NO97:伊根町新井崎の「徐福の命水(仮)」
今回は。舟屋で有名な伊根湾の後ろにあたる伊根町新井崎に湧き出る「徐福の命水」を頂きに行ってきました。
伊根町と言えば、舟屋、NHK朝ドラ「ええにょぼ」で有名なところデス。

舟屋見学には、伊根湾の入口日出という所から伊根湾巡り観光船が出ています。

遊覧船からカモメ?ウミネコ?トンビ?にエサをやる醍醐味も(^_^)/
その伊根湾を見下ろす道の駅から半島方面に車を走らせると、新井崎の集落へ出ます。

そして、目の前には大島小島、冠島と沓島が見えます。

手前味噌で申し訳ないのですが、十数年前この新井崎漁港から一人でシーカヤックを漕いで冠島へ、、そこで休憩をして(本来は無断で上陸してはいけない島ではあるのですが)舞鶴の大浦半島まで横断したことがあります。梅雨明け十日を利用して(この期間が夏場の海で一番安定している時期と言われてる)冒険を行ったのですが、波の事ばかり気にしていて、お天道様の事を忘れ、槽破後熱中症で3日間床に伏した事があります。何とか命は免れましたが(@_@;)
その思い出のある新井崎ですが、徐福伝説の残る地としても有名です。

徐福伝説とは、日本各地に在るらしいのですが・・・縄文時代から弥生時代に変わろうとしていたころ、中国の秦の時代始皇帝の命により、不老長寿の薬草を探しに東方の海に出て行ったきり帰ざる人々を率いていた人が徐福とされている、その徐福が日本にたどり着いて、秦(はた)と言う性を名乗って末裔が生き延びている・・・と大ざっぱに言えば・・・詳しくは徐福の伝説見てネ。
新井崎神社は、集落へ降りて行く道に入ると間もなく見えてきます。

鳥居をくぐるとすぐ長文の石碑が有りました。

おそらく、徐福伝説の内容が書かれているものだと思えますが、長文なので、書き写しはパスします。
「新大明神碑口記・・・・80翁 石倉昭重」
参道を降りて行くと

この様な標識が

經文岩
この岩が経文岩と呼ばれる所似は、里人が経を唱えて徐福を匿ったことによると伝えられるが、これは全くの伝説である。
記録によれば西域から中国に仏教が伝わったのは紀元前後。そして朝鮮半島百済から我が国に仏像経典がもたらされたのは538年とされる。
徐福は天竺へおもむいて仏像を修めること7年という伝説もあるがしかし、この時代丹後半島に仏教が伝わっていたとは考えにくい。だが、古代における記録或は文献或は口伝などの整合性を追いかけること自体が問題で、こういう場合その裏にひそむものを探ることに意味があるのかも知れない。
ここは、口碑記にいう徐福集団と原住民邑長との問答の場所であったと考えたい。
この岩の側面にこの岩に似つかないコンクリートの壁がある。此処は大東亜戦争の遺構である。この洞窟には探照灯が格納されており、事ある時ハコ岩に引き出されて夜空を照らしたのであった。陸軍の砲台も海軍の施設も今は無い。ただ経文岩のコンクリートだけが残された。
古代の徐福の渡来の跡と現代戦争の跡という異質のものが同居する経文岩なのである。
ハコ岩


まれ人の来訪
この地に住んだ先人は、海の向こうから流れて来たものを素直に受け入れ、その流れつくところを聖なる場所と考えた。その代表が徐福であり、ハコ岩であり、その沖合いの目印が冠の島であった。
そして、新崎神社は標識の有ったところを左に行けば

新井崎神社の云われと、伝説の書いた案内板

新井崎神社
祭神である徐福が登場するのは中国の歴史書「史記」である
泰始皇本記28年(BC219)徐福は始皇帝に上書した「海中に三神山があります。ここに仙人がおり、不老不死の薬を練っています。身をきよめ童男童女と共にこれを求めたいと思います。」
始皇帝は徐福と共に童男童女を海に出して仙薬を求めさせた。
時代は人皇七代孝霊天皇の御宇徐福はこの地を易筮によって予知した。
上陸したとこはハコ岩。求めた仙薬とは、黒茎の蓬と九節の菖蒲であった。徐福はよく邑人(むらびと)を導いたので邑長となり死後、神として祀られた。
神社の創建は長徳四年(998)場所は今の愛宕さんの付近だったが、前を通る船に異変が続いたため、神意に逆らうとして現在のところに移し、南向きを東向きに変え建てられたという。
御神徳は海上安全漁撈満足そして病気の平慰、特にハシカの神として有名である。
新井崎と冠島
◇黄金の桜
新井崎神社の境内に桜の古木があり、冠島の老人島神社にも同じ種類の桜があった。その桜の間に黄金の橋がかかっていて、毎年この桜は七色に輝いて花を咲かせた。
村の子供達が、その花を手折ると腹痛を起こすといって親たちが神社に行き、七色の桜の花を咲かせないように頼んだところ翌年から普通の花が咲くようになった。
この花はここでいう黄金の花の裔である。
◇新崎の黒い岩
新井崎の黒い岩はその昔、蝙〇山の噴火の際の火山岩である。
昔、大島から新井崎へ黄金の橋がかかっていた。大島の男の神様は逢瀬を楽しんで新井崎の女神のところへこの橋を渡って通っていた。
ある時、思いがけない男神の来訪を知った女神は化粧の最中だったが、あわてて口につけようとしていたおはぐろを落とした。それで岩が黒くなった。
◇まれびとの来訪
上記

