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NO229:「行者湧水」

 2017年5,5金剛山 069-1q
 今旬の大阪「金剛山」へ登ってきました。その折近くの「行者湧水」も汲みに行ってまいりました。
予定では5月6日(土)に行こうと考えていたのだが、天気予報が雨になるとのことで急遽5日に変更。当日天気は晴れ~\(^o^)/
という事で、高速で一路南阪南道路の羽曳野ICで下りて国道170号で千早赤坂村の金剛山登山口に着いたのがAM10時ごろであった。我が家から約3時間
  2017年5,5金剛山 004-1e
到着したら駐車場は満車で、少し離れた所の小さなスペースを駐車場にしているトコロに
   2017年5,5金剛山 001-1t
一回500円を
   2017年5,5金剛山 002-1y
袋に入れて、ナンバーを書いてポイ
さあ出発
  2017年5,5金剛山 003-1u
登山道へ入り
  2017年5,5金剛山 007-1i
登る前にトイレに
  2017年5,5金剛山 009-1p
皆様方のひとりひとりのご協力をお願いします
募金でいただいたお金はトイレットペーパー等さわやかトイレに必要な物品の購入等に使用します。
          金剛山系対策協議会
コインをチャリンと入れて本格登山へ
  2017年5,5金剛山 011-1a
千早赤阪村は千早村と赤坂村が合併してできた大阪唯一の「村」
金剛山の登山口には鎌倉時代後半に活躍した武将『楠木正成』の千早城があった所で国の遺跡に指定されているようです。
途中、水力発電を見ながら
  2017年5,5金剛山 012-1s
今回はストライキをしている模様(+o+) 
登り始めてスグ、面白い看板を発見
  2017年5,5金剛山 013-1d
パワースポット千早城(千早神社)
大楠公(楠木正成)は、ここ千早城に手勢800人と籠城し、北条軍11万に対峙した。
周囲は急峻な崖、北条軍は地形を熟知した楠公軍の昼夜を問わぬゲリラ戦に悩まされ、被害の山を築く。
開戦、100日鎌倉幕府は壊滅し北条軍は千早を去った。
人は知力・体力・気力の限りを尽くせば無限の力を発揮する。
千早城跡は絶対落ちないパワースポットだ。
受験・選挙・企業業績、総てのパワーは千早城にある。 
  2017年5,5金剛山 015-1f
まだ10時過ぎ、こちらは上がって行くのだが、もう下りて来る人も
今旬と書いたのは、金剛山の事がテレビで何回も放映された。特にNHKの72時間テレビでの定点カメラ、その中で金剛山の頂上(実際は別の場所)ライブカメラがある事を全国へ知らせた。
そのライブカメラには、1時間ごとに停止写真をHPに配信しているのである。
中にはそれを利用して、早朝登山し親族へ今日も元気の姿を知らせていると
さらに進むと
  2017年5,5金剛山 018-1h
千早城へ登る脇道、今回はパス
2017年5,5金剛山 014-2w
途中、お地蔵さん  その下の板には
雨の日には、雨の日の
  風の日には、風の日の
     かけがえのない
         大切な人生がある
おめあては
   生死流転の   この私
    合掌   博石
と、仏教の悟りを開いた方か・・・(?_?)
  2017年5,5金剛山 019-1j
登山道は階段が整備されています。この時点は、まだ階段と地道が並行で登りやすい
さらに急斜面では
  2017年5,5金剛山 020-1k
九十九折れの道、
千早城めぐりコースとここで合流
  2017年5,5金剛山 021-2q
左:楠公城跡   標高634m
こちらは登り口が急な階段でしんどいと言う事でやめときました。
そして階段のみへと登山道はなって行くのでした。
  2017年5,5金剛山 022-1k
標高1125mまでの5合目にやっと着きました
  2017年5,5金剛山 023-1l
さらに階段を上って行き
  2017年5,5金剛山 024-1z
 途中
  2017年5,5金剛山 029-1x
奉納
金剛登山20回を迎えるに当りその記念としてここに六地蔵尊を奉納し、登山者の無事と国家の安泰を祈願する
昭和57年10月24日
  四天王寺高等学校  四天王寺中学校 
六地蔵尊の下の板には
『患者って心に串が刺さっていると書くんだネ
   はやくその串が抜けますように』  博石
2017年5,5金剛山 030-1c
ブナの大木を見ながら、またまた地蔵尊
 2017年5,5金剛山 031-2w
奉納:学園創立70周年を記念してここに地蔵尊(大定智悲)を奉納し登山者の無事と世界の平和を祈願する
平成3年11月1日  学校法人四天王寺学園
四天王寺羽曳丘高等学校 四天王寺羽曳丘中学校
地蔵尊の下には
極楽は西にあらず
     東にもあらず
      吾が来た(北)道の
        みな身(南)にぞある
            博石
  2017年5,5金剛山 033-1v
最後の階段、もーちょい
  2017年5,5金剛山 034-1b
あーえらかった
  2017年5,5金剛山 035-1m
史跡  金剛山
説明: 金剛山は海抜1125m葛城山脈中の最高峰たり。頂上付近一帯役小角の開きし転法輪寺の社を存し法起菩薩を祀れる修験道の霊場として夙に著名なり
今絶頂に葛木神社を奉祀し、転法輪寺を再建す。
その西北方平坦にて展望よき廬
所謂国見城址なり、元弘二年
楠木正成再び義兵を起すや、その詰城千早城の背面防御の地なり。
北条氏の大軍分かれて三方より楠木城に迫るや、その大和口に当れるは蓋しこの山なるべし。
昭和9年3月13日指定   文部省

