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NO235:瑠璃寺の「池ノ谷・湧水」

  17,8,5ひまわり 060-1q
相方さんが佐用町(旧南光町)のひまわりを数年前から観に行きたいといっていたのを、日曜日の予定がキャンセルされたため急遽行く事になった。行くのなら湧水も!と思って、瑠璃寺のイボ取り水をもらいにと、そのお寺にモンキーパークが在るというから、そこにも寄って来ることにして(最近お猿さんと縁が深くなっている様だ)出発した。行程中思いがけない事も発生し、一週間ほどショックから立ち直れなかったことも有ったりした珍道中となってしまった。
今回のコースは、ひまわり畑が時期によって順番に咲いていくように数か所に分けて植えてあるらしく、調べてみると今回の見頃の場所は西下野地区と、ひまわり祭会場のあるスポーツ広場「若あゆランド」周辺が見頃との事、で「西下野地区」→瑠璃寺→「若あゆランド」の順で廻る事にして出発した。
最近高速料金が高いと思うようになり、安く行けるコース「和田山」から播但連絡道を通り中国道から山崎ICで下りるコースを取った。
西下野地区に入って行くと
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ひまわり畑に近づいてきた。その近くに
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西下野地区の「ひまわり祭会場」では誰~れもいない。みんなが止めていた駐車場に入り、無人の入場料箱に200円を入れて
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丁度見頃、結構なひまわり畑だが『この程度なら与謝野のひまわり畑でも』と相方さんと話しながら一巡してまわり次の訪問地「瑠璃寺」へ
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山門から車で駐車場まで500mぐらいは有ろうか、という所に駐車場があり、本来なら後からでも駐車場の写真も撮って来るのだが、その時は落ち込んでいたため、駐車場とそこまでの道を写すのを忘れていたため、写真はナシ
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駐車場から少し歩くと
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瑠璃寺の本坊へ上がる入口
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南光坊という門をくぐると本坊へ、あくまでも本堂ではナイ
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モミジが多く秋の紅葉の季節が見ごたえがありそうなお寺である。
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瑠璃寺の文化財
瑠璃寺は、奈良時代の神亀五年(728)聖武天皇勅令によって行基菩薩が開山したと伝えられ、以来1200有余年、法灯連綿として現在に至っております。
 本堂は千手観音、奥の院には薬師如来が祀られていますがその他、数多くの文化財が伝わっています。
国重要文化財:不動明王二童子像
国重要文化財:不動明王坐像
県指定文化財:釈迦如来及び両脇侍像(秘)
その他多いいので書きません
奥まったところの護摩堂
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瑠璃寺の昔話がこのサイトに書いてありますので読んで下さい。
本坊の横の道を上ってモンキーパークを目指します
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こちは本坊から本堂へ行く出口か
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そこから間もなく本堂への参道、写ってないが『いぼ取りの水』の立札も
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なぜか「常福院」の看板が、帰りに寄る事にして、さらに先へ
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横から見た護摩堂、足元には
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地蔵さんも見ながら門忌パークを目指します
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渓流の岸には「亀石」
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不老長寿の有り難い石の様で
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やっとモンキーパークに着いたと思いきや、さらに急坂を・・・その前に
