NO104:青倉神社の岩清水「御霊水」

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佐中から引き返し、青倉神社→黒川温泉→生野銀山 と巡次回ってきました。

まずは、青倉神社の「御霊水」を頂きに行く事に、場所は朝来市多多良木の青倉山の中腹にあります。
佐中から国道312号を少し引き返すと国道の縁に大鳥居が建っています。
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この鳥居から、青倉神社には
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山岳道路を登り、青倉山の中腹辺りに在ります。そこまでを参道というなら、案外日本一長い参道かもネ
この近辺には三つのダムがあります。そのためか、山岳道路も立派な道です。そして、こちらが本来の参道入り口の鳥居です。
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参道の縁には、社務所まで寄付された方の石柱が並んでいます。
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本殿には、この急な石段を登って行きますが、この神社の境内が断崖絶壁に造られてられているようなところデス。
なんせ、御神体はモアイ像のような岩なのです。
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この本殿の後ろに、モアイ像が
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その、胴体になる部分が、神殿の中に鎮座してしめ縄が巻かれています
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ウィキペディアにも、青倉神社の言い伝えが載っていたので借れてきました。
「昔々、おじいさんがウドを採っている最中に過って目にウドのトゲを刺してしまい、大変苦しんでいた。親孝行の息子がたいそう心配していたところ、神様が夢枕に立ち「岩から湧き出る水をつけると治る」とお告げをした。目覚めた息子は、夜が明けるとすぐ湧き出る水を探しを始め、山々を巡ってようやく巨岩の奥から流れている清水を見つけだした。それを持ち帰り、父親の目につけると、痛みが消えていき、目が見えるようになったそうな。
この昔話から、神社の氏子はウドを食べないという。」
我が地方も、ここの水は眼病に良いともっぱらの噂です。

その水がこちらです。
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この岩を伝って流れてきた水が
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長年の水の流れでできた岩のスジを通って
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このタンクに、上の◎を書いたコンクリートの水溜めに溜まった水が入り蛇口から頂く仕組みです。
このタンクの溢れた水は下の
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大きなコンクリートのタンクに行き、溢れた水は、さらに上り口に在る手水舎まで流れて大事に「御霊水」として利用されていました。
社務所も立派なのがあり、参拝者記入帳にな!なんと!!我が近所の人の名前が書いてあった!それも日を置いて二組の名前が!!!、なんと偶然な
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「御霊水」は、「なつたん(夏谷)の清水」をもらいに行った時出会った「マッタケ採り名人」が、青倉の水はダメだと言ってたのを覚えていたので、取水場までが遠いい事もアリいつもは8本のペットボトルに汲んでくるのを、今回は4本にして頂いてきました。
次は、温泉に・・・
黒川温泉は、TOPの写真に出ている通り、黒川ダムのまあ下に在ります。黒川ダムは、青倉神社から山岳道路を登り切って峠を越えた所に湖面が広がっております。
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少し書きましたが、ここには、生野ダム、黒川ダム、多々良木ダムの三つのダムがありますが、黒川ダムと多々良木ダムは揚水型発電用ダムで、原発の夜間発生電力を有効活用するために造られたとか、夜間多々良木ダムから黒川ダムに水を上げ、昼間黒川ダムから多々良木ダムへ水を落として発電をするというものらしい。生野ダムは多目的ダムとして利用されている。
又、竹田城辺りに雲海が発生しやすいのも、この三つの湖面からの霧の発生が大きく寄与していると地元の人に聞いた事がある。
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チョイト写りが悪く見にくい写真です。お許しをm(__)m
また、ダムサイトに行った時に関電の職員さんから聞いた話によると、立っている風力発電用風車はメンテナンスが大変そうで、今は止めてあるとの事でした。
ダムサイトから見た黒川温泉一帯
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初めて黒川温泉に来た時は、ロックフィル式黒川ダムの威容さに衝撃を受けました(怪獣映画に出てくるような)が、今では慣れてしまい何にも感じなくなってしまいました。人間の慣れの恐ろしさの一面です。
で、肝心な黒川温泉は
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この様に建物も場所も変わっており、私が思っていた山奥に一軒だけある湯治場のイメージは崩れてしまい、小さいながら今風の日帰り温泉でした。以前の面影は、温泉の横にある朽ちかけたお寺「大明寺」だけであっあ。
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しかし、こちらのお寺にも依然見られなかった金ピカの仏像が立てられていた。温泉は、大浴場と露天風呂がある温泉設備でした。吾輩には泉質を評価するだけのモノを持ち合わせていませんので あ し か ら ず。
無事『奥様孝行』も済ませ、最後の訪問地「生野銀山」へ向けて出発した。

