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NO125:但馬御火浦の「不老の水」

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本来は、香住港から出ている三姉妹美人船長の操る「かすみ丸」で海から「但馬御火浦(みほのうら)」を観光する予定でしたが、時間が取れず、余部崎燈台と「但馬御火浦」を上から見て楽しむ事に、「妙見水」を汲んだ後、御崎地区方面へ車を進めた。

臨時ニュース(9月27日)
御嶽山が噴火したのもニュースですが、我が家の近くに豊岡から「こうのとり」が飛来してきました。
   コウノトリ 001-b
アップで
   コウノトリ 005-b
食事中
   コウノトリ 013-b
足に識別標の足輪を付けています。
臨時ニュースおわり

この「但馬御火浦」は2010年山陰ジオパーク(鳥取:白兎海岸~丹後半島)に認定された風光明媚なところで、海岸道路からの眺めを期待しての行程でした。
まずは、御崎街道から断崖絶壁に見える集落
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まるで印したところが御崎地区と言われ、壇ノ浦の戦いで敗れた門脇宰相平中納言教盛(かどわきさいしょうへいちゅうなごんのりもり=平教盛、平清盛の異母弟)を大将とし、伊賀平内左衛門家長、矢引六郎右衛門らが同じ船に乗り込み、遠く壱岐、対馬方面に逃れようとしたところ、日本海を漂流し香住の近くに流れ着き、磯づたいに御崎まで落ち延び、土着したといわれています。
 当地にはそれを裏付けるかのように門脇家、矢引家が現存しここで生活されています。
 また、御崎にはこの地にしか育たないといわれる「平家蕪(へいけかぶら)」という蕪が自生しています。平家がこの地に身を寄せた際、土地がやせた人里離れた場所であったため、たちまち食料に窮してしまい、神に祈願したところこの蕪に恵まれるようになったといわれます。春には菜の花に似た黄色い花を咲かせ、現在でも一部の家庭では漬物にして食されています。

 そして現在も伝承されている平家にまつわる行事の一つ、「百手(ももて)の儀式」が毎年1月28日(午後3時半頃から)に行われています。
 氏神の平内神社で、門脇、伊賀、矢引の武将にふんした3人の少年が、境内の御神木に源氏に見立て掲げた的めがけて、地区内で採取した竹で作った弓矢で101本の矢を射るもので、歩射という弓の神事から始められたといわれています。
 平家の無念を晴らすとともに、士気を鼓舞し平家再興を夢見て受け継がれてきた伝統行事です。(香美町HPの資料よりお借れしました)
そこの地区を通り越して進むと、余部埼燈台に着きます。
トップ画面の燈台ですが、その入り口に鳥居と灯篭だけの余部美伊神社
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この灯篭が昔燈台の役目をしていたとか・・・(?_?)
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ここから日本海を望むと
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薄らと丹後半島の経ヶ岬が見えます
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その先に燈台があります。美伊神社の灯篭は燈台の元祖かも
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余部埼灯台の説明書き
