fc2ブログ

NO264:杉坂道風町の命水(仮)

img149-3dd.jpg
道風神社から引き返す事500m程、道の脇にパイプから水が出て来ている。道風神社に行くときに確認していた水である。
小野道風と蛙(ある事を探していたらブログに出ていたのでYouTubeからおかれしました)

帰りに、嵐山高雄パークウエイに寄ろう考えていたので、見出しにパンフを出しておきました。
確認しておいた場所です
7月22日小沼の滝 054-3s
水が出ている場所は、吾輩のコンテナボックスの奥、手前に祠の長屋が見えるのですが、二か所に仏教語らしい標識が達筆で良く読めない、ネットで文字を張り付けて検索するも思うものがヒットしなく、その中で「小野道風と蛙」がヒットしたのです。
結局杉坂道風町の住民に聞かなければならないことで、この祠の設置してある意味を探すことは断念。しかし、水と関係はあるのではないかと思っている。
7月22日小沼の滝 056-3d
北山杉が生茂った山肌には沢の跡の様なものは無く、その下にコンクリートの貯水槽らしき上に屋根代わりにトタンがかぶせてある。
7月22日小沼の滝 057-3f
その中からエスロンパイプが、
7月22日小沼の滝 055-3g
そして、湧水らしく朽ちかけた雰囲気のパイプから出て来ている水を汲んで持ち帰る事に、これで道風神社で十分汲めなかった水を汲んで帰る事ができ、今回の水汲みは無事完了したのだが、帰りに寄ることにしていた嵐山・高雄パークウエイに車を進めた。
1965年、今の阪急阪神ホールディングスグループの西山ドライブウエイ株式会社の経営の元今日まで続いている。吾輩の気持ちは、53年経っている今、おそらく寂れているだろうな~と思いながら向かった。
7月22日小沼の滝 058-3h
杉坂道風から周山街道国道162号へと「京都市街← →京北」
7月22日小沼の滝 059-3j
ようこそ嵐山・高尾とパークウエイの分かれ道へ、まもなく高雄口ゲートへ
7月22日小沼の滝 062-3k
ソコからすぐ、高尾大駐車場へ
7月22日小沼の滝 063-3l
ここからは高雄の観光名所(神護寺・西明寺・高山寺)三尾めぐりの起点にもなっているそうです。{大駐車場のためか}
ソコを通り過ぎると
7月22日小沼の滝 064-3z
サクラやモミジのトンネル中を走ります。今回は新緑で爽やかな走りを楽しめました・・・が(^_^)v
次に見えたのが
7月22日小沼の滝 068-3x
菖蒲谷池遊園地、写真には人が見えないが、池にもボートが浮かび、池の周りではバーベキュウでにぎわっていました。忘れられたドライブウエイとは程遠いまだまだ頑張っている有料道路です。
次に着いたところは「菖蒲ヶ丘展望台」
7月22日小沼の滝 073-3v
ここの駐車場には、サクラの木やモミジの木に植樹鬼面の札がそこかしこにかけてあり
7月22日小沼の滝 071-3c
イロイロと考えて、公園の運営費を捻出されている様でお見事です。で、階段を上がって行くと
7月22日小沼の滝 078-3m
獣除けのネットに張り巡らされた展望台が、
7月22日小沼の滝 079-4q
幸せの鐘と、横には電飾らしきものも、そして、と~くには
7月22日小沼の滝 080-3m
京都タワーが見えます。夜には夜景が綺麗に・・・・・ここは・・・どうも・・・恋人の聖地の様で・・・吾輩のような年配の人間が・・・それも・・・夜には行くべきところでは・・・・・
さらに次の所には、「航空台遊園地」です
7月22日小沼の滝 082-4w
写すのがへたで、これだけです。子供の遊園地です。
走っていると
7月22日小沼の滝 083-4e
時たま、こんな場所も・・・そしてこんな所も
7月22日小沼の滝 088-4t
眼下と~くに旧保津峡駅に渡るつり橋が見えました。
7月22日小沼の滝 090-4y
これでは判らね~から、拡大すると
7月22日小沼の滝 091-4u
こんな場所です
7月22日小沼の滝 089-4i
そして、最後の展望台「小倉山展望台」ココには小倉山Cafe
7月22日小沼の滝 103-4o
看板は今風だが
7月22日小沼の滝 101-4i
吾輩はここで遅昼、店内は
7月22日小沼の滝 097-4p
ここでは、新しいデッキテラスもあり
7月22日小沼の滝 099-4a
この日は天気も良し、まだ暑くなる前のひと時、こちらに持って来てもらい年代モノの藤棚の下で
7月22日小沼の滝 106-4d
今になっては何を食べたか忘れてしまい、ま、し、た。
食後コーヒーをまったりと、下界を楽しみながら
7月22日小沼の滝 100-4s
一日を終えていきました。