【船越山とその周辺に昔から棲んでいた野生の純ニホンザルを餌付けに成功し昭和36年に開園、約200匹が、わが天下とばかり群れ遊んでいます。ニホンザル(霊長目オナガザル)は、本州、四国、九州屋久島の特産で世界で最も北に分するサルで、毛が長く密生し、顔と尻が赤く、頬に大きな頬袋あり山林に群生し、食物は、カキ、クリ、ミカン、木の実、草、昆虫など時には赤土もたべます。寿命は25年から30年で、1才ぐらいまでが赤ん坊、4才ぐらいまでが子供です。メスは6才ぐらいで子を生みます。平成14年6月ボス猿「サブ」と雌「ハナ」の間に、黄金色の毛並みをした子が生まれました。全国でも例がなく、愛称「ひかり」と命名、人気の的となっています】
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受付には誰も居なく、お客が少ないのか受付の小屋も閉鎖、近くに公園内の注意書き
ご注意:当モンキーパークは野生のサルを餌付けしたものですから、次の点を必ずお守りの上たのしく御覧ください。
一、サルには絶対さわらぬこと
一、サルと目線をを合せぬこと
一、サルがおどしても知らぬふりをすること
一、犬をつれて入らぬこと(子犬でも)
一、紙袋ナイロン袋等食物は持ち込まぬこと
一、エサは観覧舎の中(人間動物園)以外で与えないこと
一、サルに石を投げたりからかったりしないこと
一、エサの持ち込みはサルの健康管理上禁止します
一、発情期(秋、10月~11月)出産期(春、4月~5月)は特に気を付けて下さい
   船越山観光株式会社
少し歩くと、昔の面影が・・・
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今は・・・・
その上には
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岩に根っこが巻きり付いた大木(名前は解らない)そして
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修業場:弁天の滝 
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そして到着
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ここで入場料を集金してました。「よくきたなも」歓迎
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サルのプールとの事
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上からの眺め
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昼時だったのでサルも食事中
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米のようなエサを器用につかんで食べていました
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屋根の上では毛づくろい
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人間様もここでは動物です
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「にんげん」ヒト(人間)は南極と北極の一部を除く地球上に50数億棲息しているといわれ高度な文化を築き地球上を支配している。反面自然を破壊し多くの生物に危害を加えたり仲間同士で残虐なる行為をする族(やから)もいるまことに不可解な動物である

と説明されていた。((+_+)) 
相方さんも、人間動物園に入って行ったのでその間サルの生態を撮りに
まずは例の「黄金のサル」
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寂しく一人で・・・・・・と と と人間ではなかった・・・一匹で日向ぼっこ・・・・・黄金というよりも毛の生え替りのサルと言ったおもむきカナ?
子ザルは遊ぶのが好きでゴザル
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上からチョッカイを出している模様
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今からサルさんの水中ショウ
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子ザルがプールの中の餌を見つけました
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泳ぎだしました
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狙っていたショットをやっと取れました。(^_^)v素潜り中
