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NO272:大神山神社奥宮の「御神水」

2018,11大山 091-1q
恒例「秋のレクレーション」で、大山ぐるっと一周・紅葉狩りに・・・と言っても日帰りですが行ってきました。
そのついでに「湧水」があれば戴いてくるという、いつものパターンであります。
大山の紅葉が綺麗だといわれる、10月下旬~11月上旬の11月3日文化の日に「天気予報」とにらめっこしながら決行してきました。
お友達から、山陰道で行けば自動車道も無料で2時間半で行ける。と聞いたものだから、大山寺の駐車場が満車にならないであろうAM8:00頃には到着したいとの思いからAM5時ごろ出発。大山寺に着くまでに、「平成の名水百選」に選ばれた「地蔵滝の泉」を汲んで行きたいとの思いから、3時間の余裕を持った出発となった。
山陰道方面は無料自動車道が整備されているが、全線開通ではなく、途切れ途切れの開通のため自動車道に乗ったり下りたりしながらの行程である。
地元から豊岡へ向けて出発R312号からR178号へ入り、香住の佐津ICから自動車道へ最近浜坂ICまで開通そこで下りて鳥取県の岩見ICで自動車道へ。鳥取バイパスを経てR9号へ鳥取市内からひたすら白兎海岸を通り青谷という所から青谷羽合道路に入り「一部忘れ」大山ICで下りた。この時点で聞いていた2時間半の期間は過ぎて3時間になろうとしていた。
2018,11大山 002-1w
あの大山めがけて走り、第一の目的「平成の名水百選(地蔵滝の泉)」を探す為、途中横道に入り探すも見つからず、そうしている合間にも車がどんどん上がって行く(~o~)、駐車場が満杯にならないかと心配になり、探すこともままならず途中で中止(@_@;)
そして大山寺駐車場へ
2018,11大山 007-1e
駐車場もまだ余裕がありホッ(*^。^*)それも総て無料!(^^)!で大山寺へ
2018,11大山 005-1r
米子方面の下界、天気も上々
門前町の通りを歩いて大山寺を目指します
2018,11大山 010-1t
時折お店のない所から大山の山頂を眺め
2018,11大山 011-1y
そして案内板
2018,11大山 013-1u
(左案内板)歴史と神秘の大山寺地域
 春から夏の高山植物の花々や、秋の紅葉、そして冬の冬景色など四季の美しい大山。雄大な自然に抱かれた、ここには、鳥天狗伝説が伝わるなど、神秘さもあり、多くの修行僧と、山岳信仰の地として栄えた歴史を持つ。
 そして大山寺地域参道内には、数多く残る石地蔵や、石碑等を見る。
 更に奥には大山寺本堂、そしてさらに奥には、大神山神社奥宮が続き、時を越え受け継がれてきた神秘的な風景も広がる。
(右案内板)自然と神秘の大山
 参道の突き当り、石階段を上ると大山寺本堂の姿が見える。一方脇には、大神山神社奥宮へ続く古い石畳の道がある。深い木立のトンネルのその道筋に、古い地蔵や、冷たい水の流れる水場、昔から言い伝えを残す史跡などがある。
 そこには大山の、深い緑の神秘的な風景が広がる。
2018,11大山 015-1i
山門が見えて来て
2018,11大山 016-1o
この山門(仁王門)の石段の手前から左に入って行けば、石畳の参道から大神山神社奥の院へ、山門をくぐると
急斜面の階段
2018,11大山 019-1a
この石段を登り切ると、下山観音堂へ
2018,11大山 020-1s
ソコに祀ってあったのは十一面観音菩薩様
2018,11大山 022-1d
撮影禁止の札が無かったので写しましたが、白鳳期の金銅仏で重要文化財だそうです。しかし、ホンマ物は宝物館「霊宝閣」の方で展示、写真の観音菩薩様は『控仏』だそうです。どうりで写真撮影OKもうなずけたのであった。