「杉坂道風町の命水」の独断と偏見の水評価は
道風神社の和香水?と系統は同じ軟水でした。クセのない飲みやすさでしたが何か物足りなかったので
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v にしました。
詳しい場所


スポンサーサイト



NO263:道風神社の霊水(和香水)

7月22日小沼の滝 013-2e
「雲ヶ畑」に行った時時間切れで行けなかった、雲ヶ畑から持ち越し峠を越えて降りて来た所から、京見峠(以前行った)方向へ登った所の杉坂道風地区に「その水で硯の水に用いれば書道が上達する」と昔から伝わるという湧水があるという。
再度雲ヶ畑へ行く事になった。
別に雲ヶ畑から行かなければいけない所ではないのですが、辺境地大好きな吾輩は持越し峠から行きたかったのである。
7月22日小沼の滝 003-2y
前回気になっていたモニュメント?に今回寄ってみる事に、立札には
7月22日小沼の滝 001-2u
高雲寺:九龍山と号し、臨済宗永源寺派に属す。
この地は、文徳天皇の第一子皇子惟高親王が閑居された高雲の宮址と伝えられ、貞観11年(869)、親王はここで落飾され、宮と改めて当寺を創建した言われている。
 創建当時は、真言宗の祈祷所として栄え、祈祷を行う際には、村役人はじめ里人が集まり、謡曲の「田村」を奉納したり、寺に棺を近づけないなどの風習があった
と伝えられる。
 寺宝には惟高親王が書写したといわれる大般若経(惟高般若)600巻の他、近郷の人々がこれを拝むとすぐに病が治ったと伝える大般若経説相図や貞観時代(859~877)作の薬師如来像、山越如来像などがある。
 また、当寺のある中畑町及び出谷町では、毎年8月24日に、愛宕山への献火行事として「松上げ」の行事がとりおこなわれる。
                      京都市

