NO283:淡路島の「牛王水」(ごおうすい)

昨年に続き淡路島の残り「南淡方面」へ
予定としては、「なきりの清水」→「水の大師」→「午王水」→「広田の寒泉」→「神仙寺の水」→「筒井の清水」そして前回行きたかったが、略式『御井の清水』で終わった、本来の源泉に行けたらとの思いで出発(^_^)/
今回も予想通り?雪景色に見舞われた早朝であった。

本来なら我が家の地域の方が雪が積もるのであるが、当日は小雪が舞う程度、ところが福知山市に入ると夜中に積もった形跡、福知山ICを入り少し走ると六人部SAでは写真の状況((+_+))
今回は兵庫県三田の辺りまで降っていた様子

チョイト珍しいかな~と思いながら、明石海峡大橋を渡り淡路SAへと着いた。やはりこちらはゆの字もない景色であった。

淡路SAに寄ったのは、インフォメーションによれば淡路の見どころのパンフが置いて有るかなと思ったからである。
とりあえずトイレへと行くと、入口の横の方で、来る人来る人にパンフの様なものを渡していた。当然吾輩も頂き、読んでみると淡路島の観光地のパンフ、その中に福良港から出る観潮船の案内

このパンフによると、見ごたえのある時間帯しか観潮船は出航しない模様、良心的である。
この表から見れば、当日1月27日ですから午前中は当然いけない(目的が違う)。表からは午後行けそうな16:10分出向が◎であるから間に合えば乗船したいとの思いで淡路SAを出発。
まずは「なきりの清水」へ寄る事に、地図からして、前回行った「薬師庵」に近い所である。
神戸淡路鳴門自動車道の最近はやりのスマートIC淡路島中央(ETCカードだけで出入りできるIC)で下りた。
下りたのはよいが、大雑把な場所しか情報は無く、道を走っていたら

喫茶店の看板を発見(^_^)/こういう時には地元の方に聞くのが一番、と言う事で、

ドアを開けた。まずはコーヒーを頼み、見計らって「なきりの清水」という所を探しているんですが、この辺にありますかと尋ねてみると「教えましょうか」との返事。「コーヒーを戴いてからお願いね」と嬉しい返事。
飲み終わり、おかみさんと道まで出てもらい「この先を曲がれば水が出て石碑が立っているのでそこですよ」と御親切に教えて頂強調文き、丁寧?お礼を言って出発。付いてみると、ナント前回寄った「薬師庵の閼伽水」の所であった。
前回はこの言い方は無かったと記憶していたが、地元の方は通称この言い方を使っておられるのだろう。前回のブログも書き添えておく事にした。
ここで「薬師庵の閼伽水」を確認したところ、番号が二つダブっていたため「281→283」に変更しておきます。
歳は取りたくないもんで^_^;
で、次なる場所「水の大師」に。ここは海岸ぶちにあるお寺であるらしい。
洲本に行く途中の海岸にあるという・・・・・が、思っている所を2~3回往復してみたが見当たらない(?_?)
ここでも地元の方に聞くのが一番と、探すのだが見当たらない!そうこうしていると墓参りに来られた方に出逢い尋ねてみると、もっと洲本の方へ行けば道沿いに大師様が見えるのでそこですよ・・・との事・・・が
道を通してからは水脈が切れたのか枯れて出ていませんよ・・・との事。
でも行く事にして出発。

発見~(^_^)v
道路はこの様に通っています

本堂、水の大師・大師堂へ向かう石段へと

階段の手前には

水を汲みあげるポンプと、それに関連するパイプが張り巡らされていました。

大師堂に着いたが水らしきものは見当たらず、境内を探して見る事に、

と、裏山へ通じる山道が見えたので登ってみる事にした。

海が見え出し、少し行くと

鉄柵が出て来た。これは何かあるに違いない・・・と、思いながら奥へ行ってみると

山の斜面に配電盤が設置されている。山道の行ける所まで行ってみた所

ここにも配電盤らしきモノ、しかしそれだけ(-_-)、
吾輩が推理するに、工事により水脈が立たれ、地下から水を汲み上げ湧水の代わりにそれを使おうとしたが、長い年月の間にそれも枯れてしまい水の大師は、お堂だけになってしまった・・・というところか(?_?)
海岸べりは

