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NO271:因伯の名水「用呂の清水」

扇の仙 153-2z
今回最後に回ったのが「用呂の清水」でした。
国道29号「因幡街道」沿いに在るという。大まかな地図の書いたものしか持ってこなかったので、見つけるのが難しいかな(?_?)と思いながら車を走らせていた。
目星を付けてソコの集落へ
扇の仙 081-2z
橋のたもとまで来ると
扇の仙 138-3t
因伯の名水「用呂の清水」と書かれた標識が。ラッキーここだと橋を渡り終えた正面に、コレマタ集落の地図が立ててあった。
扇の仙 096-2c
地図によれば文化財「矢部家」の右隣の所に名水と書いてある。
扇の仙 101-2v
道が狭いので、リュックにペットボトル以下名水水汲みの「三種の神器」?片手鍋に漏斗を詰め込み背負っていく事にした。
扇の仙 133-2m
とりあえず「矢部家」を見てからと言う事で
扇の仙 126-2b
遠くから見れば、白い土塀のお城の城壁のように見えたのだが、どうも文化財はこの中の「茅葺屋根の建物」の様である。
扇の仙 125-2n
写真が小さく文字が読めれませんでしたので、鳥取県の「文化ナビ」からおかれしました
矢部家は、江戸時代に大庄屋を勤めた旧家。17世紀初期に建てられたものと推定され、古式を残す県下を代表する民家建築である。主屋は桁行11間、梁間5間で、規模も大きく格調高い。
また、宅地も江戸時代の大庄屋にふさわしい規模をもち、家相図ともよく一致し、主屋とともに一体的な価値を形成している。
全体として、当時の上層農家の住宅を理解する上で貴重である。
「矢部家」の前の通りを歩いて行けば
扇の仙 132-3q
石灯籠の所に着く。そこから湧水は流れて出ている。
扇の仙 128-2m
水路には梅花藻と思われる水中植物が清水に身を任せユラユラと漂っていた。
扇の仙 130-3w
水路の突き当りが「用呂の清水」、つまり源流である。チョイト思っていたイメージとは違っていたが
扇の仙 131-3e
水路を充たして流れるだけの水量が有るという事は相当湧出ているのであろう。水も実に綺麗である。地元の方々が利用されているのであろう石段が作ってあり、それを利用して水を汲ませてもらいました。
しかし、このような湧水はどうしても雑菌が入りやすいので、飲み水としてはあまり利用されていないのではないかと思えた。
吾輩は、沸かして飲むのであるからあまり気にはしていません。
無事予定の三ヶ所の湧水をゲットできたので帰途についた。しかし、時間に余裕があったので、八頭町の隣町若桜町に在る「諸鹿渓谷」に寄ってみる事にした。
国道29号線を東へ進んでいると、こんなものが目に入って来た
扇の仙 139-3y
国道とは別ルート、旧道の「城下町・若桜宿(わかさ)」入口、チョイトは行ってみると
扇の仙 140-3u
出口が見えない直線道路、2~300mはあるかと思われる。ゆゅくり走ってみたが停まってみるようなものも無かったので通り抜けしたが、詳しくはこちらで→、「若桜宿
通り抜けて真直ぐ行くものとばかり思っていたら、カーナビが帰れと言う、仕方なく国道29号を
引き返していくと
扇の仙 141-3i
オ!オ!オ!すごい岩山、平石岩と言うのらしいが、ネットで調べても今一出てこない・・・(?_?)で平石岩の名前が合っているか判らない。
と、さらに渓谷方面に入って行くと
扇の仙 154-3p
諸鹿集落の異様な状景に、ケモノ止にしては大きすぎる、雪崩防止にしては後ろの森林が止めるだろうし・・・なんだろ~ナ
それはさて置いて、渓谷へ
扇の仙 144-3o
これが「屏風岩」か~と仰ぎながらさらに奥へと・・・ところが、行けども行けども岩肌はあれだけ、ついに
扇の仙 147-3s
土砂崩れのため全面通行止め((+_+))
結局「諸鹿七滝」の一つでも見えるのかな^と期待して入った林道からは見えず
    ↑の方のブログに詳しく載っていますので観て下され<(_ _)>

