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NO142:ダム下の岩間から流れ出る「明神山水」

雪彦山 068-a
吾輩の住む地はいまどき毎日が裏西、すっきりした日があまりない!気分も暗~く(~_~;)なりがち、気分のすっきりする地、瀬戸内方面を探し、雪彦山付近を徘徊することに。
まずは、姫路市夢前町莇野の菅生ダム付近にあるという明神山水へ行く事にしました。
今回ルート検索と実際との差も調べてみようと、行は最短距離で、帰りは高速メインで帰って来ることにした。
高速と言えば、前回達身寺の帰り高速を利用して帰ろうとしたのだが、前日ラジオで縦貫道が壁面崩落の為通行止めなっていると言っていた、と相方が言っていたのだが、上りか下りか分からないから、もし下りなら福知山インターのあたりに通行止めの案内が出ているだろうと行く事に、しかし、福知山インター前後にも綾部インター前後にも若狭道と縦貫道のジャンクション付近にも出ておらず、これは下りは通れるでぇ~と大江インターまで来たのだが、そこで警備員が数名立ち大江インターで降りるようにとの指示、怒り心頭!福知山インター手前で案内を出していてくれたらそこで降りたのだが、全くの不親切プンプン(~_~メ)
との事だったが、今回前日土曜日に全面解除となり通れることになった。
ルート検索で行は、与謝野町発、経由地和田山、目的地福崎インターにして検索してみると、行程95,7k・所要時間2時間38分・通行料(播但道)980円とでた。
帰りは、福崎インター発、経由地福知山インター、目的地与謝野町で検索、行程150k・所要時間2時間24分・通行料(高速)3730円と出た。
高速はETC休日割引が適用されるのでもう少し安くなる。こう見てみると時間が同じで、距離と有料道路料金がダントツに違う。その結果はいかに(?_?)
当日の天気予報では晴れのち曇り、良い天気になるつもりで計画、その二日前には香美町で大雪が降りボランティアの人たちが雪かきに精を出している姿がテレビで放映されていたので、与謝野町から和田山へ抜ける山道が除雪されているか心配でしたが、雪降りから二日後ということもあり道が雪で隠れているとこは無かった。
という訳でスムーズに走り、福崎インターまでにかかった時間は、な!なんと1時間30分、ルート検索では2時間30分その差1時間、決して爆走はしてないのだが・・・
福崎からはとりあえず菅生ダムへ行く事に、着くと
   雪庇子山 003-b
思っていたより小さなダムの様子、
    雪庇子山 002-a
 菅生ダムの貯水池名”明神湖”播磨の名山「明神山」(標高668m)の麓にあることにちなんで名づけられました。
 明神山については、宝暦十年(1760年)に書かれた「播磨鑑」に『明神ヶ嶽は播州の高山で、その姿が大変美しいので旅人は馬上よりかえり見海ゆく人は船上より眺め尽しました。昔、この山の頂上には獄大明神がまつられていたので、明神ヶ嶽と呼ばれています。しかし、山頂のお社は参拝するのに道も険しく不便なので中世に麓の神種というところに移しまつられました。』と記されています。
 塩田温泉郷、前之庄辺りからの明神山のたたすまいは、山々を従えて王者の風格を備えています。
   雪庇子山 113-a
今回は明神山には行っていないので、菅生ダムの近辺から写した「左が、らしい山」デス(?_?)

