NO71:三和町の「轟水」
本来は丹後半島の続きを書かなければならないのですが、
先日ミステリアスな湧水探しとなった、三和町菟原下に在る「轟水(とどろきみず)」の記事を書いていきます。
大モミの木の元から湧く「轟の水」
ここのHPを見て、水をもらいに行こうと思い立ったのでした。
その日は大阪方面に行かなければならない事になり、帰宅の時間に余裕が出来れば寄り道をしてお水を頂戴して来ようと出発しました。
用事も終わり、帰りに寄り道をして福知山市三和町菟原下に四時ごろには着くと計算して、夏場なので6時ごろまでには何とか探せるとの思いから寄り道をする事に。
鹿倉山の麓に到着した時刻が四時前で日も高い。
篠山方面から行くと、箱部峠を越すと到着します。

峠を降りてくると地蔵小屋があり、中のお地蔵さんの足元にかわゆいカエルの瀬戸物が置いてあったのでツイ撮りました。
兵庫県と京都府の県境を越えた辺りから、ゆっくりとそれらしきものがないか車を進めて行きましたが、ちょうど鹿倉山に入って行く深山林道という標識を見つけたので、その付近で畑の作業をしていた年恰好40代半ばぐらいの「おねえさま」に「轟の水」を尋ねてみると、来た道の方を指して「そちらの道縁に出ている水を多くの人が汲みに来とられる」と教えてくださったので引き返してみると有りました!

急傾斜の工事コンクリートを利用して、エスロンパイプでうまく水を引いて汲み易く作ってありました。
何時ものスケベ根性が顔を出し、エスロンパイプの先がどのようになっているか見たくなり、土手を上がって行くと

で、パイプの元は

湧き出してきている水を、トユで引いてパイプに導いてきている様子でした。
私は、てっきり轟水満宮から湧き水を汲み易いようにパイプで道端まで引いて来ているものだと思っていましたが、どうも急傾斜の工事で湧水が出て来たのか、もともと湧水が湧いていたのか、とりあえず写真で分かるように神社からの水ではない事が分かった。
水汲み場の道を隔てたところで建築工事をされていた大工さんにそのことを尋ねてみると、本当の「轟の水」は深山林道を登って行くと左手にパイプから水が出てきているので、それが本当の「轟の水」だよ。と教えてくれました。
まだ、コンテナボックス一つ水を入れる事が出来たので、その深山林道へ行く事に

で、写真では車は下りて来た状態ですが、この道を登って行きました。
途中、堰堤とその近くにパイプから水が出てきて汲めれるようにして在りましたが、ここは右手になりますのでパスすることに

さらに左を注視しながら奥に登って行ったのですが、林道終点には熊野神社という祠が鎮座しているだけでした。

その左横にはこのようなものがもありました。

石碑には、 遷宮の磐
神気漂う鹿倉の深山に万古より鎮座する熊野神社再建の偉業を称? 御神体仮遷座の岩を「御遷宮の磐」と名づけ玆に記念碑を建立する 平成十二年十月吉日 喜寿 藤田隼甫
HPには鹿倉山の頂上近くと書いて有ったが、これ以上車では行けなく、周りを見渡しても水が出てきているような雰囲気もなく、一人という事もアリ、気味が悪くなって退散することに、帰りにパイプから水が出ていた処で「この水の事」だろうと汲んで帰る事にしました。

麓に降りてきて、先ほどの大工さんにそのことを話たら「おかしいな~、そんなことないのだが」そして、
その堰堤のところで、以前自殺した人がおり、気持ち悪がって人が行かないのだ。オレも最近登ってないのでハッキリしたことが分からないと、はぐらかされ・・・・その日は薄暗くなってきたのでとりあえず帰る事とにした。
二回目挑戦
帰って、デジカメの写真を整理しながらゆっくり見てみると、熊野神社に参拝する石段の横に鹿倉山の全体図を書いた看板が有り、その中に轟水満宮の場所もバッチリ書いて有りました。