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日本一高い場所にある燈台(燈台の高さでは無いでよ~)
この地に燈台が建設されたのは、昭和26年(1951年)3月25日でした。当時は山また山の山林で、建設資材は御崎の港から人力により運搬され、それも地元御崎の人々の手によるものでした。昭和36年(1961ねん)までは、燈台職員がこの地で生活し、燈台を守っていましたが、現在は無人で運用しています。現在の燈台は、昭和60年(1985年)に建て替えられ2代目です。この燈台は、我が国で一番高い場所にある燈台です。ここから日本海の眺望をお楽しみください。
位置:北緯35度39分57秒
    東経134度32分18秒
光り方:単閃(セン)白光 毎15秒に1閃光
光の強さ:44,0万カンデラ
光の届く距離:23,0海里(42,6キロメートル)
高さ:地上から燈台頂部約14メートル
   水面から燈火 約284メートル
管理事務所:舞鶴海上保安部
        ☎0773-76-4120
そして、こんなものも
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余部埼灯台50周年記念行事「タイムカプセル」
日本一高い所に位置する灯台として、余部埼灯台がこの地に誕生して50年の時を経て、これを記念し、この灯台内には、2001年度の余部小学校全校生徒〈51名)前年度卒業生(11名)及び余部幼稚園の児童(12名)の「15年後の私へ」と題した作文や絵などが、タイムカプセルとして保管されています。
 このタイムカプセルは15年後の2016年に開封する予定です。
 灯台に納められたタイムカプセルが時を経て、余部の美しい景観と共に、郷土を想う心が「永久」であることを願うものである。
2001、5,12 第八管区海上保安部  香住航路標識事務所
そしてさらに御崎街道を奥へ
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こんな海岸
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あんな洞窟
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・・・を楽しみながら走っていると、予定外の湧水に遭遇
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岩に吹き付けられていたコンクリートが湧水ではがれたのか、そこだけが岩がむき出しになり
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湧水が岩の割れ目から流れ出てきている。ペットボトルは、もろてきた湧水でどれも満タン!いかにして汲んで帰るか思案
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断腸の思いで、一番多く汲んできた湧き水のペットボトル一本大地に返却し、それに入れて帰る事にした。
溜まっている湧水は、どうも雑菌が多いい様子、苦難の末湧き出している付近から少しずつ湧水を入れ無事満タン(^_^)v・・・で、ここで、もと来た道へとUターン。
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旅はこれで終わらず
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やはり、『終わりは温泉で』のリクエストに答えて、香住の日帰り温泉「矢田川温泉」へ行きました・・・とさ。 おわり

