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NO239:亀岡市の「松尾神社の御神水」

      
今回は、「三度目の殺人」を見て三ヶ所の水汲みを計画、さらに仕上げは温泉によって終わるという、イロイロの内容で丸一日遊びまわるというものでした。
中でも、「男はつらいよ」の車寅次郎が奉納した鐘が在るというお寺にも回るというものでした。
祭日の9月18日にイオン桂川に行く事を決定。映画の上映時間は12:30分からのを見る事で、2日前までは出発を10:30分として朝はゆっくりして行けれると思っていたら、前日夜、台風18号が在住の加悦谷の右側をかすめて通過、吾輩の持論として加悦谷を中心に置き、右側を通過すれば大雨になり、左側を通過すれば強風になるというものが見事に大当たり(^_^;)
右側を通過、大雨になり与謝野町の災害現場がテレビで放映されたとの事(吾輩は見ていなかったが)、我が家の前の道路も、側溝から大川の水が逆流して来て川と化しビックリ、大川である香河川(かごがわ)も以前は水害を発生させていたが、河川改修で拡幅されて広がり洪水は大丈夫と気楽に考えていたのがこの始末であった(+o+)。
夜の11頃から12時頃にかけてピークが来て、その後急速に水も引いて行ったので、近隣の家屋に影響なくホッした次第でした。
同じ地区内でも床下浸水した所もあったそうで、お見舞い申し上げる次第でございました。
ところが一夜明けて出発間際、京都縦貫道の一部が通行止めになり、結局福知山の先に有る国道9号線近くの京丹波みずほICから乗る事にして、出発もAM9:00に変更し他のでありました。京都縦貫道の方は、今現在全線通行可能となっていますので心配ご無用です\(^o^)/
「3度目の殺人」の内容はサスペンスなので言えませんが、日本の司法の裏側をあぶりだしてくれていました。そういう面では面白かったです。
映画の収量はPM3:00で、日が暮れるまでに3ヶ所廻らなければとの思いから昼食は簡単なものを買い、運転しながらパクリパクリと食べながら急いで行く事になった。
それは亀岡盆地の端、田園風景が広がる山麓に
   2017,南丹市三か所湧水 027-1q
探し回ってたどり着いたところは
   2017,南丹市三か所湧水 026-1w
ため池が在るとこであった。湧水が多いのだろうかと期待が膨らんできた。 
相方さんは車に残ると言い出し、一人で行く事に
  2017,南丹市三か所湧水 031-1t
一人は心もとないもので、ため池の小道を登り
   2017,南丹市三か所湧水 028-1r
長いモノが出そうな草むらの道を進んで行くと、獣除けのフェンスに
  2017,南丹市三か所湧水 020-1u
扉には、神社ご参拝の皆様へ
本日はようこそご参拝いただきました。 
この扉は獣害防止のため閉じてあります。
どうぞ開けてお入りください。
お帰りの時は必ず閉めていただきますよう
お願いいたします。
                   松尾神社
と書いてあったので、扉を開け内から閉めなおしておいて、鳥居の中へ
   2017,南丹市三か所湧水 019-1i
心細くなる中、意を決して
   2017,南丹市三か所湧水 017-1o
距離にして50mほど登って来たところから下を写すと
   2017,南丹市三か所湧水 014-1a
勾配のある坂道を登って来たわけで、正面には
   2017,南丹市三か所湧水 011-1s
氏神さんにしては立派な楼門が見えてきた。くぐって行くと
  2017,南丹市三か所湧水 010-1d
正面に本殿、その下の石垣のパイプからは勢いよく水が出ているではないか、おそらく昨日の台風一家が降らした大雨のせいかも(^_^)v
とりあえず神殿へお詣りとお賽銭を入れに
   2017,南丹市三か所湧水 002-1h
それにしても大きな鈴、鈴を鳴らすのは、神さんに来たことを知らせる為だと思うのだが、吾輩の持論は違うのである。
鈴を鳴らすのは、熊に知らせる為である。というのも、神社仏閣は昔から山深い所に有るのがふつうであった。このため、山には獣がいる。人間様を護るため、その獣に知らせるのでアル。まぁ、神職の方が聞けばお怒りになるカモですけど(~_~メ)
再び石段を下りて水汲みに
   2017,南丹市三か所湧水 008-1j
勢いよく水が石垣の間に刺したパイプから出ている。本殿の周りを見てもそのような雰囲気は見当たらない、おそらく昨夜の大雨で水も増えているのかも、そうだとすると薄味だったりして、水の薄味ッテ(?_?)自問自問(^_^;)
池もきれいな水を湛えていたが、石段の右側の池は
   2017,南丹市三か所湧水 009-1k
水が行き渡らないのか少々濁り気味、端に網がかぶせてあるという事は、コイか何か魚がいるのかと探してみるがいそうになかった。・・・・・まぁ怖いおっさんがきたと隠れているのかもと思い元の場所へ
  2017,南丹市三か所湧水 007-1l
松尾神社の「いわれ」が書いた看板が(旭町今峠)
三郎ヶ岳の山麓に位置する当社は、大山咋命(おおやまくりのみこと)と市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)の二柱を祭神として祀る。
社伝等によると、泰川勝が聖徳太子の命を受けて佳処である当地に祀ったことに始まるといわれ、平安時代の書物である「延喜式」にも記載された古い社である。
古昔は、近村も含めた氏神として境内にも多くの建物があったと伝えられるが天正年間(1573~92)の明智光秀の丹波進攻による兵火により焼失しわずかに現本殿だけが難をのがれたという。
本殿は一間社流造檜皮葺の建物で明応7年(1498)頃に建てられたものである。
身舎組物は三斗組とし頭貫端を肘木状につくり三斗を受ける側面は二間で妻飾りを又首組とする、なお向拝の桁より下と縁廻りが江戸時代以降の改変にるが、他は軒まわりも含めて室町時代の姿をよくとどめている。
昭和60年に、本殿が府登録文化財に、また境内及びその周辺が府環境保全地区に決定された。