下山観音堂の向かいには、護摩堂があり
2018,11大山 025-1f
不動明王が祀ってあります。そして本堂へ上がる石段のたもとには地蔵さんがお出迎え
2018,11大山 026-1g
地蔵さんの後ろに説明書きが、てっきりお地蔵さんの事かと思いきや、後ろにある杉の木の説明であった。
灯明杉:その昔、日本海を航行する舟が難航の折、この杉の頂から、一大尖光を発し、方向を変えたために難をのがれたといわれる霊木で、この名がある。
そして石段を上がり本堂へ
2018,11大山 029-1h
昭和三年、四度の火災に見舞われ、昭和36年に再建された建物です。(天台宗別格本山)
その境内右端にどこにでもある撫で牛
2018,11大山 027-1j
宝牛:牛の霊を慰めるために鼻ぐりの銅を持って鋳造し、岡山県吉備津の宗教団体「福田会」より寄進された像で別名「撫牛」ともいい、一つの願いだけを心に念じてこの牛を撫でると願いを叶えてもらえるという縁起の良い牛である。
相方さんも順番を待っている様である。さ~て、何を頼んだんでしょうかな(?_?)
本堂の左の方から人達が出て来られるので廻ってみると
2018,11大山 035-1l
標識があり、こちらからも大神山神社奥の院へ行けると書いてある。その道を行って見る事にした。
すぐ参道の石畳に入って行った。
2018,11大山 038-1z
石畳を上って行くと、右側に誰かの墓地の様な場所に出くわした
2018,11大山 037-1x
その奥に説明書きが立っていたので、何かな~と覗いて見ると
2018,11大山 036-1c
僧兵の力石と:大山寺の僧兵は約500年の昔その数三千人と言われ、勇猛無比その勢いは大山嵐と言われ山陰を風魔したが、平時この地から石で力を競ったと伝えられている。
吾輩も・・・と挑戦したろうと石に手を掛けたのだが、ビクともしなかったのであった^_^;
さらに歩いて行くと、自然石に大きな仏像が彫ってある珍しい地蔵さんである。
2018,11大山 039-1v
吉持地蔵:江戸中期、会見郡の長者吉持甚右衛門が経悟院住職豪堅に仲を持ってもらい寄進したもので、大山寺の数多い地蔵の中で自然石に彫られた数少ない地蔵である。
そして、神社の境内の中へ
2018,11大山 040-1b
そして、目的の手水舎が出てきたが
2018,11大山 045-1m
先客があり、ペットボトルに汲むのに時間が掛かるので帰りに汲む事にして先に進んで行った。
2018,11大山 048-2q
後ろ向き門::元大山寺本坊西楽院の表門(宮家のお成り門)であったが、明治八年寺から神社に引き渡されてこの奥宮の門に移設したが、その時そのまま移転したので後ろ向きになったと伝えられている。
それを過ぎると奥宮本殿が見えてきた。
2018,11大山 048-2q
石段を上がって行くと
2018,11大山 052-2d
大神山神社奥宮:この壮麗な建物は大神山神社奥宮です。大神山とは大山の古名で、大国主命(大黒さま)が祭ってあります。
社殿は文化二年(1805年)の建立といわれ、神仏混淆淆時代の神社の特徴である権現作りという形式で、中国地方でも大きい方の神社である。
参道の途中にある神門は、門の表裏が反対になっているので、「後ろ向き門」と言われていいます。
いずれも国の文化財に指定されており、毎年6月山開き祭はここで行われています。
2018,11大山 053-2e
全体像
2018,11大山 056-2e
神殿奥の院
2018,11大山 067-2f
参拝を終わらせ(写真撮影禁止)左の方へ行くと下山神社が
2018,11大山 065-2t
