
明石市と言えば、明石大橋と子午線で全国に知れ渡っている街であります。近所の方が「明石焼き」を食べに行ってきたとの一言で、相方さんと一度食べに行ってくるか・・・と、さっそく明石の水汲みも兼ねての水汲み小旅行と相成りました。
その一つ目は、「亀の水」という柿本人麻呂が御神体となっている「柿本神社」にあるという湧水であります。
それがまた、神社の近くを子午線が通っていたのであった。
という訳で明石目指して出発。柿本神社は明石市立天文科学館の近くに在るとの事でそちらへ。

駐車料金2時間:200円に駐車、入館料大人700円×2を払い入ると間もなくプラネタリウムが始まりますとのアナウンス。
吾輩は乗り気ではなかったが、相方さんはイクイクと聞かない・・・で、敷かれ気味の吾輩は付いて行かざるをえん立場・・・・・
入口に着いてみると

長蛇の列・・・しかし、無事着席できシートを倒し観る体制に

日本最古のプラネタリウム、始まる前であったので撮影OK(^_^)v
終わってみると、スヤスヤと寝息がしとったと・・・相方さんが言いだし、オイラは寝てねぇよと言いだすも、気持ちの良い時間があったことも事実であった(^_^;)

このドームの中がプラネタリウム館、なぜか天文館の横は墓地の団地、次は天文館を見学と

こちらのタワー16階まであり、16回は天体望遠鏡が設置されている。今回エレベーターは14回まで
13~14回は展望室

明石海峡大橋がバッチリ\(^o^)/
展望室まではエレベーターで昇ったが、下りは螺旋階段を降りて行って各階を見学、チョイト変わったものは

宇宙へ行ってきたメダカの子孫だそうで・・・こちらです

宇宙メダカ:「宇宙メダカ」は、1994年7月、宇宙飛行士・向井千秋さんとともに、スペースシャトルに乗って宇宙旅行をしたメダカの子孫達です。地球へ帰還後に、ふ化した子孫たちは、全国の小学校などへ送られました。この水槽には、明石市立花園小学校の児童の皆さんが大切に育てた宇宙メダカが泳いでいます。
向井宇宙飛行士とともに、15日間の宇宙飛行した雌雄2ペア<計4匹)のメダカは、脊椎動物として初めて、宇宙で産卵を行いました。そして、宇宙飛行中にメダカの幼漁ふ化しました。最初の1匹のふ化を地上に報告してきたのは向井宇宙飛行士でした。
宇宙から帰ってきた親メダカ四匹は、浮き袋の使い方を忘れてしまっていました。重力のほとんど無い宇宙では浮き袋を使う必要が無かったためです。また、宇宙では尾びれを使う事も少なかったそうで、主に胸びれを使って泳いでいました。一方、赤ちゃんメダカは地上でも正常に泳いでいました。
地上に戻って4日目には、親メダカはほぼ正常に泳げるようになり、1週間後には産卵を開始しました。ふ化した稚魚も順調に成長しました。宇宙に滞在したことによる子孫への影響は、とくに認められません。
そしてこんなものも

あとは、感心のある方は行って観て下さいね(^_^)/
その横に有る柿本神社へ

石段を上がって行くと神門があります。その前には天文館から神社の方へ来れる通路が有りますが、神社の方からは行けない回転式の出口です。その出たとこにも

日時計が有りました。その横の方に見出しに出している子午線標示柱が立っていましたので、この日時計が二本の正確な時間を指示しているわけです。

日本標準時子午線標示柱:この子午線表示柱は、日本標準時の基準である東経135度子午線の位置を示しています。東経135度子午線は、昭和3年京都大学観測班が天体観測を行って、人丸山上を通過していることが分かりました。この結果、昭和5(1930)年1月、正月寺山門前にこの標示柱が建設され、「トンボの標識」の愛称で呼ばれるようになりました。そして、昭和26(1951)年の再観測で現在の位置(11,1m移動)に設置されています。
標示柱は、高さ7m、鉄柱の直径15cmで、上部のカゴ状の球は地球を表し、球の上には「あきつ島」(日本の異名)を象徴したトンボ(あきつ)がのっています。明石市・明石観光協会
このトンボの標識は、明石市最古の大日本中央標準時子午線通過地識標が明治43年10月31日に建てられた、その次に古いものだそうです。
神門を入り右手に手水舎があり