と言う事で、渓谷を後に国道29号から
扇の仙 157-3a
こんな岩肌を見ながら若杉峠を越えて大屋町に入り帰ってきました。

独断と偏見の「用呂の清水」の評価
湧水の場所がため池になっている為雑菌が入りやすい。軟水系で普通の水でした。

詳しい場所は


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NO270:安徳の里にある「名水・出逢いの水」

扇の仙 049-2w
「扇の仙」の鳥取県側の麓「姫路集落」に老人会が管理している湧水があるという、「水とふれあいの広場」から林道を降りて行ったところに在る事から進んだのだが、林道の途中に通行止めの柵が作ってあったのだが、部分的に外してあり、その上進行方向からも軽トラ数台の慕;つて来たりしていたので、思い切って突破?して行ったのであった。
扇の仙 050-2e
天気・・良し、紅葉・・良し、見晴らし・・良し、の三拍子そろったいい日であった。
林道をゆっくりと走っていると
扇の仙 053-2r
道を塞いでいた土石を取り除いていたであろう工事現場を通過、おそらくここが通行止めの原因ヶ所だったのだろうと思いながらさらに進めていくと
扇の仙 054-2t
唐戸渓谷探索コース(1の滝:2の滝:3の滝:唐戸大滝)の看板が朽ち果てた休憩小屋の前に1台のジムニーが止めてあった
後程、ネットで探しましたので見て下さい。唐戸と言えば、京都の美山にもあり、「唐戸」と言う事に何か意味があるのでは(?_?)
吾輩はそこを素通りして
扇の仙 055-2y
所どころ台風の影響が残っている悪路?を進んで行くと
扇の仙 059-2u
広場の』奥にコレマタ朽ちかけた小屋の名残みたいのを発見。広場の隅に
扇の仙 058-2y
峠の見晴らし広場
ここは国府町と郡家町の境界で標高約850mです。ウッドデッキからは鳥取砂丘、大山、扇ノ仙などが見えます。
まわりの林で栗ひろいを楽しんでみませんか。
標高1310mの扇ノ仙、昭和44年に氷ノ山後山那岐山国定公園に指定され、皆さんに親しまれています。
  来たときよりも美しく ゴミや空きカンは持ち帰りましょう!
との事、行って展望をしてみたのだが
扇の仙 060-2i
満足が得られる内容ではなく、それより朽ちかけた床が何時請われるかハラハラ、ドキドキでゆっくり見とる暇もなく1枚撮るのがヤットコサで引き返してきた。
そんなこんなで、麓の道路にたどり着いた様子
扇の仙 066-2o
その道を右に曲がり下って行くと
扇の仙 070-2p
「安徳の館」が在りそのそばに
扇の仙 071-2s
安徳の里・姫路公園の見取り図 その入り口
扇の仙 072-2a
所で「安徳」とは何んじゃいな・・・と、探してみると
「ウィキペディアより」
略歴[編集]
『吾妻鏡』(吉川本)頼朝将軍記の首書。安徳天皇の即位が記されている。
治承2年(1178年)11月12日に生まれ、生後まもない12月15日に立太子。治承4年(1180年)2月21日に数え年3歳(満1歳2か月)で践祚し、4月22日に即位する。幼帝の政治の補佐は外祖父たる平清盛が取り仕切った[1][4]。即位前には、天皇の祖父後白河法皇も、清盛により幽閉されるに至った[1]。摂政には藤原基通が任じられた[1]。

即位の年に清盛の主導で遷都が計画され、福原行幸(現在の神戸市)が行なわれるが、半年ほどで京都に還幸した[1]。寿永2年(1183年)、源義仲の入京に伴い、平宗盛以下平家一門に連れられ三種の神器とともに都落ちする[1][5]。この後寿永2年8月20日(1183年9月8日)に三種の神器が無いまま後鳥羽天皇が践祚し[6]、元暦元年(1184年)7月28日に即位[7]。正史上初めて同時に2人の天皇が擁立されることになった[8][9]。

一方、安徳天皇は平家一門に連れられ大宰府を経て屋島に行き、1183年に現在の屋島東町にある見晴らしの良い高台に行宮を置いた。この行宮跡地付近には、ささやかな神社「安徳天皇社[10]」が置かれている。しかし源頼朝が派遣した鎌倉源氏軍(源範頼、源義経)によって、平氏は一ノ谷の戦いと屋島の戦いに敗北[1]。特に屋島合戦(1185年2月)の敗北により、天皇と平家一門は海上へ逃れる[11]。そして寿永4年(1185年)4月、最期の決戦である壇ノ浦の戦いで平氏と源氏が激突[1]。平氏軍は敗北し、一門は滅亡に至る[1]。以下、まず『平家物語』による安徳天皇入水の様子を記述する[12]。