「不老の水」を沸かしてこーひーで飲んだところ
独断と偏見の
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vデスタ
詳しい場所は
  
大きな地図で見る 

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NO124:香住湧水十選「妙見水」

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『明治45年の完成から約100年間。
JR山陰本線を見守り続けてきた餘部鉄橋。
平成22年、新しくコンクリート橋に架け替えられましたが、JR餘部駅側の3本の橋脚は現地保存され、餘部鉄橋「空の駅」展望施設として生まれ変わりました。
餘部鉄橋下には、展望施設へのアクセス通路や公園もあり、橋脚跡を活用した東屋や芝生張りの自由広場でゆったりとした時間を過ごすことができます。地上約40mの浮遊感日本海の美しい眺めを、お楽しみ下さい』(餘部鉄橋「空の駅」展望施設パンフから)

「妙見水」が出ているであろう場所は、餘部鉄橋を越えて行かなければならない様なので、まずは餘部鉄橋に立ち寄り観光する事に、鉄橋の下には「道の駅 あまるべ」が在り、そこの駐車場を利用する。
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ここには列車の時刻表が設置され、ちょうど15分後ぐらいに列車が到着することから、あわてて「空の駅」まで登ってみる事に
   今の餘部鉄橋
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駅まではこのような遊歩道が出来ています。
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登り道の途中から見た餘部鉄橋
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そして、若い連中
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昔が懐かしぃー(~o~)
「空の駅」に到着する間もなく列車が
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観光用に、前の駅から乗って来た人、この駅から次の駅まで乗る人と、JRも儲かっている様子・・・と、運転手が窓から顔を覗かせると・・・オッとドッコイ若い女性の顔・・・こりゃ写真に収めとかなくっちゃぁ・・・と、ハイパチリ
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・・・写っていませんでした・・・誰かがやきもち焼いたのかな~
で、みなさん列車を見送りしていま~す(^_^)/~
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これが、空の駅の全景デ~ス
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実物は、こんな感じ
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自殺の名所にならなければよいが・・・て、立ち入ることはできません!!!
   海の景色は
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長椅子もありますので、いつまでも眺めている事も出来ますよ~
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     餘部駅の開設
 余部鉄橋が完成しても、余部地区の住民には恩恵がなかった。三方を山で囲まれた”陸の孤島”余部。
外部との行き来は、相変わらず車も通らない山越え道。余部には駅がなかったのである。人々は汽車に乗るために、高く長い鉄橋を歩いて渡り、4つのトンネルを抜けて鎧駅にたどり着くという状況にあつた。
 不便な生活を解消するため、余部地区の住民は昭和30年頃から国鉄総裁などに駅の設置を強く陳情。余部小の児童も当時の坂本勝知事に手紙を書いた。その結果、33年9月に知事が現場を視察、ついに餘部駅の設置が承認された。駅の建設工事が始まると、余部の子供たちも海岸から岩石を運び上げ、ホームなどを作る手伝いに精を出した。餘部鉄橋完成から実に47年目の昭和34年4月、立派な餘部駅が誕生した。
▲列車運行を避けながら4つのトンネルを抜け、鎧駅まで歩いて通勤通学
▲北風が吹きつける中、海岸から石を運び上げた、念願の餘部駅建設に子供たちも頑張った(昭和34年2月)
▲待望の一番列車を迎える余部地区民
泣けてくる物語である(*^_^*)
鉄橋の下にも
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覚えている人もいらっしゃると思いますが
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   聖観世音菩薩像建立の趣意
昭和61年12月28日正午すぎより山陰特有の低気圧が進入し列車転覆限界風速を越える強風が連続的に吹き荒れている13時25分頃回送中の下り和風列車みやび号が餘部鉄橋中央より客車7両の脱線転落で鉄橋下のカニ加工場を直撃し従業員主婦五名と列車車掌1名の計6名もの尊い生命が奪われ6名が重傷を負う未曽有の大惨事が発生した。列車転覆事故は明治45年に鉄橋完成以来初めての惨事で遺族や関係者にとって深い悲しみは言語に絶した。二度と事故を繰り返さないように慰霊碑建立を遺族一同の呼びかけで関係者があい集い犠牲者の慰霊とご冥福を祈り人々の永久平和と総ての交通安全の願いをこめて現地に聖観世音菩薩像を建立する
               昭和63年10月23日
   餘部鉄橋事故犠牲者     慰霊碑建立発起人会


「やすらかに 人々の幸せを見守り下さい」と手を合わせ、湧水を探しに出発した。
そこから数キロも走らない所にそれは在った。
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香住青年会議所が立てられた札には、香住湧き水十選「妙見水」と書いてありました。しかし、来る前にパソコンで調べてみたのですが、ここ以外香住湧き水十選の場所は見当たりませんでした。

その日は天気の良い日で暑く、水がつめたぁ~いと喜んでいる所をパチリ
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仕返しに、知らぬ間にパチリ・・・・で、余部崎燈台へ・・・

で、香住湧水十選「妙見水」で飲んだコーヒーの味は、今回汲んできた中で一番おいしかったデェ~ス。
独断と偏見のランクは
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v でした。 
詳しい場所は

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NO123:三川山の命水(仮)

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次に向かったのは、香住にある大乗寺へ向かった。若かりし頃一度行った事があったのだが、今回は連れ合いに見せたくて行く事に、何を見せたいかと言いますと「画家:円山応挙の描いた障壁画」があるのです。それで応挙寺とも呼ばれています。