石段を上がり、沢の横をさらに上がって行くと
7月22日小沼の滝 006-2i
着いたところには
7月22日小沼の滝 007-3p
玄関も雨戸も締め切られた建物が、造りはあまり古く無いようだが、他にはお寺らしい建物もないので、この建物が「高雲寺」なのだろう。
引き返しさらに車で進むと、我が街にもある同じ名前の神社が見えてきた。
7月22日小沼の滝 009-2p
「淡島神社」と思っていたら、「厳島神社」でした(=_=)失礼しましたm(__)m
それでは由緒書きを
7月22日小沼の滝 008-2a
        厳島神社
 平安時代中期に編纂された律令の施行細則で『延期式』に「天津石門別稚姫神社」と記載される神社と考えられる。
 この地周辺の雲ヶ畑中畑町・中津川町は、平安時代からの集落で、平安京造営の際に用材を伐り出した地域でもあるとも言われ、当社は産土神として信仰されてきた。
 祭神の天津石門別稚姫が出現したという石門岩が本社後ろの山麓にあり、約5メートルの二つの巨岩が15メートル程離れてそびえ立っている。
 祭神天津石門別稚姫が女神のため、弁財天(知恵や音楽を司る女神)信仰が生じ、明治以降は石門別弁財天、雲ヶ畑弁財天と称したが、明示の初め廃仏毀釈の際、弁財天のままでは廃止されるため厳島神社と改称した。
 境内には、中畑町・中津川町の各所にあった宮が集められ、小宮として祀られている。
        平成21年3月    京都市
と言うものであった。時代の流れに翻弄されてきた神社であった。
本殿の後ろにある、石門岩が二つ
7月22日小沼の滝 012-2d
黒丸の中に、見出しに写っている仏像が置かれていた所で、神社なのに仏像とは?
「厳島神社」を後に、前回立ち寄った「ぜーもんカフェー」を横目で見ながら(この日も車1台が止まっていた)その先の脇道へ向きを変えて
7月22日小沼の滝 015-2f
「持越し峠」へと雲ヶ畑を後にした。
7月22日小沼の滝 014-2g
おせいじにもいい道とは言えない1車線の峠道を
7月22日小沼の滝 017-2h
対向車が来ない事を祈りながら、時折ライダーやロードバイクツーリーング御一行様との擦れ違いは在ったが、無事車には出会わず峠近くの見晴らしの開けたところに到着した。
7月22日小沼の滝 016-2j
下は雲ヶ畑集落。この「持越し峠」の名称がチョイト気になったので、ウィキペディアで調べたら
「雲ケ畑は鴨川の上流に位置するため、ここで鴨川に流したものは良いものも悪いものも、全て京都御所のある京に流れ込む。そのため、同集落で死人が出た場合、この峠を遺体を持ち越えて、隣の真弓集落で葬儀をしたという習慣があった。」
・・・と書いてあった。ところで先日「ウィキペディア」から寄付の要請のメールが入って来ていた。いつもお世話になっていると思い、数年前に寄付をしてからとゆうもの毎年メールが来るようになり、かれこれ5回以上寄付を続けている。・・・しかし無理をしない程度だが
元に戻して
峠を越えて降りて来た「真弓八幡町」の道に出て来た。
7月22日小沼の滝 019-2z
この道を左に入りさらに、周山街道(モミジの高雄へ行く道)へ出て行く道に入り、さらに下って行くと
7月22日小沼の滝 021-2x
標識に「左・京都西陣 右高雄」が出て来た。この左の道が京見峠へ行く道である。
その標識の通り左へ入って行き、水がきれいな谷川の横を走って
7月22日小沼の滝 026-2c
途中
7月22日小沼の滝 025-2v