石像の亀から出ている水が「亀の水」なのか尋ねてみると、ホンマの水は今登って来た参道と別の石段を下りた所に出ているとの事、後程行くとして、とりあえず本殿へお詣り

由緒あるらしい狛犬さん

・・・と思いきや、明石市内で一番古いとの事で宝暦4年(1754)製・・・その横にも「御神木・筆柿」人麻公が石見国(現島根県)より都に行かれる途次持ち来たり植えられたと言い伝えられ婦人懐中すれば安産であると信仰されている・・・との事

御由緒
当社御祭神、柿本人麻公は
飛鳥時代宮廷にお仕えになられた歌人で明石にて詠われた歌も数多くあります。
元和6年(1620年)
当時、明石城主であった小笠原忠政公が人麻公を歌聖として大変崇敬され縁深いこの地にお祀り致しました。
主なご神徳は、学問・安産。火災除
更には、非常に愛妻家として知られる公を
夫婦和合の神としても お祀りしています
御命日とされる旧暦3月18日(現在では4月の第二日曜日)
には本御興に地域の子供達の神輿も加わり計五基のお神楽が練り歩きにに賑わいます
■末社:五社稲荷社 天神社 荒神社
天離(あまざ)かる 夷(ひな)の長途通(ながち)ゆ恋ひ来れば
明石の門(と)より大和島見ゆ
留火(ともしび)の明石大門(おはと)に入る日にか
漕ぎ別れなむ家のあたり見ず
知る人ぞ知る神社なのか、多くの観光客風なお詣りの方も多くおられました。
ウイッキペディアから
歴史[編集]
社伝によれば、仁和3年(887年)に明石の岡(赤松山とも。現・県立明石公園)にあった楊柳寺(後の月照寺)の覚証という住僧が夢中に柿本人麻呂の神霊がこの地に留まっているのを感得し、寺の裏の古塚がその塚であることが判明したために塚上に人麻呂を祀る祠を建てて寺の鎮守としたことに創まるという。
ただし創祀の事情に関しては、人麻呂が水死させられたという説があるので本来は非業の死を遂げた人麻呂の怨霊を慰めるために祀られた可能性、あるいは『古今和歌集』に詠み人知らずの歌として「ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島隠れゆく舟をしぞ思ふ」という歌が載せられ[1]、左註に「ある人」の言として作者は人麻呂であるとされ[2]、神社ではこの歌を縁起として重視していることと、人麻呂が文武天皇から下賜された船乗十一面観世音の仏像が大和国の柿本寺という寺にあったのを覚証が迎えて楊柳寺の奥の院に祀ったところ仏像の胎内から『和歌秘弁抄』なる書物1巻が出たとの伝承があることから、和歌を含めた秘事口伝が重んじられるようになった時代に「ほのぼのと」の歌が人麻呂作と信じられ、そのことが直接の契機となって神社が創祀された可能性が考えられる[3]。因みに当神社と密接な関係を持つ月照寺の寺伝によれば、覚証は大和国の広安寺なる寺から人麻呂の念持仏であった船乗十一面観世音を勧請して楊柳寺の奥の院に祀ると共に寺号を月照寺と改めたといい、また同寺では「ほのぼのと」の歌に「初生(ほのぼのと) 娑婆世界(あかしがうらの)朝立霧(あさきりに) 四魔滅(しまかくれゆく) 念仏(ふねをしぞおもふ)」との字を充て、各句を発心大円鏡智(生)、修行平等性智(老)、菩薩如観察智(死)、涅槃成行作智(病)、法界体性智(苦)の「生老死病苦」という仏教的摂理で解釈している[3]。
文明8年(1476年)4月に慶範という僧侶が大和添上郡の柿本寺(しほんじ。現・奈良県天理市に寺跡がある)の復興を目論んで行った勧進状に明石浦にも人麻呂の墓所があると記されているので、少なくとも当時までには広く知られる存在であったことがわかるが[4]、天正9年(1581年)には豊臣秀吉が「播州明石の人丸は和歌第一の神仙」であると大明石村の新たに開墾した田地30石を寄進し[5]、江戸時代に入って慶長17年(1612年)にもこれは安堵され[6]、元和5年(1619年)に小笠原忠真が明石の岡に明石城を築城することになると、同7年に替地として現在地である小山の崖上に月照寺と共に移祀され新たに社領40石が寄進された[7]。なお、遷座後は新鎮座地を人丸山と称するようになり(それまでは旧鎮座地を人丸山と称していた)、旧地にも人丸社が残されて明石城の鎮守とされ[3]、これは後に廃絶したが人丸塚は本丸跡に現存している。
柿本人麻呂の死去から1,000年に当たるとされた享保8年(1723年)に霊元上皇の執奏により正一位の神階と「柿本大明神」の神号が宣下されるとともに女房奉書が下賜され、命日とされた3月18日に盛大な一千年祭が営まれた。以来同日を例祭日と定め、古今伝授や天仁遠波(てにをは)伝授が行われる際には必ず奉告がなされる例となったが[3]、同年6月に霊元上皇が撫物を下付するとともに白銀3枚を寄せて3箇年の祈祷を命じると、桜町、桃園、後桜町天皇も当神社を勅願所と定め、また天皇を始め中宮、上皇、東宮といった皇室から時々の白銀奉納と撫物を下しての祈祷が恒例とされた他[6]、宮廷人や歴代明石藩藩主からも和歌の神としての崇敬を受けた。
明治7年(1874年)2月に村社に列し、同12年6月に郷社、大正15年(1926年)3月には県社に昇った。
月照寺はこちら