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水中に有ったエサを取って仲間におすそ分け
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こうして見ていると、人間様と知能指数はあまり変わらんようだゾー・・・・・・・と と と と・・・ココまで言うと皆さんにお叱り受けるので、人間様→mizukumimanniに替えておこう(~o~)   
人間動物園が気に入ったのかなかなか出てこない相方さんを呼びに
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黄金のサル「ひかり」くんは三匹で毛づくろい中、孤独ではないようで・・・ホッ(*^_^*)
モンキーパークを後に
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サル君見送りしてくれました。
下りてくると、こんなものが目に入りました
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奥の院の登山地図です。よ~く見てみると延命水という文字が・・・今回は時間がないので後ろ髪を引っ張られる思いで後にして、亀の頭の石まで下りてくると、そこから本堂へ行ける標識が
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もう少し下りると立派な参道が在るのだが、ココから行く方が写真になると相方さんに「ココから登ろうか」と尋ねると「今にも階段が崩れそうなのでいやだ」と、実はこの写真では分らないが、この階段の下半分土がえぐれていて宙に浮いている感じであったのだ。「ここで待っているので、一人で行ってきな」とつれない返事。「イボ取り水」の誘惑に負けて、相方さんを『置き去り』にして登って行ったのであった。後で考えると、これが天罰の始まりであった。
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歩くたびに足元が揺すれ、今にも崩れそうな階段を何とか上り本堂が見えてきた。
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本堂まで上がって来たが、人一人っ子いない、静寂な境内に吾輩一人「孤」を否応なしにも感じ取らせる空気。何時もの通り賽銭と願い事を・・・と本堂正面に
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柱には立派な彫刻が施してある。スリッパをはいて階段を上って中を覗いたが暗くてアマリ見えない。
本堂の横には「応安の鐘」応安二年(1369)の鐘楼
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「応安の鐘」は県指定重要文化財との事、右に見える建物は開山堂との事
肝心な「イボ取りの水」は何処かいな~と見て回ると
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境内の端の方に「この水を数回付けると、頑固なイボでもころりと落ちる  禁飲料」と書いた溜め水。これでは禁飲料と書いてなかっても汲んで帰れねえな~と、さて弱った((+_+)) 予定していた水が汲めない・・・・・・どうしたものか・・・・・と思い悩みながら、近代的な参道の方から下っていたら、何のことかツルと足が滑った瞬間体が宙に浮いてしまった。この感覚は今でも覚えている(^_^;)と思ったら体まるごとドテッと地面にたたきつけられたかと思うとゴロ ゴロ ゴロと二回転ころんで止まった。見てみると高さ1mぐらいの石垣を落ちた様である。幸か不幸か?頭の下にはちょうど枯枝が積んであり地面で強打する事は免れたようであるが、落ちた時に左腕が耳の下敷きになり耳を圧迫した様で鼓膜がおかしな感じ(ちょうど急に高いところに登った時に起きる感じ)更に左の肘の下と左の膝の下が擦り傷が出来ていた。 
しかし、それ以外にこれといった症状もなく、しいて言えば転んだ時に服が汚れた程度で、ハンカチでふき取れば判らなくなった程度で済んだようであった。正気に返ってすべった所を見ても、別段滑るような所でもなくコンクリートで舗装された道であった。
神か仏の怒りに触れたのか・・・はたまた、この程度で済んだのは、神か仏様が「普段の行いが良い事から軽傷で助けて下さった」のか下りながら、どっちだろうと思い悩んでいた。
悩みながら参道を下っていると、横に赤いお稲荷さんが見えたのでお詣りに
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ソコの手水鉢には物語が
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この手水鉢は重さが90貫(約330㎏)あります。
昔、となりの下河野村に猪原勝衛門と言う人がありました。この人が一人で背負って上がり奉納したと伝えられています。
それがコレ
