NO214:小野小町伝説「湯あみ池」

NO213の「千手寺のお香水」と後先になりましたが、NHKテレビで福知山の紅葉の名所・長安寺を放送していたのを相方さんが見ていて、日曜日に連れて行けと駄々をこねる。それなら、近くにある「日本一のたい焼き」を買ってくれるかと問いただすと、OKだと言う。仕方なく行く事にしたが、近くに湧水が出ていないかと探すと、小野小町がキズを癒した湧水があるという。それも汲んでくるという事で出発した。
福知山の国道9号から酷道429号に入り、やく500m程走ったところを右に曲がり山へ向かって走ると

さらに奥へ進んで行くと長安寺の駐車場へたどり着きます。

思っていたより大きな境内を持つお寺さんであった。拝観料300円を仮の事務所で払い順路に導かれて歩いて行く

石段にたどり着き見事な紅葉の景色を楽しむ。

福知山十系景:臨済宗南禅寺派の禅宗寺院。境内には四季折々の景観と枯山水の庭があり、特に秋の紅葉は見事で「丹波のもみじ寺」として広く知られています。背後の姫髪山は「丹波大文字」で有名です。
しおりから~長安寺は第三十一代用明天皇の第三皇子、麻呂子親王(聖徳太子の御実弟)が勅命によって丹波の国大江山に棲む鬼征伐の途次、戦勝祈願のため薬師如来像を刻みこみこの地に奉祀されたと伝えられています。その後、再三の火災にかかり焼失しましたが、福知山初代城主、杉原家次公(豊太閤の正妻寧子の方の伯父)によって再建され、飛鳥後代の名作麻呂子親王御自作薬師如来像を安置し現在臨済宗南禅寺派別格地となっています。
本来ならこの石段を上って行くのだろうが、石段を上がらず紅葉の多いい方の左の地道へ進んで行くと

売茶堂なる建物が、お茶を売る建物カイナ?と・・・横に石碑が

売茶堂:日本和煎茶道の始祖売茶翁の木像月海元昭禅師を有する。日本最古の木造なり。
翁は延宝三年(1673)佐賀県出る幼名山垣菊泉、12歳で出家得度し○を月海元昭と改む。禅を極め58歳で京都東山に通仙亭を構え文人墨客等と○○し自粛自戒・自在自由の境涯「雨よし○よし吉よし凶よし日々好日」又・・・読めない箇所がある為こちらを
参照月海元昭本殿木像は売茶翁研究家谷村為海氏の所蔵なるも昭和63年夏売茶真流の創流を賀し長安寺第30世正木義完家元に特志寄贈された文化財である。
天井に描かれた墨彩画「飛龍」は日本南画院会長直原玉青画伯(96才)の名画である。
脇に安置する像は中国茶聖「陸羽」唐時代(700)の人世界初の茶文化文学書「茶経」の著者である。本像は京都の通称だるま寺佐野大義宇師より拝受したものである。
平成11年春 安置落慶の日誌す
売茶堂の前を通り不動の滝へ、滝は写したつもりが・・・・(+o+)

流れる水はどこかからパイプで、その横の石段から山門へ

潜ると、四徳の庭園が

すでに見ごろを過ぎた感の紅葉ですが

四徳の庭園 作者:重森完途
日本の庭園は二千年このかた池泉庭園は海洋の表現であり、流れの庭は、渓流や大河をあらわしてきた。
上代庭園で、水に関連のあるものは、宮居における池と島で、それらの形態をもった宮居「池心宮」とか「瑞籬宮」と呼ばれていた。
さて、古来から水は聖域を劃(わかつ)するものとして、仏教式庭園では盛んにとりあげられた。水そのものが、遠い彼方の理想郷を隔てるものとして、そして仏教では泮池がつくられた。泮池の泮は畔に通じ、その奥にある泮宮は仏教では仏殿となる。つまり聖域としての仏殿は泮水、すなわち泮池に囲われているのである。そしてこれらがのちに左右対称的な池泉となったが、もとは水をめぐらせたものであった。
泮池と言えば、在来から仏教寺院にのみ構成されたものと考えられているが、それだけではなく、儒教、仏教、道鏡の三教にわたってつくられており、これが中世以降神道にも作られたが、その形は、まちまちである。我国の泮地の形態と思想、そして庭園は次のようになる。
泮池
神道ー神道型ー鶴岡八幡宮A
儒教ー儒教型ー閑谷学校A A-幾何学型
道教ー蓬菜型ー泳法時B
仏教ー浄土型ー毛越寺B B-非幾何学型
-禅宗型ー妙心寺A
長安禅寺辯才天堂が、幾何学型の泮池になっているのは、すでに先人によってこの型のものが作られ、今回これを全面的に改修したものである。
辯才天は、辯才天女と云い、また、妙音天女、功徳天女、美音天女、更には大辯財とも申しあげる。インドの五河地方の河神として崇拝され、後に梵天の妃とされた。我が国では吉祥天女とともに最も多く信仰され、仏教に入って「金明光最勝応経」大辯才天女品に詳述され、古くから造像がある。辯才天は、音楽、辯才、財福、智慧の四徳がある天女である。もともと河の神であったから、日本では辯天の祀堂は、湖のほとりや、海のほとりにある。
長安禅寺の辯才堂周辺の庭園はそのために、新しく滝の石組を設けて水を落とし、また泮池に石組をし、在来の枯山水とつながるような意匠としたのである。
善男善女が、この辯才天女の四徳を受けられることを深く希望するものである。
見下ろした庭園