黒川温泉から生野銀山までは、途中生野ダム湖畔を走り
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生野銀山へ到着
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こちらの生野銀山には、一円電車「あおば号」が
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すまして歩いているオバサンを見るのではなく、右のトロッコ電車です。こちらは、お化粧がしてないようで・・・
それにしても、にぎやかな雰囲気
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銀山跡地での地元生野町観光協会のイベントが行われていた。
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へいくろう祭 という意味の解らん名称だったので調べてみたら
~Yahoo知恵袋から~
「兵庫県の生野銀山では、ヒカゲツツジが群生しているそうです。
生野ではこの花を「へいくろう花」と呼んでいるそうです。なぜそう呼ぶかは、判りません。
昔鉱山で働いていた坑夫達が、ヒカゲツツジが咲く頃になると仕事を休みたがり、休憩することや怠けることを”へいくろうする”と言っていたのが名前の由来だとか。」
到着するのが遅かったようで、イベントのピーク時は過ぎていたようでしたが、我らも出店で腹ごしらえをして、いざ銀山の史跡巡りのお勉強会へ入場料を払って入って行く事に。(内心、イベントの時ぐらいは入場料無料!!!という太っ腹の良い面が見たかった)^_^;
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ここで生野銀山の歴史を(入場券のシオリから)
 生野銀山は大同2年(807)に発見されたと伝えられ、室町年間の天文11年(1542)には山名祐豊時代に銀鉱脈の本格的な採掘が始まりました。織田・豊臣の各時代を経て、江戸時代に幕府が「銀山奉行」を設置。その後生野代官が置かれ、やがて生野銀山は最盛期を迎えます。
 明治元年、政府直轄鉱山となった生野銀山にフランス人技師ジャン・フランソワ・コァニェが着任し、軌道や捲揚機の新設など数々の先進的施策により、めざましい近代化を成し遂げました。
 明治22年には宮内省御料局の所管へ移され皇室財産へ。ついで明治29年に三菱合資会社へ払い下げられ、国内有数の大鉱山として稼行しましたが、昭和48年に閉山し、長い歴史に幕を閉じました。
 その間に掘り進んだ坑道の総延長は350キロメートル以上、深さ880メートルの深部にまで達しており、採掘した鉱石の種類は70種類以上にも及んでいます。
       ジャン・フランソワ・コァニェ氏
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鉱道入口
   福寿の水神子畑 058-b
左の石段から露天掘りの遺跡群へ行けます。まずは、そちらから攻める事にしました。
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石段を上り詰め、少し歩くと朽ちかけた扉のゲートがありました。
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その奥に、溜まった沢水があまりの透明度に、水深を測るんだーと、石を投げて戯れているオ バ サ ン
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5分ほど山道を登って行くと、
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   露天掘跡(慶寿ヒ)
 慶寿ヒ(けいじゅひ」)は、生野銀山最大の鉱脈である千珠ヒの一部で非常に品質の高い銀(自然銀)を産出しました。
 この鉱脈が発見されたのは、室町時代末期の永禄10年(1567)頃と記録されています。
 ここから見える堀跡は慶寿ヒの一部で、江戸時代の末期までの300年間休むことなく採掘され、地下200メートルの深部まで達しています。
        平成四年三月    生野町教育委員会
徳川時代の旧鉱  出賀抗   坑口
福寿の水神子畑 091-b
右に見えるのが、例のひかげつつじ
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ひかげつつじ    ツツジ科つつじ属   ひかげつつじ亜属
 常緑低木、花は四月中旬頃咲く、淡黄色で少し緑色をおびる。温帯岩場のがけに多いい。
この付近は全国でも珍しい大密生地である。   自然保護植物
みだりに伐採すると、条例によって罰せられます。

露天掘りをもう一つ
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金香瀬  旧露頭群跡 「露頭とは鉱脈が地表に現れた部分で、昔はこれを探し当てた後に地中へ掘り進みました。」