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と、のんびりしとれない・・・相方さんを迎えに・・・・・亀の頭の所まで下道から行ってみると・・・・いない(+o+)
この時はそう深刻に思っていなかった。おそらく駐車場に帰っているのだろうと・・・・
で、吾輩も駐車場へ下って行く事にした。
下って行く途中
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湧水を発~見~(*^^)v
仏は我を見放さなかった・・・と喜んで車まで帰って来ても相方さんはいなかった・・・・・ガァ~ン(=_=)
まぁそのうち帰って来るだろ~・・・と、その間に、さっき見つけた湧水を汲みに行く事にした。
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駐車場からそう遠くなかったので、汲んでいる時に帰って来ると判るので、相方さんの気配を気にしながら1本・・2本・・・3本・・・・4本・・・・・帰ってこない・・・・・・・(?_?)
汲み終えて車に帰って来たが、一度は車に入れた水を再度出してきて車の前に置いて探しに行く事にした。
まずは瑠璃寺の本坊へ、行ける所を回ってもイナイ・・・・次に再度本堂へ、その前に参道の入り口に在る常福院へ寄ってみる事に   17,8,5ひまわり 097-2u
常福院の本堂を一周しても出逢わない・・・瑠璃寺の本堂へ上って行っても出逢わない・・・・・・オヨョョョ・・・・・
何処に行ったものカヤ(・・? ・・・・・下りは気を付けてソロリそろり・・・と、どうしたものかと・・・その時ひらめいた・・・そうだ、携帯を持っていたのだ・・・とりあえず電話をする為ポケットから出すと、光が点滅しているではないか・・・ 
携帯(ガラケー)開けて、「もしもし」とするや否や「今どこに居るのデスカ<`ヘ´>」「瑠璃寺の本堂へ貴女を探しに行って下りるとこ・・・」とまぁ、話を要約すると『吾輩が本堂へ登っている間亀の石の所で下りてくるのを待っていたのだが、何時までたっても下りて来ないので、何時もの事で水を探しに山奥に入って行ったのではと思い、本堂へ登る階段をこわごわ上って行っても誰もイナイ、読んでも返事もない(・・?   ちょうど吾輩は本堂から下りて亀の石の所に呼びに行っていた所の様である。で、いないのでまた同じ道を亀の石まで帰りまっていたのだが一向に下りて来ない、その間、携帯を見るとナント山奥でもアンテナが立っていたので、計8回ほど電話をするも一向に携帯に出てこない、これは何所かに落ちているのではと思い、警察に連絡しなければ・・・と考えていたとこに携帯が通じたらしい』お父さんは何処へ行ってたのですかと問うので、吾輩はかくかく云々で水を汲んで待っていたのだが、一向に帰ってこないので探しに来たところと言ったら、「お父さんは私より水汲みの方が大事なんだから」と嫌みのお言葉(*_*;状況から考えて反論しようものなら、その百倍ぐらい帰ってきそうなのでジ~とガマンの子であった・・・と言う事で無事再開する事ができてメデタシメデタシで最後の訪問地へ行こうと車に乗り込むと何か変な感じ、うむメガネを掛けて来とったはずだがメガネを掛けていない・・・と・・・言う事は・・・転げた所で落としたのかもと、再度一人で瑠璃寺の本堂まで探しに行く羽目に、後で考えるとメガネを掛けているものが、メガネなしで探せるわけがない(老眼鏡なのでなくても少しは見えるのだが)、その時は探しについて来てチョウダイとはいえる状況ではナイ・・・結局3万円の出費になったのでござる(~o~)
気を取り直して「ひまわり祭」のイベント会場へ出発して行ったのでありました。
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南へ下る事15分ぐらいでイベント会場「若あゆランド」へ着いた。当日は2週間程続いていた「ひまわり祭」の最終日だったそうで、夜の花火大会の為会場再整理中、出入りする車でごった返していた。花火点火場がひまわり畑の中に有るため、ひまわり畑はPM2:00から立ち入り禁止、また、駐車場も夜のお客さん用に何時だ忘れたが出なければならないそうであった。それを承知で入るという事で、駐車料金は無料(*^_^*)、
   17,8,5ひまわり 124-2v
思いのほか観光客の多いい事ビックリ、駐車場も200m×100m(目安)のグラウンド以外に第2、第3駐車場もある程見物客が多いい様である。
   17,8,5ひまわり 119-2z
ひまわり畑内pm200:~22:00立ち入り禁止のゲート。御陰で入場料は無料
   17,8,5ひまわり 120-2x
この広大さに圧倒(@_@;) 今までのモヤモヤの気分も吹き飛びリフレッシュ\(^o^)/・・・と相成りました。

「池ノ谷・湧水」の独断と偏見の水評価は、香水よりの水で美味しく飲めました。
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v  
詳しい場所は
    
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NO234:中山道・柏原宿の「白清水」

