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NO53:宮谷神社の「吐月水」

またまた舞鶴に映画を見に行ったついでに「吐月水」を汲みに行ってきました。

以前見に行った高倉 健 主演の「あなたへ」の時に劇場用予告編をしていた、吉永さゆり主演の「北のカナリアたち」です。
この二つを見て、今思うに有名な主演俳優に影響されて見に行っている事が、よぉ~くわかります。
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上の写真はパンフレットの表紙です。あまり色気のない表紙です。(うまくスキャナーが出来なかった)

事件もののようでそうでない内容であった。

観賞後「吐月水」を汲みに宮谷神社へ向かった。現地は地図で確認しといたのですが、印刷してこなかったこともあり大体の感じで行く事に、まずは大浦半島へ向かって進みだしました。
大浦半島といっても記憶では舞鶴湾沿いに在るはずなので、新しい吊り橋を渡って行くことにした。
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宮谷神社は湾沿いの道の近くに在ると記憶していたので、橋(クレインブリッジ)を渡って下の道に降りて行きました。
クレインとは鶴という意味らしいのですが、半島の博奕岬の近くに石炭火力発電所を作るために工事用道路の一環として関電が作ったそうです。なっなんと金のある事!  っうても みんな電気代に跳ね返ってくるのですが^_^;
という事はさておいて、
確かこの辺に在るだろう・・・と思いながら走って探していたのですが、水の汲めるような神社がなくそのうち小さな集落に入って行ったので、ちょうど通りがかったオジサンに尋ねてみると「アッそれは手前の赤い鳥居の有る神社だ」と教えてくれました。引き返すにも道が狭くそのまままっすぐ行き、寄ってみようと思っていた親海公園へ行って見る事にした。
親海公園には日本初の、船内にプラネタリュウムが入っている関西電力のPR館としての船が浮かんでいるらしく、外観だけでも見てみたいとおもっていたのである。
       
       「エル マールまいづる」PR館
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魚村活性化センター「ベイサイド プレイス」喫茶店もあるよ
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そして海釣り公園もあり、その奥には石炭火力発電所も見えるよ~
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詳しくは:親海公園

とりあえずブログのための写真は撮れたので、プラネタリュウムは次回見る事に、時間と裏西(山陰特有の天気)で雨が降り出してきたので引き返すことに、再度湾岸道路(聞こえは良いが昔ながらの狭い道)を通って走っていると下の写真の群像が見えたので降りて見る事に
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それは、終戦まもなく起こった朝鮮の人たちを載せた浮島丸という船が沈没した時の「殉難者の追悼の碑」であった
日本語の説明板
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朝鮮語板
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両国の文字で浮島丸の事が書いてあるようでした。(というのも実際急いでいたので読んでないのです)

詳しくは浮島丸事件を読んでください。
この中の一説ですが
漂流者のほとんど(8〜9割以上)が救助もしくは自力で岸にたどりついた。機雷の爆発音で佐波賀の漁民たちは家の前の漁船を出し、漂流中の遭難者を救助した。漁民たちは海の不文律により「女子供が先、兵隊さんはあとで」と救助の順序をつけた。海軍側からは、一部の軍艦からカッターが出されたのみであったという
この中に出てくる佐波賀とは、行こうとしている宮谷神社がある集落の地名である。

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このような歌も作られています。今もって霧の中に漂っている部分が有るようです。

さらに前に進み、上佐波賀の集落を通り過ぎ赤い鳥居の有る宮谷神社に到着、一見湧水が出ているような雰囲気はなかったが、よくよく見てみると鳥居の右端に赤い小さな祠がありその周りに側溝のような水たまりが作ってあり、そこを覗いてみると祠の基礎部分からエスロンパイプが出てそこから水が出ていた。ここしか吐月水という湧水らしいものが出ておらず確信して水を入れる事にした。
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それにしても水の出口が水面から僅か、ペットボトルに直接入れる事が出来ず、備え付けの柄杓を置かれして入れるはめに、出てくる水量も少なく入れるのに時間がかかりました。・・・もらいに行ってて不満は言えませんが^_^;
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左の写真は祠の中の様子です。このパイプを見るに沸いている処は別の場所のようです
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Maizuru Walkerに依れば
田辺城城主の牧野英成(ひでしげ)公が茶堂を建てて船で通った程に惚れ込んだ名水。 歴代の田辺藩主にも名水として好まれ、この名水に「吐月」と命名したほど。

という訳で、お賽銭を入れて再度クレインブリッジを通って無事帰宅しました。
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で、「吐月水」の水の評価は  独断と偏見の
(^_^)v (^_^)v (^_^)v でした。