階段を上り切った広場は人達が込み合い行き交っていた
 2017年5,5金剛山 037-2e
散策しながら「金剛山転法輪寺」へ
  2017年5,5金剛山 039-2t
・・・と、当日は5月5日・・・「子供祭り」というイベントを山伏姿の方たちが・・・面白そうなので見て行く事に
 2017年5,5金剛山 042-2t
どうも山伏が火渡りの行を行う場の様である
  2017年5,5金剛山 044-2y
その山伏の姿の中に女性の方がおられた。憲法に保障された男女平等がここにも(^^)/ 
大峯山修業はどうされるのかな・・・・・・まぁ大峯山だけが修業の山ではないのだが・・・・・・
『懺悔懺悔(さんげさんげ)、六根清浄(ろっこんしょうじょう)』の掛け声で
  2017年5,5金剛山 060-2u
女の子が挑戦・・・・・・焼炭の上ではなく、山伏を押して向こうまで行く修行である
  2017年5,5金剛山 061-2i
あと少し
2017年5,5金剛山 065-2o
今度は男の子・・・・・・ガンバレ\(^o^)/
  2017年5,5金剛山 057-2o
そして最後に階段を一緒に登って行く。
  2017年5,5金剛山 047-2p
金剛山「転法輪寺」の由来(ウィキペディアから)
修験道の開祖とされる役小角が16歳のとき金剛山に登って苦修練行を重ねた結果、天智天皇4年(665年)祖神一言主大神を鎮守とし、法起大菩薩を祀る金剛山寺(転法輪寺)を建立して神仏習合の霊山としたのが開創と伝承される[1]。奈良時代より明治維新に至るまで修験道七高山の1つに数えられ、歴代天皇の勅願所として五堂七宇の殿堂輪煥の美を誇った[1]。

行基、鑑真、最澄も来山し、聖宝も修行したと記録される[2]。

鎌倉時代の末、楠木正成がわずか5百の兵で金剛山中腹に築いた山城(やまじろ)の千早城に戦陣を張って、鎌倉幕府が派遣した総勢5万といわれた関東の軍勢を寄せ付けなかったのは、金剛山寺(転法輪寺)の修験勢力の支援が大きかったと伝わる。

さらに、こどもの日イベント会場の山伏の方々は
  2017年5,5金剛山 040-2a
『司講』発足
この度、金剛山転法輪寺『司講』を発足させて頂きました。
当寺『司講』は金剛山脈を中心として活動する山伏修験者を育成し、葛城修験道再興を目的とした山伏集団です。
そもそも『講』とは、各各住んでいる地域の住民や、自営業者達が集い、大峯山登拝やお伊勢さん参りなど、お参りを目的としながらも、皆で一緒に親睦を兼ねて巡礼をする集団の事です。
現在『司講』が予定しています活動内容につきましては転法輪寺の行事に参加ご修業頂く事や、大峯山修業、奥駈修業、葛城二十八宿の行場めぐり、その他日帰りで近隣の寺院に参拝させて頂く事等も考えております。(その他いろいろ)
そして何より、ご自身が山伏修験者になって、お山へお寺へとご修業頂く事で、今まで見えなかった事や、思いつかなかった事を感じて頂けると思います。
山伏修行では、難しい事や分かりにくい事がたくさんあるとは思いますが、皆で一緒にお山や自然から色々な事を学びましょう。
少しずつかも知れませんが、きっと私達にとって大きな力となる事でしょう。
『司講』と致しましては、老若男女たくさんの入魂を、お待ち申し上げます。    合掌
名称:金剛山転法輪寺『司講』(つかさこう)
講元:金剛山転法輪寺 第61代住職 葛城光龍
入講条件:男女年齢不門(2・3の質問に答えて頂きます)
会費:不要(実動費はそのその都度徴収致します)
連絡先:金剛転法輪寺  住職 葛城光龍