三川大権現を後に、大乗寺に向かう道すがら「昔小学校の三川分校」今公民館だそうですが、懐かしい建物なので一枚パチリ
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更に下って行くと、おっオオオ・・・湧き水らしき水が山の裾野から
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近寄ってみると、確かに山の藪の中から竹の筒を伝って出てきている
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これは、やっぱし汲んで帰らなくっちゃ~という事で、かってに「三川山の命水」と命名し頂いてきました。
予定外の天然水をゲットして香住方面へ、178号線へ出るとそこから高規格道路つまり高速自動車道に乗ります。
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この自動車道は、鳥取・豊岡・宮津自動車と言う名で、現在建設がすすめられ、完成時には鳥取から我が町与謝野町の自動車道につながってくる予定です(*^^)v
この区間は、佐津から香住を越えて餘部まで11,5kmが開通している。それに乗って香住で降り、「応挙寺」へ
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亀居山  大乗寺 (高野山 真言宗)
大乗寺 略記によると天平17年〈745年)行基菩薩が聖観音立像を自らお刻みになり本尊として、開創したことに始まると伝えられています。中世に法燈は一時戦乱の余波を受けて衰運に傾きましたが、安永年間に密蔵法印が再興を計画し、密英上人により寛政7年〈1795年)に庫裡を含めた現在の建物総てを完成しました。
 この時すでに写生画の巨匠として大成し名声を博していた円山応挙は、まだ書生であった頃、光蔵上人にその才能を認められ援助を受けられました。その旧恩に酬いて、自らの数々の大作を始め、息子の応瑞や弟子の呉春、蘆雪など一門の名作を襖などに描き残しうち165点が国の重要文化財の指定を受け、さながら円山四条派の美術館とも言えるところから別名「応挙寺」と呼び親しまれています。また、寺には平安後期の作と推定されている仏像(国指定重文、県指定文化財)が安置されており寺歴の古さを伺わせています。
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石段を上がり山門をくぐると、客殿という僧坊の正面玄関に円山応挙が出迎えてくれます。
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右の障子があいている所が受付で入拝料大800円を払い大乗寺客殿へお入りください。館内は撮影禁止です
出て来ると、境内には二本の大きなクスの木がそびえて居ます。
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もう一本は
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大乗寺の歴史を感じさせる大木です。吾輩は大木を見るのが大ぁ~い好きなのです。いつかは屋久島の縄文杉を見に行けたらと思っていますが、11時間もかかるそ~なので、吾輩の体力では無理かも(?_?) なんせ、奥方のおしりを拝みながらのハイキングなもんで(~_~;)
境内の奥、一段高いところに本堂があります。
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その前にはユニークな手水の噴水が
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そして、本殿の横に薬師堂
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と巡り、大乗寺を後に今日のメイン「餘部鉄橋」へと向かった。

「三川山の命水」(仮)をコーヒーで飲んでみた評価は、三川大権現「閼伽水」とよく似ていて、まぁ まぁ美味しく飲めました。
独断と偏見の評価は
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vでした。 

詳しい場所は
  
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NO122:三川山奥ノ院「八大剣龍王の清水」(仮)

本堂の左の方へ歩いていくと・・・奥ノ院が、その中には「御分身像」なるものが
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どうもこの石室(いしむろ)が「奥ノ院」と言うもののようである。
龍の口、竜頭(たつがしら)、龍蛇口、水出し龍、等とも言われるところから、一条の雫が流れだしている。
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何処から来ている水だか分からないが、とりあえず「貴重な湧水」であろうと、頂いて帰る事にした。
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周りの景色を写している間、少ない水を根気よく入れてくれている「My Wife」さぞかし旨いだろうと期待が膨らむ。恥ずかしいのでちいさ~くしておきました。
分身が龍なのだが、石室の主は
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なんとアマガエルだった。保護色になっているので分かるかな~。
そして、一段高い場所には、三川山縁起鈔に書いてあった
とげぬき大師像
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その周りには日本百八十八ヵ所のお砂踏みの石盤が
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さらに奥には、ポックリ尊像が
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そして、この広場の端にはこのような物も
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田舎に住んでおりながら、帰ってパソコンで調べるまで解らなかった
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 わかるかなぁ~  

正解:栃の実デス
お土産に「トチ餅」と言うのが売ってありますが美味しいです。
で、一通り三川大権現社も見学が終わり、車へ
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この道が三川山登山道になっていて、その日も一台の車が駐車場に留めてあった。

「八大剣龍王の清水」の水は、期待に背き美味しいとは言えず残念でスタ。青銅の龍の口から出て来るときに化学反応して悪さをするのかも(?_?)
結果、独断と偏見の水の評価は
(^_^)v (^_^)v (^_^)vでした
詳しい場所は

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NO121:三川大権現社の「閼伽水」(仮)

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八月も終わる頃、ワイドショウで余部鉄橋を放映していたのを見ていて、早速今年の夏の「思い出」に行こうという事になり、湧水が出ていないか調べてみる事に、二ヶ所ハッケ~ン。その一つ、三川山に在る三川大権現社に出ているらしいとの情報をもとに、まずはそこから行ってみる事にして出発した。その日は、地域の草刈りに駆り出されて10時半になった。