下山神社由緒略記
2018,11大山 066-2y
奉神:下山大明神(渡邊源五郎照政尊)
元徳二年(1330年)大神山神社を尊信した、備中郡司渡邊日向守一子照政公は参拝の帰路奇遇に遇い不慮の最後を遂げ人々はこれを憐れみ大山下山の地に子祠を建て下山神社と呼んだが数々の霊験あり、後、夢のお告げにより、此の地に奉遷したもので、多くの武将の神幸があり、現在の社殿は代々の信仰が篤かった石州津和野の領主亀井隠岐守矩賢公が文化二年(1805年)に再建されたもので、重要文化財に指定されています。
   御神徳:勝運・除災・病気平癒
尚、大神山神社奥の院の左からは、大山頂上3,0kmの登山道が在りました
2018,11大山 058-2r
こちらが大山登山道図
2018,11大山 059-2y
奥の院周辺の境内はこのぐらいで、下山する事にした
2018,11大山 068-2u
で、手水舎の御神水を頂きに
2018,11大山 070-2i
竹筒から御神水が出て来ている(奥の院で天然水である事を宮司から確認済み)、汲んでいると自然と止まり、数秒ぐらい経つとボコボコボコとまた出て来るのである、どこかの間欠泉の様であった。参拝者が来られたので2本で切り上げ、下山して行ったのだが、途中「金門」と言う標識があり、どんな門か見に行く事にした。
小道を歩いて行くと急に開けて大山の北壁がどどど~と目の前に、
2018,11大山 073-2z
下には、賽の河原という川原に少々の水が流れている。思っていた金ぴかの門がある雰囲気ではナイ
2018,11大山 093-2x
正面の岩に説明の板が埋め込んである
2018,11大山 092-2c
僧兵荒行の岩:大山寺の僧兵は一騎○千勇猛をもって知られており、常識では想像も出来ない荒業をしたと伝えられているが、その荒業の一つとしてこの岩から飛んだと伝えられ、この名がある。
しかし、岩を見る限り吾輩でも飛べる位の岩であるが、ココの事なのか・・・・と、「賽の河原」に降りて行く事に、下に行くと「金門」が見えたのであった。
2018,11大山 087-2v
な!なんという岩だ!!まさに「門」である。以前大山の写真に出ていた岩がどこに在るのか知りたかったそのものである。
2018,11大山 072-2a
金門と大山二羽鳥
大智明大権現の殿堂を造営するに際し、大盤石が道に屹立して通行の妨げとなったので、僧徒等はこれを取り除こうとしたが、難工事のため途方に暮れて居るとき、二羽の鳥が飛んで来て手伝い、又、この工事中(孝元天皇五十二年)金剛鳥が天から飛んで来て、次のようなを偈説いたので程なく竣工したという。
大山多宝佛、 開輪御金門、 鷹化身垂跡、 釈迦両足尊
大山の名及び金門の名は、これから始まったと伝えられる。
そして「賽の河原」
2018,11大山 077-2b
賽の河原
賽の河原とは、小児が死んでから赴き、苦を受ける所です。冥途の三途の川原で、小児の霊が石を拾って、父母の供養のために塔をつくろうとすると大鬼が来て崩す。小児の霊は泣きながら、また塔をつくるが、また崩される。これを繰り返すうちに地蔵菩薩が現れて救う、と言われています。
 河原には近くはもちろん遠方からも子供を亡くした親が、人知れずここに来て、わが子をしのびながら、一つ一つ河原の石を積み重ねてつくった石の塔が多くあり、また両岸には地蔵菩薩が安置されています。
           自然を大切に
川原には大小さまざまな塔があったが、まさか子どもを亡くした親が作っていたとは、てっきり遊びで石を載せているものだと今の今まで思っていました・・・ガク(=_=)
金門の下流側に行ってみようと相方さんと意見が一致\(^o^)/賽の河原から引き揚げて行ったのであった。