というもので結構古い神社の様です。先を急ぐのでこの辺で次に進んで行きました。

「松尾神社の御神水」の独断と偏見の水評価
以前、近くに在る「出雲大神宮の真名井の水」の記事を書きましたが、山の岩質が似ているのか美味しく飲めました。でも、今回三ヶ所廻って一番おいしかったとは言えないので
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vにしておきます。

詳しい場所は



      
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NO238:大たわ峠の水場

   2017,8,20多紀連山 039-3q
多紀連山
 多紀連山は平安時代末期から中世にかけて修験道行場として栄えました。
大峯山より栄えていましたが、対立し、1482年焼き払われました。
 近年になって、山麓の谷筋にクリンソウの大群落がみられるようになりました。
 クリンソウは湿地に自生するサクラソウの一種で、5月初旬から6月初旬にかけて仏塔の先端にある九輪に似たはなおさかせます。

大たわ峠へ向かって走っていると右手にソーラーパネルの集団が
  2017,8,20多紀連山 058-3r
   2017,8,20多紀連山 059-3e
学校の跡地のような玄関には「伊丹産業」のプレートが見えた。「伊丹産業」と言えば、当地ではガスの配給を独占に近い形で運営している会社です。他にも、米の販売、ガソリンスタンド、車の販売等々多岐にわたった経営をされている会社であり、さらに電力にも参入するエネルギー総合会社へと発展しているようです。
     2017,8,20多紀連山 057-3t
こんな山奥の日当たりが良くない場所でもソーラーは活躍!
そこを横目で見ながら峠へと、
   2017,8,20多紀連山 041-3y
何回かカーブをする中で峠に着くと
フォレストアドベンチャーというアスレチックスの公園が右手に、左は多紀連山への各主峰へ登る駐車場がありました。
  2017,8,20多紀連山 046-3u
左の駐車場は、左の山「御嶽793m」と右の山「小金ヶ嶽726m」へ登る基地になっている様子、詳しくは篠山市の「多紀連山ガイドマップ」を見て下さいネ。
ところで、その付近を見回しても「水場」らしきものは無く、フォレストアドベンチャーの事務所には人影が・・・・尋ねに行く事にした
   2017,8,20多紀連山 043-3u
聞いてみると、手前50mの階段の下に有るとの事、
   2017,8,20多紀連山 054-3a
赤い屋根の小屋に近づいてみると
   2017,8,20多紀連山 048-3f
水が溢れているではないか(^_^)vこの水は何処から・・・と後へ行ってみると
   2017,8,20多紀連山 050-3j
結構な水量が
   2017,8,20多紀連山 051-3h
チョイト解り辛いが谷間の砂地から湧き出ていたのである。これはまさに畑川の源流でした。
そして、赤い屋根の上には
   2017,8,20多紀連山 055-3d
という訳で、無事3か所汲んで帰ってきました。