さて、ここからは生野銀山坑道の内部です。江戸時代から近代にかけての採掘のやり方が展示されています。
唐箕(とうみ)で風を送る(左)下財(げざい)工夫の事を総称して呼びました(右)   
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   狸掘(この穴を這いながら掘り進んだ)
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    サンドスライム充填採掘法
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      蓄電池機関車
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鉱脈を掘った跡(左)      上向き削岩機(右)      
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シュリンケージ(鉱脈というのは丁度一枚の板を立てたような状況で地下から噴出しており、その長さは1km以上も達するものがあります。鉱脈を破砕し順次鉱石を井戸に掻き落として行くと、この様な空洞ができます。)
     坑道内の水脈
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そして坑道内最大の機械、巻揚げ機
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図面の地下730mまで降ろすようです(海面より300m以上下)
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   チョイト分かりずらいですが、エレベーターが映っています
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坑道から出てくると、「へいくろう祭」のイベント全国トロッコ・力自慢選手権大会の表彰式に、姫路から出張してきた「かんべえくん」が参加していました。
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という訳で、黒川温泉の旅は終わりを迎えました。
肝心な「青倉神社の御霊水」の評価はいかに、マッタケ採り名人が言っていた「おいしくない」の言葉に図らずも・・・
独断と偏見の水評価は
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vでした・・・ただし
二週間後には
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vになりました。 
詳しい場所は

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NO103:佐中の銘水「長寿の水」

  福寿の水神子畑 029-b
上の写真は、有名な「明延の一円電車」です。

今回は、嫁さん孝行?で「黒川温泉」に浸かりに行くついでに2ヶ所の名水巡りをしてきました。
佐中の名水「長寿の水」は兵庫県朝来市佐嚢佐中に在ります。我が家からはテレビでもてはやされています「日本のマチュピチュ・竹田城」の下、国道312号を姫路方面へ進み、
   福寿の水神子畑 002-b

