NO244:河合不動明王の湧水

河内風穴から戻ってきたが次なる湧水の出る所がこの場所の奥の方に在るという。情報元では、川の中の大岩の根元から湧き出ているというが、その場所は道からすると対岸になるらしい。また、一見(いちげん)さんでは判り辛いとの事であったので、河内風穴の入口に在る食堂「風緑(かざみどり)」で聞いてみる事にして入って行った。

店内に入ってみると外観の小屋風からは想像できないこじゃれた店内。

店内から見る癒しの空間

水のきれいな川だけでも・・・・そして吾輩は、入口に近いカウンターに陣取り、「お姉さ~ン、このお店の一推しの食べ物をお願い~」と、出て来た物は

みたらし団子ならず、みたらし蕎麦団子であった。
『 そばの香りのする手作りのあつあつだんごに、かつおのだしが良くきいた風緑オリジナルのだししょう油をたっぷりかけたそばだんごです。
トロトロに煮詰めただししょう油は蕎麦屋ならではの絶品に仕上がっております。
ぜひこの機会に絶景のロケーションと共に店内でお召し上がりください。』
食べながら、「河合不動明王の湧水の場所を尋ねてみると、ここから少し上がれば川沿いに右に入る道があり、その谷に入って行くと有りますが、よ~く見なければ素通りしてしまう所で、その谷から林道を登れば、多賀神社奥宮に出て来る」との事 、早速行って見る事に

林道の様な県道を走り、5分も走らない内に分かれ道に到着

小さな集落を通り

そして谷合に入って行きました。

まず一つ目の目標を、ブログの情報元が書かれていた砂防ダムにして走っているとそれらしき砂防ダムが見えてきた。

ココの砂防ダムの岩からも水が出ているらしいが、対岸で水深もあり汲むには大変との事だった

水はキレイに透き通っている深そうである

岩からは噴き出した水が岩に伝って流れているが対岸には行き難そうだ。さらに上流目指して走っていると第二の砂防ダムが、そこの水は

先程の砂防ダムの下流の水たまりより深いのかコバルトブルーの水の色である。吾輩はこのような水を見ていると、汚い心が一瞬にして美しい心になるのが判るほど癒されて好きである。
しかし、かわらを見ながら走って行くのだが

渓流もなくなり、大小さまざまな石灰岩の涸沢になって行った。おそらく水の流れは石ころの底を流れているのだろうが、時たま水たまりになって出てきたりする。

その内こんな所が出て来た

よく狭い谷合の事を、「物干し竿が渡せるぐらい」と例えるのだが、まさにこの地形はソノたとえがぴったり当てはまる谷である。

ここを通り過ぎて走っていると河原の中に

鳥居が立っていた。そこには『河内 元行者窟』と標識が立っていた。
その20m程奥に軽トラが止まっていたので、オジサンに「不動明王の湧水』を尋ねてみると、「それはもっと下流だ」との事、はて?そんなとこは在ったかな(?_?)と言ってみると、教えてやるから付いてこい・・・と、ラッキー

そこは車二台分が置けるぐらいの譲り合いゾーンで、なぜか山ぎわには

お地蔵さんが祀ってあった。
それも最近花を祀られた様子の生き生きした切り花であった。近くに人家は無く誰かがお供えに来ているのだろう。何のいわれの有る地蔵さんか知らないが手を合して、水を汲みに(案外不動明王の石仏かも知れない?ゆっくり観察はしていなかった)

上流の道がカーブしている所らしく、ペットボトル2個と水汲み2点セットを持って出発。案内してくれた親父さんは、日が暮れるまでバードウオッチングするので・・・と言う事でどこかへ走り去って行かれた(^_^)/~