(杉谷もみじ  名所1km)と書いた手作り標識があり、気になったのでオフロードを上って行ったが「それらしき物は見当たらず」元に戻り、さらに奥に走って行くと目的の「道風神社(どうふう)」の鳥居が
7月22日小沼の滝 030-2b
由緒ある神社らしく、京都市の由緒書きが橋のたもとに
7月22日小沼の滝 028-2n
参る前に読んでからと
  道風神社
 小野道風を祭神(894~966)とする神社で、道風武大明神ともいい、延喜20年(平安時代中期920年)の創建とされる。
書道の歴史は古いが、道風公は書道の巨擘(きょはく)、能筆家でことに草書は堪能であった。藤原佐理(すけまさ)、藤原行成とともに、平安中期の三蹟の一人として勇名である。村上、朱雀両天皇の大嘗会に悠紀主基屏風の色紙形を清書したのをはじめ、願文や門額の揮毫など、当代随一の能書として目覚ましい活躍を遂げた。
 豊麗で柔軟な筆法は、「源氏物語」の「絵合」に「今めかしう」と評されるように、独自の新様式を加味したものであった。後続の佐理、行成を経て完成された、いわゆる和様の書の基礎を築いた功績は大きい。
 道風公が杉坂、産土神和香社から湧き出る霊水で墨を磨って書の修業をし栄達した。その縁により氏神に斎い祀られた。
 遺品には、唐鏡・硯・唐筆・硯屏・卦算(文鎮)等があり、社宝とされている。
 また、境内には、禁中御修法(みしほう)(天皇家の作法や日常生活における習い事)用に献上された和香水と呼ばれる名水がある。
                 京都市
「道風神社」の由緒書きを読んで、赤い橋を渡り鳥居をくぐり境内へ
7月22日小沼の滝 029-m
入って参道の中ぐらいに「積翠池」が
7月22日小沼の滝 042-3q
水が湧いてる所を確認して、本殿へ参拝する事に
7月22日小沼の滝 039-3w
あまり大きくない鎮守の森の参道を上って本殿へ
7月22日小沼の滝 038-3e
有名な歴史ある神社にしては少々見劣りする神社だったが、その左後ろに
7月22日小沼の滝 032-3r
石碑が立っていた。その横に
7月22日小沼の滝 033-3t
            和香水碑文   解釈
 杉坂の峰より霊泉が湧き出した。これこそ、神がここに臨まれてその高い徳をほどこされたのである。これによって、ひでりをおさえ、そこで泉のうねりをうねうねと、いつまでもうねらせて千年の後にまで及んでも、その恩沢はながながと続いている。
 諸侯がこの水をくんで、うやうやしく、又ほしいままにしているか、いくらくんでもつきることがなく、万億年さらにその十倍の年までもつきることがないだろう。
と書いてあるのだが、碑文の石碑の横のそれらしき和香水はこの通り
7月22日小沼の滝 034-3u
今や万億年経たずに・・・・・空井戸となっていた。そのためか碑文の前に
7月22日小沼の滝 035-3u
蛇口から水が出しっぱなしになっていたが、「水は切らないでください」と何処からかパイプで送られてきていた。どうも敷地内からの水ではなさそうなので、「積翠池」に引き帰し
7月22日小沼の滝 043-3i
この水を汲んで硯の水に用いると書道が上達すると言われている(小野道風も用いられた)
7月22日小沼の滝 049-3o
右の奥の石組みの辺りから
7月22日小沼の滝 048-3p
湧いているのだが、池の水深が浅く片手鍋で掬う事ができず、結局水の出口で汲む事に、これでは雑菌も多く飲む気がしなく、ペットボトル1本でやめておいた。まぁ湧水を推薦できる場所でもないのでイイとする事で道風神社を後にした。
上の方でけたたましい音がするので。上を向くと
7月22日小沼の滝 053-3a
ヘリコプターが