   福寿の水神子畑 001-b
鳥取へ行く国道29号因幡街道へ出る国道429号へ右折して入って行きます。その途中から右折して佐中川を溯って行くのですが、神小畑(みこばた)という所に明延鉱山から鉱石を上の写真に有る一円電車で運んできて、そこで選鉱していた場所が保存されているので、とりあえずそれを見学に行く事にした。
   福寿の水神子畑 030-b
        一円電車の由来
この電車はかってマスコミ等で全国的に紹介さて話題を呼んだ有名な錫の鉱山”明延”の一円電車です。
昭和4年養父郡大屋町の明延鉱山と朝来郡朝来町の神子畑選鉱場の間6,1kmに鉱石輸送のための明神電車が開通しました。
昭和20年この鉱石運搬電車に、従業員とその家族の交通の便をはかるためはじめて客車が連結され登場したのがこの電車です。
最初の料金は50銭でスタート、昭和27年に1円に改訂、昭和62年3月明延鉱山の閉山により明神電車が廃止されるまで長期間料金1円のまま据え置き有名になりました。
1円電車の客車は3輌あり、くろがね号、わかば号、あおば号と命名され、永年に亘り地元住民の足として重宝がられました。
本来の使命を終えた後、くろがね号は養父市大屋町明延の地に、わかば号は神子畑の地に、あおば号はかつて兄弟鉱山であつた生野の地に居を移し、それぞれの地で観光に一役かう事になったものです。
    福寿の水神子畑 030-ab
ココの一円電車は化粧直しされ綺麗に保存されています。
その選鉱場に行く途中に標識が
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これが、鋳鉄で明治時代に作られ今なお綺麗な姿で残っている橋です
   福寿の水神子畑 023-
   福寿の水神子畑 039-a
でその模様を東京大学の先生が
   福寿の水神子畑 019-b
    東京大学教授村松偵次郎記
この神子畑鋳鉄橋は今から約90年前の明治16年から18年の間に架けられた全鋳鉄製のアーチ(拱)橋である
下流の羽淵鋳鉄橋とともに日本に現存する鉄橋としては三番目に古いものであり全鋳鉄橋としては唯一最古のものである。とくにこの神子畑橋は殆んど改修を加えられることなく、建設当初の場所にその美しい姿を遺していて、日本の土木技術史上まことに貴重な資料であるばかりでなく、郷土の誇るべき文化財である。
明治初年以来フランスの技術団を招いて開発を進めていた官営生野鉱山は、明治11年この神子畑付近に良鉱を発見して開掘を進めるとともにその銀鉱石を生野鉱山において精錬するための鉱石運搬道(四里四丁五十四間約16,3キロメートル)を明治十六年四月より同十八年三月にかけて建設した。この運搬道の五か所にそれぞれ形式の違う鉄橋が架けられたが、この神子畑橋はそのもっとも上流の神子畑川に架けられたものであり、現在は三菱金属株式会社の所有である。設計製作ともに当時生野鉱山を所管していた政府の工部省において行なわれたものと考えられるが、この場所での建設は技師松井敬馬之助技手関某および諏訪某の監督の元に鉱石運搬の業を請負った山内安左衛門ら近隣の村民の労働によって完成を見たものである。橋長約16メートル経間14,2メートル、幅員約36メートル、主要部材のすべてが鋳鉄製である。
全鋳のアーチ橋は鉄橋の歴史においても最古の型式であって、1779年イングランドのコールフルックテールを流れるセパーン河に架けられて現存しているものを〇矢とするその細部に木橋、石橋の手法を残しているのも鋳鉄アーチ橋が鉄橋の型式としてもつとも初めのものだからであり、この神子畑橋においてもそれが見られる。
橋はその後錬鉄橋の時代を経て今日の鋼鉄橋の時代に至りその構造形式も進歩してきたが鋳鉄のアーチ橋はイギリスにおいてもまた日本においても産業革命の初期を飾るにふさわしい力強くしかもロマンチックな美しさを持っていた。しかし、今はほとんどその現存例を見ない。日本においてはもともと鋳鉄アーチ橋の架けられた例は稀で現在はこの神子畑と羽淵の二橋を残すのみである。
この貴重な美しい橋を今日まで保存された関係者の功績は偉大であるが、さらに多くの人々の協力によって
この美しい環境の中に永遠に伝えられることを祈ってやまない。
                三菱金属株式会社 明延鉱業所
                   維持昭和四十九年十一月
              ~あーつかれたバッテン <(`^´)>
この鋳鉄橋は生野まで鉱石を運搬する道として作られ、当時は馬車が走っていたとの事です。
更に奥に進んで行くと、選鉱跡が見えてきます。
   福寿の水神子畑 027-b
当時の姿が
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一円電車は、鉱石を明延から運んできて、この選鉱場の一番上に着き、鉱石を下したとの事。それから鉱石を砕きながら有用鉱物を選び出し、最後の「シックナー」という
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この装置で、最後の最後まで有用鉱物を取り出すために液状になった鉱石と水を分離して精鉱を取り出したというものです。
最盛時には、神子畑地区に1300人という人々が生活をしていたという、今では朽ち果てて考えられない当時です。
拾数年前に来たことがありますが、最近は観光化されて、当時ハイカラであった旧事務所がセーム写真館として茶店にもなっていました。
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さて、神子畑選鉱所を後に再度引き返し、肝心な「長寿の水」を求めて佐中川をさかのぼって行くことに。
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集落を過ぎても一向に出てこない、道を間違えたのかいなと心細くなりながら進んで行くと、それらしき物が見えた。
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近づいてみると、立派な設備が作ってあり、その横には誇らしげに 佐中の銘水 長寿の水 (小さな字で)六甲のおいしい 水と飲みくらべて下さい 佐中のうまい水  その下には、佐中先年家→700mとも書いてあり、後程こちらにも行く事にして、まずは水を汲む事に 
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今回は、温泉行が待ち構えているためか我が連れ合いも積極的に協力してくれています。
私はその間に、例のスケベ心を出して水源の調査に
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見る限り、堰堤でためた沢水を地中からパイプで引いている様子、しかし、このような所は何処でもあり、ここにこのような設備を作っている事には何か訳があるはず、後程調べてみると「死に際の老人に飲ませたところ、一命をとりとめた」との伝説が語り伝えられており、それが元で「長寿の水」と附いたとの事です。これは想像ですが、この沢の上流から湧いて出ている水が流れて来て、太古とは言わないが、昔から日照りの日も途切れることなく水が流れ、周辺の人達から大切にされてきていたのではないでしようか。調べているうち、2009年頃の写真にはタンクは写っていなかったのですが、多くの人の利用があり汲み易く改良されて大切に守られているようです。我々にとってありがたい事です。
帰ってからコーヒーを沸かして飲むのが楽しみに、千年家に行って見る事に
   福寿の水神子畑 012-b
佐中の千年家のいわれが書かれた立札が
   福寿の水神子畑 013-b
      佐中先年家之由来
伝説によると、千年家の祖は近江の国(滋賀県)三上山に棲息する大百足(ムカデ)退治・・・
  ・・・1990年取材に訪れたTV局が「千年家」と称し以後通称として親しまれている。
              平成十年四月  佐中先年家保存会 
読めないので大まかに、関心のある方はこちらで三上山・百足退治藤原秀郷の末裔らしい