大神山神社奥の院の「御神水」の評価は
軟水か硬水か区別がつきにくいコーヒーの味であった。で、独断と偏見の味評価は
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v

詳しい場所は(正確な場所ではないかも)



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NO271:因伯の名水「用呂の清水」

扇の仙 153-2z
今回最後に回ったのが「用呂の清水」でした。
国道29号「因幡街道」沿いに在るという。大まかな地図の書いたものしか持ってこなかったので、見つけるのが難しいかな(?_?)と思いながら車を走らせていた。
目星を付けてソコの集落へ
扇の仙 081-2z
橋のたもとまで来ると
扇の仙 138-3t
因伯の名水「用呂の清水」と書かれた標識が。ラッキーここだと橋を渡り終えた正面に、コレマタ集落の地図が立ててあった。
扇の仙 096-2c
地図によれば文化財「矢部家」の右隣の所に名水と書いてある。
扇の仙 101-2v
道が狭いので、リュックにペットボトル以下名水水汲みの「三種の神器」?片手鍋に漏斗を詰め込み背負っていく事にした。
扇の仙 133-2m
とりあえず「矢部家」を見てからと言う事で
扇の仙 126-2b
遠くから見れば、白い土塀のお城の城壁のように見えたのだが、どうも文化財はこの中の「茅葺屋根の建物」の様である。
扇の仙 125-2n
写真が小さく文字が読めれませんでしたので、鳥取県の「文化ナビ」からおかれしました
矢部家は、江戸時代に大庄屋を勤めた旧家。17世紀初期に建てられたものと推定され、古式を残す県下を代表する民家建築である。主屋は桁行11間、梁間5間で、規模も大きく格調高い。
また、宅地も江戸時代の大庄屋にふさわしい規模をもち、家相図ともよく一致し、主屋とともに一体的な価値を形成している。
全体として、当時の上層農家の住宅を理解する上で貴重である。
「矢部家」の前の通りを歩いて行けば
扇の仙 132-3q
石灯籠の所に着く。そこから湧水は流れて出ている。
扇の仙 128-2m
水路には梅花藻と思われる水中植物が清水に身を任せユラユラと漂っていた。
扇の仙 130-3w
水路の突き当りが「用呂の清水」、つまり源流である。チョイト思っていたイメージとは違っていたが
扇の仙 131-3e
水路を充たして流れるだけの水量が有るという事は相当湧出ているのであろう。水も実に綺麗である。地元の方々が利用されているのであろう石段が作ってあり、それを利用して水を汲ませてもらいました。
しかし、このような湧水はどうしても雑菌が入りやすいので、飲み水としてはあまり利用されていないのではないかと思えた。
吾輩は、沸かして飲むのであるからあまり気にはしていません。
無事予定の三ヶ所の湧水をゲットできたので帰途についた。しかし、時間に余裕があったので、八頭町の隣町若桜町に在る「諸鹿渓谷」に寄ってみる事にした。
国道29号線を東へ進んでいると、こんなものが目に入って来た
扇の仙 139-3y
国道とは別ルート、旧道の「城下町・若桜宿(わかさ)」入口、チョイトは行ってみると
扇の仙 140-3u
出口が見えない直線道路、2~300mはあるかと思われる。ゆゅくり走ってみたが停まってみるようなものも無かったので通り抜けしたが、詳しくはこちらで→、「若桜宿
通り抜けて真直ぐ行くものとばかり思っていたら、カーナビが帰れと言う、仕方なく国道29号を
引き返していくと
扇の仙 141-3i
オ!オ!オ!すごい岩山、平石岩と言うのらしいが、ネットで調べても今一出てこない・・・(?_?)で平石岩の名前が合っているか判らない。
と、さらに渓谷方面に入って行くと
扇の仙 154-3p
諸鹿集落の異様な状景に、ケモノ止にしては大きすぎる、雪崩防止にしては後ろの森林が止めるだろうし・・・なんだろ~ナ
それはさて置いて、渓谷へ
扇の仙 144-3o
これが「屏風岩」か~と仰ぎながらさらに奥へと・・・ところが、行けども行けども岩肌はあれだけ、ついに
扇の仙 147-3s
土砂崩れのため全面通行止め((+_+))
結局「諸鹿七滝」の一つでも見えるのかな^と期待して入った林道からは見えず
    ↑の方のブログに詳しく載っていますので観て下され<(_ _)>