独断と偏見の水評価は、このような上流部に人工物のある場所の場合、大腸菌が含まれて入る場合が大半で、必ず煮沸させて飲むように心がけています。コーヒーを飲んだ感じとしては、ちょっと渋味が強調された飲み口でしたが、今回の3ヶ所は似た様な水で、軟水系でした。
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v
詳しい場所



NO237:鍔市ダムの湧水

   tたきれんざん3、2017 043-1q
「鍔市(つばいち)ダム」へ行く前に行ったようで行っていなかった「篠山城跡」へ寄って行く事に・・・
野瀬からは30分ぐらいで篠山城へ到着、駐車場からのお城の雰囲気でぇ~ス
   tたきれんざん3、2017 001-1w
引き続き相方さんにモデルをお願いして、お城の入口です。モデルさんは無料ですので、「スタイル」「美貌」の方は目をツブッテ下さいマセマセ。m(__)m
   tたきれんざん3、2017 004-1t
この石畳を歩いて行きます。その前に「篠山城跡の歴史」を
   tたきれんざん3、2017 002-1e
 篠山城は、慶長14年(1609)に、天下を盤石なものにしようとする徳川家康が、豊臣方の拠点である大阪城を包囲すると共に、豊臣家ゆかりの西日本の諸大名を牽制するために、山陰道の要所であったこの地に築いた城です。築城工事は、旧豊臣大名の経済力を弱める事を目的に天下普請とされ、山陰道、山陽道、南海道(近畿・中国・四国地方)など15ヶ国20大名が動員されました。
 城は、当時「笹山」と呼ばれた独立丘陵を利用して築いています。工事は、開始から1年に満たない短期間でほぼ出来上がるという突貫工事で進められました。笹山は全体が岩板で出来ていたため、難工事の中での完成でした。
 篠山城の縄張りは、築城の名手と言われた藤堂高虎が行ったものです。堀を二重に廻し、外堀の三方へ出入口として馬出しを設け、防御に徹した城構えとなっています。天守閣は、城の完成を急いだことと実戦向きの城としたため築かれませんでしたが、二の丸には大書院に代表される御殿が建てられました。
 大坂夏の陣を経て、江戸幕府が安定すると、篠山城は西日本の諸大名の押さえの城として位置づけられます。江戸時代を通して、幕府の信頼厚い譜代大名の4家が、藩主として次々と移って来ています。
名称:国指定篠山城跡
城の種類:平山城
城の形状:輪郭式と梯郭式の併用
面積:19,3万平方メートル
史跡指定日:昭和31年12月28日
   tたきれんざん3、2017 006-1r
城壁の中へ入ってきました。
   tたきれんざん3、2017 007-1t
防御に徹しただけある作りです。手前の黒い門が「鉄門跡」
   tたきれんざん3、2017 008-1y
 二の丸へ至る最後の門の跡です。 
tたきれんざん3、2017 009-1a
 二の丸へ至る最後の門の跡です。絵図によると櫓門形式の門があり、呼び名の通り門扉には、鉄板が張られていたのではないかと考えられます。
 発掘調査の結果、門跡は廃城後に1,5m埋められていましたが、土を取り除いたところで、門跡の範囲を示す敷石と階段跡等の遺構が発見されました。これによって鉄門は東西の幅約5m、奥行き4,5mの大きさで、東側石垣高さ4mと、西側石垣高さ4,5mとの間に造られた厳重な構造であった事が明らかとなりました。
 二の丸登り口の整備に当り鉄門跡の範囲を自然石による敷石で示しています。
  tたきれんざん3、2017 010-1s
大書院への入口で今は事務室になっています。大書院の入館、迷いに迷って入らないことに、決して入館料を惜しんだのではアリマセン(^o^)/その右横に
   tたきれんざん3、2017 013-1f
井戸の櫓、そこが見えない大きな井戸です
   tたきれんざん3、2017 011-1d
