
今回は、「柚子の里」でも有名な嵯峨野の隠里、水尾の集落の近く愛宕山の中腹に湧き出る「水尾の里の水」を頂きに行ってきました。
この日は、前日京都縦貫道が北部から京都市内まで全面開通したため、調子者の吾輩は居ても経ってもいられなく、昼前から「奥方」に市内までどのくらいかかるか確かめてくるワぁ~といって家を飛び出しての一人旅(^^)/
事前に調べて、嵯峨嵐山の山奥に「柚子の里」として、たまにテレビで放映される「水尾」という集落の近くに湧水が出ているらしく、今回縦貫道試験走行がてら、亀岡市→水尾→嵯峨野を回り帰宅のコースを考えていた。「奥方」の気分が悪い時は中止も考えていたが、そのような態度は無く気分よく出発した。

まずは京丹波パーキングエリア、上下線共通施設になっており道の駅「味夢の里」が併設され、一般道からも来る事ができるようです

高速駐車場からコンコースを抜けると一般道からの駐車場と全天候型グランドが作ってありました。
対向車線は所どころ渋滞をしていましたが、上り方面は通常より交通量は多いいものの渋滞はなく快適に走り、与謝野町入口から亀岡篠までが、この日の走りで丁度1時間でした。
亀岡に下りて、保津川対岸の保津地区から近道を利用して行こうと

水尾まで5kmと標識にかいてあり、道順はOK
進んで行くと

前方にゲートが

これは獣除けの柵ではない((+_+))
諦めて道が狭い所でのUターン難儀をしていたら、スクーターのお兄さんがやって来たので柵の事を尋ねてみると、この柵を越えてももう一つ有るので無理やでぇ~との事、お兄さんは其のスクーターで柵の脇を通り抜け

消えて行ってしまった。吾輩はしぶしぶ引換し、旧八木町から旧京北町へ抜ける道

車一台の幅、名ばかりの国道477号を走り

嵯峨、水尾の分岐を入って行った。この国道477号さらに京北越えて、鞍馬の花背峠から大原に抜けそこから滋賀県の琵琶湖大橋まで続いていた。この道も国道とは名ばかりで、どうも酷道のようである。

右下の小さい案内板には

にほんの里100選:宕陰(とういん)の棚田と書いてある。
少し期待を持ちつつ進んでくと、山奥の中急に視界が広がった。

道の突き当りに
「宕陰(とういん)の棚田」の案内板が写真入りで立ててあったが、

稲の穂が大きくなり上から見たのではどこが棚田だか分からなかったので、写真は撮らなかった。(右京区のHPを参考にしてください)
そして、集落のはずれに

大樽を活用した事務所の様なものが有りましたのでパチリと、その後ろの作業場の名前がまたイイ「平成10年度・きらめく農村女性活動推進事業」鎧田の里直売所(ウイキペディア:樒原の棚田は その形から「鎧田」と呼ばれ、四所神社の社の森はその形から「兜の森」と呼ばれる。)なる看板が掛けられていた。
その横に四所神社が祀ってあった。

(樒原集落の氏神として四所神社があり、愛宕神社の奥宮を勧請して戦国時代末期の1552年に創建された)その神社の境内端に

大木が祀ってあった。車で走っていても見えるとこなので、この木を撮ろうと止まったところ、先ほどの大樽と四所神社がある事が分かったのである。そして、さらに先に進んで行くと。

愛宕神社参詣道が見えてきた。愛宕神社参詣道は、表参道が清滝方面からと裏参道の宕陰側からが有ります。こちらは裏参道のようです。
水尾へ向かって進んで行くと、橋もない道の下からドウドウと水が吹き出してきている

