NO117:泉延命地蔵尊の「泉のおしょうず」

「泉のおしょうず」を探しに行く前に、「腹が減っては戦が出来ぬ」という事で昼飯を食べる処を探しに敦賀市街へ気比神宮から敦賀駅に向かって移動した。敦賀という地は、「明治2(1869)年、日本初の鉄道となる4路線の一つとして、京都-敦賀間の鉄道建設が決定され、明治15(1882)年に日本海側初の線路が敦賀に敷かれました。
その後、明治45(1912)年に欧亜国際連絡列車の運行が始まり、新橋(東京)-金ケ崎(敦賀)間を直通列車が走り、敦賀港から連絡船でウラジオストク(ロシア)へ、そこからシベリア鉄道でパリ(フランス)まで行くという路線が確立されました。」
そのことから、松本零士氏の銀河鉄道999を町おこしの題材にブロンズ像が街角に

気比神宮から敦賀駅に向かって右の歩道に「宇宙戦艦ヤマト」のブロンズ像、左の歩道に「銀河鉄道999」のブロンズ像が設置されています。

・・・と、ブロンズ像を観賞しながら、食堂を物色。美味しそうな「越前そば・むぎや」さんを発見!

入ると先客組3組ほどの方が、ショーウインドウに出ていた「天麩羅おろし蕎麦」を注文、つぅの人はただの蕎麦を食べるらしいが、吾輩はスリィぐらいなので「美味しそうな蕎麦」を注文、待つ事約30分ちぃ~と長い^_^;、その間写真が前後するが、

越前そばの由来を割りばし袋から・・・江戸時代、非常食として栽培が奨励されたことに始まり、越前の気候風土が育んだ風味の良さにおいて全国有数とされ現在に至っております。当店では特に良質される山間部の奥越地方産のそばを石臼挽き製粉した物を使用し越前そばの伝統を守っております。
待つ間にも、お客さんが二組入って来られ、そう広くない店内も満席近い状態と・・・そして注文の品が・・・食べ出してから写真を写すのを思い出し、ハイパッチリ

食べかけで御見苦しい事至極ですが、最近心臓に毛が生えたのか「写真を写す事」に抵抗が無くなりつつありますもので・・・最後に蕎麦湯を頂き、本来は出し汁の中に入れて頂くのだが、チョイト飲みにくく、コップに出してくれました蕎麦湯に出し汁を入れて頂きました。どちらが良いのやら・・・
我が地方では、蕎麦と言えば皿蕎麦で有名な出石そば、比べると越前そばは白っぽく、出石そばは黒っぽい色どう違うのか、このサイト ソバヤコムに書いてありましたので、関心のある方は読んで下され。m(__)m
メタボ気味なお腹もメタボになりお店を出て一枚

元気回復という所で次の「泉のおしょうず」を探しに、地図上では8号線のトンネル手前の陸橋を登らず、その下を行けば永厳寺(ようこんじ)の近くに在るらしい。
敦賀港(金ヶ崎)まで行っていた「欧亜国際連絡列車」が行き交っていたと思われる廃線

ココを渡り永厳寺入口へ

8号線のしたをくぐる隧道を抜けると

山門が待ち構えていた。石段を上り湧水を探してみるのだが、何時もながらすぐには見つからない(?_?)・・・で、お寺に尋ねて行く

こちらが本堂、中から住職の奥様がわざわざ出てきて案内を「お寺の敷地近くに在るものだから、間違えて来られる方が有ります」と言って近くまで

墓地を通り抜けて梢の下で分かれ一人で言われた方向へ

8号線に出てしまった。金網の柵が空いていた

金網には、子の下には泉地蔵尊と霊水がアリ、ゴミなどを捨てないで下さい。 泉共有者
その下の方には

湧水池の小屋と言うか、泉延命地蔵尊の祠と言うのか分かりませんが、そこへ行く階段を降りて行くと


泉延命地蔵尊が祀ってあり、湧水を見張っているようでした。

その前には、立派な湧水利用施設が作って有りました。

お地蔵さんの方から見た湧水池、そしてお地蔵さんの方向は

写真を見て、水底の出口付近が赤くなっている様に見えるのですが、これも「ベニマダラ」ではないかと思われます。しかし、現地で確認してませんので、何とも言えません。飲み水を汲む水槽は、板で蓋が作ってあり地域の心遣いが感じ取れます。周りを見ても整理整頓が行き届いていました。