『その三川山の麓にある三川権現は、修験道の開祖、役行者(えんのぎょうじゃ)が天武3年(674)に蔵王権現を勧請して開いたと伝えられています。大和の大峯山、伯耆の三徳山と並んで日本三大権現に数えられ、歴代の国主、諸公をはじめ人々の信仰を集めたそうですが、しかし天文7年(1538)、雷により奥の院を焼き、伽藍を焼失します。その後再建されますが、天保3年(1832)に土石流で全ての建物が埋没してしまいました。当時の出石藩主仙石氏らが再興を計り、高野山大僧正と信徒らにより蔵王堂が再建され現在の三川権現社があるとされています』(香美町観光資料より)
と、ここでも役行者が出てきました。何か因縁があるようですワイ(*^^)v
*尚、今回の香住コース(NO121.NO122.NO123.NO124,NO125)の記述は、記事の内容上、当日の移動ルートの中で前後している部分がありますがご理解を m(__)m
国道178号線から佐津川沿いに川上へ入って行った。しばらく走ると、平家之史跡 畑
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の石碑が建ち、その後ろの方には
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平家落人伝説の里    下に説明書きがしてあるものとばかり思い読んでみると、
  畑区推進目標
 ●互いに合わす挨拶で、心のかよう地域をつくろう
 ●地域に伝わる歴史や文化をもっと学ぼう
・・・・・(~_~;)  
 畑(はた)=「平家平(なる)」、「馬冷やし」、「馬場平(なる)」、「矢立松」、「烏帽子岩」、「御屋敷」などの地名が残っている。伊賀平内左衛門の名を世襲する家があった。藤原、小松の姓を名乗る旧家がある・・・(香美町情報より)
『壇ノ浦の戦で敗れた平家の門脇宰相平中納言教盛(かどわきさいしょうへいちゅうなごんのりもり=平教盛。清盛の異母弟)が、伊賀平内左衛門家長、矢引六郎右衛門ら主従数人とともにこの地に流れ着き、土着したと伝えられています。』(NHK香住情報より)
さらに奥に進んで行きます。
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社寺仏閣にある赤い欄干の橋が見えてきました。そこを過ぎると
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朽ちかけた元食堂が出迎えてくれた。ここは・・・
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駐車場から見た三川大権現社
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人の気配がない・・・立派な社務所というか僧坊というか、在るのだが・・・
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(原則として全ての神社を「〜神社」(宮号・神宮号を除く)と称するようになったのは近代になってからである。「〜明神」や「〜権現」などと神名を社号としたところや、「〜稲荷」「〜八幡」と「神社」の部分が省略されたところ、「〜社」としたところなどがあったが、全て原則として「〜神社」と称することになった。これを権現号の使用禁止と関連させて、排仏政策によるという指摘もあるが、むしろ国家が管理するうえでの都合によるといえるだろう。)  『権現(ごんげん)は、日本の神の神号の一つ。日本の神々を仏教の仏が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号である。権という文字は「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示す。』ウイキペディアから
どうも、神仏習合のお寺の様である。(鐘楼・鐘撞き堂が有るので)
*尚、写真の中央が白くぼやけているのは、魂である・・・・・・と、言うのはウソ・・・レンズの中央が汚れていたようである (~_~;)
三川大権現社の本堂「蔵王堂」と僧坊に上がって行く石段の横に「閼伽水」(仮)が結構な勢いで出ていました。
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大木の下から湧き出でる神秘な清水と言った趣きのある湧水です。