この湧水は、阪神・淡路大震災の影響によって涸れてしまったが、かつては不治の病に効く霊水として遠方からも水を汲みにくる人が絶えなかった。弘法大師が地に杖をついて水を湧かせたという伝説が伝わっており、海に張り出た岩に大師お手彫りと伝わる仏像が刻まれている。
由来
鎌倉時代初期の仁治4年(1243)2月4日、一艘の小舟が水の大師付近の海岸に着いた。二人の修行僧と四人の護衛の武士が乗っていた。当時の観音堂から紀州の山々を見つめながら、高野山の思い出話をして夜を明かした。二人の修行僧は、高野山正智院の道範上人と高野山悉地院の実弘上人で、道範上人は讃岐の善通寺へ、実弘上人は南あわじ市八木の成相寺へ、部下の起こした事件の責任を問われ、「島流し」の刑の途中に立ち寄ったものであった。「離れくる高野の山の霞をも 今日ばかりやは眺めくらさむ」涙ながらに道範上人が詠んだのであります。里人は道範上人のご面相、お姿が弘法大師そっくりだったので「お大師様の化身」と信じ、観音堂近くの岸壁に彫刻したと伝えられる。道範上人が駐錫以来「水の大師堂」と呼ばれるようになった。道範上人の「南海流浪記」より(高野山大学所蔵)
(あわじ観光ナビから)
水が涸れたのは阪神淡路大震災の影響と書からていますが、どちらが真実か吾輩には分かりません。また、海岸へ降りて行ったが気が無かったのか、岩に彫られた物は見る事ができませんでした。
水の大師の水は諦めて、次なる「牛王水」へと移動して行ったのであります。
「牛王水」は洲本市の里山にあるという。地図にそって行くと

お寺(蓮光寺)が出て来た。その左の道を進んで行くと

高速道路をまたぐ陸橋が出て来ます。さらに進むと洲本市が一望できる小高い所に到着。

陸橋から延びる道は車一台が余裕で通れる幅があったが、道が分岐してからは

車一台がぎりぎり通れる農道になった。手前に車をおいて歩いて行けばよいのだが、出きれば少しでも多くの水を持って帰りたいと思い、車で進む事にした。
吾輩の車が行けるとこまで行くと、小さいため池があった。

おお!このため池が湧水の「牛王水」なのか・・・と、しかし情報元では、地蔵さんの様な真野が祭った祠が映っていた。
とりあえずため池の周りを見てみる事に

と、どこからともなく水が入ってきている様子、その方向を探ってみると、側溝に水が流れて来ており、それがため池に流れて入っている。・・・・と言う事はこのため池には水は湧いて来ているのではなく、さらに奥に何かあるのではと

この道を奥から手前に歩いてきたら建物らしきものが見えた

曲がり切ると

祠が見え、不動明王の表札が書いてあった。中を覗くと

二対の石仏が並んで安置してあり、行けてある花やミカンも今朝供えられた様子の物で、管理が行き届いた感じの祠であった。
その右下の穴から水が出て来ていた。

そして、水は堰き止められ

汲み易いように整備されていた。大事に管理されている事が分るものです。
情報元からの解説は
江戸時代末期(嘉永4(1851)年)に暁鐘成が著した「淡路国名所図絵』の牛王水の項には.「いにしへ先山牛王の料の汲用ひたりといふ又傍に牛王堂の旧蹟あり.
『「牛王」とは、牛の肝の中に稀に含まれている霊薬のことで、最も優れたものという意味である』
と歴史ある場所で、水も湿疹や皮膚病に効くと言われている様だヽ(^。^)ノ
汲んでの帰りがけ、大阪ナンバーの家族連れが大きなポリタンクを持って行かれるのにすれ違った。
次なる場所「広田の寒泉」へと向かった。
写真に写っていた市街にあるはず。情報元の写真に写っていた街並みを見つけ

