NO263:道風神社の霊水(和香水)

「雲ヶ畑」に行った時時間切れで行けなかった、雲ヶ畑から持ち越し峠を越えて降りて来た所から、京見峠(以前行った)方向へ登った所の杉坂道風地区に「その水で硯の水に用いれば書道が上達する」と昔から伝わるという湧水があるという。
再度雲ヶ畑へ行く事になった。
別に雲ヶ畑から行かなければいけない所ではないのですが、辺境地大好きな吾輩は持越し峠から行きたかったのである。

前回気になっていたモニュメント?に今回寄ってみる事に、立札には

高雲寺:九龍山と号し、臨済宗永源寺派に属す。
この地は、文徳天皇の第一子皇子惟高親王が閑居された高雲の宮址と伝えられ、貞観11年(869)、親王はここで落飾され、宮と改めて当寺を創建した言われている。
創建当時は、真言宗の祈祷所として栄え、祈祷を行う際には、村役人はじめ里人が集まり、謡曲の「田村」を奉納したり、寺に棺を近づけないなどの風習があった
と伝えられる。
寺宝には惟高親王が書写したといわれる大般若経(惟高般若)600巻の他、近郷の人々がこれを拝むとすぐに病が治ったと伝える大般若経説相図や貞観時代(859~877)作の薬師如来像、山越如来像などがある。
また、当寺のある中畑町及び出谷町では、毎年8月24日に、愛宕山への献火行事として「松上げ」の行事がとりおこなわれる。
京都市
石段を上がり、沢の横をさらに上がって行くと

着いたところには

玄関も雨戸も締め切られた建物が、造りはあまり古く無いようだが、他にはお寺らしい建物もないので、この建物が「高雲寺」なのだろう。
引き返しさらに車で進むと、我が街にもある同じ名前の神社が見えてきた。

「淡島神社」と思っていたら、「厳島神社」でした(=_=)失礼しましたm(__)m
それでは由緒書きを

厳島神社
平安時代中期に編纂された律令の施行細則で『延期式』に「天津石門別稚姫神社」と記載される神社と考えられる。
この地周辺の雲ヶ畑中畑町・中津川町は、平安時代からの集落で、平安京造営の際に用材を伐り出した地域でもあるとも言われ、当社は産土神として信仰されてきた。
祭神の天津石門別稚姫が出現したという石門岩が本社後ろの山麓にあり、約5メートルの二つの巨岩が15メートル程離れてそびえ立っている。
祭神天津石門別稚姫が女神のため、弁財天(知恵や音楽を司る女神)信仰が生じ、明治以降は石門別弁財天、雲ヶ畑弁財天と称したが、明示の初め廃仏毀釈の際、弁財天のままでは廃止されるため厳島神社と改称した。
境内には、中畑町・中津川町の各所にあった宮が集められ、小宮として祀られている。
平成21年3月 京都市
と言うものであった。時代の流れに翻弄されてきた神社であった。
本殿の後ろにある、石門岩が二つ

黒丸の中に、見出しに写っている仏像が置かれていた所で、神社なのに仏像とは?
「厳島神社」を後に、前回立ち寄った「ぜーもんカフェー」を横目で見ながら(この日も車1台が止まっていた)その先の脇道へ向きを変えて

「持越し峠」へと雲ヶ畑を後にした。

おせいじにもいい道とは言えない1車線の峠道を

対向車が来ない事を祈りながら、時折ライダーやロードバイクツーリーング御一行様との擦れ違いは在ったが、無事車には出会わず峠近くの見晴らしの開けたところに到着した。

下は雲ヶ畑集落。この「持越し峠」の名称がチョイト気になったので、ウィキペディアで調べたら
「雲ケ畑は鴨川の上流に位置するため、ここで鴨川に流したものは良いものも悪いものも、全て京都御所のある京に流れ込む。そのため、同集落で死人が出た場合、この峠を遺体を持ち越えて、隣の真弓集落で葬儀をしたという習慣があった。」
・・・と書いてあった。ところで先日「ウィキペディア」から寄付の要請のメールが入って来ていた。いつもお世話になっていると思い、数年前に寄付をしてからとゆうもの毎年メールが来るようになり、かれこれ5回以上寄付を続けている。・・・しかし無理をしない程度だが
元に戻して
峠を越えて降りて来た「真弓八幡町」の道に出て来た。