湧水の情報では,菅生ダム近くの車一台が通れるぐらいのトンネル抜けた所に,もう一つの湧水の出ているところが在ると書いてあった。
   雪庇子山 005-a
ダムに上って来るときに通ったトンネル、情報とはチト規模が大きいかなと思ったが、情報人が書き込んだ時からトンネルが改修されて大きくなったのでは?と勝手に思い、このダム湖周辺に在るかもと、一周してみる事にした。
一周したが、それらしきものは見当たらず、ちょうど地元のおじさんに出逢ったので聞いてみると、湧水はこの上とダムの下に有るが、どちらもよく水を汲みに来ているので美味いのだろうと教えて下さった。
この上とは、そこから車一台が通れるぐらいの脇道が伸びていた。とりあえずもう一度ダム下の湧水を探しに戻る事に、
   雪庇子山 114-a
この道を左へ行くと菅生ダムへ、右へ行くと莇野の集落へ入って行く。道も狭くゆっくりと脇見運転しながら走って行くとダムの下に着いてしまった。
   雪庇子山 063-a
湧水の出ている所は無かったし、もう一度引き返して尋ねてみましょうと引き返すや否や、こんな立札が目に付いた。
   雪庇子山 070-a
「ゴミ捨てないでね」と書いてあり、その根元には鹿の角が置いて在る。なにか意味深な立札!だいたい、何もないところにこんな立札を立ててある事はおかしい!もしや湧水と関係あるのかなと、その奥を見渡すと
   雪庇子山 069-a
川の対岸に祠の様なものが、この時点では、鈍感な吾輩湧水が出ているところだとピンと来ておらず、へんな祠が祀ってあったと、ブログに紹介するために写真を撮っておこうと、心もとない橋を渡り行ったのであります。
雪庇子山 067-a
近づいてみるとやはり湧水の現場だった。(^_^)v
左の樋から水が流れ出ていた。元をたどってみると、それはナント岩の隙間から出ているではないか!
   雪庇子山 072-a
岩の割れ目から出てきている湧水を見れるのも珍しい。それも、おそらく保存会の人であろう方がパイプでもって上手く水を引いて来ている。大切にされている気持ちが伝わってくる一景である。
早速車に戻り、ペットボトルを持ってきてゲット。祠の中の立札には「この清水(ミズ)がお茶や食事を美味(ウマ)くする」と書いてあり、期待が膨らむ思いで後にした。
さらに次なる湧水の現場にいく為、先ほどの分かれ道を左へ進んで行くと歴史的保存物が有るような登り口が
   雪庇子山 075-a
「自然環境保全地域水生山補陀落寺」
指定区域:飾磨郡夢前町莇野の一部
指定面積:13,5ヘクタール
指定年月日:昭和50年3月11日
この地域はコジイ、カナメモチを中心とした貴重な天然林である。
        兵庫県