なるほど大きな岩がある。その根元?を見れば

岩の隙間から、湧き水としては結構な水量である。さらに上流の方は

まさに噴き出していると言う言葉がお似合いの水量である。オヤジさんが言っていたが、何処からともなく水を汲みに人々が来ているという。そのためか

川原に降り易くしてある(吾輩がそのように思っただけかも)そこを降りて、岩伝いに川面を飛び越え

汲み易い場所を探して

無事予定の湧水二ヶ所目をゲット(^_^)v
さてさて、次なるは多賀大社の奥宮に『多賀大社の御神木』が在るという。風緑で聞いた通り行けば、この林道を進んで行けば行けるハズ。それではと、さらに林道を奥に向かって車を走らせた。

川もなくなり、さらに奥へと

だんだんと高度を益して行きます。だいぶ奥へ入って来たところで

立派な石堂が出て来た。なんで~、周りを見渡すと

スギ林の間から、墓地が見えた。どうも廃村跡地の様だ。と先ほどの墓地の前には

林道が分れていたがそのまま直進する事にした。10分ほど走ると分かれ道が

直進と、左に大きく曲がり上へと続いています

まずは、左の林道を攻めていく事に
林道を上って行くと

材木の切り出しをしていた。めったに見ない光景だが、昔はキンマと言うものでしていたと聞いたが、最近は簡易モノレール式の設備でやっている様だ。この設備、ミカン畑だとか、紀伊半島の方の鍾乳洞に行くのに使っていたりと多様な使われ方をしている。当地方でも、大江山連邦の赤石岳でもパラグライダーの人を運ぶのに使っていたが最近は使用していないようだけど・・・(?_?)
更に奥地へ攻めていくと

林道時山多賀線開通記念 の石碑がぽつんと・・・その先は

通行止めのクサリ。これまで・・・と、引き下がろうと

クマ注意の立て立て看板の奥に、イワレの有るような看板が

五僧峠 保月へ3km 時山3,5km
五僧は、むかし美嚢の時山から5人の僧が移ってきてここに住みついたのでこの名前が生まれたという。この峠は古くから美嚢と近江を結ぶ交通の要地であった。
時村を経て牧田に通じるので江戸時代には牧田越えとも言われていた。
慶長五年(1600)関ヶ原の合戦に敗れた島津義弘の一行は小林新太郎の案内でひそかにここを通り高宮の河原で一泊翌朝早く甲賀をを経て堺浦に出て舟で薩摩に帰った。したがって、この峠を島津越えともいう。
慶長七年(1602)本願寺初代の教如上人がここを通られ五僧に寺がないのを嘆かれ49院の唯念寺の掛所とされ唯念寺道属の門徒とされた。
元禄12年(1700)五僧に大火あり、全戸焼失した。
明治二年(1869)桑名騒動の際には彦根藩兵は大砲を分解して八重練からかつぎ上げ、この地で桑名軍の来襲に備えたが、桑名藩が官軍に降伏したので事なくすんだ。
明治6年(1873)この地に岐阜県と滋賀県の県境がけっていされた。
昭和30年(1955)町村合併により脇ヶ畑村後僧は多賀町東限の地となった。
昭和58年9月 多賀町教育委員会
との事、昔は人の往来が多いかった様子が偲ばれます。京都の端から滋賀の端まで・・・何の因果か・・・
これ以上言っても目的地に行かないと判断し引き返し、先程の分かれ道を直進する事にした。

山を上ってカーブに差し掛かると対向からバイク2台が走ってきた、危うくぶつかりかけたが、相手の兄ちゃんうまく車を交わして土煙をたてて去って行った。さらに上って行くと

見晴らしの良い処に出たので一枚パチリ。それから間もなく

峠の頂きらしき所に着いたが、どうもここも岐阜県へ降りて行く気がして引き返す事にした。結局お墓のあった所まで戻り、最後の掛けとばかり橋を渡って行った。
追伸:行者窟の詳しい内容は『林道・ダむ・鉱山の勝手な記録』のブログに乗っています。
河合不動明王の湧水を水評価は
軟水よりの硬水と言った感じで、出て来た所を見た時の様な期待ほどの事はなった。しかし、三ヶ所の中で一番透明度の良い水であった。それと喉越しも良かった。
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v
詳しい場所は
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