新井崎神社のお詣りを終え、湧水の出ている処へ向かった。
この湧水は、噂であるらしいと聞いていたのだが、今年の正月、連れ合いと初日の出を見に行こうと(いうても一月二日の早朝)画策して行ったのだが、行く前の雨雲レーダーでは晴れる予定が雨にたたられ、あきらめての帰り際、田圃らしき上の方からホースが引っ張られて水が出ていたので、その時はもしや・・・との思いで帰ってきたのであった。
その所へ、今回確認に来たのであります。

新井崎の集落から伊根湾へ出る旧道を登って行くと

まさにこのホースでした。やはり湧水を引いて来ているようですが、念のため水源を確認に上へ登ってみる事に!
これが上の地形です

奥のトタンで囲んだところで水が湧いていた。

そして、石垣の下から水は湧いていた。

湧いてきた水は草むらを浸して水汲み場の所へ流れていた。
しかし、ホースの根元は、水源なのか水溜まりの中に設置されいるのか確認できず少々心配でしたが、今は寒中、寒の水は雑菌が繁殖しにくいとの事、汲んで帰る事にしました。

さて、どんな味が楽しめるか・・・しかし季節によっては汲んで帰ろうとは思えない場所です^_^;
その後、近場の見どころを写しに
海岸美

バブルの頃、作られた別荘群

この中には日帰り温泉が在ったのですが・・・今はどうなっている事やら・・・最近はウワサも聞こえてきません。
そして、高級旅館 橋立の奥座敷事、断崖に建つ油屋デス

最後に、今年の幻の滝「布引滝」の水量です

写りが悪いので分かりますかねぇ~
独断と偏見の「徐福の命水(仮)」の水のランクは、思いの外美味しく頂けましたが、気のせいか腹が緩むような感じでした。
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vデスタ
詳しい場所は
大きな地図で見る
伊根町と言えば、舟屋、NHK朝ドラ「ええにょぼ」で有名なところデス。

舟屋見学には、伊根湾の入口日出という所から伊根湾巡り観光船が出ています。

遊覧船からカモメ?ウミネコ?トンビ?にエサをやる醍醐味も(^_^)/
その伊根湾を見下ろす道の駅から半島方面に車を走らせると、新井崎の集落へ出ます。

そして、目の前には大島小島、冠島と沓島が見えます。

手前味噌で申し訳ないのですが、十数年前この新井崎漁港から一人でシーカヤックを漕いで冠島へ、、そこで休憩をして(本来は無断で上陸してはいけない島ではあるのですが)舞鶴の大浦半島まで横断したことがあります。梅雨明け十日を利用して(この期間が夏場の海で一番安定している時期と言われてる)冒険を行ったのですが、波の事ばかり気にしていて、お天道様の事を忘れ、槽破後熱中症で3日間床に伏した事があります。何とか命は免れましたが(@_@;)
その思い出のある新井崎ですが、徐福伝説の残る地としても有名です。

徐福伝説とは、日本各地に在るらしいのですが・・・縄文時代から弥生時代に変わろうとしていたころ、中国の秦の時代始皇帝の命により、不老長寿の薬草を探しに東方の海に出て行ったきり帰ざる人々を率いていた人が徐福とされている、その徐福が日本にたどり着いて、秦(はた)と言う性を名乗って末裔が生き延びている・・・と大ざっぱに言えば・・・詳しくは徐福の伝説見てネ。
新井崎神社は、集落へ降りて行く道に入ると間もなく見えてきます。