今回のお気に入りワンカット

ほかにも、散り始めている西国三十三ヶ所観音像庭園

連れ合いは、年賀状に使用する写真を撮ることが目的の一つだったことを、小さい声で申し添えておこう・・・
紅葉を堪能して、次なる目的地小野の郷へ移動して行った。
国道429号線を挟んでその奥に小野脇の集落が有り

そこに小野小町伝説が残る薬師堂が

案内板の方向へ行くと

それらしきお堂が見えたが、その手前に鳥居がある。たしか薬師堂の「湯あみ池」だったと思ったのだが鳥居とは(?_?)
薬師堂とは薬師如来が奉ってあるお堂の事だと思うのだが、薬師如来とは大乗仏教の仏のハズ、まぁ日本人は何でもアリの宗教観の所もあるので、OKとしといて、そこに上がってみると小野小町伝説がかかれてあった。

さあ大変(@_@;) またまた説明書の書き写し(@_@;)
小野小町と薬師堂:平安時代の百人一首で知られた六歌仙の一人で、絶世の美女とも言われた小野小町は、旅の途中で病にかかり、顔も手も腫れ上がり、かさぶたが出来て、あわれな姿でこの地へ迷い込んで来ました。
この女の姿をを見て泊めてくれる家は一軒もありません。しかし、親切な村人から薬師堂へ泊るように教えられました。人目を避け、村はずれに在る湯の谷の出湯で身を洗い療養していました。
ある日女は、近くの山に登り「みびらけば 法の声する正明寺 物さびしけば小野脇の里」と和歌を詠みました。これを聞いた村人は、ただの旅人ではないと思いました。
薬師堂にこもり出湯にひたり、毎日お祈りをしていましたがなかなか治りません。そこで、「南無薬師 頼む施療の願いなれば 身より薬師の 名こそ惜しけれ」とお願いすると、薬師様が夢枕に現れて「村雨は ただ一時のものぞかし おのがみのかさ そっと脱げ置け」とおさとしになりました。
女はおさとしの通り出湯にひたり、養生を続けるうちに日に日にかさぶたがとれて、元の美しい姿になりました。
近くの池で顔を映した女は喜びと感謝で胸一杯になりました。
別れの際村人に、せめて名前だけでもと強くせがまれ、長い間の温情に涙し、昔、都の御所に仕えた小野小町で、山陰に人を訪ねての帰路病にかかり、お世話になったと語り、別れを惜しみつつ旅立って行きました。
・・・というお話
その湯あみ池は、薬師堂の入口の左下にあり、

よく見・・・なくても

泥水である((+_+))汲んで帰るべきか、それともパスするべきか・・・かれこれ○○時間・・・しかるに

側溝を覗いて見ると割れ目から水が流れ出してきている。・・・と、いう事は水が湧き出しているという事であり、池を観察してみる事に

五輪塔のようなミニ石塔の側に比較的透明度のイイ水が溜まっていたので、ペットボトル1本だけ汲んで帰ることを決断、しかし、なぜ濁っているのか分からずじまいで切り上げる事にした。モヤモヤな気持ちが

野イチゴの可憐な赤に気持ちが和まされ、小野小町からの贈り物の思いで、最後の目的地「日本一のたい焼き」へと向かって行った。
国道429号から和田山方面へ行く国道9号に出る抜け道を走り、到着

何時もここを通る時に気になっていた「日本一のたい焼」の看板、やっと実現した思いでお店へ

駐車場も盛況で、お店の中でたい焼きを焼く姿を撮影許可をお願いしたがダメ((+_+))しかも、肝心なたい焼きがうますぎて写真を撮るのを忘れて食ってしまい、ここでは「日本一のたい焼」の姿を紹介する事はできません。
食べた感想は、小ぶりのたい焼きで、皮は薄めでカリカリ味(吾輩が探し求めていたたい焼き)餡は、適度な甘さの粒あん(他にもカスタード等ありましたが)満足で、今回の・・・今年の話もこれで終わりです。最後に申年もさることになりますが、お気に入りの猿の写真をお贈りいたします。
尚、「日本一のたい焼」とは、福岡市発祥のチエンテンでした

独断と偏見の、「湯あみ池」の湧水評価は、飲んでみて案外うまいと思いましたが、水が水なので皆さんにお勧めできるものではないので、
(^_^;) (^_^;)にしました。
詳しい場所
では、よいお年をお迎えください\(^o^)/
スポンサーサイト