こどもの日のイベント主催者の山伏の方は、司講の面々でした。
そして、金剛山の頂上へ向かっていきました。
  2017年5,5金剛山 048-2a
金剛山の山頂は葛城神社の神域になっており、葛城神社の裏手が山頂であり立ち入り禁止区域の様です。
とりあえず山頂によって来るという事で、人混みの中参道を歩いていると、相方さんがこれを写しておかな・・・指を指した先には
   2017年5,5金剛山 049-2s
夫婦杉の大木が(@_@;)、もともと二本の杉が大きくなり根元が合体した杉の様であり、まさに夫婦スギにふさわしい\(^o^)/
それにしても多くの人で1125mの山頂とは思えない、というのもロープウェイを乗って来られる登山客もここを通り、国見城址広場へ行く通り道の様である。
   2017年5,5金剛山 051-2d
ここを上がれば
   2017年5,5金剛山 052-2d
葛城神社に到着!(^^)!
  一言主神(ひとことぬしのおおかみ)、後醍醐天皇、楠木正成を祀っているようです。
本来の目的、国見城址広場へと歩みを進めた。
国見城址は、楠木正成の弟楠木七郎政季の根拠地で一種の砦であったそうな、金剛山系の中で一番の見晴らしの良い処である。
来た道を帰り、登山道の到着地を左の方へ行けば
  2017年5,5金剛山 067-2g
大阪平野が一望です\(^o^)/
2017年5,5金剛山 066-2g
とりわけPL教団の大平和記念塔が目立ちます(^^)/
大阪平野を見ながら食事をしていると、PM12:30になろうとするとき人達が集まり出した。そういえば、5月の連休中は30分ごとに定点写真がHPにアップされるとの事
  2017年5,5金剛山 068-2h
そして、誰かが12時半だぞーとの声で、ライブカメラに向かって各々のポーズを(^_^)v
こんなことが、30分毎に行われていたのでありました~(~o~)金剛山ライブカメラ情報
という訳で、山頂から来た道を下山と相成りました。後で思ったのだが、ロープウェイ側から下山すればよかったかなと、後悔千万中です。
帰り道、登っている時には目に映らなかった現代風な石像
  2017年5,5金剛山 076-2j
こんなモノもまたアリかも、と思いながら登山口に到着。そこから「行者湧水」販売所に行くには別の谷に、国道310号奈良県五條市へ行く道沿いに在るという。
府道705号から府道214号へ入り、国道310号を奈良方面に走っていると
   2017年5,5金剛山 078-2l
幟がはためき、それらしき建物。乗り入れてみると
  2017年5,5金剛山 079-2z
水汲み場所にしては広い駐車場。それだけ「行者湧水」の愛好者が多いい事なのか・・・・まぁ地元農産物も販売している事も含んでの「行者湧水農林産物販売所」という名称
ここで一回(数量ではなく)500円支払い
  2017年5,5金剛山 083-2c
学校の手洗い場のような所の蛇口からは水が出しっぱなし、それだけ湧水の量が豊富なのだろう。
これで全ての目的が達成でき、心に余裕ができ奈良県まで走ってみる事に
   2017年5,5金剛山 085-2v
見ごたえのある視界であった。満足の一日も終わっていったのでした。

独断と偏見の「行者湧水」の評価は、水は軟水に思えた。案外軟水の方がコーヒー本来の味が判るのかも。喉越し良く嫌みのない飲み口であった。多くを書くとボロが出るのでこの辺まで(^_^)/
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v でした
詳しい場所は



