NO201:石龕寺の「大槽谷の水」

前篇「64」を5月に見に行き、6月に後編が上映される。それに合わして三田のイオンシネマウッディタウンに見に行く事になった。
で、何時もの事で天然水が汲める所がないか探してみると、三田の近くの街、丹波市にある石龕寺にある事が判り寄ってから劇場に行く事にした。
何時もの如くナビは行先不明になってしまった。山の中にあるお寺なもので、進入して行く道が狭いのか適当に「目的地付近に到着しました」というアナウンスが流れるだけで、見渡してもそれらしき場所には来ていない(?_?)
仕方がないので、石龕寺がある山の周辺を探して見る事に・・・なんせ16年前のナビですんでCDを使用、容量も少ないのでしゃ~ないのだが(~_~;)
でも、探していると

石龕寺への入口が見つかり入って行った。道としては、カーナビに載らないような狭い道ではなく・・・しかし登るにつれて狭くなってきはたのだが・・・駐車場が出てきたがさらに進むと仁王門にたどり着いた。ここにも十台ぐらいは止めれる駐車場があった。
このお寺は丹波紅葉三山と言われるお寺の一つで、紅葉は立派らしい。今回は雨の新緑で我慢しなければならなかった。

そして

足利氏ゆかりのお寺
岩屋山 :石龕寺(せきがんじ)
石龕寺は用明天皇の丁羊(ひのとひつじ)の年(587年)、聖徳太子の開基と伝えられ、太子が深く帰依された毘沙門天王を本尊として古くから栄えたお寺であります。
鎌倉時代から室町時代にかけて隆盛をきわめた。山門の仁王像(金剛力士像)は、仁治三年(1242年)、大仏師定慶の作で、日本で屈指の名作として現在国の重要文化財に指定されています。
南北朝時代、足利尊氏が弟直義の争い(観応の擾乱)に敗れ一時京都から播磨へ逃れるとき、嫡子稔義詮(第二代将軍)に仁木頼章、義長兄弟を添え、二千騎を当山へ留めました。(その時、院主雲暁僧都は勝軍毘沙門の法を修して祈祷、足利氏は深く帰依しました。このことは「太平記」二十九巻に記されています。)
この時、当山の僧が足利氏に名物の丹波栗を献上、義詮公はその一つの栗に爪跡をつけ、
都をば出て落ち栗の芽もあらば
世に勝ち栗とならぬものかと
と歌を添え、もしこの栗が芽を出せば、都に出て天下を取ったものと思ってくれ、といって植えて去って行ったといいます。首尾よくその通りとなり、今もその栗を「爪あと栗」、「ててうち栗」として伝えています。
その後、中世末期には織田信長の丹波攻略を受け、天正7年(1579年)一山ことごとく焼失、仁王門を残すのみとなりました。
江戸時代以後、徐々に復興。奥の院、毘沙門堂(本堂)、持仏堂、庫裡、客殿等境内の整備を見るに至っています。
また、紅葉の名所としても今日脚光を浴び、毎年11月には、”足利氏ゆかりの石龕寺もみじ祭り”が行われます。
なお、当山は高野山真言宗に属しています。(参照太平記29巻)
山南町 山南町観光協会
今日こんな詐欺メールがまたも入ってきましたのでUPしておきます。
司法書士の半田です。
必要書類一覧及び御請求書を送信いたします。
よろしくお願い申し上げます。
全く身に覚えのない方です。
焼け残った仁王門の
右の開口阿形

左の閉口吽形

門を潜り登って行くと

そして石仏石碑のお出迎え

境内の地図を見ると

目的の「大槽谷の水」は地図とはチョイト違ったが、参道の横に沿って走る車道に看板が有ったので帰りに寄る事にして参道を登って行くと

水琴窟なる標識が、で石段を登って行くと何か騒がしい声が聞こえてきたが、庫裡まで行くと、どうも檀家さんたちの寄りあいみたいで、様子からしてお酒が入った宴会の様であった。・・・が、賑やかなせいで水琴窟の清爽な音色はちっ~とも聞こえなかった((+_+))そのせいか庫裡の横にある持仏堂は「もぬけの殻」

暗くて写りが悪い仏像をハイパチリと「聖観世音菩薩」の様
宴会の邪魔にならないよう、引き返し本堂へ向かって石段を登って行った

本堂の一段下に

コウヨウザンの木

郷土記念物:石龕寺のコウヨウザン
指定対象:コウヨウザン・・・1本
指定年月日:平成7年3月31日
地域の人々の暮らしを見守って来たこのコウヨウザシは、地域のシンボルとして親しまれている。コウヨウザシとしては県内最大の巨木である。
兵庫県
そして、毘沙門天を本尊として奉る、毘沙門堂本堂