早速、ペットボトルに頂き一つ目の湧水は無事納める事が出来ました。で、「蔵王堂」に御参りに・・・
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鐘撞き堂の方から、石段を登って境内へ
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三川山「蔵王堂」です。正面の屋根には「菊の御門」が、どういう関係なのか?その境内の端に「謂われ」を書いた看板が
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少し長いですが書き出しておきます。
但馬国総祈願所    三川山縁起鈔
 当山は今は去る事、一千三百有余年の昔、第四十代天武天皇の白鳳三年、役行者神変大菩薩に依って開創されし古霊場であり、御本尊あ菩薩一刀三礼の御作にして和州吉野山、伯州三徳山と共に蔵王権現の日本三山の一なり。
 後、第四十五代聖武の御世を経て第四十九代光仁天皇の宝亀元年に至りて一万余坪の聖城に十間四面の壮麗なる蔵王堂を中心として諸堂・塔頭・宝蔵・僧房等・伽藍十八宇悉(ことごと)く落慶し、聖武、光仁天皇様の勅願に依る山陰鎮護の祈願道場と定められる。
以来、山陰屈指の霊場、但馬国総祈願所として、歴代国主、諸侯をはじめ一般の尊崇(しんこう)いよいよ篤く隆盛を極めし権現様であり、また神変御流修験道の根本道場として、奥ノ院に散在する行場、百余町歩余りに、坊舎五十余宇、白衣の行者常住して修業にはげみしと言う。
 第百五代後奈良天皇の天文七年雷火に依り奥ノ院を除く、伽藍悉く山火を伴って消失す。後、十五宇の諸建造物の再建なるも、天保三年三月、空前の南風吹き荒れ、全山5メートル超す積雪、一時に溶け、現在の本坊より約1,5キロ奥にある通称「底なし沼」「蛇抜け」と称する山岳の崩壊に依り発生せる。但馬有史以来と言われる大山津波(土石流)のために、一万余坪の境内、十間四面の蔵王堂、伽藍諸堂、宝蔵、大梵鐘その他すべて十五宇、流失または地底深く埋没し、大山津波は十三キロ下流の佐津の海を黄土の海に染めしと言う。
 時の出石城主仙石、村岡城主山名の両候、再興を計りしも旧観に復するを得ず、時恰も(あたか)明治維新に際会し、時の政府の排仏毀釈(はいぶつきしゃく)の暴挙に依り、再建するも、当事者その方法を誤りし為に反て苦境に堕し、多くの寺有財産を失い、蔵王堂、回廊、庫裡、客殿、その他今以て流失以前の規模に復せず。以来、百数十年、歴代法主あらゆる苦難の道を辿りながら寺門の興隆をはかり今日に至るも世は常に有為転変、開山以来今日まで一千三百有余年いくたびかの栄枯盛衰をくり返し今は昔日の輪奐の美を想像する「よすが」もなし。されど、日本三大蔵王権現の一つと言われる。
御本尊様は御安泰にして霊験放光赫々(カクカク・キャクキャク・あかあか)として輝き、曽ては五月三日の大祭は、文字通り但馬三大祭りの随一にして、境内も道路も万余の人で埋まり、身動きできぬ有様なりしが時代の変遷、人心の動き、いかんともいたし方なし。
 平成四年二月には現住法主八十歳の高齢をおして、インドの(仏跡)御釈迦様の御遺跡を捨身行の巡礼をなし、念願の御霊砂を拝受して帰寺、霊場三川山も道路、駐車場、公園その他諸設備の完成と相まって、権現様ポックリ尊、とげぬき大師、奥ノ院の御分身尊、西日本一ヶ所の日本百八十八ヶ所のお砂踏みに、遠近より大勢の方々のお詣りがあり、また国定公園、県立公園、ひょうご森林浴公園五十選の三川山の大自然を求めて入山する人も、おいおいと増して近き将来に曽ての三川山大権現の御霊験御威光の盛況は期して待つべしと。爾云          平成七年五月  法主  敬白
ぁ~長かった(~_~;)
という訳で、開山堂 役行者・神変大菩薩へ
   香住 031-b
御開帳~
   香住 034-b
という事で、次にお砂踏みの方へ移動した。
   本堂廻り縁からの眺め
   香住 059-b
三川大権現社の「閼伽水」(あかすい)の評価は
独断と偏見の
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v デスタ
詳しい場所は
 
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