独断と偏見の水評価は
軟水で普通の水でしたが、池を見るともみたいと思える水ではありませんでした。
(^_^)v (^_^)v (^_^)v
詳しい場所

 

NO261:雲ケ畑の「土滝の水」

img148-333.jpg
「ぜーもんカフェー」を出発し、一路志明院へ、途中お地蔵さんを祀る祠を発見、その傍らに歴史的価値の立札があり写すことにした。
伊穴川町 035-1c
福蔵院
帰命山無量寿寺福蔵院と号し、浄土宗に属す。寺伝によれば、延暦十一年(792年)伝教大師最澄の門弟空忍(橘軍氏)が、当地で法華三昧を修業中、雲ケ畑の山上に弥陀三尊を感得し本尊を刻み堂宇を建立して安置したのが起こりで、もと比叡山三千坊のひとつに数えられていた。山間の地ながらも人々の厚い信仰を受けていたが、文期5年(1473)将軍足利義尚の命により浄土宗に改められた。
 現在の本堂は、安政元年(1854)に再建されたもので、堂内には、本尊阿弥陀如来像を祀る、また、観音堂には、もと石清水八幡宮の豊坊蔵にあった豊臣秀吉の守護仏として伝えられる十一面観音像を安置している。
 境内には、南殿の桜と呼ばれる老桜がある。これは、紫宸殿の南庭にあった桜の実を後桜町天皇から下賜され育てられたものとされている。
             京都市
時間の都合上境内まで登る事は諦め先を急いだ。
まもなく志明院の標識が見えた
伊穴川町 063-v
そこを左に曲がり岩屋橋を渡ると
伊穴川町 056-1m
渡り切ったところにだるま石が鎮座していた。趣のある石なのでアップでハイ一枚
伊穴川町 057-2q
なんだろうとマジマジト見ると岩屋山と彫ってあった。志明院の山号である。いい石を使っている。
伊穴川町 037-1b
すれ違いが厳しい参道を走っていると
伊穴川町 045-1b
お寺の雰囲気が出て来出した。橋から1,4kmほど走り駐車場に到着
伊穴川町 038-1n
赤い車が台車で借れた車である。少々場違いである((+_+))
そして、ここにも京都市の文化財の説明書きが
伊穴川町 041-1n
          志明院(金光峯寺)
 岩屋山と号し、真言宗単立寺院(上部に所属していない)である。一般に岩屋不動と呼ばれている。寺伝によれば、白雉元年(650)に役行者が開山し、のち、天長6年(829)弘法大師が淳和天皇の命により創建した。以来皇室の勅願所として崇敬が深く、天下の平和の祈願のため諸堂開扉の詔があり、此の時「志明院」の勅願を天皇から賜りこれを寺号にしたという。度々兵火や火災に遭い、現在の主要建物は明治以降の再建でる。
 本堂には、空海の開眼と伝える不動明王を安置し、奥院である根本中院には菅原道真の手彫りと伝える眼力不動明王を安置している。また、境内には歌舞伎「鳴神」で有名な鳴神上人が龍神を閉じ込めた所と伝承される護摩洞窟など修験道にちなむ伝承地が多い。また、付近一帯には京都市の天然記念物である石楠花が多く、四月下旬に開眼開花して美しい。
                      京都市
伊穴川町 044-2w
駐車場から境内に上がって行くと、このおばさんが受付をしていて、「机の上に、持っているものを置いてお参りしてください」と言われ・・・・・・エっとビックリ!
今まで数ある神社仏閣を参拝してきたが、手荷物をおいて行けと言われたのは初めて((+_+))
何故だと聞き返すと、山門内からは神聖な場所、濫りに俗物を持ち運んでは汚れる・・・・とまでは言われなかったが、神聖な場所により、濫りに写真を撮られると困るとの事!どうも注意書きだけでは信用ないようで、もっていたカメラをおいて預かり札をもらった。で、その前に山門までなら自由に写真を撮っても良いとの事であったので