車を下りて、それらしき物を探していると石碑が見つかった。

達筆すぎて読みにくいが、どうも「淡道島の寒水」と書かれている様だ?おそらく昔「あわじしま」の漢字を「淡路(道)島」と書いたのではと勝手に推理
ネットで情報を探してきました。
『淡道島 ☞ あはぢしま(逆引き)
ここに天皇、その黒日賣に戀ひたまひて、大后を欺かして、のりたまはく、「淡道島あはぢしま見たまはむとす」とのりたまひて、幸いでます時に、淡道島にいまして、遙はろばろに望みさけまして、歌よみしたまひしく、
古事記:02 校註 古事記 (その他) / 太安万侶、稗田阿礼(著) 』
そこから人一人が通れる路地へ

指示通り進んで行く

厚情の路地みたいで、湧き水の水質が木になりながら着いてみると

あわじ花へんろ 第60番「花の札所」広田の寒泉
この看板は兵庫県内の杉・間伐材と淡路瓦を使用しています・・・・と
広田の寒泉の全景

こちらが湧いて出ている池です・・・が

じっくり覗いて見ると

おせいじにも綺麗な・・・・・とは言えない・・・湧出る水量も

本来は側溝へ流れ出て行く水路だと思えるのだが、湧き出る水量が足らず水面は低い、側溝を見てみるとコンクリートの隙間からわずかではあるが水が出て来ている様だが、工場が隣接する広場(工場から浸みこんでくる不純物が入る可能性)と水のよどみから飲んでみようと思える気分にならず、ココの水も汲まずにパスする事にした。おそらく、道沿いに立っていた工場は食品工場であったから

豆腐工場の様で、ココの地下水を使って豆腐を作っているのではと想像すると、水が出なくなった事もつじつまが合うものである。

広田の寒泉
日出る続きの夏や、木枯らしの続く冬、井戸水が干上がり飲み水にも困る年でも、ここから湧き出る水は絶えることなく、仁徳天皇行幸のおり奉献したほどの名水である。
宝暦のころ、この湧水がぴったり止まった事があり、神のお告げにより不浄なものを除き、付近を清めたところ、再び清水を発見し今日に至ると伝えられる。
何千年の昔から、今に減ることなく不思議な水で、淡路の霊水の寒泉と呼ばれている。
この地の清水という姓もここから生まれたと言われる。
緑風土記より
碑文銘
あらとふと あれとうときや おうみもい さくげたまわし むかしおもえば
森崎芝吉 74才
『昔からコンコンと湧いて出ていた水が、万が一工場が立ったことで出なくなったのであれば、工場が汲みだしている水の一部を広田の寒泉にも導いて来て、昔ながらの清らかな池を復活してほしいものである。こう思うのは吾輩だけであろうか』

鉄骨で支えられた
広田の寒泉・ムクノキ
推定樹齢:200年 高さ:12,6m 幹の太さ:2,59m
枝幅:南北14,6m 東西9、6m
寒泉の南、水際にたたずむムクノキの老樹。この社叢(ソウ)では一番の古木だ。
よくみると、北東へ傾く主幹はゆっくりと下向きの弧を描く。若い時は今とは反対の南東側傾き、上に行くにしたがってまっすぐに天を目指していたらしいということは、そのころはこの森はもっと大きく暗かった。水面を覆っていた大きな樹はやがて枯れた。水際で北東側に支持根がなかったムクノキは台風等でバランスを崩し、少しずつ北東へ傾いていった。その間、必死に倒れまいと重力に逆らって生き抜いてきた。主幹の背の盛り上がりと、それに続く西や南西へ張る支持根がそれを物語る。
主幹手前は縦に細長く枯れ開口となり,内部は大きな空洞である。長い年月のいつの時か、台風等の強い風で東側上部大枝が折れたのか、あるいは雷で打たれて枯れたのであろうか。それがもとで主幹内部の腐朽空洞化へと進み、幹東側が枯れ下がり開口へと進んだ。開口空洞部両側の肉厚は太く肥大成長している。東側枯れ下がりによる強度不足を補う為、ムクノキが必死に努力している結果である。
与えられた環境、変化する環境にゆっくりとであるが着実に対応し、自分と戦っている姿がある。
この寒泉の水は過去幾多の人々の生活を支え守ってきた。そして、この水で育まれたムクノキの実もどれほど多く鳥たちの命をつないできたきただろう。ほんとうに我々が大切にしなければならないものがここにある。
もう一つの文章はムクノキの解説なので書き出しはやめますが、自然の姿から人間の生き方を示唆する内容は一読する値があるものです。
現状の湧水を飲む事に気が引けた吾輩は、水を汲む事はせずに次の訪問地「神仙寺の水」を探しに再度車を進めて行ったのでありました。
ココまでの結果一勝三敗であります。
洲本城(再建)の下を通り、