『水尾山天台宗補陀落寺観音堂』登り口→

    水尾山  補陀落寺
 天台宗穂陀寺は天禄二年(971)に性空上人が開基された、その後文明四年(1472)兵火にかかり寺は焼失したが仏像は難を免れた。本堂は方形造でもと茅葺であったが、昭和13年(1938)桟瓦葺に改修された
 神戸大学教授多淵敏樹先生は17世期の建立と推定され元兵庫県教育主事島田清先生は向拝・蟇股(かえるまた)は桃山j代のものと判定されている。正徳元年(1711)改修の棟札がある
 小規模であるが礼堂形式のなごりをとどめた遺構として注目に値すると言われており兵庫県重要文化財に指定されている。
 ○○○○○寛文11年(1671)刻ノ二月彼岸○○○○○墨銘のある木鐘を蔵する。本建物の建立に○○を持つ一〇左であろうか、内陣中に性空上人作と伝える十一面観音像を安置し脇立に毘沙門天と不動尊をまつる。庫裡の仏間に安置されている弥陀三尊は性空上人の護持仏で聖徳太子の作と伝えられ、同じ仏間に馬谷(もうだに)の神元神社の神宮寺にまつられていた。阿弥陀如来、十一面観世音菩薩、地蔵菩薩がまつられている。
                     夢前町
説明書きを読んでも、読み難いところもありチンプンカンプン、とりあえず行ってみる事にした。お地蔵さんが林立する朽ち果てかけた参道を登って行くと      →
雪庇子山 079-a 雪庇子山 080-b
なんのことはない立派な道に出た。
雪庇子山 081-a 雪庇子山 082-b
この道を登って行くと・・・
雪庇子山 096-b
補陀落寺不動尊の標識が立っていたのでそちらの方へ
   雪庇子山 088-a
お地蔵さんが見守る中を通り抜けると
   雪庇子山 085-b
大きな不動尊石仏が鎮座していた。 年代的にはそんなに古くないのではと思われる石仏の様である。ところで補陀落(ふだらく)とは何かいなと調べてみると、観音菩薩の住処、あるいは降り立つとされる山、また、補陀洛とは古代サンスクリット語の観音浄土を意味する「ポータラカ」の音訳である。尚、全国に数ヶ所在る様であるが、ココのお寺は記載されてなかった^_^;。以上ウィキペディアから
さらにお堂に向かって登って行くと
   雪庇子山 112-c
突如民家と言うよりも「庫裡」であろう建物が
  雪庇子山 111-d
中からはテレビかラジオの音が漏れて来ていた。誰かお住まいの様子
玄関には
   雪庇子山 110-e
登り口に在った説明書きと重複する部分はカットして
        水尾山   補陀落寺
一、当時は冷泉天皇の御代性空上人当山に於いて観音の尊像を刻み寺堂に安置し、日夜法華経を読誦ぜりという。
後天禄二年(971)に至り、伽藍始めて建立し寺号を補陀落寺と称せしが、文明四年(1472)兵火に懼りて寺堂は勿論、多くの寺宝日記等悉く焼失し、一時中絶の姿であったという。
享保二年(1717)快翁和尚入りて当時を中興し現在に至る。天台宗本山比叡山延暦寺にして書写山園教寺の末寺なり。
一、当寺はもと篠原山と称せり、昔書写山本堂再建の際、材木不足せしを幸に当山に良材あり直ちに斧入をなしこれを運送することになった。然し運搬に甚しく困難なりしが、不思議や俄然雷雨激しく大水溢れ遂に無事書写山西條まで流出せしめたという、故に中興以後水尾山と称せり。(飾磨群誌記)
一、当寺本堂観音堂は、本尊十一面観世音菩薩にして厄除け観音としての祈願所なり。当建造物は桃山時代の建立と思われる。県指定重要文化財、姫路市指定重要文化財、播磨西国第三十番、飾磨郡西国第十四番札所なり、
  天台宗  水尾山  補陀落寺  現住 恵行
こちらの説明書きの方がよくわかります。
庫裡を後に本堂に向かう途中
   雪庇子山 099-a
どうもこの祠の中にある地蔵さんも、なにか意味深な歴史があるらしい
   雪庇子山 098-b
隠棲地能登殿屋敷と平教経 ・北陸特有の被帽地蔵
 平家末期の1184(寿永3年)年攝津の一の谷で源平の合戦が始まり、平氏の全盛時代を築いた平清盛の甥の能登守教経も出陣してたが、源氏の大将源義経に後方から攻められ負け戦となった。
 戦いに敗れた教経は愛馬薄墨に乗って落ち延び、補陀落寺に辿りつき寺の和尚さんにかくまわれた。その後、補陀落寺の庫裏の前の広場の片隅に教経の住居が作られ、いつしかこの住居は教経の隠棲地の住居ということで、能登殿屋敷と呼ばれるようになつた。
 教経の家来たちもふもとの村人の助けを得て、村で生活をはじめた。家来たちの中には能登の国より妻子を呼び寄せ村人に溶け込んでいった。なかには、日頃崇拝していた地蔵像を持ってきた者があり、このお地蔵様は帽子をかぶった北陸特有の被帽地蔵で、今も補陀落寺にまつられている。 『夢前の民話』より
北陸能登被帽地蔵
このお地蔵様は頭に帽子を被った北陸特有の被帽地蔵と呼ばれている。
    雪庇子山 093-b
この地蔵さんも、その1体の内かも
時間もここだけにかけておれないので、さらい本堂へ向かう
   雪庇子山 109-a
石段を上がって行くと
   雪庇子山 103-b
立派な本堂が姿を現した。
   雪庇子山 104-c
観音堂
屋根は茅葺であったのを昭和十三年三月瓦葺にする。付近を掘ると古い瓦が無数に出土する瓦から大昔は瓦葺であったように思わる。
建築年代は桃山時代のもんと思われる。
*当時は冷泉天皇御代性空上人「書写山」山より来りて開山する
*当山内より宋銭を始め中国古銭が多数発掘された
県指定文化財  夢前町指定文化財

と言うことで、歴史的建造物なる、あまり世間に知られずひっそりと建っている佇まいには風格を感じると共に、長い年月保存された地元の方々の心意気に敬意を想いながら、次なる地へ向かって行きました。

で肝心な「明神山水」の感想は、久し振りにコクのある水に出逢えた思いで、飲んでいても気付いた時には飲んでしまっている美味しさの水でした。
独断と偏見の水評価は
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v でした

