来訪者があります。
 湧出量は1日当たり4500トン、年間水温約12,5度、PH値は7,5(弱アルカリ)。夏は冷たく冬は暖かい。
 この湧水が環境庁の名水百選に認定されたことは区民の喜びでもあり、今後も湧水の維持、発展に努め、次の世代へと引き継いでいくため保存活動に日々努力しています。
 ご来場の皆様も水環境の維持にご協力をお願いいたします。
(なお、この湧水は自然水ですので、飲用時には必ず煮沸してください)
○利用者の声を集約した湧水の特色
   ・少し甘い感じでまろやかである
   ・冷蔵庫で氷を作ると透明度の高い氷りができる
   ・ご飯は美味しく炊け、夏場も傷みにくい
       餅のカビの発生も遅い。
   ・お茶、コーヒー、ウィスキーの水割りによい
   ・水の長期間の保存が効き、傷みにくい
   ・仏花・生花等の水によく、長持ちする。
   ・薬の服用時によい
                   平成16年3月   以上
大清水泉神社湧水保存会   伊吹町水環境を守る推進協議会
美味しい水を確信していた吾輩は、上記の内容を読んで一安心、これで知り合いにも大手を振って水を持って行く事ができると水を汲んでいると、横の水を汲んでいたオバサングループが、話しかけてこられ要約すると、大体1週間に一回ぐらい三重県の八日市から来ているとの事、ココの水を飲んだらほかの水が飲めない(個人の主観)午後(汲みだしたのが2時半ごろ)より午前中の方が汲みに来る人は多いい・・・等々話していると、来るは来るは次から次に汲む人が増えて、吾輩も早く汲み終えて帰宅の途に・・・なるはずが
泉神社 006-1z
駐車場を出た草むらの中に「大清水遺跡供養塔」なる立札を発見、泉神社だけでは紀行文がさびしいと思っていた矢先
ここは見に行くしかないと探してみると
泉神社 038-1x
小高いうえに東屋を発見、そこへ上がって近辺を散策すると
泉神社 039-1c
正に新しい供養塔の石碑の両サイドに出土したであろう古代の五輪塔その他の石物等が安置してあった。その脇にひっそりと説明書きの石碑が立っていた。
泉神社 041-1v
  此の地に、縄文時代から、大清水遺跡として人々が住み、石棒があり崇拝されていました。
 その石棒を、この場所で平成10年3月、旧伊吹町教育委員会が発見されました。
 石棒は現在、伊吹山文化資料館で公開展示されています。
       平成28年9月1日   尾木輝雄
という事で、文化資料館へ行く事になり、来た道を帰らず真直ぐに行く事にした。少し行くと
泉神社 043-1b
ため池が出て来た。この辺は湧水が豊富なのか、点在している様である。そこを通り過ぎて、街中へ入り探し回ってやっと到着
学校が廃校した後のような建物
泉神社 045-1n
写真を写していなかったようで、これで我慢して頂くとして。中へ
泉神社 051-1m
作業小屋かな
その中に縄編み機
泉神社 052-2q
これなどは最近と言っても昭和ぐらいは使っていて、吾輩も地元で見た事があります
こちらはお風呂かな
泉神社 049-2r
こちらは米搗き機かな
泉神社 048-2e
古いものでは
泉神社 084-2r
まが玉
など紹介できないぐらい多くの伊吹山周辺の文化と言われるものが展示してあります。
で、肝心な石棒とは
泉神社 081-2e
右下の二つでしたが、寄贈者の名前が違いましたので、大清水遺跡から出土したものかどうかわからないですが、館長さんに尋ねた所、「間違いないでしょう」とこことでした。意味は各自考えて下さい。
帰り道伊吹山を見上げると
泉神社 086-2y
伊吹山の山肌がごっそりえぐられて痛々しい様子、セメントの材料になる石灰石を採掘しているとの事でした。

独断と偏見の「泉神社の湧水」の評価は
硬水系の水と思いけりや、コーヒーを飲んでみると、あまり硬度の高くない、まぁ言えば軟水系に近い水でした。しかし、看板にはミネラルが豊富な水と書いてあったので、そちらが正しいのでしょう。吾輩にはもう少し硬度が高い方が好きですが、次から次へと汲みに来られるという事は、みなさん美味しい水と思われているのだと思います。この近辺には他にも湧水がたくさん出ている中での出来事です。という訳で、多くの人に親しまれているという事で
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_-)-☆にしました
詳しい場所は


.・



NO301:栃原の名水「タンタン清水」

白山神社2019,5,4 079-5j
「上・下清水」の現場で教えて頂いたところに水を汲みに行ってきた所で、予定外の付録という事で、「か ん た ん に」お送りいたします。
下清水で聞いた時の場所は、勝山市と永平寺町の境にある東屋が目印・・・と聞いてきた。
白山神社2019,5,4 072-5k
言われた通りに走って行くと、なんのことはない駐車場の看板に「タンタン清水」と書いてあった。早速車を止めて山際へ行くと、
白山神社2019,5,4 078-5v
こんな感じの所の一角に水が流れ出ていました。
白山神社2019,5,4 077-5b
中でも一番汲み易い所で、相方さんが汲んでくれています。
白山神社2019,5,4 076-5c
「タンタン清水」見かけによらず結構有名なようで、石碑までも立っております
白山神社2019,5,4 073-5a
 永平寺町と勝山市へまたがる鷲ケ岳は南北朝時代の勇将畑時能最後の戦いの地として知られる。
 七合目から湧き出る水は、時能川の水源となり伏流水は栃原椿谷の巖の裂け目から清水となりタンタンとやさしく轟き流れる。古来よりタンタン清水と親しまれてきた所以である。
別名栃原の瓜割清水ともよばれる
【石碑に彫ってある字が読み辛く内容に一部違いがあるカモ】
との事でした・・・で、これで終わりです(^_^)/~

「タンタン清水」の独断と偏見の水評価は
軟水で、吾輩の中では普通の水の様でした。
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vデスタ
詳しい場所は


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