NO273:大山の「清浄泉」

湧水が出る所だったが「清浄泉」ではないのだ(?_?)
「賽の河原」から上がって、今度は大山寺の境内から

大山寺の右端に、この石仏が安置してある池があり、その横から林の中に入って行けば金門の下流側に降りて行けます。

これが下流側から見た「金門」です。上流側とあまり変わりませんが、水の流れがよく見ますと滝になって追って来ています。
欲を言えば、間から見える景色に大山の北壁が見えれば申し分ないのですが・・・
腹も減って来たので、長居せずに引き揚げ、帰りは林の中を下って行った

原生林の様な林で、広葉樹の色付きが美しく雅であった。そして、賑やかな参道へ出て来たのであった。
そんな中、朝には気づかなかった「モンベル」が土産物売り場を出店していた。

これも、モンベルの新たな商売の挑戦であるのでは、それ以外にも賽の河原に繋る赤い橋のたもとにも、モンベルの正統派である「各種登山アイテムを販売」するお店がありました。
そして、我々の腹を満たすお店は

お食事・御休憩
大山火の神岳温泉「豪円湯院」へと入って行ったのであった。
スキー客と登山客相手のお店の様で、温泉と食道が付いていて、食堂は畳の大広間に机が置いて有り、思い思いに座ってのんびりと食事ができる設定であった。ここに入ろうと思ったのは、大山そばと大山おこわがセットのランチがあり、この「おこわ」が又、食べ放題なのであった。・・・・・・記憶があいまいであった(=_=)・・おこわでは無く、セットに付いていた豆腐が食べ放題である事を思い出した。

蕎麦の左のお椀が豆腐で、好きなだけ入れてくるのである、そして先ほども思い出したお代わり自由なのである。これがまた美味しく、相方さんは2回もお代りに行くほどであった。そして、そこでお代りに来ていた人と美味しい豆腐だと意気投合していたらしい(*^_^*)。
吾輩は、一度だけお代りするも腹がいっぱいでそれ以上食べれなかった。
昼飯も無事食べ終え?、大山寺界隈で半日使ってしまい、大山一週水汲みの当てはモロクモ崩れ去ったのでございました。
とり合えず行ける所まで頑張ろうと、「清浄泉」を探す事にした。
「清浄泉」は、情報元によれば、大山寺駐車場近くの赤い橋を渡り、大きな鳥居が目印であり、近くに「三輪平太の墓」があるという、これだけ目印になるものが有ればすぐ見つかるgだろうと、車に乗り「赤い橋」を渡り、気を付けながら走って行ったがそれらしきものは無く、下界に降りる三叉路まで来てしまい、行き過ぎとる・・・と、再度Uターンして引換し

カーブの所がちょっとした橋になっており、そこが駐車スペース10台ぐらいあったのでとりあえず止めて探そうと車から降りるやいなや、目の前に墓が目に入って来た。此れだと

その横には、墓の云い伝えが書かれた立札が

三輪平太の墓:文化2年(1805)大山寺本殿(現在の大神山神社奥の宮)が再建されたが、この造営のため京都から来た宮大工の棟梁三輪平太は、地元の大工の恨みを受け、本殿の柱を短く切られた。
余儀なく設計の変更をしたが、享和二年(1802)責任を感じ、その完成を見ずにこの地で自害した。
この墓は京都の川藤作兵衛が建てたものである。
という、今の時代では考えられない悲しい出来事の遺跡である。