伊穴川町 042-2r
山門までの庫裡と境内、そして山門のアップ
伊穴川町 043-2y
山門の前に手水が出ていたので、湧き水かと尋ねてみると、飛竜ノ滝から引いている沢水との事、目的の志明院の湧水(巌窟からしたたり落ちる)はこの時点であきらめるしかなかった。
そして、このお寺は、鴨川の源流の一つ、千古から京都市を水の災害から見守り続けているとの事でした。
ありがたいことである(*^_^*)
で、写真を写すことが出来なくなったので簡単に説明をやります。
山門をくぐり、見出しのしおりの写真である鐘楼を右に見て石段を上がって行くと本堂があります。
本堂には、本尊として弘法大師が開眼したという不動明王が安置されているという事。
その本堂の右には、弘法大師三密の秘法を修し一顆の玉を授けると忽ち化して竜となり滝に入る。依って一宇を建立し飛竜権現と言う。浴すれば心願成就するといわれ、鳴神上人の行場でもあったと言われる:飛竜ノ滝が沢の水を社の下から流れて来ている。
その滝の社を回り込んで進んで行くと、護摩の岩屋と言う巌窟にたどり着く。役行者、弘法大師諸大徳行法の跡で、鳴神上人が護摩行のためにたてこもった。と言われる巌窟には石像が安置されていた。
そこから再び本堂に戻り、本堂の右側の石段を登り切るとまたも巌窟が、その岩穴の中には根本中院(だと思う)という社が立っていた。その左奥の巌窟からは地下水が一滴一滴としたたり落ちていた。受付のおばさんは、耳を澄ませば水琴窟の様に水滴が響く音が聞こえるという・・・・が吾輩は、耳を澄ましても聞こえない。おそらく普段の行いが邪道なのだろう(=_=)
そう言えば、こちらに向かう石段で出会ったカップルの男性が私は聞こえなかったが、彼女は好く聞こえたとか・・・やはり
と複雑な気持ちで庫裡に帰る途中、叫ぶような声が聞こえた、山奥で僧侶が修業をしている声なのか・・・と、帰って来て受付のおばさんに尋ねてみると、猟師が鹿を追っている声の響きでしょうとの事でした。
誰が写したのかしれないが「境内全般を写し説明のついたブログ」がありましたので紹介しておきます。
本堂と根本中道の名称が違いますが、吾輩は100円で買った栞に沿って書いています。
岩屋橋まで戻り、さらに奥へ「土滝の水」を求めて・・・・・
その岩屋橋の上流に、川床料亭洛雲荘が一軒
伊穴川町 058-2u
渓流の川床と言えば貴船が有名だが、あそこは真夏に行けば市内並の人出、案外ここのヒッソリとした場所の方が趣きがあるのではと、板塀を横目で見ながら山奥へ、
伊穴川町 054-2i
渓流を見ながら
伊穴川町 052-2d
進んで行くと、山肌が濡れて水が岩を伝って滴り落ちて来ている。
伊穴川町 048-2a
ぜーもん喫茶のオバサマが言っていた距離に近く、更に奥にも走ってみたが、ここ以外に水が落ちて来ているような場所は無く、奥から引き返してきて確認すると
伊穴川町 046-2o
岩を伝って流れて来ている水滴はそれほど多くなく、しかし、岩肌を見る限り常に水が流れている様子である。山の上側を見ると杉林の斜面がV字形にくぼんでいる、しかし沢水のように水の流れは無いようだ。
伊穴川町 047-2p
どちらにしても、伏流水か湧水なのだろうと汲んで帰る事に決定!1本汲むのにかれこれ5分以上かかり、へこたれて2本で断念してしまった。
今回は、予定していた志明院の滴り水を汲む事ができなかったが、2ヶ所の水が汲めて満足の帰路についた。時刻を見れば5時前、里に下りてくると携帯が鳴り、4時ごろには修理が終わっていたとの連絡。急いでディーラーへ帰って行った。 お わ り