詳しい場所は




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NO52:金湯山 西禅寺の清水

我が家の菩提寺:西禅寺の井戸水をお送りします。
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私は、昨年から御詠歌を月2回習いに通っています。(気分によっては欠席もしてますが^_^;)
御詠歌といっても、近畿地方で詠われている西国三十ヶ寺札所御詠歌とちがい、菩提寺の本山である妙心寺の妙心寺派花園流詠歌和讃というものです。
昨年(2011年)からやり始めたのですが、男性だけのグループで西禅寺第二支部と呼ばれています。第二支部というからには、当然第一支部もあります。第一支部は女性と男性(一人)で構成されていて、第二支部は男性だけで構成されています。
話に聞くところによれば、男性だけで構成されている支部というものは全国広しといえどもこの西禅寺第二支部が初めてだとの事です。
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上の写真が練習風景です。関心のある方は御詠歌・試聴コーナーで聞いてください。私の好きな御詠歌は、「花園会御和讃」です。尚、師匠は住職の 畠中健友氏です

・・・という事はさておいて、お寺に行くたびに裏庭の池に水が注がれておるのを見ていたのですが、思い切って飲める水なんですか聞いてみると、昔から出ている井戸水を使用しているとの返事、シメタと思い湧水評論家(?_?)として飲んでみたい気持ちを抑えきれず、頂けるか聞いてみると快い返事、で早速汲みに行ったという次第です。一般には公開されていませんので、その辺はご理解ください。
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この竹筒から』出ている水を苦心して入れました。

池には錦鯉が泳いでいます
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そのほかのお寺の見どころとしては本尊の阿弥陀如来像のコピーの石仏がお寺本堂の横に在ります。
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ところで水の味評価は、惜しいかな満点とはいかず独断と偏見の
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vでした。

詳しい場所は・・・?



番外:平地峠の「お地蔵さんの真実」

         蓑を着て冬支度で有名
NO:11 平地峠の「お地蔵さんの清水」の項で腑に落ちない部分があったのですが、今回資料が入りすっきりしましたので、その内容を書いていきたいと思います。
「平地地蔵の清水」を汲みに行った折、お堂の横に立てかけてあった地蔵さんのいわれが書かれた看板です。
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         平地地蔵
天保の頃、この地方に山賊が出没して通行人や、地域の人々を苦しめていた。天保三年(1832年)当時の常林寺住職月海龍吟は衆生を救うため、多くの信者から浄財を求め、近くの谷より仏相をそなえた石を見つけ、鱒留の石工松助に依頼し蓮華座の上に身丈一丈六尺(約五メートル)の地蔵尊を建立した。爾来、その功徳により山賊残らず退散したと言われる。
立像の石仏としては、府下でも有数のものであり、あざとり地蔵として信仰されている。
〇山門鎮静〇諸災消除〇万邦租楽〇諸録吉祥
                     大宮町

私はこれを読むまでは、江戸時代・文政五年(1822年)12月13日宮津藩下の百姓が一斉蜂起した、「文政百姓一揆」
その時に中心的人物であった石川村の「吉田新兵衛」を偲んで建立されたものだと思っていました。
しかし、大宮町という 町名が書かれてあったので、この内容が真実だったのかと思ったわけです・・・が、
書いてあっても今一腑に落ちない気分でした。

今回、安田正明 安田千恵子 夫婦 が歴史を掘り起こし 津田櫓冬氏の絵・文による絵本を読み、以前から思っていた事実を再確認した次第です。

著作権の関係上、歴史的な考証となるような事を大まかに書かして頂き、詳しく知りたい方は絵本を読んでいただくという事で進めて行きたいと思います。

大宮町作成の平地地蔵のなれ初めの説明内容は、当地常吉に昔から伝わってきた話である。
それが、なぜ地蔵さんを作った真実からかけ離れた内容で言い伝えられたのか?その辺を書きたいと思います。

まずは文政百姓一揆の事から
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        義士義民の碑(天橋立に建立)
宮津藩においては幾度か全藩的な百姓一揆があった。
わけても文政五年(1822)の一揆はもっとも大規模なものであった。江戸時代後期にかけて、藩財政窮乏化の一方で、藩主本庄氏は幕府要職について出費も嵩み、遂に来年年貢の三分の一銀納分の先納め、五万の領民に一律一日三文(のち二文)の日銭をかけるに至った。そして、その徴収のために役得公認の徴収役人を任命した。
加悦谷石川村枝村奥山村の新兵衛・為治郎・元蔵や、城下宮津の大工長五郎らは、同志を語らい、広く藩民を組織し、文政五年12月13日蜂起、村々の大庄屋・庄屋を襲い、城下に押し寄せ、日銭取りやめその他諸要求を藩庁につきつけた。藩士栗原理右衛門・百助父子、関川権兵衛らは百姓に同情的であったが、藩ははじめ栗原らを使って一揆鎮圧に当らせた。
鎮圧後藩は嫌疑のせんさくを厳しくし、多くの入牢者を出し、文政7年4月、為治郎は獄門、新兵ェ衛は打ち首、元蔵・長五郎永牢(牢死)、併せて関川は死罪、理右衛門・百助も牢に入れられた。百助は江戸の藩邸に訴えんと牢を出て逃走をはかったが、宮津領近江において捕史に囲まれ自殺した。文政9年2月のことである。文政7年大方の処分は終わったが、奥山村の多数犠牲者の家では、罰金の支払い等にも困ったので、この後長く村民は金を出しあって、犠牲者の家庭に同志的援助を続けた。
    宮津市教育委員会
    宮津市文化財保護審議会

