NO250:若狭姫神社の霊水「桂の井」

で、前回の続きで水の流れを追って行きます。

更に集落から流れて

はずれに到着

ここから地下水路へと。
その前に、ココの集落には

鐘楼が集落の入口にあったのです。見ていると、お婆さんが散歩にやってきて「どうであるのか知らないけど、除夜の鐘をお寺ではなくここに着きに来ている」と説明してくれました。
銅造梵鐘と書いてあり、
小浜しの文化財
遠敷の若狭彦神社上社の手前、約200mのところ、道端の鐘楼に梵鐘がある。竜前区が管理しており、集会の時に撞く位のものである。
江戸時代初期、音無川の岸にあった。
上廻り 160cm
下廻り 220cm
高さ 105cm
直径 外 71cm 内 57cm
竜頭高さ 20cm
竜頭幅 20cm
竜頭から下まで 125cm
撞坐廻り 225㎝
の大きさの銅鐘である。
銘は「若狭国鎮守一宮 暦應亖年辛巳九月廿三日丁酉大願主法眼和和尚位圓海」と刻まれている。若狭一の宮(若狭彦神社)に奉納されてあったものを、明治の神仏分離の際、神域から運び出し、以来竜前区が管理するところとなって現在に至ったものである。
なお年号は「暦應亖年」と刻まれている。辛巳は暦應4年(1341-南北朝時代)に当る。亖年と書いて4年と読ませることは外にもあり、その一例としてまことにおもしろい。

さて引き続き「御神水」の流れを追手行く事に、水門の様な所からは地下水路となり

県立若狭東校、辺りでまた顔を出し

一部が若狭姫神社周辺へ

集落の水と若狭彦神社の「御尽瘁」が合流

して、若狭姫神社の前を流れてきたのでした。

若狭姫神社の

参道、彦神社より短いと思ったら

本来は、家並みの中に埋もれている鳥居が100m程先に、近代化により、おそらく境内の一部を道の拡張に提供された事の様である・・・・・・と吾輩は解釈したのでありました。
境内に入る前に若狭姫神社のイワレを

由緒記
名称:若狭国一宮
若狭彦神社下社
又は、若狭姫神社、遠敷神社とも称し上社を併せて若狭彦神社とも上下宮ともたたえる。
延喜式名大社
祭神:若狭姫大神
竜宮伝説で名高い豊玉姫命を若狭姫大神とたたえて奉祀する
所在地:福井県若狭国遠敷郡遠敷村遠敷
昭和26年町村合併より小浜市遠敷となる
創建:奈良時代養老5年○酉2月10日
昭和58年より1262年前
祭日:下社 3月十日
上社10月十日
その下にいい言葉が
安全運転の誓い
:自動車は、車体やタイヤの原材料である鉱物、植物、加えてガソリンという天地自然の恩恵、人間の尊い勤労とにより生みだされた「神霊の宿る生きもの」なのです
車を買ったら、浄めのお祓いを受けて、若狭路を走りましょう
との事、私事で申し訳ありませんが、先日車を購入「天橋立・籠神社」でお祓いを受けてきました。
吾輩は神は信じていませんが、「自分の中に宿」と思っていまして、自分の心に言い聞かせているのでございます。
交通安全で運転するようにと・・・・・違反もして、今までに結構納税もしていますが・・・・(~_~;)

日本全国パワースポット
若狭の旅 入口はこちら
①二宮、下社姫社(当社)
②一宮、上社彦社(南1,5km)
を横に見ながら石橋を渡り境内に
左に、手水舎

右にも、手水や

右のは現在使われておらず、左の方が今の手水屋です。
前回手水舎に近づいていくと、若狭姫神社の神職さんらしき方が、今ではこの水が霊水「桂の井」とされているが、以前の井戸は境内の奥に在るとの事、水が絶えたのか、ココの水は近」12mボーリングをして汲み上げているという、その方が言われるのに、その12mほど地下には河の様な水脈が流れているとの事。水は帰りに頂く事にして、まずは神殿へ

神門ですが、その手前の左には

誰かが奉納した千石船の模型が展示してありました。

弁才型模型(海幸丸) 江戸時代 若狭彦神社(小浜市)
若狭の奉納船の中では、最も古い江戸時代後期の製作と思われ、船全体の反りの少ない優美な船形です。
装飾は、菱垣廻船を思わせますが、押回し垣立を造ることから奉納のための舟と考えられます。縮尺は、十分の一と思われ、寸法から、1,000石積級の舟と推定できます。同社は海幸山幸伝説で名高く、奉納の目的も海上安全祈願と考えられます。
そして、神門の入口には

北陸道七か国(若狭→佐渡)の
第一番 若狭の国の総鎮守
若狭彦・若狭姫の夫婦神が開かれた
海山清き若狭湾 何時(しか)世界一の原発銀座十五基(二基増設中)
四海平安
祈
安全運手
官人(つかさひと) 事業関係者 御神前へ
と、意味深な書き物
神門を潜ると右の壁に

上の額:遠敷神社(姫神社の一般的な呼び方)
若狭彦神社は若狭彦神社(上社)と若狭姫神社(下社)の二社に分かれていますが当神社は下社にして上社より六年の後奈良時代の養老五年(721)年鎮座であります。
海幸山幸の神話で有名な豊玉姫命を若狭姫神とたたえておまつりしてありますので若狭姫神社とも又遠敷の地に鎮座ましますので遠敷神社とも申します。
奈良東大寺二月堂のお水取りで名高い遠敷明神は即ち当神社の事であります。
ここより南方1500mの龍前の里にある上社と共に上下宮とも若狭一宮とも総称しますが平安時代の延喜式にも明神大社として記載され赫々(かくかく)たる御神威は遍く(あまねく)光被じて厚く尊崇された若狭の国第一の大社であります。
なお両社では従来一般の御祈祷(家内安全、厄除け生業繁栄、初詣交通安全その他諸諸の祈願)や神符守礼の授与その他社務一切をこの下社において執行しておりますのでご用のあります方はお申し出て下さい。
当世では、街中にある下社の方が繁栄している様で、こちらに神主さんが住まわれ上社も見ておられるようです。

本殿の全景、その左にそびえる杉の木は

御神木・千年杉
瑞垣内の大樹は、若狭の国に若い息吹をこめる神、若狭一宮の神と称えられ、千古厳然と聳えるれいぼくである。
水配りの御神徳をいただき、年々豊かに新緑の加わる様は実に神木の名にふさわしく、古来、不老長寿の象徴として篤く信仰される所似である。
朝廷より 神馬献上の社
絵馬の歴史を振り返るとき、古代において馬は、神の走りものとして神聖視され、とって神霊を和らげまつり、祈願のために神馬の献上が行われた。
「続日本記によれば、宝亀元年(今より一千二百年十余年前)八月庚寅朔日、蝕ありし時、勅使を使わされて、伊勢大神宮(伊勢神宮)に赤毛馬を、若狭彦神(若狭一宮)鹿毛馬を奉るとあり。
日蝕に対する呪術的儀礼として、太陽の衰弱を回復させるための献上であり、鹿毛の馬は赤毛(赤毛が火の色と関連する)に準じたものといわれ、世に名高い記事である。
こちらが千年杉です。

本殿の敷地内の塀で根元が見れないのが残念ですが、立派な杉です。
まずは参拝を済まし、境内を一巡してみると

立札に御神水と書かれてある。御神水は手水舎の水と神職さんらしき方が言われていたのだが(?_?)
近寄って観ると

水は出ておらず、立札には

名水とは風土なり
鎮守の森が、神霊の籠る場所に相応しい水源地に多く祭られているのは、生命の源の水を神々が司られ、人々がその水を農耕、飲用物として恵んでいただくという姿を示すものといわれている。
当神社の境内には、今でも絶え間なく大気を浄化し地中深く伏流水を蓄えて、地上を潤し続けている。
この井戸は夏のひと時を除いて、水量豊かなるが故、深さ三メートル余の浅井戸である。ポンプのバルブをひねると、一分間に18リットル、つまり一升瓶にして十本、一時間当たり六百本、一日では一万四千四百本の水を汲みだせますが、実際はその十数倍が可能であり、その折、井戸の下部の側壁の穴より清冽な水が激しく流入する様は、正に神井と呼ぶのに相応しいものである。
神社の祭典には、この水を神饌に用いて神前にたてまつっていることは勿論、神聖な力を備えた霊水として崇拝され、病気平癒、茶道、書道上達などの神徳を人々に授けている。
又、若水とは元旦の早朝に奉献せし御神水にして この井の水は古来若狭の若返りの水としてその名高く、これを拝載すれば邪気を払いて清朗快活延命長寿を保つと伝えられている。
と書いてあるが、この立札と井戸を見つけたのは二回目で、水か初めて来たときに汲んでいたので汲まずに終わってしまった。
でも、これだけの水量が出るのであれば、手水舎の水を掘らなくても済むのに・・・・・・と、(?_?)を思ったものである。
井戸の側には

水の国 若狭総鎮守
遠敷(おにゅう)大明神 霊水(桂の井)
二月堂記に出て来る当神社は、東大寺修二会の中のお水取り(若狭井)を約し、それ故、堂の右裏手には古来、遠敷社が奉祀してある
との事、確認せず
で、「桂の井」の出所は

桂 カツラ科の落葉高木
海幸彦に借りた釣り針を海中に失い途方にくれていた山幸彦の彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)(上社祭神)が、塩椎神(しほづちのかみ)の教えにより海の宮殿に行き、門の所の井戸の傍の桂の木に登っていました。井戸には影が映っていました。海神(わたづかみ)の姫、龍宮の乙姫さまの豊玉姫命(当下社祭神)との出会いの始めと海幸山幸神話は伝えている。
この木は、当神社に相応しい霊木であります。
とこの様に、神社の由緒が立札に書いてあり、他にも多くの札が立っています。関心のある方は「若狭姫神社」まで参拝してください。吾輩の案内はこれまでといたします。
本殿から神門(楼門)を

そして、一回目に来た時はお水を手水舎で頂き帰り際鳥居の所には

見返り鳥居:この鳥居の下で、後方の楼門の屋根高く聳えています
千年杉を
今一度、仰ぎ見られますとと共に、若狭の国鎮守下社
若狭姫の神とたたえます
竜宮の乙姫さま 豊玉姫命に、お別れいただきます。
独断と偏見の「桂の井」の評価は
場所が違っていた(吾輩の気持ちの中ではパイプで繋がれている)ため、真の見定めはアヤフヤですが(元々あやふやかも)
硬質よりの美味しい水でした。
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v
詳しい場所は(地図上の若狭彦は誤りで、若狭姫です)
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