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NO246:城崎温泉・極楽寺の「独鈷水」

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今回相方さんの誕生日に「カニのフルコース」を食べたいと言い張られ、一番安いところをサイトで探していたら、な、ナント城崎温泉街の中の「川口屋本館」という旅館がヒットした。金額はナ イ ショだが、ふつうの旅館では、日帰りでも時間制限の一部屋貸切と言うパターンとなるが、この川口屋では日帰用個室が作ってあり、その分賄さんも掛け持ちでできる事なのか安い(といっても懐石料理波の値段)値がついていた。で、城崎温泉には何回か水を汲みに行っていたが、探せばあるもので、温泉街のはずれにある極楽寺と言うお寺の裏の岩間から湧き出ている水が有るという。ついでと言うか、カニのフルコース→名水汲み→おなじみの城崎温泉外湯→帰宅の一日コースで出発した。
   城崎、極楽寺、独鈷水 004-1w
予定通り12時正午に到着
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城崎温泉のシンボルの柳の川べりに立つ「川口屋本館」早速食事処へ案内され
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このカーテンで仕切られた個室となっていました。(トイレに行った帰りに間違えて、若いカップルの部屋のカーテンを捲くった事はナイショにしておこう(^_^;))
中は掘りごたつ風のテーブルになっており、一部屋2~4人が適当な広さで、写真の通り中央に炭をイコシタコンロが在ります。
ネットで予約をした方には、温泉卵の元「普通の生卵」のサービス付でした。
部屋に入るなり、とりあえず「温泉卵を作って来る」と
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写真を写してきてくれと、撮ってくれたのがこれです。篭に名前を書いた卵を載せて、温泉の中に入れます
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半熟15分~ゆで卵20分だそうで、その間に食事をしています。
まずは、「カニ刺し」
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値段が値段ですので、今はやりの「タグ付き」ではないので、少々小ぶり(-_-)・・・が、トロットとろけるように喉の奥に甘みの余韻を残して通り過ぎて行った。見ればわかる数も少ないので、味わうほど余裕はない。
次に、「焼ガニ」
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焼ガニはやはり足、小皿に盛ってある甲羅のカニ味噌に、とり出した身を付けて食べたりして満足!満足!・・・するには少々すくなかったかな。(・・?
ここで温泉卵を取りに
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半熟の予定が「ゆで卵」、それを食べながら、ステーキの炭火焼き(^_^)v
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これは予定の中になかったものでビックリ、コースメニューの中に、オプションとして『一皿5千円の和牛ステーキ、もちろん但馬牛(神戸牛)と一皿5千円のお魚の御作り盛り合わせ』が書いてあったのだが、おそらくお腹がパンクするのではと×としていたのです。ところがステーキが(チョイト小ぶりだが)着いて出てきたのには感激(*^_^*)あとで、お肉もあのぐらいで丁度だったね・・・と満足。
そして「カニ鋤」は、カセットコンロで
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カニ鋤は、カニの身をホゼクリ採り出すのが手まで、これに集中すると会話もなくなり黙々と、それだけで腹がいっぱいになります(^o^)/
最後にカニ雑炊
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食材をみんな平らげ腹は満腹(^_^)vしかし最後の雑炊も食べます(^_^)v・・・と言ってもお椀半分ぐらいの量を2人分、食べていると相方さん「便所へ直行」・・・どうも普段食べない物を食べてお腹がビックリした模様・・・・・・と言うか、どうも食べ始めに冷えたノンアルコールビールを飲んだのがたたった様子(~_~;)以後帰宅するまでに2回は便所のお世話になっていたという事はナイショにしておこう。(=_=)
で、旅館は3時までなら館内浴場が使えたのだが、我らは外湯派ですのでチックアウトで2時になっていた。
それから極楽寺へ「独鈷水」をいただきに行ったのだが、その前に7月頃ロープウェイに乗って来た写真が有るので紹介
城崎温泉街のドン着きには大師山がそびえており、その頂上には「温泉寺奥の院」が在る。そこへは参道を歩いて登るか、ロープウェイで気楽に上ってお参りするか二通りある。我らは、往路はロープウェイで上り、復路は参道を下って来るという事で
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遠くに見えるのは、中間駅である温泉寺駅です。
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温泉寺駅の風景・・・・・・温泉寺(道智上人により創建された高野山真言宗の別格本山。天平九年に河辺へ漂着した十一面観音像(国重要文化財)を安置して開かれ、翌年には聖武天皇の勅願寺に。)
