NO275:石山寺の閼伽水

瀬田川から宇治川への第二弾、石山寺をはじめ三ヶ所行ってきました。三ヶ所目は「立ち木観音」と言うお寺ですが、ここは、もう十年以上前、瀬田川の鹿跳(ししとび)の瀬にカヌーで遊びに行った時、どんなお寺なのか一度行ってみたいと思っていたところデス。
石山寺は、西国三十三番札所の13番札所のお寺であります。

石山寺の駐車場へ、そこから歩いて東大門という仁王門をくぐり

境内へと入って行きます。
東大門の縁起

重要文化財 建造物
石山寺東大門一棟(大津市石山寺一丁目)
東大門は、三間一戸の八脚門、入母屋造り
本瓦葺の建物で、正面の左右に仁王像を置くことから仁王門とも呼ばれています。
現存の門は、鎌倉時代の初期、建久元年(1190)の建築で、桃山時代の慶長年間(1596~1615)にかなり大規模な修理改造が加えられています。天井下の蟇股(かえるまた)や破風の懸魚などに桃山時代の特徴ががよく表れています。しかしながら、やはり建物の建ちが低く、深い軒は古寺の大門としてふさわしい姿をしています。
明治40年(1907)八月に重要文化財指定されました。
大津市教育委員会 平成5年(1993)3月

と鎌倉時代の運慶・湛慶 作

入山料600円を払い

正面のゲートで切符を確認してもらい境内へと入って行きます。
情報元では、石山寺の天然水は手水と閼伽井屋というお堂の岩陰から湧水が噴き出しているとの事。
まずは手水舎

ここで水が汲めると思いきや、柱に「この水は飲めません」とのお触書((+_+))。まあ、もう一ヶ所の「閼伽井屋」の湧水が有ればよいかと、あきらめもつきパス。
この手水舎の後ろに

「くぐり岩」なるものが
このあたりの岩は全部大理石である。奇岩・怪石の幽邃の境中天然自然に、体内くぐり状態をなすこの池は天平時代のものです。
石山寺
と言うものらしい

入口は立って入れたが、出口は狭くリュクを担いでた吾輩は出て来るのに難儀をしたのでした。女性はくれぐれも男性が後ろからくる場合はスカートの方は遠慮した方が・・・
潜り抜けると願い事がかなうと言われているパワースポットの事
そこから少し行くと、本堂へ進む石段が

ココを上がり切ると

正面に石山寺の名付けの元、大岩群がそびえています。
ここで、石山寺の縁起を

栞から抜粋
聖武天皇の勅願により天平勝宝元年良辨僧正によって開基され、歴朝の尊崇あつい由緒ある寺院である・西国巡礼13番の札所。
本堂は懸下木造建築最古のもので、内陣は平安中期。外陣は淀殿の修補になるもの。
本尊観音は勅封になっている。
堂内「源氏の間」は紫式部が「源氏物語」を書いたところと傳え、本堂下の御堂は蓮如上人の母が石山観音の化身だといわれるので、その形見と傳える蓮如鹿の子の小袖を安置している。
なお、こちらの紫式部の説明では

世界最古の長編小説「源氏物語」が記載された寺院として知られています。紫式部が石山寺で観音に祈り、十五夜の月が琵琶湖に映える様子を見て、この物語の着想を得たと伝わっています。琵琶湖の水とその美しい景観が生みだした「源氏物語」は、1000年もの間、人々の暮らしを彩り、今後もなお、それは途切れるこなく受け継がれていくでしょう。
正面の岩群

説明版

天然記念物
石山寺の硅灰石(けいかいせき)大津市石山寺1丁目
硅灰石は、石灰岩が地中から突出した花崗岩と接触し、その熱作用のために変質したものです。この作用によって通常は大理石となりますが、この石山寺のように雄大な硅灰石となっているものは珍しいものです。
石山寺の硅灰石は、20ミリメートル大の短い硅状の結晶になったものや、5ミリメートル大のものが50ミリメートル大に集合したものがあって、表面は淡黄色あるいは淡褐色をしています。
また、この硅灰石のほか大理石、ベーブ石石灰岩からなる大岩塊は褶曲のありさまが明らかにわかるものとして貴重なものであり、石山寺の「石山」の起こりとなったものです。
大正11年三月に国の天然記念物に指定されました。
大津市教育委員会 昭和59年2月
この広場には、西国三十三ヶ所霊場の尊像をすべて祀った観音堂

蓮如上人を祀り遺品を安置する蓮如堂

石山寺は東寺・真言宗であり、蓮如上人は浄土真宗の中興の祖であることからなぜか(?_?)それには蓮如上人の母堂の物語が残っている。
詳しくは「気楽おっさんの蓼科偶感 」のブログを参照してください。