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NO228:有馬温泉の「炭酸泉」

 2017・4・22有馬 036-1q
今回は相方さんの要望で有馬温泉へ行く事に、「金の湯」か「銀の湯」のどちらに入るかは行って決めるとゆうことで出発。
吾輩は、以前から気になっていた「炭酸泉」を汲みに、それと「有馬三名水①高塚の清水」の時に又の機会に行ってみたいと思っていた、ロープウエイから見えた山頂のお寺「妙見寺」にも御参りしてくることでした。
2017・4・22有馬 037-1w
妙見寺へ向かう参道へ向かっていると、猿まわしの幟がはためいていた。これは見て行かなくっちゃ・・・と
行くと「ゆう」君と言う猿君が座っていた。
  2017・4・22有馬 002-1e
それでは猿回し曲芸団の始まり、始まり~ \(^o^)/まずは、お客さんへ挨拶
 2017・4・22有馬 009-1u
本来の猿の姿から
 2017・4・22有馬 006-1t
 成長した姿デス
 2017・4・22有馬 007-1y
最初の曲芸・・・高跳び…①です
  2017・4・22有馬 010-1i
さらに、さらに高くしての高跳び・・・③デス
 2017・4・22有馬 013-1o
おみごと!(^^)!
次なる曲芸なるもの、竹馬による
 2017・4・22有馬 014-1p
ハードル越えでござ~い パチパチパチ
 2017・4・22有馬 016-1a
さらに「ゆう君」張り切って
 2017・4・22有馬 018-1s
五段越えでアリ~ンス・・・無事着地
 2017・4・22有馬 020-1d
次なる曲芸、「ゆう君」の何倍も高い竹馬乗り・・・いかに
2017・4・22有馬 021-1f
まずは低いところから、そして
 2017・4・22有馬 023-1g
「ゆう君」の背丈の三倍は有ろうかと思われる高さ・・・人間様よりご立派お見事\(^o^)/
ところが
  2017・4・22有馬 025-1h
下りるのは苦手だそうで、手を差し伸べてもらい着地・・・そしてドヤ顔
  2017・4・22有馬 026-1j
そして最後の演目は跳び箱、このタイミングで観衆のみなさんへ「おひねい」のお願い
 2017・4・22有馬 027-1k
それが一通り終わり、次なる曲芸に気持の統一
 2017・4・22有馬 028-1k
まずは狭いところから
  2017・4・22有馬 029-1l
エイ
 2017・4・22有馬 030-1z
さらに、さらに時間がないので長~くしての跳び箱 エイ  ヤア
  2017・4・22有馬 031-1m
猿も木から落ちる・・・ではないが、あわや失敗の巻
 2017・4・22有馬 032-1x
再度の挑戦、最後尾からの助走で、エイ、エイ、ヤア・・・・・・と着地成功
吾輩の写真にも皆様の拍手・・・・・・(*^_^*)
おひねり、ありがと~
 2017・4・22有馬 035-1
吾輩も、二人分お札(金額は言わない)をエイとかごに入れて、思いもよらない余興に出逢い満足の気持ちで妙見寺の参道へと登り始めた
 2017・4・22有馬 038-2q
少し登ると、西国三十三ヶ所と書いた石柱
  2017・4・22有馬 061-2w
その横には、第一番札所「那智山・青岸渡寺」の石像
  2017・4・22有馬 060-2e
その上の脇道の入口には
  2017・4・22有馬 041-2r
有馬グランドホテル・雅中庵の字が掘られた柱で、これ以上は我が敷地内との標識・・・が写真を写した目的は
  2017・4・22有馬 040-2t
柱の上に自生するキノコのかわいさ余って・・・(*^_^*)
 2017・4・22有馬 045-2y
途中の石仏は省き、このような道を歩いて行くと
  2017・4・22有馬 058-2i
赤や白の石楠花が民家の庭に咲き誇る綺麗な花を見ながら
  2017・4・22有馬 059-2o
道も開け
  2017・4・22有馬 046-2u
間もなく妙見寺の参道・・石段に差し掛かった
 2017・4・22有馬 047-2i
妙見寺:日蓮宗
鎌倉時代、元真言宗金杖山金剛寺を法ヶ宗(現日蓮宗)に改宗されました。本尊の福徳開運北辰妙見大菩薩尊像は後小松天皇の勅願にて、三代将軍足利義満公が棒持。有馬の鎮護にと祀られ、明治39年愛宕山の麓より落葉山の山頂に移したお寺です。
2017・4・22有馬 048-2p
石段の次はこのような参道を、途中身近な成相寺の石造
   2017・4・22有馬 049-2f
さらに登って行くと
  2017・4・22有馬 056-2d
石の鳥居、明神鳥居と言われている棟にあたる「島木・笠木」の部分がなくなっているが柱は立ったままの鳥居、おそらく阪神淡路大震災の時に割れて落ちたのではと推測・・・そこからの展望は
  2017・4・22有馬 057-2s
温泉街を一望、頂上の景色360度想像して気持は急ぐ
石像33番最後の札所「谷汲山・華厳寺」
  2017・4・22有馬 055-2f
そこから最後の石段を上り詰めると
 2017・4・22有馬 052-2f
落葉山の頂上
  2017・4・22有馬 053-2g