その横の方には、まだ新しい薬師堂デス

その間には大きな佛足石がありました。


佛足石
お釈迦さん(釈尊)が入減された後、弟子たちが釈尊の徳を慕い、教えを敬うあまり、説法された霊地を訪ねその足跡を拝んだのが佛足石のはじまりです。
佛足石の意趣は、お釈迦さんの足跡・佛教の教えを頂礼して佛徳を受け、健康を祈願するところにあります。
お釈迦さんを礼拝するには、「帰依佛両足尊」とお唱えします。健康の基は足を鍛えることにあり、五臓六腑のツボも足の裏にあるといわれています。
足を守ることは、身体健全・交通安全を祈願することにも通じます。
この釈尊の足跡を礼拝して、心身ともに健康で長寿が保てるよう祈念いたしましょう。
石龕寺奉賛会
との事、願いを念じて次へ進んで行った。
奥の院の入口があったが

時間の関係上パスをさせて頂いた。本堂の少し下左側には


焼尾神社:この社は今から750年前、仁治2年(1241)の創建と伝えられている。(仁治3年に仁王像造立)
郡内最古の寺、石龕寺の鎮守として弁財天が祀られていましたが、明治維新のジンブツ神仏分離により、市杵島比売命を祀る事になり、ご神体の弁財天懸仏は、石龕寺に保管されています。
しかしながら、住民は焼尾さんは弁財天でもあり弁財天ののぼりも立てています。
美女神であることと幸運や財宝、福徳の神としてとくに作家や音楽家、歌手、俳優のあいだで人気があります。
平成11年3月
来るときに確認しておいた「大槽谷の水」まで下りて行った。

○この谷に昔、大槽という清水をたたえた岩盤のへこみがあった。(聖徳太子が毘沙門天尊像をここで洗われたので、水はいつも黄金色に輝いていたという)
○この水でみぞやしょうゆを仕込むと腐ることがないといわれている。
平成11年 森の径整備
と書かれてあった。撮ったはずの川の写真が行方不明(たまに写して帰ってきたはずなのに、その写真が見当たらないことが有るのだが、四次元ポケットへ入って行ったと思っているのだが)
その川は幅5mほどで丸太2本の不安定な橋が架かっていた。その端を渡ると

こんな感じの小さな谷合、ふつう大雨が降ればこの谷間に川ができるのだが、今は途中の岩場から流れ出している水(伏流水)が岩板のへこみに

水が溜まっているのが解るかなぁ~・・・でモトイ

この溜まった水を汲んで、帰りかえていると、宴会をされていた一杯機嫌のオジサン(吾輩とどちらが若いか?だが)本当の「大槽谷の水」は奥の院に近い谷の事だと言って機嫌よく帰って行かれた。
こちらはエ~~~てな具合だつたが、まぁいいか(*^。^*)・・・と汲んだ水を「大槽谷の水」にしておく事にした。(ただしナイショ)
無事水も汲めて三田のウッディタウンに向かって篠山川を篠山市街へ向けて走っていると田圃の中にジャンボ「ティタノサウルス」竜のモニュメントが目に飛び込んできた(@_@;)

そこは「丹波竜の里・かみくげ」という公園であった。
ここで下記の詐欺メールが入ってきましたのでUPしておきます。
「請求書は、商品と別送にてお送りしております。請求書がお手もとに届き次第お支払い期限を確認の上、お支払いをお願いします。
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株式会社オンリー 」
で、寄って行く事に、駐車場では

化石発掘調査 体験料 1人300円

小さな石をもらい、金槌で割って真剣に体験?されていた。吾輩は、そこから500mほど先の化石が発見された場所を見に行く為農道を歩いてそちらの方へ

向こうに見えるのが「丹波竜の里・かみくげ」で、この道を歩いて行くと

旧発電所跡があります


旧上久下村営水力発電所跡地
当時、村一帯がランプ生活だった大正9年、上久下村になんとかして電気を引きたいと、村長 平藤徳蔵氏らが相談されて、水力発電を行う協議が整い、発電用水は上滝下滝水利組合の灌漑用水を利用して導水する事になり、子の地に建設されました。
大正9年12月に当時の予算約8万円で着工され、大正11年6月に竣工しましたが、総工事費10万9,800円を費やしての完成となりました。配線整備が行われ、大正12年1月8日から本送電を開始しました。八ヶ集落は、山林の売却等により資金をつくり大変な苦労がありましたが、当時としては近隣にその比をみない施設の完成であり、村民の喜びは格別でありました。
しかし、昭和17年電気事業統合令により、昭和18年関西配電株式会社に統合され、始業以来わずか20年で、旧上久下村営水力発電所は閉鎖されました。その後関西電力株式会社に引き継がれ昭和38年まで運転されてきましたが、電力需要の増大により大規模な発電施設が整備されたので廃止になりました。現在この川代渓谷に静かにとどめる姿は、まさに村民の文明に取り組みした歴史を物語っています。
丹波市 丹波市観光協会
中は、化石発見の模様の展示がしてあり無料です。横の階段を

