NO69:野間地区水源水「ガラシャの清水」(仮)
今回は、「父の日」に碇高原・ステーキハウスに食べに行っても良いと、我が大蔵大臣が言って下さったので、ついでにその近辺の湧水も頂いてくる計画を立てました。今回もパートⅠとパートⅡに跨った(またがった)内容になります。
パートⅠの野間地区は丹後半島の中心部に在り、そこの大谷区に大量の湧水が出ており、野間地区の水源にも利用されているという情報を得て、そこに寄ってからステーキハウスに向かう事にしました。
その折、明智光秀の三女玉子(のちに細川ガラシャ)が幽閉されていた味土野地区を紹介したいがために、本来野間地区に行くコースは、京丹後市弥栄町黒部から入って行くのですが、そうすると湧水の出ている処からさらに奥に入って行かなければなりませんので、金剛童子山という面白い名前の付いた山の裾野の交通量の少ない林道のような道から直接味土野に行くコースを選びました。
それは弥栄町等楽寺から入って行くのですが、私は10年以上通っていなかったので不安な気持ちで行きました。

こんな山道を登って行きます。
途中、離村した地区の石碑が

その石碑を見守るようにお堂もありました。
この道を降りて行けばその集落跡に行けるのかも

さらに山道を登って行くと見晴らしの良い所に、

しばらくして、金剛童子山の登山道入口に、そこには

金剛童子山の風変わりな名前の成り立ちが書かれてあった。
役小角と金剛童子山
役小角(えんのおづぬ)は七~八世紀に大和国葛城山にいた実在の人物であるが、後世修験道の祖として信仰を集め、役行者(えんのぎょうじゃ)とも呼ばれている。
全国各地には役小角が登ったと伝えられている山がたくさんあり、高下駄を履き鬼神を従え、独特の風貌をした像も多数残されている。
『丹哥府志(たんかふし)』によると、役小角が金剛童子山を「業場」として、開いたとされている。
また金剛童子山の道筋に「休堂」「かねかけの業場」「ミタライの池」「行者堂」「西の業場」等があるとしている。現在それらのすべてを確認することはできないが金剛童子山周辺が、修業の場であったことは確かであろう。
地元では金剛童子山の事を熊野山、行者山とも呼んでおり、往時は七堂伽藍が存在していたと伝えられている。上山寺(京丹後市丹後町上山)は、明法上人開基を伝えるが、『丹哥府志』には役小角が金剛童子山を開いた際に、庵を結んだところといわれている。
追伸: 金剛童子とは密教の護法神 庵を結ぶとは小さな小屋を作ることらしい、上山寺はパートⅡでとりあげます。尚、役小角(役行者)はNO65の「ごろごろ水」で大峯山修験導師「母公堂」や龍泉寺の開祖として出てきていますが、この地元丹後にも関係があった人物として何か「奇遇」を感じます。地元では、上山寺あたり一帯を「吉野の里」と呼んでいるようです。

今回の収穫そのⅠでした。(以前から金剛童子山の名前の由来に関心があった)
金剛童子山へ行かれた方のHPです
そこを後にして進むと、間もなくガラシァ隠棲の地味土野地区に着きました。

ココでも離村された方たちが記念石碑を建てられていました。多いい時で160人ぐらいの住民が住んでいたという、今では移住者3世帯5人らしい。

こんな雰囲気の中、ガラシャ記念碑の周辺は整備されていました。


少し長くなりますが・・・
細川ガラシャ略伝
細川忠興の妻、玉子(玉)。永禄六年(1563年)明智光秀の三女として生まれる。天正六年、16歳の時織田信長の命により後に丹後田辺城(減舞鶴市)の城主となる細川幽斎の嫡子忠興に嫁いだ。天正10年6月本能寺の変により、父光秀が信長に謀反を起こした。光秀は忠與を味方に誘ったが、忠與はこれを聞かず玉子を離別幽閉し自分は羽柴秀吉軍として出陣し、光秀と山崎で戦った。玉子の父光秀の死後、家臣は自害を進めたが「私は忠與の妻、主人の命を聞かずして事を決することは婦道にそむく事です」とこれを聞き入れず、愁思のうちに二年の月日をこの地で過ごすことになった。秀吉はこれを憐れ忠與は再び妻として玉子を迎えた。
その後、キリスト教に入信し、「ガラシャ」の洗礼名を受けた玉子は、忠隆、忠秋他三子を授かった。しかし、平穏な日々も束の間、慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いで、徳川家康に従い東征についた夫忠興の留守に大阪細川邸にあった玉子は石田光成の軍勢に囲まれ、人質として大阪城へ入城を迫られたが、「私が人質として入城すれば堅武士の夫忠與の足手まといとなります」と自ら邸宅に火を放ち壮烈な最期をとげた。享年38才夏の事である。辞世の句は有名である。
散りぬべき時知りてこそ世の中の
花も花なれ人も人なれ
数奇な運命に彩られ、夫忠與のため殉じて果てた玉子の生涯は戦国の世に咲いた一輪の花として現在に語り伝えらえている。
身をかくす里は吉野の奥ながら
花なき峰に呼小鳥啼く 玉子
京丹後市教育委員会