その前にある、もう一方の石段の参道を降りて行くと

徳川の葵の紋が入ったお墓の様なものも

、明石城主であった小笠原忠政公のかも(?_?)
そして入口の鳥居

その右横に「亀の水」が出ている立派な祠が

参道入り口の石柱には

水を汲んでいると、次から次へと地元の人と思われる方たちが汲みに来られ、でもなぜかお年寄りが多かった。

名水 「亀の水」
一、この清泉も元和7年(1627)山上の月照寺や人麻社にお請(まいり)する人々のために湧き出る清水を竹の筒で引き石亀の口より大きな瓶に受けりて諸人の利用に任せたので○る喜ばれ「名水亀の水」を講せられました。
一、只今の手水鉢(かんそうば)は享保四年(1719年)常陵国(茨城県)の人飯塚宣政氏の寄進によるものです
一、上に続く石段は、人名山西坂といひ江戸時代勅願所月照寺え参向せられた勅使の正式参道でした(月照寺伝)
いち、只今でも名水を愛し日々汲みに来る人々が絶えません
昭和51年3月 亀の水保存会有志
という事で、天文台の展望所から見た景色は

今では開発されて宅地になっているようですが、その昔は一帯山林だったのでしょう。そのせいか、そこかしこにお墓の団地が点在しておりました。
最近「亀の水」に遭遇していますが、瓶(壷の事)と亀をひっかけているのでは?と思うのだが・・・
「亀の水」の評価は、都会の真ん中にして美味しい水でありました。この裏山には大きな墓地があり、誰かが言っていた、墓の下に湧く水は美味しいと・・・が、真実味を帯びてくる味わいでした。しかし、都会の真ん中、大腸菌は確実に含まれて入ると思うので、飲まれる方は煮沸してくださいネ(^_^)/ 尚、この近所にこの水で点てたコーヒーを出している喫茶店が有るとの事でした。後程の情報から・・・。
で、独断と偏見の水評価は
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_-)-☆でした詳しい場所