道は

その上は

スギ林で沢らしきものは無い。二日前の台風の影響でこの辺一帯大雨が降っており、見出しの保津川もあのような泥水((+_+))その影響なのだろうが、近くの斜面からも

大雨の伏流水が出ていた。その近くの壁面の水抜きからも

水が出ていたが、見渡してもここだけ

おそらく、湧き水として常に出ている所と判断して、少々もらって帰る事にした(^_^)v

しかし、今回尾目的「水尾の里の水」ではなさそうなので、ゆっくり走りながら探して進んだ。
そうこうしている間に「神明峠」まで登って来た。

すると、厳重に鍵の掛けられた扉が

スクーターに乗ったお兄さんが言ってた「もう一つの扉」とはコノことかと理解した。こちらには通行止めの看板が置いて在った。
峠を越えて下って行くと見晴らしの良い

この山が愛宕山だろうか、そしてもう少し下って行くと

水尾の集落も見えてきた。そしてここでも湧水が

多いい所では滴るどころか、流れ落ちていた。

その横の沢水も勢いよく

ここは橋の下を流れ下っている

その端の方で

情報元のトユから流れ出ているというもの

無事「水尾の里の水」をゲット(^_^)v「嵯峨水尾(さが みずお)は、京都府京都市右京区の地名。「柚子の里」や「清和天皇陵」などで知られている。「きれいな水が湧く所」という意味がある。古くは水ノ尾とも水雄とも書き、「みずのお」「みのお」とも呼ばれたが、集落の位置が清滝の川尻にあたることから水尾という表記になった」(ウイキペディアから)愛宕山の山肌から流れ落ちる水を見れば、納得する道すがらであった。
目的の湧水もゲットする事ができ、後は帰るのみ。水尾集落の手前で

道の両脇一面柚子畑、集落に入ると道も狭く前から後ろから車の攻撃((+_+))よけながら進んで気づくと

集落を通り超えていた。そのままさらに前進

この看板チョイト正確ではない。新保津峡駅は

この橋を渡り奥に行ったところに在る。それにしても、ここに来るまでに多くの登山ハイキンググループに出逢った。愛宕山から下りてきた人が保津峡駅から帰られるようである。そして、旧保津峡駅へ向かう途中

新保津峡駅の駅と増水の保津川、そしてこちらは、ラフティングのお客様

そこからまもなくトロッコ保津峡駅に着きますが、駐車スペースが少なく、すれ違いができそうな道に止めて行ってみる。

駅の入口がこんな感じです。

旧保津峡駅の案内図で、こちらが渡る吊り橋から写した景色

濁流の下流側

トロッコ列車もいなかったので帰ろうとしたらピーという音が聞こえたので振り返るとトロッコ列車が入って来た。早速引き返してハイパチリ撮った写真が中途半端

これでご勘弁を(^_^)/~
さらに嵐山へ向けて進んで行くと、初めて見たこんなものが

嵯峨天皇 皇后嘉智子
嵯峨陵 参道

これより40m先で通行止めです。遙拝所・案内パネルあります。 宮内庁

その横に

通行止めのお知らせ:これより先、嵯峨陵の参道は、落石があり大変危険なため、当分の間通行止とし参拝を停止させていただきます。(期間未定)
おそれいりますが、参拝にお越しの方はこちらから遙拝願います。
宮内庁書陵部 桃山陵墓監区事務所
電話075-601-1863
京都市建設局 西部土木事務所
電話075-871-6721

嵯峨天皇皇后嘉智子 嵯峨陵
第52代嵯峨天皇の皇后[786~850]
御名は嘉智子
父は贈太政大臣 橘清友。 母は田口氏
嵯峨天皇が親王のとき妃となり、天皇即位御後の弘仁6(815)年皇后となlった。
仁明天皇及び淳和天王の皇后(正子内親王)の生母である。
皇后は仏法への信仰が厚く、京都嵯峨に壇林寺を建てたので、世に壇林皇后という。
(嘉祥3(850)年、崩御。新谷山に葬られたが、違令によって薄葬し、山稜は営まれなかった。明治45年宮内省によlって治定され修陵がなされた。)
宮内庁書陵部 桃山陵墓監区事務所
其の後

こんな道を登り

愛宕念仏寺付近に出て「普通の道」に、この辺りも混雑の模様、故に嵐山を迂回して縦貫道へ向かった。
終わり今日は8月15日「終戦の日」戦後70年。「私の街も戦場だった」・「私たちに戦争を教えて下さい」等々テレビ放映がありました。
其の戦後70年の今、国会では「戦争法案」といわれる「安全保障関連法案」が衆議院を通り、参議院で審議されています。安倍内閣は「中国・北朝鮮」の脅威をあおってアメリカと共に戦える事が必要だと、武器を使用できる法案を「憲法違反」と言われる中でも「合憲」だと押し通そうとしています。このことは、安倍内閣が合憲と言えば何でも合憲となる、憲法無視、憲法の内容を国民が決める国民主権をも否定する最悪な行動であると思っています。
消費税の流れの少しずつ税率をふやしていき国民の感覚を麻痺させていく方法と、自民党政権が9条を骨抜きにするため戦後一貫して法案を作り上げてきている流れを見ていると、まさに国民をないがしろにしている思いが強まってくるのです。
(中国・北朝鮮の対応は現法律で十分対応できる中、それでも今回の法案を通して世界何処でもアメリカ軍と戦えるという事がどう言う事か)
戦後70年今一度、一人一人が今後の日本の進む道を考える時ではないでしようか。
独断と偏見の水評価は;すっきりとした感じのコーヒーが楽しめました。
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vでした詳しい場所は