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こちらが本堂デス(縦行五間、一重、入母屋造、銅板茸。但馬では最も古い仏殿である。建立年代は至徳4年(1387年)と言われている。 特徴は、「和様」「天竺様」「唐様」の折衷様式であり、特に天竺様式の色彩が濃厚である。
慶長6年(1601年)と正徳3年(1712年)に修理を受けているが、昭和43年?45年の解体処理によってすべて創建当時の様式に復元された)
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そして多宝塔
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そして頂上からのロープウェイ
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その頂上にそびえ立つ金ぴかの字母観音像デ~ス
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他に「温泉寺奥の院」もありましたが、御参りの方の関係で写真を撮る事できず、その他詳しい事はロープウェイのHPで調べて下さいネ
ソコから温泉寺を経て薬師堂までテクテクと
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この道は温泉寺から下山するときの者で、温泉寺までの下山道は山道その物、観光用の履き物ではチョイト辛いかも(*_*;
と言う事で、大師山の紹介を終えて、極楽寺へと水汲みに
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城崎温泉街の突き当りに
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橋が有ります。この橋を渡り左の路地を進むと
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大弁財天が祀ってある池が見えます。その奥に
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極楽禅寺の石柱があり、山門が出迎えてくれます
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山門の柱に、消えかかった当寺の由緒の書いた札が掛けてあった。
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万年山 極楽禅寺
 当寺は、京都市紫野臨済宗大本山大徳派に属し、應永年間(15世紀初頭)に金山明昶禅師により創建。その後、寛永年間(17世紀初頭)に沢庵宗彭禅師により中興されている。
 本尊には阿弥陀如来(鎌倉時代末期の作)を、祠堂には聖観世音菩薩(平安時代の末期の作)を祀る。
 山門は元禄年間の建立で町指定文化財である。平成3年大修繕を行い楼上には観音像を安置す。本堂は大正10年の再建で、襖の全面には加藤美代三画伯により水墨画 四季の図が描かれている。
 門前の放生池中に祠る当山鎮守 大弁才天は一人一芸 必ず成就するとの篤信あり また境内の庚申堂には剣豪岩見重太郎が天の橋立に行く途中一夜の宿をしたと伝え、古来より熱病封じの霊験あらたかであるとされている。
 境内は「静官閑庭」と称し、鞍馬の赤石、白川の白砂また吉野の青石を配した枯山水の石庭である。当温泉開祖道智上人修法の霊泉「独鈷水」が裏山山麓より湧出し石庭全体を潤している。静かに禅の無言の説法をお聞きください。     
ここにも書いてあるとおり、情報元も、お寺の後ろのお墓の道を行きあたったところの岩の間から水は湧き出ているとの事だったのでお寺の後ろへ行って見る事に、山門の前に
  城崎、極楽寺、独鈷水 022-1g
上の方から水が流れている石庭があり、その前の路地を入って行くように
   城崎、極楽寺、独鈷水 020-1h
お寺の後ろは
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墓地、この墓地を通り過ぎて山肌の岩の隙間から「独鈷水」が湧出ているはずが
   城崎、極楽寺、独鈷水 017-1k
お墓の中を通って着いたところは砂防ダム((+_+))辺りを見回しても岩から水が・・・という所は見当たらない(・・?
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さては砂防ダムにかくれて筒から出て来ているのがそれかも(?_?)・・・と思いながら、境内に「独鈷水」が引いてあると情報には出ているので引き返して山門をくぐると
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立派な石庭・・・・枯山水石庭「清閑庭」というらしい。その山門を入った石庭の端に在る「蹲(つくばい)」に出ていた。
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つくばい(蹲踞、蹲)とは日本庭園の添景物の一つで露地(茶庭)に設置される。茶室に 入る前に、手を清めるために置かれた背の低い手水鉢に役石をおいて趣を加えたもの。 手水で手を洗うとき「つくばう(しゃがむ)」ことからその名がある。 もともと茶道の習わし で、客人が這いつくばるように身を低くして、手を清めたのが始まりである。茶事を行う ための茶室という特別な空間に向かうための結界としても作用する。 『ウィキペディア から』
吾輩は境内を写しに、相方さんは水汲みに・・・
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この「独鈷水の昔話」が城崎観光協会のHPに載っていたので了解の元 
極楽寺の裏の墓地を通り過ぎると、涼しい岩かげから清水が湧き出ています。この清水を城崎の人は昔から「独鈷水」といっています。