この図で見ると、熊野神社より大分下に在る様で、この案内板には
鹿倉山について
鹿倉山は、海抜548米で三和町最高峰の山、歴史と観光の山として町民に愛されている。
標高548米 釣鐘地蔵 熊野神社(熊野三権現の一つ) 轟水満宮
中腹にある熊野神社の近くには、「とどろきの泉」湧く水源もアリ、約350年前(西暦1634年)に発見されたいう、近郷稀なる清水として有名である。
伝説によれば、その昔末期の水として遠くからこの水を求めて来た者もあったと云う。
今は水道組合の管理下にあり、菟原下住民の貴重な飲料水となっている。
といった内容で、この鹿倉山のどこかに「轟水満宮」は有るはずであり、その入り口(進入路)もどこかに在るはずである。 と確信を持てた。
本来なら、「轟の水」と言われていた湧水も、湧水か沢水か判らないが山水も汲んで帰ってきてるので、記事を書こうと思えば書けるのだが、自称『湧水評論家?』としては心に引っ掛かるものが有り、再度「轟水満宮」を探しに行く事にした。
イロイロとサイトを物色して、「轟水満宮」に行くには、参道が有るが廃道になっていて判り辛いとの事、とりあえず今回も深山林道をゆっくり走り探してみる事に、

林道を登って行くと見晴らしの良い場所も

地元の人の憩いの山か?登山コースの標識が・・ きれいに植林された間を林道が走る森林浴に気持ち良さげ

林道行き止まり 帰りに脇道へ・・江戸時代に開かれたという上井根(うわいね)水路コースの標識が有りこの水源が「轟水満宮」か?

ともかく深山林道を往復したが参道は判らず・・・で、林道入り口右に作業小屋があり、ちょうど家主が居られたので尋ねてみると「オレも地元の人間でないのでよく判らない。いちど探しに行ったが判らず山水を利用しておる」との事、参道入り口もそこより少し上の左の草むらから行くらしいと教えてくれたが、そこに行ってみてもそのような雰囲気もナイ。
思い余って、一回目に水を汲んだ府道沿いに入口が有るか確かめる事に。
しかし、雑木が生えているだけで山に入って行くような道もない。マタマタ近くに居られた方に尋ねる事に、
すると、南丹市八木町から来ているが生まれはここの山奥だとの事、子供の頃に遊びに行ったで、今から家に帰るついでに教えてやるから待ってろとの有り難いご返事!シメタこれで行けると待つ事に!(^^)!
で、待つ事30分(多い目に書いているかも)親父さんの軽トラの後について再度深山林道に、親父さん曰く、林道から少し下りたとこに在る!車から二度ほど見渡すも無い、終点の熊野神社へ到着(?_?)
おかしいな、入口が判らない!「以前、湧き水に悪さをしたものが居り、地元の人間もハッキリ教えてくれないところがある」とボソッと・・・
しかし、親父さん集落で友達に聞いてやると心強いお言葉、引き続き軽トラの後ろから付いていく事に・・・
集落に入るや否や、田んぼの草刈りをしておられた40代の兄ちゃんに聞いてくれたが「知らない」の一言
再度車に乗ろうとしていた所に、例の友達らしきオヤジさんが通りかかり、呼び止めて「このひとが轟の水を探しているのだが、林道に登って行ったが判らずで、どう行くのだったか教えてくれないか」と尋ねてくださいました。
そのオヤジさん「行っても水を汲む事が出来んで行ってもアカン!やめときなはれ」と話もうやむやにされ、案内してくれた親父さんも・・・という事なのであきらめナ ちゅうことで今回も「轟水満宮」には行けずバツ、夕方になったので帰宅する事に^_^;
三回目挑戦
このまま終わる事は気持ちの上で納得できず、必ずや探してみると決意!
前回の「保寿泉」で書いた、最後の保津川下りの計画もこの時点で入っていた(7/7)ので、一週間遅らしての日曜日(7/14)の行動となってしまった。
前回案内してくれた親父さんが、林道から少し下りて行った所に在ると言っておられたので、確かサイトの中に登山用の山道を記載した図面があったはずと確認してみると、轟水満宮の印と点線の山道が載っている図面が有りましたので、三回目の鹿倉山へ行く事にした。
図面から察すると、どうも林道から徒歩で行く事になる。そうなると、ヘビと幽霊が苦手な吾輩にとぅて心細い行動となる。その上熊も出没するかもしれない。そう思うと、益々不安が増幅して行く事に躊躇するようになった。
・・・で、親戚の義兄にお願いして水汲みに行ってもらう事に、実は、義兄も吾輩の影響で最近湧水にはまっているのである。そういう事もあり二つ返事でOKしてくれました。
林道に着き、図面からここであろう所に車を止め、その下の方を覗いてみる・・・