この道を左に入りさらに、周山街道(モミジの高雄へ行く道)へ出て行く道に入り、さらに下って行くと

標識に「左・京都西陣 右高雄」が出て来た。この左の道が京見峠へ行く道である。
その標識の通り左へ入って行き、水がきれいな谷川の横を走って

途中

(杉谷もみじ 名所1km)と書いた手作り標識があり、気になったのでオフロードを上って行ったが「それらしき物は見当たらず」元に戻り、さらに奥に走って行くと目的の「道風神社(どうふう)」の鳥居が

由緒ある神社らしく、京都市の由緒書きが橋のたもとに

参る前に読んでからと
道風神社
小野道風を祭神(894~966)とする神社で、道風武大明神ともいい、延喜20年(平安時代中期920年)の創建とされる。
書道の歴史は古いが、道風公は書道の巨擘(きょはく)、能筆家でことに草書は堪能であった。藤原佐理(すけまさ)、藤原行成とともに、平安中期の三蹟の一人として勇名である。村上、朱雀両天皇の大嘗会に悠紀主基屏風の色紙形を清書したのをはじめ、願文や門額の揮毫など、当代随一の能書として目覚ましい活躍を遂げた。
豊麗で柔軟な筆法は、「源氏物語」の「絵合」に「今めかしう」と評されるように、独自の新様式を加味したものであった。後続の佐理、行成を経て完成された、いわゆる和様の書の基礎を築いた功績は大きい。
道風公が杉坂、産土神和香社から湧き出る霊水で墨を磨って書の修業をし栄達した。その縁により氏神に斎い祀られた。
遺品には、唐鏡・硯・唐筆・硯屏・卦算(文鎮)等があり、社宝とされている。
また、境内には、禁中御修法(みしほう)(天皇家の作法や日常生活における習い事)用に献上された和香水と呼ばれる名水がある。
京都市
「道風神社」の由緒書きを読んで、赤い橋を渡り鳥居をくぐり境内へ

入って参道の中ぐらいに「積翠池」が

水が湧いてる所を確認して、本殿へ参拝する事に

あまり大きくない鎮守の森の参道を上って本殿へ

有名な歴史ある神社にしては少々見劣りする神社だったが、その左後ろに

石碑が立っていた。その横に

和香水碑文 解釈
杉坂の峰より霊泉が湧き出した。これこそ、神がここに臨まれてその高い徳をほどこされたのである。これによって、ひでりをおさえ、そこで泉のうねりをうねうねと、いつまでもうねらせて千年の後にまで及んでも、その恩沢はながながと続いている。
諸侯がこの水をくんで、うやうやしく、又ほしいままにしているか、いくらくんでもつきることがなく、万億年さらにその十倍の年までもつきることがないだろう。
と書いてあるのだが、碑文の石碑の横のそれらしき和香水はこの通り

今や万億年経たずに・・・・・空井戸となっていた。そのためか碑文の前に

蛇口から水が出しっぱなしになっていたが、「水は切らないでください」と何処からかパイプで送られてきていた。どうも敷地内からの水ではなさそうなので、「積翠池」に引き帰し

この水を汲んで硯の水に用いると書道が上達すると言われている(小野道風も用いられた)

右の奥の石組みの辺りから

湧いているのだが、池の水深が浅く片手鍋で掬う事ができず、結局水の出口で汲む事に、これでは雑菌も多く飲む気がしなく、ペットボトル1本でやめておいた。まぁ湧水を推薦できる場所でもないのでイイとする事で道風神社を後にした。
上の方でけたたましい音がするので。上を向くと

ヘリコプターが
独断と偏見の水評価は
軟水で普通の水でしたが、池を見るともみたいと思える水ではありませんでした。
(^_^)v (^_^)v (^_^)v
詳しい場所
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