   2017,7,9柏木街道 047-2q
「子宝の水」を戴いてまだ時間に余裕があったので、二ヶ所目の「白清水」を探しに行く事にした。
その場所は、中山道・柏原宿のはずれにあるという。
柏原宿に入ると一里塚の史跡が目に入った。
   2017,7,9柏木街道 066-3w
その手前には
   2017,7,9柏木街道 065-3e
  柏原一里塚(復元)
 一里塚は、旅人の里標(みちのり)の目安・駕篭・馬の乗り賃銭の目安と旅人の休憩場所として造られた。

 慶長九年(1604)、徳川家康の命をうけ、秀忠はまず東海道と中山道・北陸道での一里塚築造に着手した。そして奉行には永井弥右衛門白元・本田佐太夫光重を任命、江戸は町年寄の樽屋藤左衛門・奈良屋市右衛門・街道沿いでは天領は代官、私領は領主に工事参加の沙汰が出された。工事現場の監督はすべて大久保長安が担当した。
 一里塚の規模は、五間(9メートル)四方に盛土して、一本又は複数本の木が植えられた。おもに榎が選ばれた。成長が早く根が深く広く張って塚が壊れにくい利点から採用された。
 柏原一里塚は、江戸日本橋からから数えて百十五番目で、柏原宿内の西見附近くに街道を挟んで北塚と、南塚があった。(両塚ともに現存しない。)
北塚は、街道沿い北側で、愛宕社参道の石段東側(現仲井町集会所)の場所にあった。
南塚は、街道を横切る接近した二筋の川のため、やむを得ず左側の川岸で街道より奥まった所に築かれた。(現在では、大幅な河川工事が行われたので、この時点の東よりの河床の位置になる。)
なお、江戸時代刊行道中記等を見ると、両塚とも三本の榎が描かれている。

そして街中に入って行くと
  2017,7,9柏木街道 055-3t
柏原宿は昔から「伊吹もぐさ」の商いが盛んな所だったそうで、街道沿いのいたる所に「やいと祭」の幟が立ててあった。 
   2017,7,9柏木街道 061-3y
訪れた時より約1ヶ月遅れの7月30日に祭は開催されているようです。
今でもモグサの商いをされているお店が「亀屋佐京商店」1軒残っているとの事です。
柏原宿は約1,5kmに亘ってほぼ直線の宿場町の面影が今でも残っていて
   2017,7,9柏木街道 053-3u
こんなモノも残っていた
   2017,7,9柏木街道 062-3i
「やくし道」道標
最澄が創立したと云う明星山明星輪寺泉明院への道しるべである。
宿内東に、同じ薬師仏を本尊とする長福寺があったので、明星山薬師道、西やくし道とも呼んだ。太平洋戦争までは、眼病に霊験ありと賑わったが、門前の明星村も消え、今は往年の面影がない。
 この道標は享保二年(1717)と古く、正面が漢文、横二面が平仮名・変体仮名を使った二つの和文体で刻まれている。
出町(小字)長沢にも、同型の道標がある。
昔の柏原宿
   2017,7,9柏木街道 043-3a
この宿場町の突き当りに「白清水」という湧水が出ていると情報元では書いてあった。ところが行ってみてもそれらしき物は見当たらない・・・・・・。
何時ものことながら地元の人に聞くのがいちばんと、柏原宿に引き返す。途中畑で作業されている80代後半ぐらいのお婆さんを見つけ尋ねる事に、お婆さん曰く「10年程前に移り住んだのでよう分らん」との事、情報元は米原市のHP必ずあるはずと、さらにしつこく尋ねると「JRの鉄橋を潜り抜けた所に、昔湧水が出ていたという所があるが、今では融雪用の地下水を汲み上げる場所に変わっている」との事、チョイト場所の位置が情報元と違うが行って見る事に
  2017,7,9柏木街道 034-3s
これをくぐるとすぐ
   2017,7,9柏木街道 035-3d
言われていた融雪用設備らしいものが在った。覗いて見ると
   2017,7,9柏木街道 033-3f
貯水槽もあったが汚く飲めたものではナイ(+o+)。どうしたものかと思案・・・・・と、設備の角を曲がった道が、柏原宿街道と並行して山手の方まで伸びていた。つまり街道の裏道の様だ、で、もう一度この道を情報元が出していた山裾まで行って見る事にした。
来るまで走ってカーブを曲がった・・・と、
   2017,7,9柏木街道 039-3f
奥から手前へ
   2017,7,9柏木街道 038-3g
曲がると左端に池らしきものをハッケ~ン(^_^)vもしやとと思い車を降りて池へ(水を汲み終えて写した写真)
  2017,7,9柏木街道 037-3g
よ~く見ると水は流れ出ている・・・という事は水が湧いて出て来ている証。
例の看板も
   2017,7,9柏木街道 036-3h
白清水(しらしょうず):古くから、白清水または玉ノ井と呼ばれています。中世の仏教説話「小栗判官照手姫」には、姫の白粉で清水が白く濁ったことから白清水と呼ばれるようになったとあります。また、伊吹山の神に打ち惑わされた日本武尊が、この水を飲んで正気づいたという伝説がのこっている場所の一つです。
『硬度12,5mg/L(軟水)』
しかし、池をよ~く見ると底には枯れ葉の堆積物やカエルも悠々自適に泳いでいたりして、汲んで帰るのをためらったが「自称、湧き水評論家」(何を評論してるんだよ~)は汲んで帰る事にした。