・・・・・が、周りを見渡しても木々が生い茂ってなぁ~にも見えやしねェ・・・・・ガク
しかし、妙見寺のお堂は立派でした
  2017・4・22有馬 054-2h
されど、人1人っ子いない寂し~い お寺   周りの木々を手入れして360度見渡せる展望台を整備して宣伝すれば、今人気のハイカー達が登って来ること間違いナシ・・・とアドバイスしておこう・・・余り当てにはならないが(?_?)
先程の展望の良い所で食事をしていたら、若いカップルが登って来たが、出会った人はそれだけであった。
温泉街へ下りて、温泉寺へ
 2017・4・22有馬 062-2k
石段の下に
  2017・4・22有馬 063-2l
温泉寺から念仏寺に向かう坂道は、古くから「願い坂」と呼ばれていますが、有馬の昔話によると、次のような言い伝えがあります。
1589年に太閤秀吉が有馬を訪れた時のことです。清涼院から西南の方向にある高台に登り、杖でとんとんと地面をたたいて祈りました。
「もし、この地に温泉が湧き出したら、海の彼方までわしの土地になるだろう。湯よ、湧き出せー!」
すると、足元から少しずつ湯が湧き出し、温泉場になりました。人々は、この温泉を「上之湯」とか「願の湯(ねがいのゆ)」と呼びましたが、秀吉が亡くなると湯も湧き出なくなってしまいました。
(有馬ナビ・有馬の昔話からおかれしました) 
温泉寺
  2017・4・22有馬 064-2z
く炭酸源泉公園までの道すがら寄り道をしながら行く事に
  2017・4・22有馬 068-2x
温泉寺:禅宗黄檗派
 この寺は、有馬温泉の歴史と共に盛衰を同じくしており、奈良時代僧行基が開基、鎌倉時代仁西上人再興、桃山時代北の政所が復興、そして元禄時代黄檗派になっています。明治維新の神仏分離以後衰徴し、清涼院以外の寺院は廃絶しました。
 以後略
本尊様は薬師如来坐像
  2017・4・22有馬 069-2c
その周りに有る十二神将のどれかが波夷羅大将立像(はいら)は国の重要文化財との事
その横に極楽寺
  2017・4・22有馬 073-2v
極楽寺:浄土宗
594年、聖徳太子によって創建されました。1996年、庫裏再建のため解体、発掘の結果、豊臣秀吉の湯山御殿跡の遺講が発見され、1997年神戸市の指定史跡、第二号(伝太閤閣湯山御殿跡)に指定されました。
  2017・4・22有馬 074-2b
更に路地を進むと、ねねの別邸と伝えられる念仏寺が
 2017・4・22有馬 076-2n
路地を歩いていると、そこ彼処に源泉が有ります
妬(うわなり)泉源
  2017・4・22有馬 079-2m
二つ目極楽泉源
  2017・4・22有馬 081-3q
三つ目金泉源
  2017・4・22有馬 097-3w
と、辺りを見ながら歩いていると、足元にも
 2017・4・22有馬 083-3e
有馬温泉:寺町界隈
時代と共の変貌してきた有馬温泉にあって、この寺町界隈は寺社が集まっており、古くからのサンクチュアリ(聖域)の佇まいを保っています。
そして、この界隈は古くなった寺院の鬼瓦が魔除け・邪気払いの意をもって、町内各所に配置されています。
温泉で身体の疲れを癒し、この界隈を散策し心の静まりを得た後は、、有機凛々と世の中に打って出ましょう。
城崎温泉の観光地を案内する看板の所に鬼瓦が設置されていました。
そして目的の炭酸泉源広場へ到着
  2017・4・22有馬 085-3t
登って行くと社が立っていた
  2017・4・22有馬 086-3y
この中には
  2017・4・22有馬 090-3u
炭酸泉が出ているはずだが・・・・・枯れていた((+_+))
  2017・4・22有馬 087-3o
炭酸泉について
 左に有る碑(写真は無い)には、炭酸泉の発見の経緯や発見者の功労について帰されています。
 要約すると、明治6年に湯山町戸長の梶木源次郎が横浜の平野留七という人から湯山町杉ヶ谷に炭酸ガスを含む泉が湧くところがあることを聞き、毒水と呼ばれ、人が近づかなかったこの泉を思い出し、その後、兵庫県庁に要請し、内務省司薬場の検定を経て、炭酸泉を開いたということです。
 また梶木源次郎は、道路の改修や地租改正などにも尽力し、地元の人々がその功績を讃えて、この碑を建てたことも記されています。
【元文略】
  2017・4・22有馬 091-3i
社の左横には、炭酸泉が汲めるように蛇口が設置されて、そこから一筋の炭酸泉が流れていました。蛇口を開けようとしても開かず、このの雫を観光客と入れ代わり立ち代わり二本入れたのだが、所要時間、な!なんと!30分付かれた~
という訳で、無事炭酸泉をゲット
帰りには
  2017・4・22有馬 092-3a
今回は銀泉の日帰り温泉へ。二回目の銀泉だったが、今回は思いがけなくお客が多かったデス。
「炭酸泉」の珈琲をたてた水評価は
まず「炭酸泉」を沸かすとウスキャラメル色に変色、これは炭酸泉の特徴らしい。次に、ペットボトルで保存していて蓋を開けるとポンと音がした。炭酸ガスが発生している証。しかし、日が経つにつれてウスキャラメル色へと変色、そしてオラオラの発生と御世辞にも進めれる代物ではなかった。
珈琲にして飲んでみると、今までに飲んだことのない味であったが、まぁ飲めました。
(^_^)v (^_^)v
詳しい場所