以上は宮津市が建てた立札であるが、大事な部分が抜け落ちているようですのでその部分を書きだします。
・・・と思いましたが、
 文政百姓一揆・・・ここのホームページに詳しく載っていましたので読んであげてください。

・・・で、「平地地蔵」は、ここ常吉の地に打ち首となった吉田新兵衛氏を悼んで建てられたものです。

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吉田新兵衛は幼少の頃、常吉の常林寺の寺子屋で円通住職に学んでいた。(新兵衛は石川・奥山【当時現川上】に婿養子に行ったのではないか)

円通住職をはじめ幼馴染や常吉の住民は新兵衛の打ち首に心を痛め、新兵衛を偲んでお地蔵さんを立てる話し合いが常林寺で持たれた。お地蔵さんを立てると住民も捕まってしまうという事から、常吉のもう一つのお寺 光明寺の鳳山住職が、平地峠の一番高いところに建て、そこを幕府が直接治める「天領」にしてもらえばと提案した。
それから三日後、常林寺・光明寺の住職ら三人で久美浜の代官所に人知れず出発した。
その当時久美浜の代官所に赴任してきた「蓑 笠之助」という人物は百姓たちの事を気づかっておられるとの事であった。
代官に出会えた三人は、それまでのいきさつを話し代官も尽力する約束をしてくれた。その後二年を経て常吉村は「天領」となり、久美浜代官所がおさめる領地となった。
それ以後、50もの寺の住職を中心に、丹後、但馬の村々から、京都・大阪からの旅人も含め75、000人もの人々がお米やお金を出し合い資金を工面した。
山々を探し求め地蔵の石を見つけ、石工の松助にお願いし四人の弟子たちと二年がかりで地蔵さんを彫り上げた。
2570人もの人たちが交代で平地峠に今でいう公園が作られ、そこにお地蔵さんが立てられた。
その後、「地蔵院」という草庵が建てられ新兵衛と幼馴染の、家族を飢えや病気で亡くした「恵照禅尼」がお守りするために住み続けた。
そして、地元の人々によって冬が来る前に蓑とわら帽子を着せる風習が今も続けられています。
また、宮津藩からこの件が怪しまれないように常林寺の古文書には、平地地蔵と新兵衛とのかかわりは一切触れられず、代わりに昔話風の「山賊退治に感謝して」という説明文となっているのだろうと、安田正明・安田千恵子夫妻はそのように解釈されているようです。
この本以外にも、「平智地蔵の謎」調査・分析/安田正明 安田千恵子  編著/福井禎女 が出版されています。

この事を書いていく中で、石川にも「大地蔵尊」がある事を思い出し、平地地蔵とのかかわりを調べてみた。

      新兵衛・為治郎等追弔「大地蔵尊」
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この地蔵尊は石川の神宮寺の境内に安置されており、大正15年ごろには地蔵堂の中に安置されていたが現在は写真の通りです。

石川村誌より(大正15年10月1日発行)   地蔵堂

一、本尊 大地蔵尊
一、由緒 嘉永二年建立
一、建物 梁行壹間四尺桁行尺壹四尺 
一、信徒人員 1849人 

与謝郡誌 曰
地蔵堂には一丈六尺の大地蔵尊を安置し文政五年冬12月宮津封内苛酷の誅求に堪へかねて一揆を起こし骸骨を刑場に捨て、領民を救いし義民吉田新兵衛同為治郎討追弔の為に常吉村平治庵の大地蔵と共に建立する所となりと。蓋し常吉村は吉田新兵衛(幼名・滋藏)の産地にて下常吉鈴木氏は其家なれになり。

以上石川村誌に記載されていた内容で、私も石川の歴史を勉強していればこのように悩まなくても済んだ事なり。反省
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12月23日には平治地蔵(新兵衛地蔵)には蓑と笠が着せられ冬支度がされていました。一説には代官様の「蓑 笠之助」に感謝しての行いだとか・・・。

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              おわり

                年表
         1822年:文政五年  百姓一揆
         1824年:文政七年    処刑
         1830年:天保元年 平治地蔵建
         1849年:嘉永二年 大菩薩蔵尊  
         1868年:明治元年  明治政府




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