独鈷とは、仏さまが手にしていらっしゃる金属製の仏具であって、きわめて大切なものです。なぜ、この清水を「独鈷水」というのでしょうか?

今から約1400年前、道智(どうち)上人様が奈良の都からこの地にやってこられました。「何とかして悪い病気で苦しんでいる人々を救いたい。そのために名湯を発見したい。」と祈願されましたところ、夢の中に白髪の老人が現れて、「上人よ、汝の求める温泉は、ここから西南にあるビランの木の下を掘るがよい」といわれ、姿を消されました。

上人はそのお告げを信じて、今のまんだら湯の場所に庵をむすび、八曼陀羅経(はちまんだらきょう)というありがたいお経をあげながら、一千日という永い年月温泉湧出を祈られました。満願の日、とうとう求める霊泉が得られました。これが、城崎温泉の浴槽を設けた初めであるといいます。

道智上人が、温泉湧出を祈って「行」を続けておられる時、お手にされている「独鈷」で、岩壁をつついて得られた清水なので、「独鈷水」といい、上人は庵で常々仏前にお供えになるお水にご使用になったのだそうです。

この「独鈷水」は真夏の日照り続きでも絶対にたえることなく、こんこんと湧き出る冷たい美しい水なので、昔の人々は「あぁ、独鈷水がいっぱい飲みたい」と病人が言い出したら死期が近いのだといい伝えていました。この水は山門をくぐった蹲い(つくばい)にひかれています。
そして、境内を写して回っていると
   城崎、極楽寺、独鈷水 038-1b
山門の由緒書きにも書いてあった「岩見重太郎」伝記が(@_@;)こんな所で出会うとはヽ(^。^)ノ
と言うのも、吾輩が幼いころ海水浴に、近場のビーチと言えば天橋立でした。天橋立は小天橋(しょうてんきょう)と大天橋(だいてんきょう)に分かれています。その大天橋の回転橋から300mほどの所にお茶屋が在ります。その横に岩見重太郎が切ったという御影石(花崗岩)の石柱が置いて有ったのです。幼いころにはスゴイ剣豪がこの場所で果し合いをしたという程度しかわかりませんでした。幼いながらにこんな石柱を切るなんてスゴイ程度でした。それがこの場所でその名前を認識するとは!!
天橋立観光協会「岩見重太郎仇討の場」
庚申堂:昔、剣豪岩見重太郎が天の橋立に行く途中一夜の宿をしたと云う。
おまじないの糸は、熱病、足腰、の病封じに、誠霊験あらたかなり。男は左足首、女は右足首にむすぶ。
薄田兼相(すすきだ・かねすけ)=?岩見重太郎
その後、城崎温泉の外湯、鴻の湯へ行くのであった。