下の方へ山道が延びている。シメタこの道だ!と確信、しかし、どのくらい歩いて行かなければよいのか分からない。
義兄が持ってきたペットボトルは置いて、吾輩のコンテナだけを持って行く事に、近ければ再度水を汲みに行くといことで出発した。
こんな山道を下って行くと・・・

かすかに

鳥居が見えた。
その鳥居が目の前に

その奥には

そう「轟水満宮」とモミの木

そして、鉄柵には看板が

三和町指定有形文化財 天然記念物第一号
轟水満宮のモミ 一点
指定年月日 平成15年2月10日
管理者 轟水道組合
幹回り 483,5cm
府内のモミでは最大の幹周りを持つ
京都自然200選に選ばれている。また、民話「轟水」の舞台にもなっている。
三和町教育委員会
轟簡易水道水源地
●許可無く立ち入りを禁止します
●この水は、未処理のため飲めません
●ゴミは持ち帰りましょう。タバコの吸い殻も、持ち帰りましょう
福知山市ガス水道部
と書いて有ります。
湧き水の取出し口

バルブのレバーを捻れば活きよい良く出てきます。 その横には

轟水の云われを彫った石碑が・・・書いてみると
記念碑
昔此処にモミの木が二本あり、その一本の根元から湧き出る水の音が地鳴りのように響き遠くまで聞こえたことから誰云うとなく轟水と呼ぶうようになったと云う。また、このきれいな水の話を聞いて時には末期の水として病人に与えたとも伝えられる。今より350年前この村に住む水口次郎左衛門翁が中心となり水不足に悩む村人と共に苦心の末鹿倉山中腹にこの水源を発見二キロメートルに及ぶ用水路を引いたという記録も残されている。
第二次世界大戦後昭和三十七年永年に亘って〇〇〇戸水に依存してきた兎原下区民の願望を実現するため〇水道組合を結成此の霊地に水満宮を祀り現在百五拾戸がこの水の恩恵に浴している。
この神水の由来と自然の恵みの歴史をいつまでも後世に語り伝えるため轟水道組合結成二十周年の年にこの地にこの碑を建立 先人の労苦を偲び
昭和五十七年八月 轟水道組合
以上、字がかすれ読みにくく、吾輩の『創造』の部分が有ります。水道組合に失礼な事が有れば、この場を借れて「お許し下さいますよう」申し上げます。
轟の水・民話
以上で、ミステリアスな「轟の水」の水汲みは無事終了しました。
尚、鳥の手前参道の様子は