詳しい場所は

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NO141:木彫仏像の原郷・達身寺の「たるみ山・自然水」

   達身寺 012-a
中山寺・奥の院、亀岡の出雲大神宮と天然水をもらってきたのですが、どちらもじゅうぶんな量を得る事ができず、近場でどこかないかな~と探していたら、上の写真の本堂がある達身寺というお寺が目に留まり行って見る事に。
この本堂を観たいあまり行ったのだが、行ってみてビックリ!パンフレットの説明文を引用すると
「丹波の正倉院と呼ばれている。その歴史は不明な点が多いが、8世紀ごろの建立とみられ、市内では最も古い時代に開けた寺の一つである。」

・・・と、まぁこうである。行は福知山市街から国道429号を通り兵庫県の丹波市青垣町に入り氷上町まで下るルートで、途中カーナビがストライキを起こし、自車位置が動かなくなり一時はどうしようかと((+_+)) なだめすかして、なんとか動くようになり、チョイト遠回りの気もしないではないルートを走らされ何とか近辺まで、「三方の大かつら」の案内板が、寄ってみる事に
   達身寺 027-a
カツラの多くは根元から枝分かれしているものが多く
   達身寺 025-a
大木と言われても、このように枝分かれしていると感動する部分も半減してしまう。やはり大木は一本もんがイイ
こんな面白いものが
    達身寺 029-a
古来より、幹の空洞をくくると神護があると伝えられ、神木としてあがめられている。
樹齢:約350年    
全部の幹廻り:12m 内主幹の目通り幹は2,8m   
高さ:26m
   達身寺 031-a
入ってみようと思ったが、よそ行きの服が汚れるのでや~めた^_^;・・・と言うことで建身寺へ向かった。
達身寺 006-a
上の写真が達身寺の正面から見た全体の建物です。その手前が道路でその手前の白線が駐車場になっていました。
もっとひっそりとしたお寺かなと思っていたのですが、駐車場が20台前後駐車できる白線が引いてある広さです。
知る人ぞ知る観光地になっているようです。吾が目的である自然水は一目で場所が判り、とりあえず頂いてからお参りする事に。
   達身寺 008-a
正門の左側にあり、水はホースから出てきておりホースの口には藻の様なものが下がっていたので、連れ合いは気持ち悪がって入れるのをためらっていたので、それを取り払って入れてもらう事に
   達身寺 009-a
最近は、彼女は入れ役、吾輩はスナップ撮影と分担して合理的にやっております(*^^)v
水は柄杓が掛けてある真ん中から水道水のように出ていますが、後程聞いた話によりますと、裏山(たるみ山?)から水を引いているそうで、それが湧水なのか沢水なのか、はたまた地下水なのか分からなかった。しかし、三週間過ぎた今でも水は綺麗な透明で、浮遊物は見当たらない!という事は、湧き水か地下水をポンプで汲み上げているのかどちらかであろう(?_?)
水も汲み終え、拝観へ石段を登って行った。
この茅葺の本堂は、昔十九山にあった達身堂(たるみどう)をこの地に移し達身寺(たっしんじ)という寺名になったとの事
本堂の入口右手には、重要文化財の仏像の数々が明記してあり、来た人の気持ちを高ぶらせている
   達身寺 013-a
本堂に入ると右側に受付があり拝観料お一人様400円を払い、説明の順番を待っていると一行5人ぐらいの人を引き連れて案内係であろうおば様が帰ってこられた。そういえば石段を上がって来る時も4人の女友達風な人たちとすれ違った。チョコチョコ観光客も来ている様である。で、我々2人ともう一組2人計4人で案内してもらう事になった。本堂内部からは写真撮影禁止の為、拝観のしおりから抜き出した写真で案内いたします。
   達身寺 014-a
ここには、国重要文化財12躯、県指定文化財34躯、市指定文化財33躯、破片134片
達身堂の本堂を突き抜け、裏手にある第一宝物殿へ
達身寺の前身は、よく解ってないが、寺伝によると織田信長の丹波平定の命を受けて明智光秀が丹波攻めをし、篠山城や保月城などが攻められた。達身寺は当時、僧兵を抱え山岳仏教の強権を張るような大寺院であったと言い伝えられている。その僧兵が保月城に加勢をしたという事で保月城を落とすまでに寺が焼かれたと言われている。寺を焼かれる前に、仏像を守ろうと僧侶達が谷へ運び下した。仏像だけがそのまま長い年月置き去りになってしまったと伝えられている。
   img112-a.jpg
第一宝物殿に入って行くと、部屋いっぱいに仏像が置かれていた。総ての仏像が「しらき」のままで、というより流木が長い年月が経った雰囲気の仏像であった。朽ち果てた仏像も大切に保存し展示されていた。