『この井戸は城北の玉水から、流れ出た水脈を利用していると伝えられており、厳しい日照りでも枯れたことがありません。』の井戸だそうです。玉水とは 【清らかな水、また、滝。2 雨だれなどの水滴の 美称】
大書院の後ろへ行く通り
   tたきれんざん3、2017 014-1f
本来は何か建っていた屋敷ですが、詳しい資料がないため更地のままの模様
   tたきれんざん3、2017 027-1h
大書院の大きさが目を引きます。
  tたきれんざん3、2017 020-1k
大書院跡
 篠山城大書院は二の丸跡に所在した城主居館の中で、とくに歴代藩主による公式行事に使用された場所で、正規の書院造りの建物となっていました。
 この建物は慶長14年(1609)の徳川幕府の天下普請による篠山城築城時に、京都二条城の御殿を参考にして建てられたと伝えられ、大きさは東西28m、南北26m篠山城最大の規模となっていました。内部には上段の間、孔雀の間などの多くの部屋があり、障壁画で飾られていたと考えられます。
 廃城後もこれだけ残されていましたが、昭和19年失火により失われました。その後、焼失から56年たった平成12年3月大書院の威容が大書院跡地に甦りました。
                   篠山市教育委員会
篠山城の東側には
   tたきれんざん3、2017 017-1j
青山神社もあります
   tたきれんざん3、2017 019-1z
青山神社は、1882年に本丸跡に建立され、篠山藩主青山氏の遠祖青山忠俊と第12代藩主青山忠裕が祭神として祀られています。青山氏は譜代大名で幕府の要職を歴任した家柄で、中でも忠裕は30年余り老中を務め、その功績により篠山藩は5万石から6万石に増加されました。毎年4月の第一土曜日が(宵宮)と日曜日(本宮)に青山神社の祭礼が行われます。本宮では、春日神社へ渡御の行列ががあり、神輿と共に鎧や薙刀を身に着けた小学生たちが太鼓と法螺貝の合図で練り歩きます。
その神社の境内には
  tたきれんざん3、2017 022-1x
青山忠誠公追慕碑が立っていましたが、
   tたきれんざん3、2017 021-1n
教育の礎を築いた「あおやまただしげ」公の偉業についてー雅号は環峰ー
『学舎を創設』  明治9年郷土に教育の息吹
 青山家21代青山忠誠公は、篠山に人材を育てる学校がなければならないと考え
慶応義塾の創立者福沢諭吉氏にはかったところ、福沢氏は、極めて秀れたことであると賞賛、弟子である二人の教師(英語、物理化学)を篠山に送ってきました。
 かねて廃藩後まもなく藩士の有志が、春日神社の境内の小桃源に師弟教育のためにつくった「共茂舎」を明治9年12月28日に「私立篠山中年学舎」と改めて、とり敢えず子弟をを集めて、漢文、数学、英語教授を開始しました。忠誠公は”旧藩領に永遠に残す置土産は、子弟を教育する事である”と私財を投じて学舎を建設しました。
『教育に名言』 忠誠公情熱こめて教育を振興
  学舎が変災に遭ったときに忠誠公は、
         学舎は焼くとも教育焼くな
との名言の意志のもとに、直ちに巨費を投じて、学舎を再建いたしました。まことに、藩民に対する温情は、熱意のこもったものでした。
明治11年には「公立篠山中学」に改め、同18年にはこれを廃校して「私立鳳鳴義塾」を創設して多くの人材を育てました。また東京への進学の子弟のため寄宿舎を設けて「尚志館」(しょうしかん)を開きました。このように忠誠公は偉大なる育才事業をなし遂げたのです。
 今日郷土篠山市には、この伝統の教育精神が脈々として流れ、県立高等学校を始め郷土は教育の市として、伝統の歴史と共に盛り上がっています。
   忠誠公は明治20年(1887)7月23日逝去(享年29才)
  明治25年11月七日正四位子爵を遺贈表彰されました
『追慕碑』
この大きな追慕碑は、昭和11年7月に、忠誠公の遺徳と数々の功績を追慕して建立した碑です。 