鳥居をくぐるとすぐ長文の石碑が有りました。

おそらく、徐福伝説の内容が書かれているものだと思えますが、長文なので、書き写しはパスします。
「新大明神碑口記・・・・80翁 石倉昭重」
参道を降りて行くと

この様な標識が


經文岩
この岩が経文岩と呼ばれる所似は、里人が経を唱えて徐福を匿ったことによると伝えられるが、これは全くの伝説である。
記録によれば西域から中国に仏教が伝わったのは紀元前後。そして朝鮮半島百済から我が国に仏像経典がもたらされたのは538年とされる。
徐福は天竺へおもむいて仏像を修めること7年という伝説もあるがしかし、この時代丹後半島に仏教が伝わっていたとは考えにくい。だが、古代における記録或は文献或は口伝などの整合性を追いかけること自体が問題で、こういう場合その裏にひそむものを探ることに意味があるのかも知れない。
ここは、口碑記にいう徐福集団と原住民邑長との問答の場所であったと考えたい。
この岩の側面にこの岩に似つかないコンクリートの壁がある。此処は大東亜戦争の遺構である。この洞窟には探照灯が格納されており、事ある時ハコ岩に引き出されて夜空を照らしたのであった。陸軍の砲台も海軍の施設も今は無い。ただ経文岩のコンクリートだけが残された。
古代の徐福の渡来の跡と現代戦争の跡という異質のものが同居する経文岩なのである。
ハコ岩


まれ人の来訪
この地に住んだ先人は、海の向こうから流れて来たものを素直に受け入れ、その流れつくところを聖なる場所と考えた。その代表が徐福であり、ハコ岩であり、その沖合いの目印が冠の島であった。
そして、新崎神社は標識の有ったところを左に行けば

新井崎神社の云われと、伝説の書いた案内板


新井崎神社
祭神である徐福が登場するのは中国の歴史書「史記」である
泰始皇本記28年(BC219)徐福は始皇帝に上書した「海中に三神山があります。ここに仙人がおり、不老不死の薬を練っています。身をきよめ童男童女と共にこれを求めたいと思います。」
始皇帝は徐福と共に童男童女を海に出して仙薬を求めさせた。
時代は人皇七代孝霊天皇の御宇徐福はこの地を易筮によって予知した。
上陸したとこはハコ岩。求めた仙薬とは、黒茎の蓬と九節の菖蒲であった。徐福はよく邑人(むらびと)を導いたので邑長となり死後、神として祀られた。
神社の創建は長徳四年(998)場所は今の愛宕さんの付近だったが、前を通る船に異変が続いたため、神意に逆らうとして現在のところに移し、南向きを東向きに変え建てられたという。
御神徳は海上安全漁撈満足そして病気の平慰、特にハシカの神として有名である。
新井崎と冠島
◇黄金の桜
新井崎神社の境内に桜の古木があり、冠島の老人島神社にも同じ種類の桜があった。その桜の間に黄金の橋がかかっていて、毎年この桜は七色に輝いて花を咲かせた。
村の子供達が、その花を手折ると腹痛を起こすといって親たちが神社に行き、七色の桜の花を咲かせないように頼んだところ翌年から普通の花が咲くようになった。
この花はここでいう黄金の花の裔である。
◇新崎の黒い岩
新井崎の黒い岩はその昔、蝙〇山の噴火の際の火山岩である。
昔、大島から新井崎へ黄金の橋がかかっていた。大島の男の神様は逢瀬を楽しんで新井崎の女神のところへこの橋を渡って通っていた。
ある時、思いがけない男神の来訪を知った女神は化粧の最中だったが、あわてて口につけようとしていたおはぐろを落とした。それで岩が黒くなった。
◇まれびとの来訪
上記

新井崎神社のお詣りを終え、湧水の出ている処へ向かった。
この湧水は、噂であるらしいと聞いていたのだが、今年の正月、連れ合いと初日の出を見に行こうと(いうても一月二日の早朝)画策して行ったのだが、行く前の雨雲レーダーでは晴れる予定が雨にたたられ、あきらめての帰り際、田圃らしき上の方からホースが引っ張られて水が出ていたので、その時はもしや・・・との思いで帰ってきたのであった。
その所へ、今回確認に来たのであります。

新井崎の集落から伊根湾へ出る旧道を登って行くと

まさにこのホースでした。やはり湧水を引いて来ているようですが、念のため水源を確認に上へ登ってみる事に!
これが上の地形です

奥のトタンで囲んだところで水が湧いていた。

そして、石垣の下から水は湧いていた。

湧いてきた水は草むらを浸して水汲み場の所へ流れていた。
しかし、ホースの根元は、水源なのか水溜まりの中に設置されいるのか確認できず少々心配でしたが、今は寒中、寒の水は雑菌が繁殖しにくいとの事、汲んで帰る事にしました。

さて、どんな味が楽しめるか・・・しかし季節によっては汲んで帰ろうとは思えない場所です^_^;
その後、近場の見どころを写しに
海岸美

バブルの頃、作られた別荘群

この中には日帰り温泉が在ったのですが・・・今はどうなっている事やら・・・最近はウワサも聞こえてきません。
そして、高級旅館 橋立の奥座敷事、断崖に建つ油屋デス

最後に、今年の幻の滝「布引滝」の水量です


写りが悪いので分かりますかねぇ~
独断と偏見の「徐福の命水(仮)」の水のランクは、思いの外美味しく頂けましたが、気のせいか腹が緩むような感じでした。
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vデスタ
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