つまり、千年も経っていないという事 ^_^;
塀で囲まれ、中も見学することもできず早々退散することに、次の名水を汲みに引き返しました。

「佐中の銘水」を帰ってコーヒーを沸かして飲んだ結果、自慢するだけの事は有りましたが・・・
独断と偏見の味評価は
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v
一週間後
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vになってしまいました。

詳しい場所は  

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NO102:水分れ公園の「いそべの湧水」

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今回は日本一低い分水界(本当は千歳空港内・本州一)、兵庫県丹波市氷上町石生(いそう)の水分れ公園内に在る「いそべの湧水」をご案内いたします。

       日本一低い谷中中央分水界
 ここは、日本列島の背骨にあたる中央分水界が通っているところです。
 ここに落ちた雨粒は、二方に分かれて、一つは瀬戸内海(太平洋)側へ、一つは日本海側へ流れて行きます。
 水分れ公園奥向山の尾根が平地におりたところから、だいたい高谷川右岸(北側)を通り新町(行者山東端)まで、約1250メートルの間
 海抜、100メートル前後で分水界を形作っており、日本一低い分水界として、有名です。
 最も低いところは、新町交差点で標高95,45m、水分れ橋では102,04mです。
(平地で水が分かれる場合は分水界、山で水が分かれる場合は分水嶺という)
水分れ公園の中にいそべ神社があるのか、神社の周りに水分れ公園が在るのか判んないが、ソコの名前を取って「いそべの湧水」と言われているようです。

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水分れ公園の前を流れる高谷川の右の道が分水界の境界線になっているそうです。
この上流には、おそらく人工的に作ったと思われる
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高谷川の水は、瀬戸内海へ約70km・日本海へ約70kmの標識の下で分けられて、それぞれ別の海まで旅に出ます。

高谷川は
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左の川筋を下って右の写真の加古川へ合流して瀬戸内海へ

もう一方の別れた水は
P3160232-b.jpg 水別れ・磯部の湧水 006-b
左の写真黒井川が竹田川に合流して、右の写真土師川へ合流して由良川へ入り日本海へ流れて行きます。
といっても、
大昔の由良川の流れは瀬戸内海へ流れていたという説があります。

大きな声で言えない「裏話」
水分れ資料館が公園内に有ります。入館料200円で職員さんが説明案内をしてくれたので、先ほど見てきた高谷川の分けられた水は何処を通って流れて行っているのか?(この時点で、分けられた川の水が道路の下へ入って行くのだが、どこに出でているのか判らなかった)質問したら、職員曰く、あの水は元の高谷川に帰っているとの答え!、という事はあの分けられた所は や・ら・せ なのか^_^;
という訳で、再度探求しに行った、分かれて道路の下に入った水は、だいぶ下流の集落の
左の側溝に勢いよく流れ出ていた。そして田を潤し
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石灯籠が在る少し大きな側溝へ流れ込んで、市街へと流れて行っていた。
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事実は、分かれた水は二度と会うことなく海へと行くようでありました。(^_^)v