元禄8年(1695)、この村に疫病がはやり、多くの人々が亡くなった為に、占い師に占ってもらった結果、「三宝を犯した仏罰である」と言われ、村人達は山に登り放置された仏像を集めて、破損していた達身堂をこの地に下ろし、修復し、仏像を安置し奉った。

第一宝物殿から、文化庁によぅて建てられたという第二宝物殿へ案内された。
   達身寺 015-a
写真もこの角度しか撮る事ができませんでしたが、災害に強い立派な建物でした。
中に入って正面には達身寺の本尊、阿弥陀如来坐像が
   img113-e.jpg
正面に展示されていた仏像は保存の良いモノでした。
 img113-b.jpg
達身寺の仏像は木彫仏であって、大半が一本造りである。寄木造りも数多く作られたはずだが、長い間放置された為、寄木では仏像の姿で今の世に残る事ができず、破片化してしまった。(その破片も大切に保存展示されていた)
  img113-d.jpg
又、一寺に一躯奉ればよいと言われている兜跋毘沙門天が十六躯もあると言うこと、本尊仏になる仏像が多いこと、未完の仏像がある事
郷土史家船越氏の説と古文書
 達身寺に言い伝えているのは事実とは少し違うのではないか、大寺院で山岳仏教の強権を張ったと言うよりは、お堂を多く持った工房であったのではないか、そこに丹波仏師がいて造仏していたのではないかと言うのが船越氏のせつである。
 達身寺では丹波仏師がいたことを認めれば昔からの疑問はいくつか解る(未完の仏像、本尊仏が多い、同名の仏像が多い等)。
 奈良の東大寺の古文書の中に丹波講師快慶と記されている、「私は丹波仏師である。もしくは丹波の地とつながりの深い仏師です。」と言っているのである。とすれば鎌倉時代の有名な仏師快慶は、達身寺から出た仏師もしくは、達身寺とつながりの深い仏師であるといる。ところが残念ながら達身寺には、古文書が何もない為はっきりしたことはわからない。鎌倉初期から平安弘仁期の古い仏像が沢山おられると言うことだけははっきりしている事実である。
案内のおば様が、戦前は此の仏像群は国宝に指定されていたのだが、戦後再度見直され、実証されるものが無いという音で取り消され、現在は重要文化財で終わっているとの説明でした。 
そして達身寺様式と言われている仏像
img113-c.jpg
今仏像ではチョイt判りにくいが、お腹がポッコリ出ている仏像、それも観音系に多いいのですが、案内のおば様に冗談で先日行った中山寺のように安産のお寺と銘打ったらお参りが多くなるのではと言うと、実は中山寺にそのポッコリ仏像が秘仏として祀られていうそうな・・・とお参りの人から聞いtことがあり、その後中山寺の門前に住んでいる人が、帰って聞いてみて連絡してやると言ったまま、今だに連絡してくれないとの事、事実は定かではない・・・(?_?)

一通り見る物は見たし、もらうモノももらえたし帰る事に、しかし達身寺のさらに奥に行ったところには、やすら樹苑なるものが、地図には達身寺は載っていなくても「やすら樹苑」は載っていた。まさか介護施設ではないだろうなと言いながら寄ってみると
達身寺 022-a 達身寺 023-b
公営の宿泊施設でした。食堂もあると言うことでしたのでコーヒーを飲んで帰ってきました。チャンチャン(^_^)v

たるみ山・自然水の評価は、良くも悪くも普通で地下水を汲み上げている水カナ・・・と思えました
で、独断と偏見の水ランクは
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v デスタ
詳しい場所は

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