しかし、今書いていて思う事は「将来を見据え、享年29歳という若さで大事業を成し遂げられた」という事に感慨深い思いをもつものです。それに引き替え我が国の総理大臣は・・・・・(+o+)

青山神社の右奥には、城内で一番高い天守台「殿主丸」が有ります
tたきれんざん3、2017 029-1m
その下には篠山小学校が在りました。
   tたきれんざん3、2017 024-2w
お城を出て、簡単に武家屋敷めぐりへ
まずは、篠山藩主別邸「桂園舎」
   tたきれんざん3、2017 032-2e
今は、篠山市青山歴史村として篠山藩の資料館となっています。
次に、小林家長屋門
  tたきれんざん3、2017 036-2r
文化年間(1804年頃)に、当時の篠山藩主青山忠裕がその老女小林千枝の多年の労に報いるために修築したと伝えられる。
古い武家屋敷群
  tたきれんざん3、2017 042-2u
こちらは近代的な通り
   tたきれんざん3、2017 044-2y
最後に外堀を見て
   2017,8,20多紀連山 062-2i
鍔市ダムへと車を進めた。県道301号京都の三和町菟原へ抜ける道へ入って行くところに地元の地図が目に入った。早速停まって
   2017,8,20多紀連山 003-2w
この県道は多紀連山の「御嶽と小金ヶ嶽」へ登る大埞(峠)へ登る道で、そこの地図に予定にない水場が書いてある。これは行かなくっちゃ~♪と、ダムの湧水を汲んでから行く事にした。
   2017,8,20多紀連山 029-2o
農業用ダムとして作られています。
  2017,8,20多紀連山 030-2t
兵庫の山奥へ行くとこの手のダムはよく見られますが、農業用ダムというよりもジャンボ釣り堀と言った方が似合っているようです。
ダムの周りの道を進んで行くと
   2017,8,20多紀連山 022-2d
写真を撮り忘れていましたが、トイレと併設の休憩小屋が在り、その先に
  2017,8,20多紀連山 014-2j
草むらから鉄管が日本出て来てソコから水が出て来ていた。はぁ~んこれが「鍔市ダムの湧水」かなと、しかし、出て来る水の所にはゴミを濾すための布の袋が下げてあり、どうも山水か湧水か区別がつかない(・・?
その下流には、「クリンソウ」という珍しい花が池に自生しているとの事
  2017,8,20多紀連山 020-2f
その手前の山側には、
   2017,8,20多紀連山 005-2l
石で組んだ水溜が作ってあり、上から一筋の水が流れ出て来ていた。おそらく源水は同じであろうが、こちらの水の方が湧水らしいので、こちらの水を汲む事にした。奥の鉄幹の横には
『ここはみんなの水汲み場です。きれいに使っていただきありがとうございます』
『バーベキュウをされる方へ、他へ移動して頂き、ありがとうございます。御不自由をおかけいたします。御協力ありがとうございます』
・・・・と、注意書きですが、なんか心が温まる文句デスね(*^_^*)
水が出ていた石垣の上に登ってみると
   2017,8,20多紀連山 008-2l
木々の間からコンクリート壁のような遺跡(そう古くはないが)が見える。その昔、今の日本製鉄の社宅が在ったの跡ではと
   2017,8,20多紀連山 004-2s
篠山を支えた、畑の硅石鉱山
 篠山の硅石は最初に1913年(大正2年)大芋(おおくも)地区で発見され、1920年(大正9年)には畑地区でも発見されました。篠山の硅石はとくに良質で、主として製鉄所の溶鉱炉の原料に用いられました。
 1923年(大正12年)に八幡製鉄所(のちに日本製鉄に統合)が畑鉱床を買い取り、1926年(大正15年)には畑鉱山が開かれました。採掘が本格化すると、篠山を支える中心産業のひとつとなりました。  
 奥畑・火打岩にある二つの赤い鉄橋は、木橋が当たり前の時代に、重い硅石をトロッコで運ぶために架けられたものです。
 1941年(昭和16年)、アジア太平洋戦争の開始とともに、硅石の需要はいっそう高まり、多くの朝鮮人労働者も鉱山労働に従事する事になりました。戦争末期には「徴用」という名目で強制的に連れてこられた80名の朝鮮人もその中に含まれて入ました。
当時、瀬利の八百里(やおり)にあった日鉄鉱業の宿舎から隊列を組んで鉱山に向かう朝鮮人の姿が、毎朝見られたといいます。
 一方、地域の中では、「菅硅石運搬組合」を作るなどして、鉱山産業を支えました。
 戦後も、日本人と朝鮮人が鉱山で一緒に働いていましたが、硅石需要の後退によって鉱山は次々と閉山され、1979年(昭和54年)の畑鉱山の閉山とともに篠山の硅石産業は実質的に終わりを迎えました。
                           2012年2月1日
                    篠山市人権・同和教育研究協議会
                    篠山市教育委員会
                    みたけの里づくり協議会