水分れ資料館の展示品から
石生周辺はもともと沼地であり、そこに高谷川の土砂が扇状地を造って二つに区切られたという写真
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中国山地と丹波山地の境界線が加古川・由良川水系となっている
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で、「いそべの湧水」は何処に出ているのか・・・
いそべ神社
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その前に立ちはだかる「夫婦スギ」
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太陽の加減で薄くなっています・・・と言って太陽のセイにしておく。
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        いそべの神
 剣爾山は、三角形の美しい形をしています。
 こういう山を昔の人は「神奈備山(神様の山)」と言いました。
 山上近くにある大岩は、神様が天から降りてこられる拠り所と考えて、こういう岩を「磐座」(いわくら)と言いました。
 その山の前に建てられたのが、いそべ神社です。
 このあたりのご先祖は、いそべの民は、大きな岩を使って、古墳を造ったり、たんぼを造ったり(後には条里制水田造りもした)する土木工事が得意な人達でした。
 そのいそべの人達の祖先、奇日方命(くすひがたのみこと)をおまつりしたのがいそべ神社、の始まりは(和鋼三年、今から約1300年前頃)です。
 後に八幡宮を勧請(神様のおいでを願う)して、八幡さんとなりました。
 なお、この八幡さんは、柏原の八幡さんより歴史が古く、昔から、このいそべ神社のお祭りをして、その次の日に神様を、柏原の八幡様へお送りする事になっておりました。
 その後、礒部神社には、いろいろな神様をお招きして、たくさんの神様がおまつりされて、石生の人達の守り神様としてお祭りされています。

で神社の手水舎に水が出ていたのですが
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情報では水分れ公園内に有るとの事、とりあえずそちらの方も覗いて見る事に
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水のカーテンから
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公園内を一巡した水が川に流れず、どうも再循環利用されている感じで、どうも汲むに値しない水みたいだと感じつつ滝の縁の方を見ると
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水のカーテンの水系から離されて一角に「幸運の泉」と書いてある場所が目に入り、これに違いないと例のペットボトルに汲んで帰宅の途に就いた。ここで、資料館によって見学をして行こうと先に書いた事を見聞きしてから、職員さんと雑談の中で、「幸運の泉」に流れて来ている水は「いそべの湧き水」ではないと言われ、案内してやると連れて行ってくださいました。それがコレです。
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で、これは間違いないと、先ほど入れた水を捨てて、再度入れ替えをして頂いて帰りました。しかし、引いているパイプを見る限り、滝の方から来ているようですが、職員さん曰くただ今公園内でも水が汲めるよう工事をする予定であるとの事でした。ただし、山水か湧水か定かではない、あやふやな返事でした。

今回の水汲みはこれで終わりですが、由良川水系を地図で調べていたら、どうしても行って確認したい場所を見つけ、帰りに寄る事にしていたので、そちらの方へ車を向けた。その地図がココです。栗柄峠付近です
  

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下の川が宮田川で篠山川に入り、加古川を経て瀬戸内海へ。上の川が杉谷川で、滝の尻川から竹田川に入り由良川を経て日本海へと流れて行きます。
水分れ公園の後ろにあたる谷合を行き
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これが、美しい三角形の剣爾山か?県道69号線を進んで行くと栗柄峠へと入って行きます
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谷の下には、滝の川尻川が流れています。峠を超す少し手前で、道を煙が覆っていたので、対岸を見てみると
   水別れ・磯部の湧水 022-b
お宮さんのお掃除をされている様子、道から覗いてみると
   水別れ・磯部の湧水 023-b
滝のようなものも見え、これは取材に行って来なくっチャ・・・と参道を探してそちらの方へ、
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これが観音堂
   水別れ・磯部の湧水 025-b
で、そのイワレ
   水別れ・磯部の湧水 026-b
手にむすぶ滝の白糸 くりからの くりかえしつつ祈る観音
栗柄観音堂
本尊 聖観世音菩薩
創建 平安時代
もと 御嶽山養福寺と称したが後廃寺となり、今の観音堂が再建された、聖観音のほか栗柄部落内の仏像を集めまつってある。
栗柄不動尊
現存の石仏不動尊は明暦二年(1656)建立された。
倶利伽羅明王ともいい栗柄の地名はこれより出たといわれる、〇福徳貴寺の祐盛法印(ゆうじょうほういん)が滝壷に住む竜女を成佛させたという。
この竜が法印に謝し残したという鱗が今も福徳貴寺の寺宝となっている。
俗に「腹痛なおしの北向き不動尊」として多くの尊信をうけている。
                        西紀町郷土史を考える会
という看板の前を通り過ぎ、歩いていくと
   水別れ・磯部の湧水 027-b
←不動の滝 蛇の枕→  という看板にあたった。
水別れ・磯部の湧水 031-b
竜女が使っていたと言われる枕デス?
その他にも、横の方に
   水別れ・磯部の湧水 029-b
   水別れ・磯部の湧水 030-b
ただ今調査中(?_?)   不動の滝へ
   水別れ・磯部の湧水 032-b
宮掃除が終わり、滝の横で「綺麗にできた」と 地元の方が雑談中
  水別れ・磯部の湧水 038-b
滝の横に在る赤いお堂の中に有るのか、それとも滝の右側に鎮座していた写真の石仏が「倶利伽羅明王」なのか確認できずじまいで、先へ急ぎました。それから、峠を登りきると三叉路へでた。
左の写真が栗柄峠方面       右の写真が篠山市街方面
水別れ・磯部の湧水 014-b水別れ・磯部の湧水 015-b
     二つの川が流れる川上の峠方面
   水別れ・磯部の湧水 016-a