洲本温泉街を過ぎ

「神仙寺」を目指して走っていると

日本で一箇所しかないUFO神社の看板を見ながら走って行くと淡路推薦教の一つ

立川水仙郷へ到着。山が海まで迫っている斜面にへばりつくように咲き誇っている水仙

遊歩道で水仙を散策

部分的に時期が過ぎている所もアリ一面とまではいかなかった。

遠くに見える建物の中には

おしべとめしべのことをまなぶところ「淡路島ナゾのパラダイス」
看板を見た内容から察して(?_?)・・・吾輩は遠慮してパス・・中は謎
謎と言えば「探偵ナイトスクープ」も三度も取材に来たらしい「おなかがねじれる程、笑います」18歳以上の方無料ではいれます。
18歳以下は有料・・・・なのか?・・・は知らない。
そしてこちらがUFO神社

ここの物は手作り感満載の者ばかり、こちらも

こちらの「健康長寿観音」しかり、なんか庶民的でいいで~す。ヽ(^。^)ノ
4ji
10分の観潮船に間に合わせる為、そそくさと水仙を観賞して立川水仙郷を後にして

降りて来た絶壁を再び上り一般道へ、峠道から海岸道路へと

海岸通りを走っていると、淡路モンキーセンターが

行きたい気持ちを押さえてパス。(=_=)さらに走って行くと

こちら黒岩の水仙郷、こちらの方が有名らしい。
見ても同じだろうとこちらもパス。すると道端に何か動くものが・・・近寄ってみると

よちよち歩きの海鵜、車などお構いなしに我が道を・・・シッシッと止めて、その間に通り過ぎ「神仙寺」の入口に到着。

「南あわじ市・灘黒岩」が正式名か、ここに『淡路西国8番・神仙寺』と
先程通り過ぎてきた、黒岩水仙郷へ行く為の駐車場になっており、ここからシャトルバスが出ていました。
ココの山間と言うか、谷間から入って行くとスグ道幅は狭くなり

山の斜面を這うように伸びる道を上がって行くと

20軒ぐらいの集落が出て来た。遠くは紀伊水道の見晴らしが良い

しかしこんな所に住んでいて、今でこそ車で街に仕事に行けるが、その昔にはどんな仕事で生計を立てていたのか、このような所を訪れるといつも疑問に思うのである。
その集落のはずれに

バス停の様な看板に「神仙寺」の看板が見えた。
左の石垣を見ると

お寺のお堂が石段の奥に見えた。これだ!と、上がって行くと「お寺の本堂」

湧水があるかいな~と境内を見回したがそれらしきものは無い、フト、別の階段を覗いて見ると

下界にそれらしき小屋が見えた。早速下りてみると

小屋の中に砂地の底を隠すかぐらいの水たまりが、しかし、水が動いている気配がなく、周りに置いて有る水汲み用の柄杓も使われている形跡もない、小屋の前に作ってある桝も

水が流れている様子がなく、このような水は「死んでいる」水だと思っているので汲む事は諦めた。
しかしなぜこれだけ広い水槽に水がないのか・・・枯れてしまったのか(?_?)