降りて行くと河原が見えます

川原のコンクリートで覆ってある場所から化石が発見された模様で、次回の発掘まで保存のためにコンクリートで覆っているのだそうです。

丹波市恐竜化石保護条例に基づく「保護区域」
本区域で、恐竜化石等が発見され今後も発見される可能性があることから、保護を図るとともに市民の共有の財産として継承するために、柿の区域を「保護区域」として指定します。保護区域において、化石の採取及び化石若しくは化石含有地の破壊を目的とした土地の区画形質の変更などは行ってはいけません。
■指定区域
一級河川 篠山川 発掘現場区域から上流20m及び下流20mの河川区域
■指定年月日 平成25年3月8日
●お問い合わせ先 丹波市役所 産業経済部 恐竜を活かしたまちづくり課

丹波竜化石の産出部位:産出した部位は、彩色したまたはその前後に相当すると考えられています。この骨格図は特定の竜脚類その物ではなく、オビストコエリカウディアおよびラべトサウルス形類一般に広く見られる形態を想定して描かれたものです。
産出部位の名称:1、尾椎 2、血道弓 3、腸骨 4、恥骨 5、肋骨 6、脳函・環椎 7、歯
恐竜発見
平成18年8月7日ー世紀の大発見(写真1・2)
美しい川代渓谷に夏の太陽が照りつける中を、長年、生痕化石の調査を続けてきた足立洌(きよい)さんは旧友の村上茂さん(共に丹波市在住)と2人で山南町上滝へ地質調査へ出かけ、篠山層群の泥岩層の表面から、1センチほど突き出た灰色がかったものを発見し、ハンマーやタガネを使って長さ15センチ程度の化石を彫り出しました。
8月9日ー化石確認(写真3)
2人は6時間かけて約30センチの棒状の化石2本、塊状の化石1個を掘り出し、この化石を兵庫県立人と自然の博物館に持ち込み、同定してもらいました。すぐに恐竜の化石と判断されたため、直ちに現地に向かい埋蔵状態を確認し、9月下旬に試掘調査を行うことになりました。
その結果、白亜紀前期の泥岩層(約1億4千万年前~1億2千万年前)からティタノサウルス形類の肋骨などの化石10数点が発掘されました。
第一次発掘調査
平成19年3月6日ー連なる尾の化石発見(写真4)
尾椎および血道弓の化石約数十点がまとまった状態で産出しました。恐竜の化石が元の位置関係が概ね保ったまま産出したのは日本では初めてのことです。
6月26日ー脳函の化石発見(写真5)
クリーニング作業により、頭骨のうち脳が入っている部分(脳函)の化石が確認されました。恐竜の頭骨の一部が発見されたのは国内で7例目で、竜脚類としては国内初めてのものです。また、世界的にも竜脚類の頭骨の発見は少なく大変貴重なものです。
第二次発掘調査
平成20年2月7日ー肋骨などを大量に発見(写真7)
肋骨の化石がほぼ並んだ状態で発見されました。長い物で1,5メートルほどあります。発見された部分は、胴体右側の後部にあたるとみられ、この様に肋骨が並んで発見されたのは国内では初めてのことです。また、恥骨とみられる化石も合わせて発見されました。
2月21日ー環椎(首の骨)発見(写真8)
環椎(第1頸椎)はU字形で、縦約8センチ、横約6センチ、厚さ約3センチほどです、世界で数百十種の竜脚類が発見されていますが、環椎は小さく発見が難しいため、十数例しか発見されていません。
2月28日ー竜脚類の歯発見(写真9)
竜脚類の生える前の歯、つまり顎(あご)の中に入っていた未崩出の歯の化石が発見されました。歯は、長さ4,5センチ、幅約1センチで、表面に摩耗した形跡がなく、顎の骨の中にあったと考えられます。国内で発見された例はなく、大変貴重な標本となります。
第三次発掘調査
平成21年3月12日-記者発表(写真10・11)
生える前、生えた直後、使用中のすり減った歯など様々なな状態の竜脚類の歯数十点と、胴体の前半分とみられる肋骨6点が発見されました。
また、発見直後のクリーニング作業によりティラノサウルス類の前顎の歯が産出している事が分りました。
発掘調査の成果と今後
第一次・第二次発掘調査が終わった時点で、推測される丹波竜の姿を形にした模型で、恐竜模型製作の第一人者である荒木一成氏の製作によるものです。
今後の発掘調査によっては、更なる進化を遂げる可能性もある事から、「丹波竜フィギュア2007年版」としており、丹波竜化石工房で展示していますのでご覧ください。
発掘調査の成果と今後
第三次発掘では、竜脚類の化石の発見のほか、獣脚類、鳥脚類の歯の約60点を含む2883点の化石が確認され、発掘調査を開始してから現在までに骨片を含め、約9000点もの化石が確認されています。
多くのボランティアの協力を得ながら実施している発掘調査は、現場が河川敷にあるため、春から秋にかけての増水期を避けて実施しており、発掘調査は長期にわたる計画で、今後の調査で更なる発見が期待されます。
丹波竜化石工房も見て下さい。
尚この場所に来た時に、以前所属していました「福知山カヌークラブ」のメンバーとここを下っていいたときに、あわや重大事故になりかけた事を思い出すにはいられない場所であった。
と言っても、吾輩は陸上からレスキューメンバーとして同行していたのでした。その当時は、まさか恐竜が眠っているとはつい知らず、岩の上を駆け回っていたのでした。
その日は、上流にある川代公園から出発