「土滝の水」の独断と偏見の水評価は、ちょうど貴船神社の裏山に位置する事から美味しい水(硬水系でまろやかな飲み口)ではあったが、残念ながら一週間も経たずに飲み口が悪くなってきた。やはり、雑菌が入っているのであろうか
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vでした
詳しい場所は(正確な場所ではないですが、行けば分ります)


NO260:京都市の秘境・「雲ケ畑街道の山の水」(仮)

伊穴川町 020-1w
今回は、買った車がよもや半年も経たずにリコールの連絡が舞い込むはめに・・・(=_=)
京都符の北から市内の北のはずれまで持って行かなければならない、行くだけならもったいないと、市内の今まで行っていない所、それも市内の秘境と言われる北山の山の中「雲ケ畑」に行く事に。京都市内を北から南へと流れている観光名所「鴨川」の源流。
鴨川も「出町柳」あたりで、「賀茂川」と「高野川」が合流する。その一方の名前の漢字が違ってくる「賀茂川」と呼ばれている川である。
その源流の一つが「志明院(金光峯寺)」と言うお寺から流れ出ているという。そのお寺に霊水なるものが有ると情報元には書いてあった。目的にはその水をもらいに行くと言う事であったのだが・・・・・・。
その前に、電話ではリコールの修理が2時間ぐらいで終わると聞いていたので、PM1:00過ぎにデーラーに到着。修理をしてもらっている間に食事をしてくる段取りを考えていたのだが、着いてみると、なっ!なんと!!夕方の5時頃までかかるという((+_+))
それでは予定が狂ってくる、担当のセールスと交渉の結果、新型の試乗車を5時まで借れる事に成功!(^^)!・・・が、真っ赤な車・・・チョイト恥ずかしいが、これに乗って出発。
伊穴川町 001-1r
賀茂川沿いの道を北へ、まもなく
伊穴川町 004-1t
道幅と舗装が市街から山奥へと変わり出したころ、賀茂川も渓流の様相に変わりつつあった
伊穴川町 007-1u
・・・と、走っていると道が広くなり前方に
伊穴川町 009-1i
漬物のポリ容器が山の上から降りて来ているパイプの水を受けているのをハッケ~ン\(^o^)/
フム フム、これはアヤシイ・・・と車を下りて、どんな水か確認することに
伊穴川町 010-1p
水が出て来ているパイプはmコンクリートの中に入っている。
伊穴川町 008-1s
周りの状況から考察(かっこよく)すると、大雨により山肌が土砂崩れを起こして修復した時に山の湧水か伏流水を逃がすパイプか、もともとあったコンクリートの穴にパイプを入れて噴き出してくる水を利用している様である。
湧水を探しに行っていると、時たま山肌の水抜きパイプから出て来ている水を湧水として粥擁している地域があります。おそらく、雨が降った時だけでなく、どんな日照りの時でも耐える事無く水が出ているのを地元の方が大切に管理されているのだと思いますが、ここも同じではないかと水をもらって帰る事にした。
伊穴川町 013-1a
コンクリートの奥の山肌を見ても
伊穴川町 011-1o
スギ林で、沢が有るようすは無く、地下水が出て来ている事だと判断した。それで勝手に「雲ケ畑街道の山の水」と命名しておいた。もし名前を知ってらっしゃる方がおられたら教えて下さい。
ポリ容器も多く持ってきていなかったので2本だけ頂いてさらに奥経て進んで行った。
伊穴川町 064-1d
又道幅が狭くなった頃「蛍谷キャンプ場」なるところに差し掛かったが、近くの車の中に人の影が見えた為、怪しまれてはマズイと思い写真を撮る事ができなかった。どうも、道の下の河原にキャンプ場があるようであった。さらにすれ違いが困難な道を上って行くと
伊穴川町 016-1f
雲ケ畑の集落へさしかかった一軒目のお家の玄関に大きな「大段幕」
伊穴川町 016-1q
   輝け!日本国憲法 守ろう!9条
         憲法9条改悪は戦争への道
おー!ここでも平和を愛する人が頑張っている!!人間を大切にしている憲法を未来へ!!!
・・・・・と気持よくさらに奥へ進んで行くと今でも使われているのか
伊穴川町 027-1g
古びた小学校?かな、小集落の学校としてはチト大きい、もしかしたら小中一貫校なのかも(?_?)
そして、昼ご飯を食べていないな~・・・と思いながら走っていると
伊穴川町 028-1h
今風のパネルスタンド、お店の名前も「ぜーもんカフェー」と意味深な名前。通り越したがまたバックして入ってみる事に
伊穴川町 029-1j
お店と言うよりも、田舎の民家。トイレに行きたいこともアリ、どんなとこか下りて行くと
伊穴川町 031-1k
玄関の所に「善右衛門」と彫った看板。色々と趣向を凝らしてガンバっていらっしゃるな~と、玄関を開けて「こんにちわ~」
道に立ててあったパネルスタンドを見る限り「若いおねえちゃん」が「はぁ~い」と出て来る予定・・・・・が
的中とは残念ながらいかず、お婆様が顔お出してくれた。
「縁側でも軒下のテーブルでも座っていて下さ~い」と返事
伊穴川町 030-1z
テーブルは手前で、縁側は奥、そこには
伊穴川町 033-1x
霧えと一輪の山野草   粋な佇まい
注文は「牡丹餅と、コレマタ合わないコーヒー」写真を探しても出てこない(?_?)・・・たまにシャッターをピントがあった時点で写ったと思い最後まで押し切らず、後で見ると写っていなかったというミスがまたも出てしまった(*_*;
・・・と言う事で美味しかった牡丹餅は見せれず、甘さがちょうどブラックのコーヒーに合って美味しかった(^_^)v
そして、お婆さんと世間話
雲ケ畑に来る途中の水の名前を聞くと知らないとの事、地元の人は最近は水道ができて行かないようになったが、奥の方に湧水が出ているとの事、なんでも「土滝の水」と言うらしい。
とりあえず志明院に寄ってから探しに行く事にして「ぜーもんカフェー」を後にした。

「雲ケ畑街道の山の水」(仮)の独断と偏見の水評価は
市内から水を汲みに来とられるというお婆さんさん、あまり良い評価はいっておられなかったが、飲んでみてそんなに悪い水ではなかった。硬水系と言ってもあまり強くなく癖のないマイルドな飲み口でした。
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v
詳しい場所は
目印のない道で、場所が正確でナイ可能性があります。が街道を走っていれば見つかります