と言う事で、渓谷を後に国道29号から
扇の仙 157-3a
こんな岩肌を見ながら若杉峠を越えて大屋町に入り帰ってきました。

独断と偏見の「用呂の清水」の評価
湧水の場所がため池になっている為雑菌が入りやすい。軟水系で普通の水でした。

詳しい場所は


NO270:安徳の里にある「名水・出逢いの水」

扇の仙 049-2w
「扇の仙」の鳥取県側の麓「姫路集落」に老人会が管理している湧水があるという、「水とふれあいの広場」から林道を降りて行ったところに在る事から進んだのだが、林道の途中に通行止めの柵が作ってあったのだが、部分的に外してあり、その上進行方向からも軽トラ数台の慕;つて来たりしていたので、思い切って突破?して行ったのであった。
扇の仙 050-2e
天気・・良し、紅葉・・良し、見晴らし・・良し、の三拍子そろったいい日であった。
林道をゆっくりと走っていると
扇の仙 053-2r
道を塞いでいた土石を取り除いていたであろう工事現場を通過、おそらくここが通行止めの原因ヶ所だったのだろうと思いながらさらに進めていくと
扇の仙 054-2t
唐戸渓谷探索コース(1の滝:2の滝:3の滝:唐戸大滝)の看板が朽ち果てた休憩小屋の前に1台のジムニーが止めてあった
後程、ネットで探しましたので見て下さい。唐戸と言えば、京都の美山にもあり、「唐戸」と言う事に何か意味があるのでは(?_?)
吾輩はそこを素通りして
扇の仙 055-2y
所どころ台風の影響が残っている悪路?を進んで行くと
扇の仙 059-2u
広場の』奥にコレマタ朽ちかけた小屋の名残みたいのを発見。広場の隅に
扇の仙 058-2y
峠の見晴らし広場
ここは国府町と郡家町の境界で標高約850mです。ウッドデッキからは鳥取砂丘、大山、扇ノ仙などが見えます。
まわりの林で栗ひろいを楽しんでみませんか。
標高1310mの扇ノ仙、昭和44年に氷ノ山後山那岐山国定公園に指定され、皆さんに親しまれています。
  来たときよりも美しく ゴミや空きカンは持ち帰りましょう!
との事、行って展望をしてみたのだが
扇の仙 060-2i
満足が得られる内容ではなく、それより朽ちかけた床が何時請われるかハラハラ、ドキドキでゆっくり見とる暇もなく1枚撮るのがヤットコサで引き返してきた。
そんなこんなで、麓の道路にたどり着いた様子
扇の仙 066-2o
その道を右に曲がり下って行くと
扇の仙 070-2p
「安徳の館」が在りそのそばに
扇の仙 071-2s
安徳の里・姫路公園の見取り図 その入り口
扇の仙 072-2a
所で「安徳」とは何んじゃいな・・・と、探してみると
「ウィキペディアより」
略歴[編集]
『吾妻鏡』(吉川本)頼朝将軍記の首書。安徳天皇の即位が記されている。
治承2年(1178年)11月12日に生まれ、生後まもない12月15日に立太子。治承4年(1180年)2月21日に数え年3歳(満1歳2か月)で践祚し、4月22日に即位する。幼帝の政治の補佐は外祖父たる平清盛が取り仕切った[1][4]。即位前には、天皇の祖父後白河法皇も、清盛により幽閉されるに至った[1]。摂政には藤原基通が任じられた[1]。

即位の年に清盛の主導で遷都が計画され、福原行幸(現在の神戸市)が行なわれるが、半年ほどで京都に還幸した[1]。寿永2年(1183年)、源義仲の入京に伴い、平宗盛以下平家一門に連れられ三種の神器とともに都落ちする[1][5]。この後寿永2年8月20日(1183年9月8日)に三種の神器が無いまま後鳥羽天皇が践祚し[6]、元暦元年(1184年)7月28日に即位[7]。正史上初めて同時に2人の天皇が擁立されることになった[8][9]。