 

NO227:お姥様の水

 2017・4・9谷ク汲山 075-2z
「華厳寺」を後にした我々は、丁度、観光バスの後について出発。
おそらく観光バスも「淡墨桜」へ向かうであろうと勝手に思い込み、出発間もなくカーナビが道をそれるように指示を出したが無視して付いて行った。
道の分岐点でも方向が同じであった為安心して付いて行っていると、再度カーナビが道を外れの支持を出したが無視をしていこうとすると、我がかーなび(かーちゃんナビ)が曲がった方が良いのと違うかと連発コール・・・この圧力に「根性の弱い」吾輩は屈伏してしまい引き返す事にしてカーナビの指示する方向へ行く事にした。
進んで行くと、道が段々と狭くなり
  2017・4・9谷ク汲山 067-2c
こんな所に連れてきてしまった・・・が、元カヌー乗りの吾輩は、このような川を観るのは嫌いな方ではなく、楽しみながら誰も来ない道を走って行った。
2017・4・9谷ク汲山 068-2v
こんな瀬を見ると気持がゾクゾク、未だカヤッカーの気分は抜けきらず(^^)/
  2017・4・9谷ク汲山 069-2b
こんな所をのんびりと漕ぎながら雰囲気を楽しむ、急流を下った後はトロ場が待ち構え、一服の清涼感(*^_^*)
楽しみながら走っていると
「根尾谷断層」と言う看板が、なんでも1891年10月28日に襲った濃尾地震により上下に6m長さ1000mにも及ぶ隆起が起こった現場だそうで、その時はスルーをして通り過ぎたが、今思えば見ておくべきであったと悔やんでおります((+_+))
ソコから10分も走らずして、淡墨公園へ
  2017・4・9谷ク汲山 070-2n
観光バスも・・・駐車場も一杯、桜の現場へ
  2017・4・9谷ク汲山 072-2m
チョイト邪魔な人が写って雰囲気が判りませんが、ぞろぞろ皆坂道を登って行く様子は、華厳寺以上の人並みでした。
そして「淡墨桜」
  2017・4・9谷ク汲山 074-3q
我ながら自慢の一枚(*^^)v
 2017・4・9谷ク汲山 073-3w
ここで「根尾谷淡墨桜」のシオリから説明
1500年生きてきました!【なぜ?長生きできたのか】
①長寿の種類(エドヒガン桜)
②日当たりが大変良い(陽樹の代表)
③強風が当たりにくい(背後に山)
④地下水が豊富にある(ミネラルウォーター)
⑤一番の理由は、皆さんが関心を持ってくれている
淡墨桜の特徴
原種の一つで、つぼみの時はピンク色満開の時は白色、花の散り始めになると名称の特徴となる淡い墨を引いたような色となる
樹高:16,0m
幹周り:9,91m
枝張り:東西27,6m 南北25.0m
日本の三大桜
○山高神大桜(山梨県北杜市)
○根尾谷淡墨桜(岐阜県本巣市)
○三春滝桜(福島県三春町)
次の二本を加えて五大桜
○石戸蒲桜(埼玉県北本市)
○狩宿の下馬桜(静岡県富士見市)
いずれの桜も、1822年(大正11年)10月12日国の天然記念物指定1号となった。
理由:由緒ある桜の代表的巨樹
1500年前誰が植えたの?
昭和8年頃、愛知県一宮市の真済田神社にゆかりのある、土川家から「真済探當証」なる古記録が出現
その古記録によると・・・
第26代継体天皇(507~532)が幼少時迫害を逃れ根尾谷に住まわれた。
29歳でここを去る時名残を惜しまれ一首添えて記念に植えられたと記されている。
『身の代と遺す櫻は淡墨よ 千代に其名を栄盛へ止むる』
宇野千代さん桜保護の訴え
 1959年(昭和34年)9月26日この地方を襲った伊勢湾台風により、枝葉をもぎ取られる被害を受けました。
 その後、保護策を施したが樹勢は回復しなかったそのような時、宇野千代さんは昭和42年に訪れ痛々しい姿に心をうたれ、それにより保護運動が持ち上がり枯死を防いだ。
生きよ薄墨桜!