汲んでから思い立ったことが、おかしな場所を教えてくれたお婆さんへ「求めていた湧水が汲めたこと」を知らせとかなくっちゃあと、再度お婆さんの所へ寄り道をしたのであった。
で、お婆さんに此のことを言うと、「あ、白清水のことか」と、思い出したように言って「あそこの上に遭った地蔵さんを、家の近くに持ってきて祀ったる」といい出し、照手姫をお地蔵さんにして祀っているかもと、帰りぎわ云われたところに寄って見る事にした。
   2017,7,9柏木街道 046-3z
その横には
   2017,7,9柏木街道 051-3x
「照手姫笠掛地蔵・蘇生寺と由来記」(宗教説話、小栗判官・照手姫)
その由来記
   2017,7,9柏木街道 049-3c
照手姫笠掛地蔵と蘇生寺
 地蔵堂正面向かって右側(見出しの写真参照)、背の低い如何にも古い時代を偲ばせる石地蔵を「照手姫笠掛地蔵」と言う。
現在はここに祀られているか、元はここより東、JRの踏切を越え野瀬坂の上、神明神社鳥居東側平地(子宝の水の所ではナイ)に在った蘇生寺の本尊ということから「蘇生寺笠地蔵」ともいう。
 中世の仏教説話「小栗判官・照手姫」にまつわる伝承の地域である。常陸国(茨城県)小栗の城主小栗判官助重が毒酒のため落命の危機に逢いながらも我気阿弥(がきあみ)となり一命を取り止める。これを悲しんだ愛妾(あいしよう)照手姫は、夫助重を箱車に乗せ狂女のようになり懸命に車を引っ張ってここ野瀬まで辿りついた。そして野ざらしで路傍に佇む石地蔵を見つけ、自分の笠を掛けて一心に祈りを捧げたところ地蔵は次のお告げをしたと聞く。
  立ちかへり 見てだにゆかば 法の舟に
      のせ野が原の 契り朽ちせじ
 勇気をえた照手姫は、喜んで熊野に行き療養の甲斐あって夫助重は全快したことから再びこの地へ来たり、お礼にお寺を建て石地蔵を本尊として祀った。
 これを「蘇生寺」という。近くの長久寺(廃寺)の末寺として栄えたが慶長の兵火で焼失、その後再興されることなく石の地蔵のみ残り、「照手の笠掛地蔵」として親しまれてきた。この辺りには照手姫に関わる伝承地として道中の長久寺村に「狂女谷」が地名として残り、姫の白粉のため水が白く濁ったという、「白清水」などがある。
 以上が柏原に伝わる説話であるが、他所のそれは照手が夫と知らず供養のための車引きであり、青墓から大津までとなっている。
 この様に話は若干異なるが本筋で変わらず夫婦愛に基づき夫の車を引く照手の素朴で庶民的なここの伝承は、もっとも仏教説話に相応しい物語である。
 最近「小栗判官」と銘打って歌舞伎・演劇等上演され、且つ説教節の復活と相俟って、説話が勇名になってきた。
 美濃国青墓村(現大垣市)には照手姫にまつわる古井戸が残され、旧街道路傍には立派な五輪塔が、姫の墓として伝承されている。
 (付記)
江戸末期寛政年間(1789~1801)作図の「中山道分間延絵図」の野瀬の神明神社鳥居の東に「地蔵堂」と小さく描かれている。よってその場所を蘇生寺跡(現在、竹林)と推定される。
 この仏教説話は関東では、判官が主役であり青墓村(現、大垣市)以西では照手姫が主役をなしており、熊野湯の峰温泉、坪湯へと話は続いていく。
【参考文献】
一、中山道分間延絵図(寛政年間作図)
二、改定近江国坂田郡誌
三、皇室至宝御物
   堂内向かって背の高い地蔵由来
照手姫笠掛地蔵の本来の祭祀場所が余りにも人家から遠すぎたため、なんとか町の中へと願ったが仲々安住の地が見つからず、各所を転々とした後、昭和の初めころ現在地に定着されることになった。
 そのとき地蔵は一体であったが、、御覧の立派な背の高い地蔵が一古老から奉納され、笠掛地蔵と共に一堂に合祀されることとなった。この地蔵はみんなの安産を願って「安産地蔵」として寄進されたものと聞く。やさしい顔・立姿の美しい地蔵は庶民に好感を持って迎えられ今日に至っている。そしてこの地蔵は、小さい照手姫の笠掛地蔵を見おろすこともなく、むしろ引立役をなしている。
堂内右、自然石で作られた二体の地蔵由来
 ここより西300m、同町内に竜宝院と名乗る古刹があった。
 この寺は伊吹山弥高百坊の一つであったが天正の兵火で焼失、柏原の地へ転出して来たが昭和15年廃寺となった。残された自然石の二体の地蔵を当地が預かったものである。これで堂内がにぎやかになった。
 照手姫の笠掛地蔵の縁で年中近所の人々の供花が絶えず、八月の地蔵盆にはお供物の山で一杯になる。
おまけ:撮影mocchi
20170811umiyamahanabi-2-1q.jpg
先日与謝野町・阿蘇シーサイドパークからの花火

「白清水」の水評価は、汲んで帰って飲んだ時は「イマイチ」と思い、一緒に汲んできた「子宝の水」の方ばかり飲み、飲み終えてこちらを飲んでみると「うむ、飲めるぞ」と変わっていた。結局仁和飲んでしまった・・・が、池の底が・・・で
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v
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