一方、安徳天皇は平家一門に連れられ大宰府を経て屋島に行き、1183年に現在の屋島東町にある見晴らしの良い高台に行宮を置いた。この行宮跡地付近には、ささやかな神社「安徳天皇社[10]」が置かれている。しかし源頼朝が派遣した鎌倉源氏軍(源範頼、源義経)によって、平氏は一ノ谷の戦いと屋島の戦いに敗北[1]。特に屋島合戦(1185年2月)の敗北により、天皇と平家一門は海上へ逃れる[11]。そして寿永4年(1185年)4月、最期の決戦である壇ノ浦の戦いで平氏と源氏が激突[1]。平氏軍は敗北し、一門は滅亡に至る[1]。以下、まず『平家物語』による安徳天皇入水の様子を記述する[12]。

最期を覚悟して神璽と宝剣を身につけた母方祖母・二位尼(平時子)に抱き上げられた安徳天皇は、「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問いかける。二位尼は涙をおさえて「君は前世の修行によって天子としてお生まれになられましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。この世は辛く厭わしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」と言い聞かせる。天皇は小さな手を合わせ、東を向いて伊勢神宮を遙拝し、続けて西を向いて念仏を唱え、二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じた。安徳天皇は、歴代最年少の数え年8歳(満6歳4か月、6年124日)で崩御した(『平家物語』「先帝身投」より)。なお、『吾妻鏡』では安徳天皇を抱いて入水したのは按察使局伊勢とされている[13][14]。

母の建礼門院(平徳子)も入水するが、源氏方将兵に熊手に髪をかけられ引き上げられている。この際、三種の神器のうち神璽と神鏡は源氏軍が確保した[2][3]。宝剣はこの時失われたとする説がある(宝剣に関しては異説も多くあり、それらについては「天叢雲剣」の項目を参照のこと)。オリジナルか形代かは別にして、朝廷側が宝剣の回収に失敗したのは確定している[15]。その後、後鳥羽~土御門天皇~順徳天皇時に伊勢神宮から献上されたものを正式に宝剣とした[8][16]。
柳の御所・御所神社、門司、大宰府から屋島へ渡る前一時御逗留
寿永2年(1183年)に後鳥羽天皇が即位したため、同年から崩御の寿永4年(1185年)までの2年間、在位期間が重複している。

『中国地方の関係』
因幡国に逃れて10歳で崩御したとする説。 壇ノ浦から逃れ、因幡国露ノ浦に上陸、岡益にある寺の住職の庇護を受けた。天皇一行はさらに山深い明野辺に遷って行宮を築いて隠れ住んだ。文治3年、荒船山に桜見物に赴いた帰路、大来見において安徳天皇は急病により崩御した。この時建立された安徳天皇の墓所が岡益の石堂と伝えられている。

上岡田五輪塔群、鳥取県八頭郡八頭町姫路12安徳の里姫路公園鳥取県八頭郡八頭町姫路には安徳天皇らが落ち延びたという伝説が残る。天皇に付き従った女官などのものとされる五輪塔が存在する。
鳥取県東伯郡三朝町中津には安徳天皇が落ち延びたという伝説が残る。

伝説は多くがそうであるように、一箇所だけでなく数か所にわたって各地に伝えられている。ここもその一つであろうが、火のない所に煙は立たない・・・と言われるように何かしら関係するのではないでしょうか。
姫路公園の管理人さんに「姫路集落内に湧水が出ている、と聞いて来たのですが知っておられますか」と尋ねると
「姫路集落内には聞いたことは無いが、ここより道を下って三叉路の近辺に出ているところが在りますよ」との話。そこは老人会が維持管理をされているとの事。ちょうど情報元の話とマッチする。おそらくソコだろうと車を向けて三叉路を右折して走って行くと
扇の仙 073-2d
それらしき物が視界に入って来た。近づいてみると
扇の仙 074-2f
飲んでみて!!  水の甘さに目も細む   『名水 出逢いの泉』
    姫路・明辺老人会
と書かれている。正しくココである\(^o^)/
扇の仙 075-2h
水汲み場も整理整頓された気持よい水汲み場である。・・・が欲を言えば、パイプから出てきた水を直接汲める方がありがたいのだが・・・。
という訳で、水も頂きさらに道なりに進み
再度三叉路の道を左の方へ進み、峠を越えて次の水汲み場へと向かった。
扇の仙 080-2k