NO256:氷室神社の手水

高島市 025-5v
三叉路まで引き返して「氷室」方面へ入ろうとすると、来るときには気が付かなかった池があった。
高島市 033-5p
昔は公園だったのか、朽ち果てた京見峠の看板がかかった休憩小屋が池の縁にポツリと・・・今は池の水も濁りて・・・
五分も走るか走らない内に一軒目の人家が
高島市 020-5b
さらに奥へ進むと
高島市 022-5n
道が開けてきた。奥の方には人家が数件見えたが、そこの右側に石灯籠が在った
高島市 023-5m
どうも氷室神社らしい。車から降りて周りを見渡すと看板が立っていた
高島市 024-6q
京都市登録史跡  氷室神社境内及び氷室跡
 氷室神社は、額田大中彦皇子に氷を献上したと伝える稲置大山主神を祀っており、中世以降、代々主水生正を世襲し、宮中で使われる氷のことにたずさわった清原家が氷室や氷池の守護人として歓請したと伝えています。
 創建年代や沿革に関する詳しい資料はありませんが、江戸時代の氷室神社や村の様子は『都名所図会拾遺』に描かれています。
 境内の主な構成は本殿、拝殿、摂社からなりますが、このうち拝殿は方一間の柿葺きで、寛永13年(1636)後水尾天皇の第二皇女が近衛家に降嫁した時に造営された御殿内に建っていたものと伝えられているものです。
 氷室は、氷を保存した所で、冬に氷池でできた氷を保存し、夏に宮中で使用されていました。
 「日本書紀」仁徳62年条にみえる氷室が文献による初見で、額田大中彦皇子が大和国闘鶏に狩に出た際、山中に氷室を発見し、氷を天皇に献上したことが記載されています。
 この氷室の地は『延喜式』主水司に記載された山城国愛宕郡の5箇所の氷室のうち「栗栖野氷室」にあたり、本神社の北西方向、ここから杉坂に至る道の北側に現在3基の氷室跡が残っています。
 氷室神社の詳しい成立年代や、現存する氷室の時期などについて、不明な点が多いものの、氷室の遺構と氷室に関する神社が現存する貴重な史跡であり、地域の歴史上特に価値の高いものです。
                平成6年4月1日登録  京都市

この内容からすると、氷室はこの神社にはなく別の離れた所に在るようだが、来てしまった以上神社を拝んでくることにして鳥居をくぐって行った。
50m程上って行くと舞殿らしきちょとした小屋があった。その縁に
高島市 027-6r
氷室神社のイワレが手書きで書いてあった看板が立てかけてあり、内容は先ほど書いたものと重複するので、しない部分だけ、
『当社は、古来疱瘡の神として信仰され例祭6月15日は昔宮中に氷りを献上した日に当たる。』
夏ながら秋風たちぬ氷室山  ここにぞ冬を残すと思へば   定家
一段上には
高島市 028-6y
年代物の本殿、氷室の件数は10軒在るか無かぐらいでは神社を異議管理して行くのは大変なのだろう。しかしかし寛永13年のままだと、それもまた貴重な建物だと思えるのですが。
とりあえず、なにがしかのお賽銭をお供えして下りてくると、奥に水たまりが見えた。
高島市 031-6u
縁には、柄杓が置いて有り手水として使う所と認識。よくよく見ると
高島市 029-6u
水が流れ出している。おそらく、上の林の伏流水が湧き出して水が溜まっているものと、また、上のパイプからもわずかだが流れ出ている。・・・・・という事は飲める水であると思い「氷室神社の手水」として汲んで帰る事にした。

氷室神社の手水の水評価は
写真で見ればわかりますが、そこにはヘドロがたまり飲み水としてはあまり推奨する気にはなれず、飲むのであれば、必ず沸かして飲む事であります。軟水の水だった・・・と思うが、飲んでから書き留めておくのを忘れたため飲めないことは無かったので
(^_^)v (^_^)v (^_^)vにしました。
最近の評価はいい加減になってきており反省デス(=_=)
詳しい場所は


プロフィール

水汲みマン

Author:水汲みマン
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
湧き水のおすそ分け
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR