NO42:ハクレイ酒造の「不動山水」
京都伏見の名水スタンプラリーを回る中で、我が地元とのかかわりが深い、宮津市由良に在る酒蔵「ハクレイ酒造」の水を飲んでみたいものだと思うようになったのが、きっかけでした。
北近畿タンゴ鉄道の由良川鉄橋の麓に駐車場が整備されているので、遠方から来られる方はよくわかります。
しかし、その横に蔵元があるかと言えば・・・そこから約10分ほど歩いて行かなければならないのである。
私も、適っきりそこに在るもんだと思い車を降りると、車でも行ける道順が書いて有り、少し狭いような道ですが水を持って歩くのは大変なので車で行く事にしました。現地の駐車場といっても4~5台止めれば一杯になるぐらいのスペースです。

この路地を酒呑童子の旗を目印に向かっていくと蔵元の玄関があります。玄関と言っても直売所のお店ですが・・この旗の向かいにあります。
チョイト話は変わりますが、このハクレイの仕込み水がもらえることを知ったのは最近の事でした。この蔵元は以前から身近に感じていましたので、名水「不動山水」を紹介がてらその辺の事も書き込みたい思いが、伏見の名水ラリーを書く中で湧いてきたのであります。
この蔵元ハクレイ酒造は、村おこしの手助けにその土地の酒米を使って、村おこし集団とコラボする形でそこの村のお酒造りをされています。
我が地元与謝野町石川にも村おこし集団「石川塾」が有ります。そこの塾生の発案で、石川で採れた酒米で酒を造り販売するという取り組みをかれこれ十年ほど前から行っております。それが下の写真で「京石川 かたり酒」です。

このかたり酒のラベルの文字は、塾生の縁で歌手「加藤登紀子」さんに書いて頂いたものだそうです。
このお酒は、毎年12月ごろ出来上がり下の名詞のお酒屋さんで限定700本販売されます。今年は残り50本ほどだそうです。とてもフルーティーなお酒だと思います(私の感想)

さらにハクレイと石川とのかかわりは深められていきますがそれは後程。
で、元に戻して・・・・お店に入り名水をお願いしたところ快く案内してくださいました。その折沸かして飲んで下さいとの事でした。早速車から容器を取ってきて名水「不動山水」を頂く事に、写真を見てもらえばわかりますが普通の水道の蛇口なので今一名水の気分はしませんでしたが、味には影響しません。

とりあえず名水「不動山水」をペットボトルに入れてから、少しハクレイ酒造の周りを散策してみると、地酒の生い立ちの説明書きが立てて在りました。

この中に由良ヶ岳の山麓にある「不動の」の地下水から仕込み水を取っているとの事、それを「不動山水」と呼んでおられるようで、後日地図で探したのですが書いて無く、由良の知人の方に聞いてどこに在るのか教えてもらいました。それがこの滝で、写真で見るより実物は良い滝でした。昔の人はこのようなところに神が宿る自然物崇拝の思想によりお不動さんが立てられており、おそらくそのところから滝の名前も来ているのではないかと思います。

左の写真が由良ヶ岳で、右の写真のお不動さんの館の右の谷を上がって行くと「不動の滝」が有ります。
その横にハクレイの貯水槽が設置してありました。
左の写真は沢です。右がハクレイの貯水槽の館と思われます。沢でつい水を飲んでしまいました。それほど魅力のある沢です。

そして不動の滝です。私が取材した知人は夏場になると水はチョロチョロとしか出ていないと言われていましたが、何が何が結構な水量で流れていました。滝百選に出るような滝ではありませんが、それはそれで立派な滝でした。

ハクレイの土蔵を活かして「土蔵スィーツ」なる喫茶アンドスィーツの販売もしておられ、インターネットでも売っているという白嶺舎なるお店もあり、ついつい入ってしまった。ほんとはコーヒーでも飲んで一服しようかなと思っていたのですが、テーブルは少なく、カップルらしき若者が休憩されていたので遠慮して、ロールケーキを買って出ました。

このロールケーキは家に帰り私の口には入りませんでした。
で、蔵元のお店の方にも寄ってみようと入ってみました。お酒や、お土産品やイロイロと処狭しと置いて在り今は少なくなった雑貨屋の雰囲気を醸し出すような店内でした。

お水を頂くと、浄財を入れておくのですが、こういう場合はお礼の気持ちに何か買うのです、店内を見渡していると「香田(こうでん)」なるお酒が目に付いたので1313円の720mlを買い求めました。
この「香田」ANAの機内酒に選ばれているという立派なお酒で、私が買ったのは一番安いもので高いものになると一升瓶の箱入りで1万円もするらしい。まァ私が飲んでも違いは分かりませんので買ったりはしません。
1313円の「香田」でも十分満足しました。
で、この「香田」という銘柄は私の近所の地名です。「かたり酒」の所でハクレイと石川とのかかわりが深いといったのはこのことからです。私が知る限りでは、「かたり酒」を石川塾が取り組んでから「香田」のお酒に発展していったものだと記憶しています。そういう面では「石川塾」という集団は村おこしに貢献しているのではないかと思います。

で下の写真が、香田川とその付近の田んぼです。さらに、度重なる石川地域内の洪水のために、石川を通る香河川が改修されて香田の真ん中を通る大川となり、その為今は移されましたが以前に香田川のたもとに置かれていたイボ地蔵さんが右です、香田川の水を供えてイボに付けると治ると言われていました。地元の人たちが信仰心厚く地域の公民館の傍に祠と一緒に大切に祀られています。

ところで買ってきた「香田」を飲もうと紐をときキャップの上にかぶせてあったレッテルを外すと、そのレッテルには「香田」のいわれが書いて在りました。

このようにお酒に説明書きがついて回るという事は。「香田」が広まれば広回るだけ「香田」の土地名も有名になって行きます。だからこそ、地元の人間として「香田」のいわれを確かめてみました。
「ハクレイ」さまが書いておられる「香田」は内容的に一般的に字文字から考察された内容ではないかと思います。
今回、この件を書くにつきまして「石川村誌」と「石川昭和誌」をひも解いてみました。
「イボ地蔵」は書いては在るのですが・・・
ただ、「石川村誌」には香河川(かこがわ)と香田の項があり、説明書きがありました。そのことを抜粋しておきます。(大正15年に発行のため字が読めないこともありますので、その辺はご勘弁を)
7、香河、香田
奥地部落より出でし本村を貫流し堂谷にて野田川に入るを香河川と呼べること(前項に説明し)、この香河に就ては如意尼に絡まる一條の伝説あり。第一章石川村及び香河村の條丹〇〇志を引きたるも尚ほ丹後〇事記には
石川香河村
むかし京師の沙門倉橋川の邊を徘徊せるに川水時ならず匂ひければ怪みて流れを伝ひ一村にいたるに香気ますますなれば里民に問ふ、郷の者曰此村の分大屋に子無き者あり天に祈りて一人の女子を得る此子産れ落ちると此邊薫渡る事三里四方也、誠に世に類ひなき美小児なり、今年七歳に及ぶという、沙門則其家に尋入り見るに小児のかんばせ白玉の如く香気は少女の身より出づる事梅花の匂へるに異らず、父母に乞受けて都にともない朝廷に奉りければ御自愛浅からず(?)、終に天長の頃淳和天皇四妃に召上られ与謝の宇屋居子と申せしとかや、元亨托?書に如意尼は天長帝の次妃丹後国与謝郡の人也とあり、茄髪の後奮里へ帰り一宇の精舎を建立して善法寺と名づけられる。今其寺跡田地の字を成りて世に伝ふ手づから彫刻の本尊観世音菩薩は善法寺破壊の後に萩の草堂に安置せしも名を残りて、石川村西禅寺というにあり、此尼は浦島兒の同血脈なり浦島が玉手箱を似て空海大士に奉り給ひ此箱を以て空海雨を降せ給ふ事驛書にくわし。
此の淳和帝の妃小萩姫の生家は香河村にて左右の渓より水の合する宅地にて地先に香気を流したる洗濯石ありとて現今同村小字トトヲ第七百七十四番地宅地五十七坪は即ち其の跡なりといふ、爾来此の川の流域を香河谷と云ひ石川村を貫流して野田川に入る、(香河川)此途中本村地内に香田(こうでん)と稠する字名稲田に残れり。
とこのように書いてあります。古い字が分かり辛く正確でない部分もあります。

石川昭和誌に香河川の云われが書いてあり、上記石川村誌で書かれている内容を今風に書いたもののようです。
香河川
加悦町香河を源とし日晩寺、奥地(今の大宮地区)地区を流れ、奥山川と合流し上・中・下地区を貫流し出会で野田川と合流する清流である。その名の由来についてのべる。まず丹後旧事記に、昔京都の雲水が今の野田川辺りに来た時、大変川の水が芳香を放っているので不思議に思って川を伝って行くと一つの村落があり、香りがますます強くなった。村人に聞くと、神に祈って生まれた女の子が世にもまれな美少女で今年七才。良い匂が匂い渡ること三里四方であるという。家に入って会ってみると、顔は白玉のようで香気はその身から梅の花の匂うようであった。父母から乞い受けて都に連れて行き、朝廷に奉ったところ大変可愛がられて後、淳和天皇の四妃になった。という話が記されている。また別の記述では如意尼は天長帝の次妃で丹後国与謝郡の人で仏門に入ってから旧里へ帰り一宇の寺を建て善法寺と名づけたというのがあり、香気を放つ少女と如意尼は同一人物であるとした解釈から、香気を放って流れた河、すなわち香河川の名が生まれたようである。如意尼の名は石川ではいろいろと関係の深い名前であることは、善法寺・慈観寺・神宮寺・上田の小萩観音等の所で述べた通りである。香河には今も小萩の洗濯石、その下の流れをドンドの滝、シヤミのドンドと呼んだり、流れに新設した橋を才見橋と呼ぶなど、小萩と雲水との関係を思わせる名が残っている。
上記から、香田のいわれは香河川のいわれから来ているものと思われます。
私の推測では、香田川の水利は香河川と谷田(たんだ)から流れてくる沢水で賄われています。沢水は少なく香河川の水が主に活用されていますが、谷田の沢水は玉の木石という立派な花崗岩(墓石等)が出る山で有名です。今は石も出なくなりましたが、花崗岩の山の沢水は美味しくきれいな水です。
(一度沢水を汲んで飲んでみたいと思います。その時は書き込みますので乞うご期待を)

上の写真左側、遠くに見えるこんもり山が大江山連邦の鍋塚でその下の谷合左になる隠れた部分に香河地区があります。右の写真は香田をぶち抜いて作られた香河川です。遠くに見える橋のあたりにイボ地蔵さんが祀られていました。

写真ひだりは、上記言い伝えの中に出てくる如意尼が作ったとされるお寺に安置されていた小萩観音と云われている仏像(正式には聖観音菩薩坐像・室町時代)恥ずかしいのか顔が隠れています。右はその安置されている上田の観音さんを毎年旧暦7月9日に祭りを行う前の掃除をしている様子。石川昭和誌には「祭りは必ず陰暦でおこなわれ、陽暦で行うと大洪水が起こるとの言い伝えがある。・・・ところが今年から陽暦の8月1日に変更されました。その結果どうなるのか見つめて行きたいと思っています。
という訳で、我が村に残る「いわれ」を整理してみました。
話を元に戻して、由良と言えば安寿と厨子王で有名な山椒大夫の物語の地でもあります。山椒大夫の屋敷跡もほんとかウソかわかりませんが残され遺跡といて観光案内が出ています。由良川のほとりにはもみじ公園が整備され、安寿と厨子王の銅像もたっています。以前ウインドサーフィンがはやったころはこの公園を基地にして多くのサファー達が練習に来ておられました。


長くなりすぎましたのでこの辺で終わりますが、次回の湧水探しは、由良の近所にあります安寿塚の清水に行ってきましたのでお送りしたいと思っています。
尚、 ハクレイ酒造HPでハクレイの事は見てください。
で肝心な「不動山水」の味ランクは独断と偏見の
(^_^)v (^_^)v (^_^)v でした
酒造りの水とコーヒーを飲む水は違うのですかね~(?_?)
ハクレイの詳しい場所は下記のとおりですが、もらいに行かれる方はお仕事の邪魔をしないよう、また商売の一助になる行動もしてくださいね。
追伸
記事の中で、不動の滝が地図になく由良の知人に尋ねたと書きましたが、その方がその数時間後不慮の事故で他界されました。
その方の、ご冥福をお祈りするとともにこの場を借りて哀悼の意をささげたいと思います。
最後の言葉ですが「由良の事ならわしに聞け、なんでも知っているから何時でも教えたる」との暖かいお言葉でした。 合掌
北近畿タンゴ鉄道の由良川鉄橋の麓に駐車場が整備されているので、遠方から来られる方はよくわかります。
しかし、その横に蔵元があるかと言えば・・・そこから約10分ほど歩いて行かなければならないのである。
私も、適っきりそこに在るもんだと思い車を降りると、車でも行ける道順が書いて有り、少し狭いような道ですが水を持って歩くのは大変なので車で行く事にしました。現地の駐車場といっても4~5台止めれば一杯になるぐらいのスペースです。


この路地を酒呑童子の旗を目印に向かっていくと蔵元の玄関があります。玄関と言っても直売所のお店ですが・・この旗の向かいにあります。
チョイト話は変わりますが、このハクレイの仕込み水がもらえることを知ったのは最近の事でした。この蔵元は以前から身近に感じていましたので、名水「不動山水」を紹介がてらその辺の事も書き込みたい思いが、伏見の名水ラリーを書く中で湧いてきたのであります。
この蔵元ハクレイ酒造は、村おこしの手助けにその土地の酒米を使って、村おこし集団とコラボする形でそこの村のお酒造りをされています。
我が地元与謝野町石川にも村おこし集団「石川塾」が有ります。そこの塾生の発案で、石川で採れた酒米で酒を造り販売するという取り組みをかれこれ十年ほど前から行っております。それが下の写真で「京石川 かたり酒」です。

このかたり酒のラベルの文字は、塾生の縁で歌手「加藤登紀子」さんに書いて頂いたものだそうです。
このお酒は、毎年12月ごろ出来上がり下の名詞のお酒屋さんで限定700本販売されます。今年は残り50本ほどだそうです。とてもフルーティーなお酒だと思います(私の感想)

さらにハクレイと石川とのかかわりは深められていきますがそれは後程。
で、元に戻して・・・・お店に入り名水をお願いしたところ快く案内してくださいました。その折沸かして飲んで下さいとの事でした。早速車から容器を取ってきて名水「不動山水」を頂く事に、写真を見てもらえばわかりますが普通の水道の蛇口なので今一名水の気分はしませんでしたが、味には影響しません。


とりあえず名水「不動山水」をペットボトルに入れてから、少しハクレイ酒造の周りを散策してみると、地酒の生い立ちの説明書きが立てて在りました。

この中に由良ヶ岳の山麓にある「不動の」の地下水から仕込み水を取っているとの事、それを「不動山水」と呼んでおられるようで、後日地図で探したのですが書いて無く、由良の知人の方に聞いてどこに在るのか教えてもらいました。それがこの滝で、写真で見るより実物は良い滝でした。昔の人はこのようなところに神が宿る自然物崇拝の思想によりお不動さんが立てられており、おそらくそのところから滝の名前も来ているのではないかと思います。


左の写真が由良ヶ岳で、右の写真のお不動さんの館の右の谷を上がって行くと「不動の滝」が有ります。
その横にハクレイの貯水槽が設置してありました。
左の写真は沢です。右がハクレイの貯水槽の館と思われます。沢でつい水を飲んでしまいました。それほど魅力のある沢です。


そして不動の滝です。私が取材した知人は夏場になると水はチョロチョロとしか出ていないと言われていましたが、何が何が結構な水量で流れていました。滝百選に出るような滝ではありませんが、それはそれで立派な滝でした。

ハクレイの土蔵を活かして「土蔵スィーツ」なる喫茶アンドスィーツの販売もしておられ、インターネットでも売っているという白嶺舎なるお店もあり、ついつい入ってしまった。ほんとはコーヒーでも飲んで一服しようかなと思っていたのですが、テーブルは少なく、カップルらしき若者が休憩されていたので遠慮して、ロールケーキを買って出ました。


このロールケーキは家に帰り私の口には入りませんでした。
で、蔵元のお店の方にも寄ってみようと入ってみました。お酒や、お土産品やイロイロと処狭しと置いて在り今は少なくなった雑貨屋の雰囲気を醸し出すような店内でした。


お水を頂くと、浄財を入れておくのですが、こういう場合はお礼の気持ちに何か買うのです、店内を見渡していると「香田(こうでん)」なるお酒が目に付いたので1313円の720mlを買い求めました。
この「香田」ANAの機内酒に選ばれているという立派なお酒で、私が買ったのは一番安いもので高いものになると一升瓶の箱入りで1万円もするらしい。まァ私が飲んでも違いは分かりませんので買ったりはしません。
1313円の「香田」でも十分満足しました。
で、この「香田」という銘柄は私の近所の地名です。「かたり酒」の所でハクレイと石川とのかかわりが深いといったのはこのことからです。私が知る限りでは、「かたり酒」を石川塾が取り組んでから「香田」のお酒に発展していったものだと記憶しています。そういう面では「石川塾」という集団は村おこしに貢献しているのではないかと思います。

で下の写真が、香田川とその付近の田んぼです。さらに、度重なる石川地域内の洪水のために、石川を通る香河川が改修されて香田の真ん中を通る大川となり、その為今は移されましたが以前に香田川のたもとに置かれていたイボ地蔵さんが右です、香田川の水を供えてイボに付けると治ると言われていました。地元の人たちが信仰心厚く地域の公民館の傍に祠と一緒に大切に祀られています。


ところで買ってきた「香田」を飲もうと紐をときキャップの上にかぶせてあったレッテルを外すと、そのレッテルには「香田」のいわれが書いて在りました。

このようにお酒に説明書きがついて回るという事は。「香田」が広まれば広回るだけ「香田」の土地名も有名になって行きます。だからこそ、地元の人間として「香田」のいわれを確かめてみました。
「ハクレイ」さまが書いておられる「香田」は内容的に一般的に字文字から考察された内容ではないかと思います。
今回、この件を書くにつきまして「石川村誌」と「石川昭和誌」をひも解いてみました。
「イボ地蔵」は書いては在るのですが・・・
ただ、「石川村誌」には香河川(かこがわ)と香田の項があり、説明書きがありました。そのことを抜粋しておきます。(大正15年に発行のため字が読めないこともありますので、その辺はご勘弁を)
7、香河、香田
奥地部落より出でし本村を貫流し堂谷にて野田川に入るを香河川と呼べること(前項に説明し)、この香河に就ては如意尼に絡まる一條の伝説あり。第一章石川村及び香河村の條丹〇〇志を引きたるも尚ほ丹後〇事記には
石川香河村
むかし京師の沙門倉橋川の邊を徘徊せるに川水時ならず匂ひければ怪みて流れを伝ひ一村にいたるに香気ますますなれば里民に問ふ、郷の者曰此村の分大屋に子無き者あり天に祈りて一人の女子を得る此子産れ落ちると此邊薫渡る事三里四方也、誠に世に類ひなき美小児なり、今年七歳に及ぶという、沙門則其家に尋入り見るに小児のかんばせ白玉の如く香気は少女の身より出づる事梅花の匂へるに異らず、父母に乞受けて都にともない朝廷に奉りければ御自愛浅からず(?)、終に天長の頃淳和天皇四妃に召上られ与謝の宇屋居子と申せしとかや、元亨托?書に如意尼は天長帝の次妃丹後国与謝郡の人也とあり、茄髪の後奮里へ帰り一宇の精舎を建立して善法寺と名づけられる。今其寺跡田地の字を成りて世に伝ふ手づから彫刻の本尊観世音菩薩は善法寺破壊の後に萩の草堂に安置せしも名を残りて、石川村西禅寺というにあり、此尼は浦島兒の同血脈なり浦島が玉手箱を似て空海大士に奉り給ひ此箱を以て空海雨を降せ給ふ事驛書にくわし。
此の淳和帝の妃小萩姫の生家は香河村にて左右の渓より水の合する宅地にて地先に香気を流したる洗濯石ありとて現今同村小字トトヲ第七百七十四番地宅地五十七坪は即ち其の跡なりといふ、爾来此の川の流域を香河谷と云ひ石川村を貫流して野田川に入る、(香河川)此途中本村地内に香田(こうでん)と稠する字名稲田に残れり。
とこのように書いてあります。古い字が分かり辛く正確でない部分もあります。


石川昭和誌に香河川の云われが書いてあり、上記石川村誌で書かれている内容を今風に書いたもののようです。
香河川
加悦町香河を源とし日晩寺、奥地(今の大宮地区)地区を流れ、奥山川と合流し上・中・下地区を貫流し出会で野田川と合流する清流である。その名の由来についてのべる。まず丹後旧事記に、昔京都の雲水が今の野田川辺りに来た時、大変川の水が芳香を放っているので不思議に思って川を伝って行くと一つの村落があり、香りがますます強くなった。村人に聞くと、神に祈って生まれた女の子が世にもまれな美少女で今年七才。良い匂が匂い渡ること三里四方であるという。家に入って会ってみると、顔は白玉のようで香気はその身から梅の花の匂うようであった。父母から乞い受けて都に連れて行き、朝廷に奉ったところ大変可愛がられて後、淳和天皇の四妃になった。という話が記されている。また別の記述では如意尼は天長帝の次妃で丹後国与謝郡の人で仏門に入ってから旧里へ帰り一宇の寺を建て善法寺と名づけたというのがあり、香気を放つ少女と如意尼は同一人物であるとした解釈から、香気を放って流れた河、すなわち香河川の名が生まれたようである。如意尼の名は石川ではいろいろと関係の深い名前であることは、善法寺・慈観寺・神宮寺・上田の小萩観音等の所で述べた通りである。香河には今も小萩の洗濯石、その下の流れをドンドの滝、シヤミのドンドと呼んだり、流れに新設した橋を才見橋と呼ぶなど、小萩と雲水との関係を思わせる名が残っている。
上記から、香田のいわれは香河川のいわれから来ているものと思われます。
私の推測では、香田川の水利は香河川と谷田(たんだ)から流れてくる沢水で賄われています。沢水は少なく香河川の水が主に活用されていますが、谷田の沢水は玉の木石という立派な花崗岩(墓石等)が出る山で有名です。今は石も出なくなりましたが、花崗岩の山の沢水は美味しくきれいな水です。
(一度沢水を汲んで飲んでみたいと思います。その時は書き込みますので乞うご期待を)


上の写真左側、遠くに見えるこんもり山が大江山連邦の鍋塚でその下の谷合左になる隠れた部分に香河地区があります。右の写真は香田をぶち抜いて作られた香河川です。遠くに見える橋のあたりにイボ地蔵さんが祀られていました。


写真ひだりは、上記言い伝えの中に出てくる如意尼が作ったとされるお寺に安置されていた小萩観音と云われている仏像(正式には聖観音菩薩坐像・室町時代)恥ずかしいのか顔が隠れています。右はその安置されている上田の観音さんを毎年旧暦7月9日に祭りを行う前の掃除をしている様子。石川昭和誌には「祭りは必ず陰暦でおこなわれ、陽暦で行うと大洪水が起こるとの言い伝えがある。・・・ところが今年から陽暦の8月1日に変更されました。その結果どうなるのか見つめて行きたいと思っています。
という訳で、我が村に残る「いわれ」を整理してみました。
話を元に戻して、由良と言えば安寿と厨子王で有名な山椒大夫の物語の地でもあります。山椒大夫の屋敷跡もほんとかウソかわかりませんが残され遺跡といて観光案内が出ています。由良川のほとりにはもみじ公園が整備され、安寿と厨子王の銅像もたっています。以前ウインドサーフィンがはやったころはこの公園を基地にして多くのサファー達が練習に来ておられました。



長くなりすぎましたのでこの辺で終わりますが、次回の湧水探しは、由良の近所にあります安寿塚の清水に行ってきましたのでお送りしたいと思っています。
尚、 ハクレイ酒造HPでハクレイの事は見てください。
で肝心な「不動山水」の味ランクは独断と偏見の
(^_^)v (^_^)v (^_^)v でした
酒造りの水とコーヒーを飲む水は違うのですかね~(?_?)
ハクレイの詳しい場所は下記のとおりですが、もらいに行かれる方はお仕事の邪魔をしないよう、また商売の一助になる行動もしてくださいね。
追伸
記事の中で、不動の滝が地図になく由良の知人に尋ねたと書きましたが、その方がその数時間後不慮の事故で他界されました。
その方の、ご冥福をお祈りするとともにこの場を借りて哀悼の意をささげたいと思います。
最後の言葉ですが「由良の事ならわしに聞け、なんでも知っているから何時でも教えたる」との暖かいお言葉でした。 合掌
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