「名水・出逢いの水」独断と偏見の水評価は
喫茶店の方も水汲みに来ると言うほど美味しい水だとの事だった。飲んでみて軟水系の嫌みのない飲みやすい水であった。
喫茶店の方が汲みに来られるのもうなずける水であった。
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v

詳しい場所は





NO269:扇の仙の「水とのふれあいの広場の清水」

扇の仙 016-1q
行ってきました(^_^)/
NO266で断念した扇の仙の中腹に在る「水とのふれあい広場」へ!!
今回は前回失敗した教訓から、兵庫県海上方面から行く事にしました。兵庫県警との相性が悪い吾輩、行きは9号線を通り無難に走る事でクリアーするとの思いで出発。
NO230の高原水で書いたルート、9号線蒲生峠の手前から海上方面へ入り、「シワガラノ滝」の登山口前を通り
扇の仙 002-1w
NO230の時は車が溢れていたが、今回は1台のみあまり人気が無いのかも(?_?)上山高原めざし
扇の仙 003-1e
ドンドン上って行きます。心配していた山崩れの雰囲気は無くこれなら目的地まで行けるのでは・・・・と思いながら天気も良くルンルン気分で走って行きました。
上山高原に差し掛かると一面ススキだらけ
扇の仙 006-1r
前回は春だったのかススキのスの字もみれなかったが、うれしい誤算であった。上山高原山頂登り口への手前で
扇の仙 007-1t
今日は何事か!・・・・・と
停まって運動靴をいじっていた女の方に尋ねてみると、八伏高原から氷ノ山越えを経て扇の仙に登り又八伏に帰るというルートで総計80キロぐらいを走るマラソンだとの事、
後程、Webで調べてみると、「OSJ氷ノ山山系トレイルレース」パワースポーツと言う団体が地元自治体と協力してのイベントの様でした。
吾輩は、選手の方を激励して上山高原の山頂へと
扇の仙 025-1a
上から降りて来られた方に「山頂のススキはいかがでしたか」と尋ねると、例年来られているのか「今年は見ごたえがありますよ」との事、
扇の仙 011-1f
山頂と言っても高原なのでなだらかな所、そこには古めかしい展望台が設置してあり
扇の仙 019-1k
展望台からの眺め、ススキの絨毯
扇の仙 020-1l
日本海の展望、帰りのススキの中
扇の仙 009-1d
そして再び来るまで目的地へ、扇の仙登山口へさしかかると
扇の仙 031-1x
ランナーが出て来るではないか、車から降りて覗いて見ると
扇の仙 033-1z
丸の中ゼッケン171のオジサンがストックをついて下りて来られていた。声援を送って励まし吾輩は目的地へ向けて再度走り出し数分も走るかぐらいで
扇の仙 037-1v
目的地「水とふれあいの広場」へ到着
扇の仙 046-1v
山奥にあるにしては整備された公園風にしてある。扇の仙の登山客のためなのか
扇の仙 038-1n
相当な水量の湧水が滝になって流れ落ちている。焚口の水を汲みたかったのだが池の中に入らなければ行けない。池をけがしては・・・と思い断念!
扇の仙 045-2q
親切に汲み易いようにパイプから水が出て来ている。ここで汲む事に決定(^_^)/
残りにヶ所廻る予定が立ててあったので、ペットボトル4本汲んで次の場所へ車を走らせた。

独断と偏見の「水とのふれあい広場の清水」の評価は
軟水系で喉越しの良い透明感のある水で、コーヒーにしも抵抗なく飲めました。
で、(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vでした
詳しい場所は


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