吾輩も、ふたを開けて短い柄杓を借れて湧水を汲みました。何処にでも書いてあるお触れ書き。

注意:皆さんお互いに次の事を良く守って何時もきれいな気持ちの良い清水にいたしましょう。
一、炊事は一切しない事
一、汚物を水槽やこの付近に捨てない事
一、その他、お互いの迷惑になる非衛生的な行為は一切慎む事
泉共有者
最後に、地蔵さんの手桶水を入れ替えて、なにがしかのお供えをして帰る事に、帰りは元来た道を水を持って上がるのはしんどいので、こちらの隧道から水を取りに来るという事で、手ぶらで車まで帰って行きました。
こちらが、お地蔵さんへ通じる道でした。

そして隧道の入り口

これで予定の二つ目の湧水をゲット(^_^)v 三時まで少々時間が有るので、近くの敦賀港の金ヶ崎緑地公園にある、人道の港・敦賀ムゼウム に行って見る事に・・・
その前に、ムゼウムという聞きなれない言葉とは、資料館とか博物館と言う意味のようで、つまり「人道の港の敦賀資料館」と言ったところでしょうか。
行ってみると、な!なんと、朝ドラの世界(花子とアンの主題歌シーン)メルヘン、アニメの世界にタイムスリップした世界

正面玄関です

人道の港と言われる所存を少し説明しておきます。
一つ
1919年(大正8年)~動乱のシベリアで家族を失ったポーランド孤児が、1920年ロシアのウラジオストクから敦賀港へ輸送船「筑前丸」に乗って入港した。その数計5回にわたり375名、1922年再度3回に分けて計427名が敦賀港から上陸した。敦賀の市民は、滞在が長くても一日という短い時間でしたが、上陸した孤児たちにできる限りの温かい手を差し伸べました。
一つ
余にも有名な杉原千畝 (ちうね):第二次世界大戦中、ナチスの迫害から逃れようとしたポーランド系ユダヤ人に、当時のリトアニア領事代理であった杉原千畝は人道的立場から日本通過ビザを発給しました。こうして、敦賀にやって来た6000人ものユダヤ人の命が救われたという「命のビザ」を手に、上陸した敦賀の市民との間には多くの心温まるエピソードが残っている
これら二つの件は、シベリア鉄道~ウラジオストクー直通航路ー敦賀~東京(欧亜国際連絡列車)が運航されていた元で起きた歴史です。(敦賀ムゼウムで頂いた資料から)
詳しくは人道の港・敦賀ムゼウムを見てください。

ご案内
展示館名:人道の港・敦賀ムゼウム
会場 :金ヶ崎緑地休憩所(大和田別荘)内
休館日 :12月29日から翌年1月3日まで
開始時間:午前9時から午後5時まで
展示協力金:この建物は休憩される方々の建物です。ご自由にお入りください。
なお、この休憩所内で「人道の港、敦賀」の展示をしており、ご覧になられる方は、展示協力金のご協力(高校生以下無料)をお願いします。

海岸縁は、船のデッキに見立てた作りにしてありました。
・・・・という事で、3時も近づいてきたので、敦賀ICの方へ

案の定渋滞しています。

北陸道から舞鶴若狭道へ

記念の写真
知らない間に、先導のパトカーと道路公団のパトロールカーの後ろに来ていた。縦貫道の分岐の手前で、名古屋ナンバーのクラウンが急に割り込んでくるや、水色?の車が先導車を追い越して行ってしまった。おそらく覆面パトカーでは?クラウンも勿怪の幸いドキドキだったのでは・・・
ところが、そのクラウン縦貫道に入り吾輩の前を与謝野町の出口まで先導してくれて、吾輩が目的にしていた、開通1番目で敦賀~与謝野に降りる目標は、どうも二番手で終わったようである\(-o-)/
敦賀3時に入り与謝野に着いたのが4時45分、渋滞や先導車の事を考えると地道3時間の所を1時間半で行けるようです。
肝心な、独断と偏見の水の味ランクは、近くに敦賀セメントの工場がアリ、敦賀近辺は石灰岩の多いいところの様であり、それゆえ、ミネラル分の多いい湧水ではないかと考えるところであります。それゆえ、気比神宮よりこちらの方がセメント工場に近くコクが強く感じれました。吾輩は、強いて言エバ気比神宮の方が好みです。
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vでした
詳しい場所は
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