  238本の根継ぎ手術
○昭和23年国の調査
   判定は「あと3年待たずに枯れる」
○昭和24年3月10日~4月5日(27日間)
前田利行氏(78歳)歯科医師
大工の頭領 中島栄一と弟子2人
植木職人 藤井与一
看護婦 中島五百
村民 73人 小学校児童
昭和26年春  見事な花を付け生き返った
騒ぎなよ花咲く時の山嵐
     心して吹け淡墨の側
ちなみに上の写真は5分咲きの様子です。
写す場所が違えば
 2017・4・9谷ク汲山 086-3y
少々みすぼらしい花の付き具合・・・?
裏の山際にはお堂が
  2017・4・9谷ク汲山 081-3e
この場所から見るのも良いのかも・・・当日は5分咲きの為か今一の花の付け具合でしたので写真はナシ
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淡墨観音の由来
ここにお祀りしてある御本尊は聖観世音菩薩であります。或る年妙心寺派高橋至道老師
花見の折に曰く、「此處に衆生に化縁深き観音菩薩を祀れば天下の名木と成らん」と、此の時宮脇畄之助氏は淡墨桜の護りの本尊として此處に堂宇を建立し観世音菩薩を祀ることを決意した次第です。
本尊は大正元年の暴風雨の際折損した淡墨桜を以て郡内七郷村(現在岐阜市)辻寿山氏に彫刻させたものであり、堂宇は本村大井西の谷の天然木を用い又幾多の御喜拾を仰ぎ大正12年5月18日に盛大な開眼供養が挙行され今日に至ったのであります。
天下の名木淡墨櫻を中心公園化の構想を持ったのも此の頃と同氏の記録に有ります。
  2017・4・9谷ク汲山 089-3t
名残惜しい「淡墨桜」ともお別れして、「お姥様の水」を探しにR157号を北上、案外早く見つかり
  2017・4・9谷ク汲山 090-3u
国道沿いに、看板も
  2017・4・9谷ク汲山 091-3i
名水「お姥様の水」の伝承
 今を去る約1500年の昔、大男迹王は皇位継承による迫害に遭い、生後50日の幼少の身で従者に護られ尾張より美濃路に入られ此の神所付近に仮住いされたと伝承されています。
 天皇に供奉された「おなみ」と申される姥は心優しく村人を教導され、又お産の手助けもされて村人に慕われ尊敬されました。
 大男迹王は第26代継体天皇として御即位の為、姥は天皇と共に都へ上がられた後、此の姥をお祭申し上げたのが姥ヶ神社であると伝えられています。
 この神社の下より湧き出る水は昔より涸れる事なく、又お姥様の「安産の水」とも言われて有名な清水であります。
 渾々と湧出る霊水は、岐阜県の名水100選(昭和61年)に指定されております。
                        本巣市
階段を降りて行くと「姥ヶ神社」が
  2017・4・9谷ク汲山 095-3a
その下へ
  2017・4・9谷ク汲山 094-3s
降りて行くと「お姥様の水」の湧水池が
  2017・4・9谷ク汲山 096-3d
車で降りて行こうとするも狭く、道が田圃の方へつながっていたのでそちらから上がって行く事にして、野良仕事をしているオジサンに道を尋ねると、「その水なら、墓地の横までパイプで来ているでぇ」と、そこへ行く道を教えてもらい行く事に
  2017・4・9谷ク汲山 099-3g
墓地は在ったものの、その横に煙突のたった小屋が・・・・どうも火葬場の雰囲気が・・・田舎では未だにこのような簡易火葬場が有るそうだ。あまり気持のよい場所ではなかったが、ちょうど地元の方が水汲みに来られ
 2017・4・9谷ク汲山 092-3f
その方曰く、これでご飯やお茶を飲むと美味いとか・・・3日に一度は汲みに来るという事で、期待をそそられながら残りのペットボトルに水を注ぎ、親父さんにお礼と何がしかの小銭を賽銭箱に入れて帰宅の途に着きました。