そして三叉路の看板の後ろの白いモノが、杉谷川(左の谷)を堰止める不釣り合いなダム(兵庫県はこのような物がお好きなようで)
    水別れ・磯部の湧水 019-b
右の谷を流れる宮田川
   水別れ・磯部の湧水 018-b
この狭い谷合から、二つの川が奇遇にも別々の海へ
   水別れ・磯部の湧水 012-b
くりから谷中分水界
河川争奪の見える不思議な水分(みくまり)の里
 栗柄は、三方を山で抱かれた山間盆地の狭い平地で水田が開けていますが、この付近は、たいへん珍しい谷中分水界の地形を形成しています。
 右側の県道(丹南三和線)を2㎞ほど進むと、鼓(つづみ)峠の頂上に至ります。この鼓峠も日本海と瀬戸内海への分水界で、鼓峠から瀬戸内海側へ分かれた水は「宮田川」(右側の河川)となり、篠山川、加古川をへて瀬戸内海へ注ぎます。
 正面の谷から流れる「杉ヶ谷川」は、この辺りで宮田川合流するのがごく自然な形と思われますが、前方観音堂横で、突如西へそれ倶利伽羅不動の滝で4m近く落下し、滝の川尻、竹田川、由良川を経て日本海へ注ぐ不思議な谷中分水の地形となっています。
 約2万年前、河川争奪によって形成されたと言われるこの二つの川が谷中の平地内で百数十米まで相寄り、しばらくは同じ方向に流れながら、突如方向を転じる地形は実に珍しく、しかも、二つの川が見通せる位置で、中央分水界の形状が目のあたりに観察できる希少な地形です。一つの地区に二つの分水界があるというのも、またきわめて珍しいことです。     兵庫県多紀郡西紀町 
・・・という事でした。

肝心な「いそべの湧水」のコーヒーを沸かして飲んだ評価は、4つか5つ、どちらにしようか迷った結果、資料館のおば様、水分れ茶屋のおば様が親切でしたので、独断と偏見の水評価は
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vにシマスタ 
詳しい場所は
 
大きな地図で見る
     



番外:詐欺パートⅤ~詐欺、タイ、チェンマイ、契約書

昨日、またもや詐欺に遭われた方からコメントが入ってきました。未だに詐欺師たちは手を変え品を変えて暗躍しているようです。本人様の了解の元コメントを掲載させて頂きました。一人でも多くの方が詐欺に遭われる前に読んでもらえるよう今回のようにご協力を頂いております。読まれた方は、機会があるごとに話題に上げて広めて頂ければ幸いかと思っています。この話が広まり詐欺未遂で終わる方が一人でも出てくれば良しと思っています。

「つい3月末にタイのチェンマイに行って機械購入の契約をしたが、帰国してからメールと電話でを交わしアメリカに帰ってからまた連絡すると言って途絶えてしまいました。同じ手口で契約書作成費折半として、また一度アメリカに来て自分がCEO である会社を見に来たらとアメリカでの購入が安いからと往復旅費を送金しました。話しが上手すぎる思いはしておりましたけど、今の今北近畿さんの書き込みを読んで呆然としています!」

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