谷間の伏流水が水盤の筒に出て来て溜まっている水を汲み終えて、霊の大きな鳥居が在るか探して見る事に

こんな道を奥に入って行くと

階段の上の方に鳥居が見えたので上がると

この付近の遺跡の説明看板が
歴史の道百選 歩いて、ふれて、学んで感動できる道
「歴史の道ー大山道(横手道)」
大山道の発達は、大山信仰と大きく結びついております。大山は古代山岳仏教の聖地であり、「弥山禅定」と言った修行僧による修験の山として開かれました。
大山寺を開いた金蓮上人が大智明権現(地蔵菩薩)を祀ったことで、地蔵信仰が生まれ、亡くなった人を供養する寺として多くの人々が訪れました。この横手道沿いにも一丁地蔵があるのはそのためです。
また、来生の変身を願って日本六十六ヶ国を巡礼する廻国行者があるいた道でもあり、著名な社寺に大乗妙典(法華経)を書写して奉納したのです。この六十六か国のうち、山陰地方の社寺は出雲の「大社」、伯耆の「大山寺」、隠岐の「焼火(たくひ)」、因幡の「一の宮」が指定されていました。
江戸時代になると、大山博労座で日本有数の馬牛胃市(福島県白河の馬市、広島県久井の牛市の三大牛馬市)が開かれ、各方面から牛馬を連れた多くの参拝者が大山道を通りました。現在でも大山寺境内には、宝牛の像があり牛馬信仰が残っています。
このように大山に詣るための道として整備されたのが「大山道」です。大山道は五道(尾高道・川床道・坊領道・溝口道・横手道)あり、「横手道」はそのうちの一つです。横手道の名前の由来は「大山の西側の山腹を横切る道」ということから名付けられました。
当時は大山寺を出発し、横手道を通って岡山県の美作を抜けて山陽方面とを結んだ道でした。
文化庁・鳥取教育委員会・大山町教育委員会
下段左・木ノ目山王(地蔵)
大山寺に入る西方の大山道沿いには、それぞれ山王が祀られています。「木ノ目(横手道)」「岩ノ目(尾高道)」「劔ノ目(坊領道)」「動ノ目山王(川床道)」が、大山寺境内の入口を守護したのです。木ノ目山王は「木ノ目地蔵」とも呼ばれ、今も大山寺に訪れる人々を見守っています。
下段中・六地蔵
六地蔵は、人間の死後、生前の善行・悪行の因果のより行かなければならない速界、すなわち六界(天井界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界)において、人々の苦患を救うために造って祀ったものといわれています。この六地蔵は各々の種子を刻み、容姿も一体ごとに丹念につくられています。
下段右・石の大鳥居
この石の大鳥居は、嘉永7年(1854年)に建立されたもので、願主に洞明院禅信、施主に日野郡の富豪、近藤平左衛門、梅林喜平治の修理世話人の名が刻まれています。大きさは高さ7,2m、幅9mの明神鳥居です、平成14年6月25日に国の有形文化財として登録されました。
そして次なる湧水は、大山一周道路を「桝水高原」へと移動して行きました。
スキー場のリフトのあるところ一帯ですが

ここから見る大山は、伯耆富士と言われる姿をしています。

「桝水地蔵尊の名水」見出しの公園を通り越して駐車場へ、駐車場から写した大山の姿とスキー場、観光客も多く、特に家族連れが目立っていました。スキー場の芝生にはヤギが数匹思い思いにみなさんえさやりに夢中

吾輩の目的は「桝水地蔵尊の名水」早速現場へ

桝水
いつのころからかしる由もないが、
この池に小さな水溜まりが出来た。年中水量が桝で計ったように変わらぬので、村人たちは桝水と呼んでいた。
元録9年の春、、大山寺に伺候した村人は、この水が涸れているのを知り不吉の兆しとして心を痛めたが、その年から不作が相つぎ、餓死者は73人に及んだ、と伝えられている。
享保5年、作州の行者宗信は、この水溜まりを桝形にしつらえ、地蔵菩薩を刻んで、四十八隔夜念仏を修行し、村人たちは桝で造った杓で水を献じて、慈悲の祈りをこめた。
それ以来、この地と村落をつなぐ、薬一理に延びる二百余町歩の原野でも、桝水原と呼ぶようになった。
ところが行ってみて、水が 出 て い な い。((+_+))
横に水道の蛇口はあるのだが、天然水なのかどうかわからない(・・?
池には水が溜まっており、花も供えてある。
この件を知るために、道を隔てた地元野菜売り場へ店員?の叔父さんに尋ねてみると、2016年(平成28年)10月21日の鳥取中部地震の日から止まってしまった。と言われていました。それから二年今までに不吉な兆候は無いようである。
大山が噴火すると島根原発が影響受けるとか(?_?)
水を汲む事は断念して次の水汲み場「地蔵滝の泉」を再度探しに
「大山の清浄泉」の水の評価は
軟水系で、今一つ特徴が見えない水でした。独断と偏見の水評価は
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v デス
詳しい場所です
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