昭和11年当時の味土野(「細川忠興夫人隠棲の地記念碑除幕式記念」)
女城跡 「御殿屋敷」ともいわれ、細川ガラシャ夫人の城跡と伝えています。
男城跡 女城と谷を隔てた向かい側の尾根にあり、細川ガラシャを警護するために作られた城跡と伝えられています。
この場所は「御殿屋敷」とも言われ、天正10(1582)年の本能寺の変の後に、2年間、細川ガラシャが隠棲した時の居城があったと伝えられています。周囲には、ガラシャが信仰したと伝えられている観音跡や古井戸、蓮池跡などがあります。
京丹後市教育委員会
この女城は石碑の立ってるところのようです。
ガラシャの取材?を終えたので、次なる目的地・湧水探しへと下って行った。途中味土野の大滝があったと探すのだが見つからずパス。
しばらく走って行くと、カーナビが目的地付近につきましたとアナンウンスしたので、ゆっくり走っていると見つかりました!、須川上水道

その反対側には、湧水を利用している養魚場が有りました。その近くに湧水が汲める様に

その上には、源流から来ているであろう水がパイプから出ていました。よく見ると、ソコから下のタンクへ水は流れているようでしたので、汲むのはもちろん上でという事でそちらで頂きました。

源流はどうも草むらの奥の方です

一つ目の湧き水は無事ゲットできたので、ステーキハウスへ! 昼飯には時間の余裕があったので丹後半島の避暑地?スイス村へ寄って行く事に・・・
野間地区の中心野中から丹後縦貫林道に入って行きます。味土野側からは橋を渡って右に少し走ると道の上にハイカラなレストランが見えています。 その名も天風~イイ名前 写真がチョイト小さい^_^;

さらに進むと、山の上から風力発電が・・・

縦貫林道に入るとさらに不気味に立ち上がっているのが見えてきます。

その方向へ進むと、スイス村へ

施設の状況、時期的に休業の様子・・・山の家付近や風の学校京都 三階レストラン等々営業をしています。

雪のないスキー場

駐車場には面白い車

詳しくは="森林公園「スイス村」">森林公園「スイス村」のHPで見てね(^_^)/
・・・という事でスイス村の紹介も無事終わり、待望の碇高原「ステーキハウス」へ、
第一部 終わり
第二部に入る前に保津峡の名水「保寿泉」をお送りいたします。
で、野間地区水源水「ガラシャの清水」(仮)の水評価は、現時点一月たってもおいしく飲めますので
独断と偏見の味ランクは
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v です
詳しい場所は
パートⅠの野間地区は丹後半島の中心部に在り、そこの大谷区に大量の湧水が出ており、野間地区の水源にも利用されているという情報を得て、そこに寄ってからステーキハウスに向かう事にしました。
その折、明智光秀の三女玉子(のちに細川ガラシャ)が幽閉されていた味土野地区を紹介したいがために、本来野間地区に行くコースは、京丹後市弥栄町黒部から入って行くのですが、そうすると湧水の出ている処からさらに奥に入って行かなければなりませんので、金剛童子山という面白い名前の付いた山の裾野の交通量の少ない林道のような道から直接味土野に行くコースを選びました。
それは弥栄町等楽寺から入って行くのですが、私は10年以上通っていなかったので不安な気持ちで行きました。

こんな山道を登って行きます。
途中、離村した地区の石碑が


その石碑を見守るようにお堂もありました。
この道を降りて行けばその集落跡に行けるのかも

さらに山道を登って行くと見晴らしの良い所に、

しばらくして、金剛童子山の登山道入口に、そこには


金剛童子山の風変わりな名前の成り立ちが書かれてあった。
役小角と金剛童子山
役小角(えんのおづぬ)は七~八世紀に大和国葛城山にいた実在の人物であるが、後世修験道の祖として信仰を集め、役行者(えんのぎょうじゃ)とも呼ばれている。
全国各地には役小角が登ったと伝えられている山がたくさんあり、高下駄を履き鬼神を従え、独特の風貌をした像も多数残されている。
『丹哥府志(たんかふし)』によると、役小角が金剛童子山を「業場」として、開いたとされている。
また金剛童子山の道筋に「休堂」「かねかけの業場」「ミタライの池」「行者堂」「西の業場」等があるとしている。現在それらのすべてを確認することはできないが金剛童子山周辺が、修業の場であったことは確かであろう。
地元では金剛童子山の事を熊野山、行者山とも呼んでおり、往時は七堂伽藍が存在していたと伝えられている。上山寺(京丹後市丹後町上山)は、明法上人開基を伝えるが、『丹哥府志』には役小角が金剛童子山を開いた際に、庵を結んだところといわれている。
追伸: 金剛童子とは密教の護法神 庵を結ぶとは小さな小屋を作ることらしい、上山寺はパートⅡでとりあげます。尚、役小角(役行者)はNO65の「ごろごろ水」で大峯山修験導師「母公堂」や龍泉寺の開祖として出てきていますが、この地元丹後にも関係があった人物として何か「奇遇」を感じます。地元では、上山寺あたり一帯を「吉野の里」と呼んでいるようです。