一行が下り終えるのを見て、我々レスキュー組は先回りして発電小屋の河原に下りて待っていた。

小さな滝の様な落ち込みを無事通過する者、ポテージ(落込みを迂回する事)する者と各自各様の思いで発電所跡の瀬まで無事下って来た。

しかし、発電所の瀬は全員パス(@_@;) 写真の下流から再度カヤックに乗り込み下る事になった。
写真には写っていないが、流れが右から左の岸へ向かって進み、その流れが造ったであろう岸の岩場に小さな洞窟が掘られていた。このような穴を「アンダーカット」と言い、ひとたびこの穴に入るや否や水流の圧力で出て来ることが不可能に近い状態になり、最悪天国へ行かねばならない結果になるのです。と言うのも水流により掘られた穴は天井が水面ぎりぎりの場合が多く、入ると水中に持って行かれ窒息するのです。また、洞窟内は流れが入り込み渦を巻いて出にくくしている事も一因であります。
そのことをカヌーイストは認識して遊んでいますので、今回も、陸上から万が一の場合を想定して、救助用のレスキューロープを持って待機していたなかを、一番にくだって行った某会員さんが下るや否や複雑な流れに巻き込まれカヌーもろと転覆((+_+)) ロール(起き上がって再度カヌーを漕ぐ)を2~3回試すも失敗力尽きて沈脱(カヤックから脱出)・・・これをすると普通カヤックを持って泳ぎながら安全な岸へ向かって上陸するのだが、この時はカヌーもろと洞窟へ流されていたので、カヤックを離せと叫びながらレスキューロープを投げたのでした。運良くカヤックを離しレスキューロープを捕まえ無事メンバーは陸上に救助する事ができましたが、案の定カヤックは洞窟にはまり込んで水圧でもがいていた。
アンダーカットにハマり込んだカヤックウをいかに回収するか・・・協議の結果、穴から自然と出て来るのを待つ事でそれを回収する・・・しかし、一向に穴から放出される気配は無く、次に考え出したのが、カヤックオーナーのライフジャケットにレスキューロープをくくりつけ、カヤックで穴の下流から穴に向けてカヤックオーナーを引っ張って行き、カヤックオーナーがもがいているカヤックを捕まえると同時に、陸上で待機しているレスキュー部隊が頑張ってカヤックオーナーを陸地まで引き寄せる方法でやることになった。
待機組は固唾を呑んで見守っていたが思いの外うまくいき、無事回収できたという、一歩間違えばニュースになっていた事故でした。
篠山川を下っておられるYOUTUBEが有りましたので、お借れしました。
という事で、篠山市街に出て、一路三田のイオンシネマへ「6・4」後編を見に行きました。今回長文の記事になりましたので感想は×という事にしました。「いや~久し振りに手に汗を握る納得のサスペンスを観ました」
元に戻って、「大槽谷の水」の水の評価は、沢水、伏流水にしては美味しかったが5ランクまでにはもう一越え欲しいところでした。
独断と偏見の水評価は
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v
詳しい場所は
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