荒れて歩けたものではない様子です。
義兄の水は、再度取りに帰るのは大変でしたので、北近畿で一番美味しいと思っている、福井の「瓜破の水」を頂きに行く事にした。少し遠いいがお礼方々・・・
独断と偏見の、「轟の水」の水評価は、三つ平均して
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v でした
詳しい場所は、地元の意向を尊重して府道沿いの取水地を入れておきます。
先日ミステリアスな湧水探しとなった、三和町菟原下に在る「轟水(とどろきみず)」の記事を書いていきます。
大モミの木の元から湧く「轟の水」
ここのHPを見て、水をもらいに行こうと思い立ったのでした。
その日は大阪方面に行かなければならない事になり、帰宅の時間に余裕が出来れば寄り道をしてお水を頂戴して来ようと出発しました。
用事も終わり、帰りに寄り道をして福知山市三和町菟原下に四時ごろには着くと計算して、夏場なので6時ごろまでには何とか探せるとの思いから寄り道をする事に。
鹿倉山の麓に到着した時刻が四時前で日も高い。
篠山方面から行くと、箱部峠を越すと到着します。


峠を降りてくると地蔵小屋があり、中のお地蔵さんの足元にかわゆいカエルの瀬戸物が置いてあったのでツイ撮りました。
兵庫県と京都府の県境を越えた辺りから、ゆっくりとそれらしきものがないか車を進めて行きましたが、ちょうど鹿倉山に入って行く深山林道という標識を見つけたので、その付近で畑の作業をしていた年恰好40代半ばぐらいの「おねえさま」に「轟の水」を尋ねてみると、来た道の方を指して「そちらの道縁に出ている水を多くの人が汲みに来とられる」と教えてくださったので引き返してみると有りました!


急傾斜の工事コンクリートを利用して、エスロンパイプでうまく水を引いて汲み易く作ってありました。
何時ものスケベ根性が顔を出し、エスロンパイプの先がどのようになっているか見たくなり、土手を上がって行くと


で、パイプの元は

湧き出してきている水を、トユで引いてパイプに導いてきている様子でした。
私は、てっきり轟水満宮から湧き水を汲み易いようにパイプで道端まで引いて来ているものだと思っていましたが、どうも急傾斜の工事で湧水が出て来たのか、もともと湧水が湧いていたのか、とりあえず写真で分かるように神社からの水ではない事が分かった。
水汲み場の道を隔てたところで建築工事をされていた大工さんにそのことを尋ねてみると、本当の「轟の水」は深山林道を登って行くと左手にパイプから水が出てきているので、それが本当の「轟の水」だよ。と教えてくれました。
まだ、コンテナボックス一つ水を入れる事が出来たので、その深山林道へ行く事に

で、写真では車は下りて来た状態ですが、この道を登って行きました。
途中、堰堤とその近くにパイプから水が出てきて汲めれるようにして在りましたが、ここは右手になりますのでパスすることに


さらに左を注視しながら奥に登って行ったのですが、林道終点には熊野神社という祠が鎮座しているだけでした。

その左横にはこのようなものがもありました。

石碑には、 遷宮の磐
神気漂う鹿倉の深山に万古より鎮座する熊野神社再建の偉業を称? 御神体仮遷座の岩を「御遷宮の磐」と名づけ玆に記念碑を建立する 平成十二年十月吉日 喜寿 藤田隼甫
HPには鹿倉山の頂上近くと書いて有ったが、これ以上車では行けなく、周りを見渡しても水が出てきているような雰囲気もなく、一人という事もアリ、気味が悪くなって退散することに、帰りにパイプから水が出ていた処で「この水の事」だろうと汲んで帰る事にしました。

麓に降りてきて、先ほどの大工さんにそのことを話たら「おかしいな~、そんなことないのだが」そして、
その堰堤のところで、以前自殺した人がおり、気持ち悪がって人が行かないのだ。オレも最近登ってないのでハッキリしたことが分からないと、はぐらかされ・・・・その日は薄暗くなってきたのでとりあえず帰る事とにした。
二回目挑戦
帰って、デジカメの写真を整理しながらゆっくり見てみると、熊野神社に参拝する石段の横に鹿倉山の全体図を書いた看板が有り、その中に轟水満宮の場所もバッチリ書いて有りました。

この図で見ると、熊野神社より大分下に在る様で、この案内板には
鹿倉山について
鹿倉山は、海抜548米で三和町最高峰の山、歴史と観光の山として町民に愛されている。
標高548米 釣鐘地蔵 熊野神社(熊野三権現の一つ) 轟水満宮
中腹にある熊野神社の近くには、「とどろきの泉」湧く水源もアリ、約350年前(西暦1634年)に発見されたいう、近郷稀なる清水として有名である。
伝説によれば、その昔末期の水として遠くからこの水を求めて来た者もあったと云う。
今は水道組合の管理下にあり、菟原下住民の貴重な飲料水となっている。
といった内容で、この鹿倉山のどこかに「轟水満宮」は有るはずであり、その入り口(進入路)もどこかに在るはずである。 と確信を持てた。
本来なら、「轟の水」と言われていた湧水も、湧水か沢水か判らないが山水も汲んで帰ってきてるので、記事を書こうと思えば書けるのだが、自称『湧水評論家?』としては心に引っ掛かるものが有り、再度「轟水満宮」を探しに行く事にした。
イロイロとサイトを物色して、「轟水満宮」に行くには、参道が有るが廃道になっていて判り辛いとの事、とりあえず今回も深山林道をゆっくり走り探してみる事に、


林道を登って行くと見晴らしの良い場所も

地元の人の憩いの山か?登山コースの標識が・・ きれいに植林された間を林道が走る森林浴に気持ち良さげ


林道行き止まり 帰りに脇道へ・・江戸時代に開かれたという上井根(うわいね)水路コースの標識が有りこの水源が「轟水満宮」か?

ともかく深山林道を往復したが参道は判らず・・・で、林道入り口右に作業小屋があり、ちょうど家主が居られたので尋ねてみると「オレも地元の人間でないのでよく判らない。いちど探しに行ったが判らず山水を利用しておる」との事、参道入り口もそこより少し上の左の草むらから行くらしいと教えてくれたが、そこに行ってみてもそのような雰囲気もナイ。
思い余って、一回目に水を汲んだ府道沿いに入口が有るか確かめる事に。
しかし、雑木が生えているだけで山に入って行くような道もない。マタマタ近くに居られた方に尋ねる事に、
すると、南丹市八木町から来ているが生まれはここの山奥だとの事、子供の頃に遊びに行ったで、今から家に帰るついでに教えてやるから待ってろとの有り難いご返事!シメタこれで行けると待つ事に!(^^)!
で、待つ事30分(多い目に書いているかも)親父さんの軽トラの後について再度深山林道に、親父さん曰く、林道から少し下りたとこに在る!車から二度ほど見渡すも無い、終点の熊野神社へ到着(?_?)
おかしいな、入口が判らない!「以前、湧き水に悪さをしたものが居り、地元の人間もハッキリ教えてくれないところがある」とボソッと・・・
しかし、親父さん集落で友達に聞いてやると心強いお言葉、引き続き軽トラの後ろから付いていく事に・・・
集落に入るや否や、田んぼの草刈りをしておられた40代の兄ちゃんに聞いてくれたが「知らない」の一言
再度車に乗ろうとしていた所に、例の友達らしきオヤジさんが通りかかり、呼び止めて「このひとが轟の水を探しているのだが、林道に登って行ったが判らずで、どう行くのだったか教えてくれないか」と尋ねてくださいました。
そのオヤジさん「行っても水を汲む事が出来んで行ってもアカン!やめときなはれ」と話もうやむやにされ、案内してくれた親父さんも・・・という事なのであきらめナ ちゅうことで今回も「轟水満宮」には行けずバツ、夕方になったので帰宅する事に^_^;
三回目挑戦
このまま終わる事は気持ちの上で納得できず、必ずや探してみると決意!
前回の「保寿泉」で書いた、最後の保津川下りの計画もこの時点で入っていた(7/7)ので、一週間遅らしての日曜日(7/14)の行動となってしまった。
前回案内してくれた親父さんが、林道から少し下りて行った所に在ると言っておられたので、確かサイトの中に登山用の山道を記載した図面があったはずと確認してみると、轟水満宮の印と点線の山道が載っている図面が有りましたので、三回目の鹿倉山へ行く事にした。
図面から察すると、どうも林道から徒歩で行く事になる。そうなると、ヘビと幽霊が苦手な吾輩にとぅて心細い行動となる。その上熊も出没するかもしれない。そう思うと、益々不安が増幅して行く事に躊躇するようになった。
・・・で、親戚の義兄にお願いして水汲みに行ってもらう事に、実は、義兄も吾輩の影響で最近湧水にはまっているのである。そういう事もあり二つ返事でOKしてくれました。
林道に着き、図面からここであろう所に車を止め、その下の方を覗いてみる・・・


下の方へ山道が延びている。シメタこの道だ!と確信、しかし、どのくらい歩いて行かなければよいのか分からない。
義兄が持ってきたペットボトルは置いて、吾輩のコンテナだけを持って行く事に、近ければ再度水を汲みに行くといことで出発した。
こんな山道を下って行くと・・・

かすかに

鳥居が見えた。
その鳥居が目の前に

その奥には

そう「轟水満宮」とモミの木

そして、鉄柵には看板が


三和町指定有形文化財 天然記念物第一号
轟水満宮のモミ 一点
指定年月日 平成15年2月10日
管理者 轟水道組合
幹回り 483,5cm
府内のモミでは最大の幹周りを持つ
京都自然200選に選ばれている。また、民話「轟水」の舞台にもなっている。
三和町教育委員会
轟簡易水道水源地
●許可無く立ち入りを禁止します
●この水は、未処理のため飲めません
●ゴミは持ち帰りましょう。タバコの吸い殻も、持ち帰りましょう
福知山市ガス水道部
と書いて有ります。
湧き水の取出し口

バルブのレバーを捻れば活きよい良く出てきます。 その横には

轟水の云われを彫った石碑が・・・書いてみると
記念碑
昔此処にモミの木が二本あり、その一本の根元から湧き出る水の音が地鳴りのように響き遠くまで聞こえたことから誰云うとなく轟水と呼ぶうようになったと云う。また、このきれいな水の話を聞いて時には末期の水として病人に与えたとも伝えられる。今より350年前この村に住む水口次郎左衛門翁が中心となり水不足に悩む村人と共に苦心の末鹿倉山中腹にこの水源を発見二キロメートルに及ぶ用水路を引いたという記録も残されている。
第二次世界大戦後昭和三十七年永年に亘って〇〇〇戸水に依存してきた兎原下区民の願望を実現するため〇水道組合を結成此の霊地に水満宮を祀り現在百五拾戸がこの水の恩恵に浴している。
この神水の由来と自然の恵みの歴史をいつまでも後世に語り伝えるため轟水道組合結成二十周年の年にこの地にこの碑を建立 先人の労苦を偲び
昭和五十七年八月 轟水道組合
以上、字がかすれ読みにくく、吾輩の『創造』の部分が有ります。水道組合に失礼な事が有れば、この場を借れて「お許し下さいますよう」申し上げます。
轟の水・民話
以上で、ミステリアスな「轟の水」の水汲みは無事終了しました。
尚、鳥の手前参道の様子は

荒れて歩けたものではない様子です。
義兄の水は、再度取りに帰るのは大変でしたので、北近畿で一番美味しいと思っている、福井の「瓜破の水」を頂きに行く事にした。少し遠いいがお礼方々・・・
独断と偏見の、「轟の水」の水評価は、三つ平均して
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v でした
詳しい場所は、地元の意向を尊重して府道沿いの取水地を入れておきます。
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