最期を覚悟して神璽と宝剣を身につけた母方祖母・二位尼(平時子)に抱き上げられた安徳天皇は、「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問いかける。二位尼は涙をおさえて「君は前世の修行によって天子としてお生まれになられましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。この世は辛く厭わしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」と言い聞かせる。天皇は小さな手を合わせ、東を向いて伊勢神宮を遙拝し、続けて西を向いて念仏を唱え、二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じた。安徳天皇は、歴代最年少の数え年8歳(満6歳4か月、6年124日)で崩御した(『平家物語』「先帝身投」より)。なお、『吾妻鏡』では安徳天皇を抱いて入水したのは按察使局伊勢とされている[13][14]。

母の建礼門院(平徳子)も入水するが、源氏方将兵に熊手に髪をかけられ引き上げられている。この際、三種の神器のうち神璽と神鏡は源氏軍が確保した[2][3]。宝剣はこの時失われたとする説がある(宝剣に関しては異説も多くあり、それらについては「天叢雲剣」の項目を参照のこと)。オリジナルか形代かは別にして、朝廷側が宝剣の回収に失敗したのは確定している[15]。その後、後鳥羽~土御門天皇~順徳天皇時に伊勢神宮から献上されたものを正式に宝剣とした[8][16]。
柳の御所・御所神社、門司、大宰府から屋島へ渡る前一時御逗留
寿永2年(1183年)に後鳥羽天皇が即位したため、同年から崩御の寿永4年(1185年)までの2年間、在位期間が重複している。

『中国地方の関係』
因幡国に逃れて10歳で崩御したとする説。 壇ノ浦から逃れ、因幡国露ノ浦に上陸、岡益にある寺の住職の庇護を受けた。天皇一行はさらに山深い明野辺に遷って行宮を築いて隠れ住んだ。文治3年、荒船山に桜見物に赴いた帰路、大来見において安徳天皇は急病により崩御した。この時建立された安徳天皇の墓所が岡益の石堂と伝えられている。

上岡田五輪塔群、鳥取県八頭郡八頭町姫路12安徳の里姫路公園鳥取県八頭郡八頭町姫路には安徳天皇らが落ち延びたという伝説が残る。天皇に付き従った女官などのものとされる五輪塔が存在する。
鳥取県東伯郡三朝町中津には安徳天皇が落ち延びたという伝説が残る。

伝説は多くがそうであるように、一箇所だけでなく数か所にわたって各地に伝えられている。ここもその一つであろうが、火のない所に煙は立たない・・・と言われるように何かしら関係するのではないでしょうか。
姫路公園の管理人さんに「姫路集落内に湧水が出ている、と聞いて来たのですが知っておられますか」と尋ねると
「姫路集落内には聞いたことは無いが、ここより道を下って三叉路の近辺に出ているところが在りますよ」との話。そこは老人会が維持管理をされているとの事。ちょうど情報元の話とマッチする。おそらくソコだろうと車を向けて三叉路を右折して走って行くと
扇の仙 073-2d
それらしき物が視界に入って来た。近づいてみると
扇の仙 074-2f
飲んでみて!!  水の甘さに目も細む   『名水 出逢いの泉』
    姫路・明辺老人会
と書かれている。正しくココである\(^o^)/
扇の仙 075-2h
水汲み場も整理整頓された気持よい水汲み場である。・・・が欲を言えば、パイプから出てきた水を直接汲める方がありがたいのだが・・・。
という訳で、水も頂きさらに道なりに進み
再度三叉路の道を左の方へ進み、峠を越えて次の水汲み場へと向かった。
扇の仙 080-2k

「名水・出逢いの水」独断と偏見の水評価は
喫茶店の方も水汲みに来ると言うほど美味しい水だとの事だった。飲んでみて軟水系の嫌みのない飲みやすい水であった。
喫茶店の方が汲みに来られるのもうなずける水であった。
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v

詳しい場所は





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