堂内の祭壇です。

源頼朝の側近であった中原親能(ちかよし)は、和束で起こった反乱の討伐に向かうにあたって石山寺に詣で、観音様に勝利を祈願しました。石山寺の門を出発した時、親能の前に毘沙門天が現れ、無事反乱を鎮める事ができたと「石山寺縁起絵巻」は伝えている。
武神であり、財宝神である毘沙門天は観音さまの33の応現神(観音様が人々を救済するために時と場所と相手に応じて変身した33の姿)のひとりでもあります。この毘沙門堂に安置されるのは兜跋(とばつ)毘沙門天立像(重文・平安時代後期)です。
(重要文化財「石山寺縁起絵巻」第6巻第1弾)

へたくそな写真により顔半分が・・・・((+_+))
他に、堂内に弘法対し・良弁・淳祐(しゅんにゅう)の遺影を安置する御影堂

があります。
その広場を左へ行くと

本堂が在ります。

国宝、建造物
石山寺
石山寺本堂は、桁行7間、梁間4間、寄棟造の本堂と桁行9間、梁間4間、寄棟造で懸造(舞台造)の礼堂と、その両棟を結ぶ相の間によって構成される総檜皮葺の建物です。
石山寺の建立は古く、本堂は天平宝字5~6(761~2)にかけて造東大寺司によって拡張された事が正倉院文書に見えます。その後、承暦2年(1078)に焼失し、永長元年(1096)に再建されたのが、現在の本堂で、天平宝字頃のものとほぼ同じ規模を持つ滋賀県で最も古い建物です。礼堂と相の間は、慶長7年(1602)に淀君によって建て替えられました。
昭和27年(1952)に国宝に指定されました。
大津市教育委員会 平成5年(1993)3月
本堂入口

これ以上堂内撮影禁止のためお知らせする事ができないが、本尊如意輪観世音菩薩像は金ピカに見事に輝いていました、

源氏の間

今を去る千年の昔寛弘元年蜂勝ち十五夜紫式部この部屋に参籠し前方の金勝山よりさし昇る中秋の名月が下の湖面に映える美しい景色に打たれ構想の趣くままに筆を採られたのが有名な「源氏物語」であります。それからこの部屋を「紫式部源氏の間」と申すようになったのであります・
本堂を後にして、さらに境内を巡りましたが、重要文化財だらけで紹介するには大変でしたので、吾輩がこれぞ!と思うのを抜粋してご案内いたします。
まずは、日本最古と言われています「多宝塔」

瀬田川から琵琶湖を一望できた「月見亭」

展望、今は高いビルが乱立している

石山寺の遅咲きの紅葉

そして境内の最頂部近くには

光堂、本堂に似せた建物の様だが

大津市に工場を持つ東レが寄進したものか?

物故者慰霊塔 慰霊塔 東レ株式会社
ココまで登って来たのだが、吾輩が探している「閼伽井屋」が未だ見つからない、はて?
これからは水辺を中心に探して見る事に

八大龍王社

八大龍王社は龍池の中島に建てられた社で、龍王をお祀りしています。石山寺の歴海和尚がこの池のほとりの意志に座って孔雀経をを読むと、池の中から龍王たちが現れて和尚の経を聞き、経を読み終わると、和尚を庵まで送って行ったと伝えられています。歴海和尚が座った石は「腰掛石(または尻掛石)と呼ばれ「石山寺縁起絵巻」に描かれたうっそうと木がおい茂る深い山中の様子は、現在も変わることはありません。
で、閼伽井屋がどこに在るのか池の周りを回るも

ナイ。東大門の方へ帰りながら探すも
無憂園にある甘露の滝の周りを探すもナイ

仕方なく歩いていると

それらしき小屋が池のほとりに立っていた。コレだ!と確信!それは本堂の真下

小屋にも「閼伽井屋」の名前も書いてある。しかし

モーターの音が・・・・・

黒丸の所から地下水が出ているので、ここで無事水をゲット(^_^)v
その手前には

天智天皇の石切り場
本堂ましたのこの場所は、天智天皇の御世(660年代)石切り場であったといわれ、砕石跡が残されています。近年の調査で、ここから切り出された石は、天智天皇によって建立された奈良の川原寺中金堂の礎石に使用されていることがわかりました。石材の運搬は水路を用いられ、瀬田川から淀川へ下り、大和川をさかのぼって飛鳥の地へ運ばれたと考えられています。
「石山寺縁起絵巻」第4巻の承暦2年(1078)の本堂火災の場面には、今と変わらぬ切り出し途中の岩が描かれており、この場所が当寺から存在したことを示しています。

独断と偏見の「石山寺の閼伽水」の評価は
残念ながら、水色も今一、飲んでみても何かしっくりこない味。地下水を汲み上げている事から、石山寺の前は、瀬田川洗堰の内側、おそらく琵琶湖の水が浸透しているのではなかろうか思われ、手水の水を飲まないでくださいと言う注意書きも納得できるものです。
(*_*; (*_*; (*_*; でした
現在2018年12月31日23時16分何とか年内中に書き終わる事ができました。
皆さま良いお年をお迎えください
詳しい場
所は
つづく
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