今回の収穫そのⅠでした。(以前から金剛童子山の名前の由来に関心があった)
金剛童子山へ行かれた方のHPです
そこを後にして進むと、間もなくガラシァ隠棲の地味土野地区に着きました。

ココでも離村された方たちが記念石碑を建てられていました。多いい時で160人ぐらいの住民が住んでいたという、今では移住者3世帯5人らしい。


こんな雰囲気の中、ガラシャ記念碑の周辺は整備されていました。


少し長くなりますが・・・
細川ガラシャ略伝
細川忠興の妻、玉子(玉)。永禄六年(1563年)明智光秀の三女として生まれる。天正六年、16歳の時織田信長の命により後に丹後田辺城(減舞鶴市)の城主となる細川幽斎の嫡子忠興に嫁いだ。天正10年6月本能寺の変により、父光秀が信長に謀反を起こした。光秀は忠與を味方に誘ったが、忠與はこれを聞かず玉子を離別幽閉し自分は羽柴秀吉軍として出陣し、光秀と山崎で戦った。玉子の父光秀の死後、家臣は自害を進めたが「私は忠與の妻、主人の命を聞かずして事を決することは婦道にそむく事です」とこれを聞き入れず、愁思のうちに二年の月日をこの地で過ごすことになった。秀吉はこれを憐れ忠與は再び妻として玉子を迎えた。
その後、キリスト教に入信し、「ガラシャ」の洗礼名を受けた玉子は、忠隆、忠秋他三子を授かった。しかし、平穏な日々も束の間、慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いで、徳川家康に従い東征についた夫忠興の留守に大阪細川邸にあった玉子は石田光成の軍勢に囲まれ、人質として大阪城へ入城を迫られたが、「私が人質として入城すれば堅武士の夫忠與の足手まといとなります」と自ら邸宅に火を放ち壮烈な最期をとげた。享年38才夏の事である。辞世の句は有名である。
散りぬべき時知りてこそ世の中の
花も花なれ人も人なれ
数奇な運命に彩られ、夫忠與のため殉じて果てた玉子の生涯は戦国の世に咲いた一輪の花として現在に語り伝えらえている。
身をかくす里は吉野の奥ながら
花なき峰に呼小鳥啼く 玉子
京丹後市教育委員会

昭和11年当時の味土野(「細川忠興夫人隠棲の地記念碑除幕式記念」)
女城跡 「御殿屋敷」ともいわれ、細川ガラシャ夫人の城跡と伝えています。
男城跡 女城と谷を隔てた向かい側の尾根にあり、細川ガラシャを警護するために作られた城跡と伝えられています。
この場所は「御殿屋敷」とも言われ、天正10(1582)年の本能寺の変の後に、2年間、細川ガラシャが隠棲した時の居城があったと伝えられています。周囲には、ガラシャが信仰したと伝えられている観音跡や古井戸、蓮池跡などがあります。
京丹後市教育委員会
この女城は石碑の立ってるところのようです。
ガラシャの取材?を終えたので、次なる目的地・湧水探しへと下って行った。途中味土野の大滝があったと探すのだが見つからずパス。
しばらく走って行くと、カーナビが目的地付近につきましたとアナンウンスしたので、ゆっくり走っていると見つかりました!、須川上水道


その反対側には、湧水を利用している養魚場が有りました。その近くに湧水が汲める様に

その上には、源流から来ているであろう水がパイプから出ていました。よく見ると、ソコから下のタンクへ水は流れているようでしたので、汲むのはもちろん上でという事でそちらで頂きました。


源流はどうも草むらの奥の方です

一つ目の湧き水は無事ゲットできたので、ステーキハウスへ! 昼飯には時間の余裕があったので丹後半島の避暑地?スイス村へ寄って行く事に・・・
野間地区の中心野中から丹後縦貫林道に入って行きます。味土野側からは橋を渡って右に少し走ると道の上にハイカラなレストランが見えています。 その名も天風~イイ名前 写真がチョイト小さい^_^;


さらに進むと、山の上から風力発電が・・・

縦貫林道に入るとさらに不気味に立ち上がっているのが見えてきます。

その方向へ進むと、スイス村へ

施設の状況、時期的に休業の様子・・・山の家付近や風の学校京都 三階レストラン等々営業をしています。


雪のないスキー場

駐車場には面白い車

詳しくは="森林公園「スイス村」">森林公園「スイス村」のHPで見てね(^_^)/
・・・という事でスイス村の紹介も無事終わり、待望の碇高原「ステーキハウス」へ、
第一部 終わり
第二部に入る前に保津峡の名水「保寿泉」をお送りいたします。
で、野間地区水源水「ガラシャの清水」(仮)の水評価は、現時点一月たってもおいしく飲めますので
独断と偏見の味ランクは
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v です
詳しい場所は
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