2017年お水探しの旅はこれで終わりデス(^o^)/ みなさん2018年が良い御年になりますように(*^_^*)

極楽寺の「独鈷水」の水評価は
あくまでもコーヒーにして飲んだ評価です、程よい硬質でこの近辺では稀に見る味でした。・・・・・が、城崎温泉観光協会に問い合わせた返事には『独鈷水についてですが、現在は飲料としてはお飲みいただくことは出来ませんので、よろしくお願いいたします。』
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v
詳しい場所デス
       2018年はこの先から
17,3,12明石市、 33


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NO245:多賀大社御神杉の近く「杉坂の清水」(仮)

   河内洞窟 616-3f
橋を渡り
   河内洞窟 366-3u
またも当てのない林道を進んで行きます。
   河内洞窟 436-3l
車一台、対向車が来たらどうするべ~と思いながら上って行くと
河内洞窟 450-3l
先日登った霊仙山の山が・・・・この斜面を上って行ったんだな~と感慨ひとしお(*^^)v
さらに上って行くとスギ林に入って行った。
   河内洞窟 459-3l
道も整備されていなく不安が募って来たが・・・・・・
   河内洞窟 462-3z
スギ林を過ぎると視界が広がり人家が数件、もう少し走ると
  河内洞窟 471-3x
出昭山・照西寺 というお寺の鐘楼がどっかりと、しかし、どうも様子が変だ、人の気配がしないのである。でもこちらには桜の苗木が植林してある
   河内洞窟 478-3c
集落のはずれに「地域パトロール(うろ覚えのため違うかも)」と書かれた数台の軽トラが、尋ねてみると、ここは多賀町大字保月(ほうづき)という村らしく現在は廃村になっているとの事、保月を抜けて又もスギ林に入るところに
   河内洞窟 487-3b
「鍋尻山登山道」と書かれた標識が、後程調べてみれば高くはないが「琵琶湖一望、後景の雄大な山々が見渡せる」名山と言われているそうです。
お天道様も大分傾いて来ているので先を急ぐことに、それにしても「クマ出没注意」の看板をいたるところで見たが、どうも加賀町内で襲われた人があったそうだ。まぁ車に乗っておれば大丈夫だと気にもしなかったが(^_^;)
で、そろそろ多賀大社の御神杉に出会えるかもと思いながら走っていると
   河内洞窟 501-3n
大木とその下に在る祠の雰囲気から、これが例の「多賀大社の御神木」か(@_@;)
正面に回ると
   河内洞窟 491-4q
立派なスギの木である。それも三本も!そしてそれに囲まれるように祠が鎮座している。神を信じない者でもこの雰囲気に出逢うと霊気を感じ圧倒される事違いナシ(@_@;)
吾輩はどうも裏口から登って来たようで、文脈的に前後するが、ここから降りて行く事?kmには
   河内洞窟 542-4e
何時たてられたのか知らないが、「多賀神木」石碑、昔はここからが神木の参道になっていたの様で
   河内洞窟 548-4t
スギ林の中に一路の道らしきものが続いていた。その横には
   河内洞窟 545-4r
杉坂の御神木
昔、伊弉諾(いざなぎ)の神様がこの地に降り立ち、この峠を下って芹川の上流、栗栖の里に鎮まられました。
道中、村人に柏の葉に盛られた栗飯をだされ、たいそう喜んで召し上がられたそうです。
その時に地面にさされたお箸がやがて芽を吹き、現在の御神木になったといわれています。

と、思っていたが、この杉は「地蔵杉」と言うものらしく「多賀神木」はこちらが正しいのです(巨樹・巨木巡礼ブログから)
しっつれいしましたm(__)m   
という訳で、その時は「多賀大社の御神木」を見つけたとルンルン気分で後にしたのであった。『多賀大社の御神木は石碑の横にある説明書きの奥の方に在るらしい』
  河内洞窟 509-4t
杉木立の中をのびる道を走って、谷の山肌を縫う道に出て走っていると
  河内洞窟 515-4y
山肌にプチ滝が見えた。そこで、車を止めて観てみると、道路から滝の縁に板が渡してありその上に片手鍋が置いてあり滝の水を汲めるようにと・・・おそらくそうであると解釈した。しかし、その鍋は最近使用したことがないのかミズゴケの様なものがこびりついていた。しかし吾輩は『水評論家?』そんなことはお構いナシ。滝の上部の山肌を眺めてみた。
   河内洞窟 519-4u
これだけの水量が出て来るとなると、結構な谷合になっていなくてはならない、見るからに谷の様なV字形の山肌にはなっておらず、山の斜面がそそり立っている様子、右端に岩の溝みたいのが見えるが、斜面の何処からか水が湧き出して流れて来ているに違いないと、湧き水だと確信(^_^)v汲んで帰る事にした。
   河内洞窟 523-4i
腐ったような板を伝いながら持参した片手鍋にて水を汲んでいると、後ろから先ほどのパトロールと書いた軽トラが迫って来た。車一台道を占領していたもので、あわてて汲み終えて車を移動、くれども追い越してもらう道幅は無く、結局廃村跡の雰囲気漂う所で
    河内洞窟 533-4i
先に行ってもらった。が、距離にしてだいぶ降りて来たのでそのまま下山する事にして車を進めた。その後、多賀神木と書いた石碑の前を通り下って行った。
   河内洞窟 553-4o
急斜面の山肌を縫うように作られた道を日田すら下り部分的には
    河内洞窟 557-4p
斜面の上は今にも落ちそうな岩がはべり付き、谷側は路肩が今にも崩れそうな場所を何ヶ所か
   河内洞窟 560-4a
九十九折れの部屋ピンカーブも何ヶ所か、気分にして30分ほど走って下って来た頃、ようやく
    河内洞窟 563-4s
麓の集落にたどり着いた。ここは人様が住んでいる雰囲気(*^_^*)         
そう、ここは多賀大社の奥宮「調宮神社」が鎮座する栗栖
   河内洞窟 567-4s
調宮神社の由緒
   河内洞窟 572-4d
祭神: 伊邪那岐命(イザナギ)・伊邪那美命(イザナミ)
祭日:春祭三月三日  秋祭九月十五日
由緒:神代の昔 伊邪那岐大神は杉坂山にご降臨なされ 次いでこの栗栖の里にて暫くお休みになられたことが當社の創輝とされる のち多賀の宮にお鎮まりになった大神は毎年四月の多賀大社古例大祭に先ず當神社へ渡御されて神輿鳳輦に境内の富の木を飾り打籠を圣て大社に還幸される これはご鎮座の昔を再現する神事といわれる なお11月15日の大宮祭にも大社より神幸がある
   多賀大社宮司  櫻井勝之進謹誌  
本殿です
   河内洞窟 575-4d
時も遅くなったので、早々と引き揚げ橋を渡り多賀大社へと急いだ。帰りがけの夕日が余りにもきれいだったので
   河内洞窟 590-4g
なお伊邪那岐命(イザナギ) 古事記では日本を作った神と言われている。詳しくはウイキペディアを読んで下さい。  が、多賀大社の由緒には疑問が投げかけられており、古事記では「伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)」 がある淡路島に降臨されたと言われる説が正しいようです。(吾輩は神話にウトイもので(?_?))
綺麗な夕日を見ながら多賀大社へ、到着したころには辺りが薄暗くなっていました。
   河内洞窟 593-4h
通りを曲がれば大きな鳥居が目に入った。鳥居をくぐって多賀大社の駐車場(境内)へ・・・それからココの通りまで戻り、正式に正面から参拝
   河内洞窟 601-4j
ここが正式な鳥居カナ(・・? くぐると大きな太鼓橋、なんでも豊臣秀吉が寄進したという「太閤橋」
  河内洞窟 602-4k
結構高い橋で、偶然カップルが渡っていた所をパチリ
   河内洞窟 607-4m
彼女は降りるのが怖くて「おしり」ですべって下りていて、彼氏がやさしく手を差し伸べていました。
でも、鳥居をくぐると正面に架かる橋、見ると圧倒されて「おそれおおくも」渡れなく、大方の人達はその両サイドに在る橋を渡って入って行かれるようで、吾輩も人並みにそちらの橋を渡って行きました。境内に入って行く御神門の手前に
    河内洞窟 605-4k
多賀大社の概略
ご祭神: 伊邪那岐大神(イザナギ)・伊邪那美大神(イザナミ)
 男女二柱の大神は、はじめて夫婦の道をおこされ、わが国土と万物の神々と、その主宰神として天照大神をお生みになられましたので昔から、わが日本国の祖神(おやがみ)さまと仰がれ、奈良時代の初めにできた「古事記」には、すでに淡海の加賀にご鎮座という記事が見えています。
 そこで、早くより朝野の尊崇あつく、延命長寿、縁結び、厄除けの霊神と仰がれ、元生天皇や俊乗坊重源、太閤秀吉の母大政所の延命祈願、武田晴信(森厳)の厄除け祈願など数々のご社伝が伝えられています。
 四月二十二日の多賀まつり(古例大祭)騎馬40頭に及ぶご神幸は天下に名高く、他にも節分祭、お田植祭り、万灯祭、九月古例祭、七五三なども大変なにぎわいを見せます。
 室町時代以来の由緒を持つ全国各地の多賀講はあまりにも有名ですが、更に近年は崇敬会に加入して神縁を結ばれる人々も増加しています。
 ご本社の左奥に在る参集殿では、これらの人々のお食事や、あるいは結婚式の披露宴なども行われています。
 また、春の枝垂れ桜、秋の紅葉、国の名勝である奥書院庭園も見事で、年間を通じ厄百七十万人もの参拝者を数えております。
御神門を入ると境内には、秋にふさわしい
   河内洞窟 611-4z
菊花展、その前には「杓子」がぶら下げてある
   河内洞窟 609-4l
いわれは、元正天皇の病に際し、神主が強飯を炊き、しでの木で作った杓子を献上、天皇はたちまち治癒されたと伝え、そのしでの木が現存する飯盛木で、杓子は「お多賀杓子」として有名
杓子を、絵馬代わりに使われているようです。合格祈願等
そして立派な拝殿、写真ではお伝えする事ができませんので、参拝して確かめて下さいネ(^o^)/
   河内洞窟 612-4x
境内にはおかしなものも
  河内洞窟 613-4c
梵鐘が・・・ここは神社、しかしその昔『室町時代中期の明応3年(1494年)には、神仏習合が進み、当社には神宮寺として不動院(天台宗)が建立された。』この名残が残っているのでは?また築造に関して、室町幕府・佐々木六角氏や浅井氏らの奉賛によるものらしい。
時間も遅く、境内隈無く見て回る事ができず残念でしたが、境内を出ると到着した時と雰囲気ががらりと変わっていた。
   河内洞窟 615-4b
ブログを書きながら、神話のふる里、日本を作ったとされる伊弉諾の大神が祀られている、もう一方の神社淡路島に在るとされる『伊弉諾神宮』へ行ってみたくなったところで終わりにします。
「杉坂の清水」(仮)の独断と偏見の水評価は
今回廻った三ヶ所の中で一番美味しくコーヒーが飲めました。まろやかさと言い、コクと言いちょうどいいコーヒーが飲めました。しかしチョイト残念な事に2週間前後で水の質がおって来たようでした。もしや湧き出してから滝までの道程が長かったのではと考えています。
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_-)-☆
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