「お姥様の水」の水評価は、見事に期待を裏切られてしまい、軟水の普通の水に吾輩は思えた。
独断と偏見の水評価は
strong>(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vですた。
詳しい場所は


NO226:姫ヶ井の泉

 2017・4・9谷ク汲山 043-2q
菅原道真公が谷汲山へ参拝されたとき、この山の清水を汲み「閼伽の水」として竜宮の乙姫様が差し上げたことから、古来より谷汲山へお参りする巡礼のとき利用したといういわれが残る「姫ヶ井の泉」へ
とりあえずそこへ向けて国道303号を南下、と・・・道の駅「星のふる里・ふじはし」が・・・な!なんと温泉付きの道の駅
 2017・4・9谷ク汲山 014-2w
そこでは小型おーぷんかーのオーナーズミーティング中、
 2017・4・9谷ク汲山 015-2e
オープンカーを写したいがためにソ~と横の方に吾輩の車を止めてハイパチリ
予定が変更されたため、トイレ休憩程度で出発。「姫ヶ井の泉」の場所は住所・志津山の辺りに在る事しか判らなかった。
地図では、谷汲山「華厳寺」への参拝道を過ぎた辺りから山側へ入って行ったところに位置する事ダケ、
ところが、参拝道は国道303号には何本もある事を知らず、そのうちの一本を過ぎた辺りで山側の路地に入って行ったのだが田圃の中広くてわからず、探しながら走っていると「揖斐川歴史民俗資料館」なる建物が目に入ってきた。
こりゃシメタ・・・と尋ねて行き、次の谷汲山へ入る信号を過ぎてしばらく行くと「コメリ」があり、そのすぎた所から入って行けば「姫ヶ井の泉」があると教えてくれた。
言われた通り車一台が通れる道に入って行くと
  2017・4・9谷ク汲山 037-2r
それらしき朽ち果てた遺物が在った。「地域住民による定期的な清掃」と情報元には書いてあったが、どう見ても住民からは忘れられた存在のように見受けられる
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石の垣根の奥に岩を伝って湧水らしいものが流れている。この水が本来なら
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流れ落ちて来て小石の中に埋めてあるパイプを伝って黒い丸の中の水受けに溜まるようにしてあるのだが、住民による定期的な清掃どころか荒れ放題の現状では、清水もストライキを起こしているのか出ていなかった(+o+)
一度は汲む事を諦めようかと思い車に乗り込んだのだが、諦めきれず、大きな声では言えないですが、石の柵を乗り越えて神聖な所に入り込み、流れて来ている水を根性で汲んできた。二本汲もうかと思ったが、結構手間取り一本でやめにした。まぁ人が通らなかったので良かったが、こんなことはしてはいけないノダ(~_~メ)・・・誘惑に弱い吾輩デスタ(~_~;)
で、華厳寺へ到着
  2017・4・9谷ク汲山 041-2u
駐車場も満車状態であったが、どうにか入れた
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おそらく谷汲山「華厳寺」では参拝者が一番多いい季節では・・・と思いながら門前町を散策
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大きなお犬様も御参り
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地元のテント村も盛況
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そして仁王門に到着
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華厳寺の境内図
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山門をくぐり参道を
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歩いて行くと、谷汲山「華厳寺」の由来記が
  2017・4・9谷ク汲山 058-2j
  谷汲山根源由来記(チョイト多いいががんばってみます。途中で挫折するかも(^_^)/
 當山は人皇50代桓武天皇御宇延暦17年・・・・という所で挫折・・・例の如くウィキペディアから抜粋
歴史[編集]
永禄3年(1560年)成立の『谷汲山根元由来記』によると、華厳寺は延暦17年(798年)、会津黒河郷の豪族大口大領なる人物によって創建されたという。『由来記』によれば、大口大領は都の仏師に依頼して自らの信仰する十一面観音の像を造立した。彼は観音像とともに会津に帰ろうとしていたが、途中、美濃国の赤坂(現・岐阜県大垣市)で観音像が動かなくなってしまった。赤坂の北五里の山中に観音所縁の霊地があるというお告げを受け、大口大領は同地に草庵を建立。延暦末年に、当地で修行していた僧・豊然上人(ぶねんしょうにん)の協力を得て華厳寺を建立した。

延暦20年(801年)、桓武天皇の勅願寺となり、延喜17年(917年)には醍醐天皇が「谷汲山」の山号と「華厳寺」の扁額を下賜。天慶7年(944年)には朱雀天皇が鎮護国家の道場として当寺を勅願所に定め、仏具・福田として一万五千石を与えたという。「谷汲山」という山号については、寺付近の谷から油が湧き出し、仏前の灯明用の油が汲めども尽きなかったことに由来する。

西国三十三所霊場の中興者と伝承される花山法皇は徒歩で巡幸し、当寺を第三十三番札所の満願所と定め、禅衣(笈摺)、杖、及び三首の御詠歌を奉納したと伝え、鎌倉時代には後白河法皇が花山法皇の跡を慕って同行千有余人を従えて巡幸したという。なお、西国三十三所巡礼について触れた最も古い史料である『寺門高僧記』所収の「行尊伝」及び「覚忠伝」では、第三十三番の霊場は三室戸寺になっており、園城寺(三井寺)の僧・覚忠が三十三所霊場を巡礼した応保元年(1161年)には、華厳寺は満願所ではなかった。また、三種の御詠歌(後出)のうち、「世を照らす」の歌は作者が判明しており、花山法皇ではなく、前出の覚忠の作歌である[1]。

建武元年 1334年足利氏と新田氏の戦乱が起こり、新田氏一族堀口美濃守貞満の乱をはじめとする戦乱で幾度となく諸堂伽藍を焼失するが、本尊ならびに脇侍等は山中に移し難を逃れた。

江戸時代には薩摩国鹿児島慈眼寺住職道破拾穀上人によって再興された
 2017・4・9谷ク汲山 059-2k
石段を上り詰めると多いきな提灯が釣られた本堂へ
 2017・4・9谷ク汲山 060-2k
お参りをして、本堂を一周している時の一コマ
 2017・4・9谷ク汲山 063-2l
そして本堂を後に
 2017・4・9谷ク汲山 065-2z
薄墨桜の郷へ行ったのであった。
「姫ヶ井の泉」の水評価は
今回三ヶ所を飲んでみた中、まだいけた方であったが、惜しくも5ランクまでは届かなかった
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v 
詳しい場所は

  
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