看板の地図によると、この辺にも鉱山と社宅が在ったように書いてありますので、コンクリート遺跡はその当時の遺物ではないかと見受けられます。
という事で、水も汲めて、次は地図に載っていた峠の水場に寄ってみる事にしました。

独断と偏見の水評価は
軟水系の水で、我が家の水道水と変わらないコーヒーの味でした。
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vです
詳しい場所は

       


  
    
   

NO236:野瀬の「シイタケ山の清水」(仮)

  2017,8,20多紀連山 001-1w
篠山市の裏、東西に峰々が連なる「多紀連山」という連峰が有ります。その山中に鍔市ダムが在りその周辺のどこかに湧水が出ているという情報をもとに出発したのだが、偶然通りかかった風景にシビレて、さらに絶景ポイントがないか探し回るうちに偶然見つけた湧水でございます。
上の写真は、そのシビレた絶景であります。今までに「NO120:水分れ公園・いそべの湧水」の訪問の時に栗柄峠へ寄った時に通っていたのですが、その時も一つの山に見とれていたようですが、今回の様な感動はしてなかったようです(読み返しての話)
この山々は、多紀連山の西の果て西紀という所で、今話題の高速道路「ガチャガチャ食券の西紀サービスエリア」が在るところデス。
この氷河に削られたような斜面を観れるのは、舞鶴若狭道春日ICを下りて県道69号を栗柄峠へ向かう途中の道端から見れるのですが、気を付けて通らなければ見落としてしまいます。この山々に魅せられて計3回足を運んでの今回の記事を書いています。ので、前後左右とまではいきませんが、3回の写真をごちゃまぜにしての内容となっておりますので、あしからず\(^o^)/
という訳で、この山々の雄大な姿が撮れるポイントがないか探しまわっりました。
その一つ三尾山(みつおやま)
  2017,828, 001-1e
さらに走り回り
   2017,828, 027-1t
「堂の峰」か「御在所山」か名前判らずアップ
   2017,828, 029-1t
写しながら徐々に谷合の村「野瀬」まで来ると
  tたきれんざん3、2017 050-1y
山奥にブドウ園が・・・・ 興味半分に寄って冷かして「こんな山奥で販売していても売れるんかいな」と、すると「うちはブドウ園でもぎ採って買ってもらうやり方でお客さんに買ってもらっている」との事
   tたきれんざん3、2017 052-1i
奥に見える青色のネットの中にブドウが、その他にも無道農園が
   tたきれんざん3、2017 051-1o
で、この庭先で売っていた「ぶどう」を買ってから、車をUターンするために奥に進んで行くと
   tたきれんざん3、2017 046-1y
道端に山の裾から引いた水が竹筒から出ているではないか、早速頂く事に
   tたきれんざん3、2017 047
竹で作った「ししおどし」が上手く作ってあったが、古くなって正常には動いてない様子、また、山から流れてくる水も竹筒から漏れて届いた時は量が半減、おかげで相方さんは「腕がいたいよ~」と
  tたきれんざん3、2017 048-1u
その上にはシイタケ園の札が、これを借れて、名もない水を「シイタケ園の清水」とかりに命名させて頂きました。
で、次の訪問地「鍔市ダム」へ車を進めて行きました

独断と偏見の水評価は、軟水の水の様で普通の水でした
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vです
詳しい場所


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