小屋の前は広く、昔使っていた作業用モノレールも朽ちていて、動いている様子も無い。
その駐車場になっているコンクリートにはマンホールの蓋が設置してあり、もしかすると、コンクリートの地中に水槽が作ってあり、湧き水を溜めているのかも・・・それを集落の飲み水として活用されているのかも・・・と、勝手に想像して「神仙寺の水」も汲む事ができず後にする事になった。

帰りは下から車が上がってきたりして離合するのに手間がかかり結構時間が掛かり海岸通り(淡路水仙ラインと言うらしい)に出てきたのが3時半前であった。福良港に4時10分に着けるかどうか心配で、最後の「筒井の清水」は後回しにして港に直行する事にした。
『神仙寺の歴史』
当寺はもともと、諭鶴羽山頂の諭鶴羽神社の境内にあったものだという。神仙寺観音堂と称していた。ところが、明治初年に行われた神仏分離の際に、この地に建立されていた地蔵寺に合祀された。そのため、ここでは地蔵寺の本尊とともに、聖観世音菩薩が祭られている。なお、納経についてはスタンプ・印が当寺に用意されてはいるが、無住であるため、手書きの納経を希望する場合は管理寺である近くの長谷寺にいくとよいだろう。また、当寺は灘黒岩水仙郷の近くにあるため、12月~2月の間は巡礼の際は水仙郷にて咲き誇るスイセンを愛でるのもおすすめだ。
なんとか、うずしおクルーズには間に合い乗船する事ができホッ!(^^)!
うずしおクルーズは、今回で三度目!これまでの二回は四国の亀浦港からの乗船。
一回目はだいぶ前の事であまり覚えていないが、渦が期待していたほど大きくなかったので「な~んだこの程度のモノか」とおもっ記憶はあったので、二回目は海中から見える渦潮と銘打った、船底がガラス張りになった船に乗って見学したのであったが、これももっと海中まで渦が巻きこんでいるところが見えるのかと思いきや、チョロチョロと渦の泡が見える程度であった。
そんな折、淡路島側から帆船が現れうずしおクルーズをしているのを見ていたので、高い位置からの渦潮を見るのも良いかもしれん・・・と、また帆船というあこがれもあったので、今回三度目であったが乗船する事にしたのであった。
見出しの帆船は「日本丸」を模して造られた船で、吾輩が今回乗船した船は「咸臨丸」船長が勝海舟で有名な舟です。

出航までの間、船員さんがカモメかウミネコかどちらだ判らないけど、餌をやっていたので

舟に寄ってきて戯れていた。この光景は、最近の観光船ではお馴染みの後継で、地元の伊根湾「舟屋めぐり」クルーズでも、餌を売っているほどである。カルビーノえびせんが長くて丁度イイのではあるが。

子どもがよって来ると、船員さんはエサを渡して船内へ消えて行かれた。これも乗船サービスでお客さんを楽します行いであろうと思った。

吾輩がカメラを構えて居ると、餌の催促に

手すりに止まりこちらを見ているので、餌の代わりにハイパチリ
そうこうしているとあわただしく船員さんが駆け回り出航の準備、

船が動き始めると、会社の職員さんが、大きな手のひらの作りものを持って我々を見送ってくれた。吾輩もつられて船から手を振ってしまっていた。

結構長い事見送ってくれていた。これもお客様サービス・・・・おそらく毎回されているのだろう・・・ご苦労さまデス

カモメ?も舟を見送ってくれています。

航跡を残して岸壁が遠ざかって行きます。その内外洋へ

大鳴門橋が見えるまでの時間船内を散策していると

咸臨丸の模型や

なぜか織田信長が出したと言われる「朱印状」が・・・そんな大昔でなく現代の有名人の乗船記念色紙

そして、応募しておいた「乗船者限定」豪華プレゼントキャンペーン

未だ結果届かず(?_?)
デッキに上がってみると、遠くに大鳴門橋が見えてきた

ホテルと風力発電機も見えます

橋も近づいてきました

速い海流によりできる海面の落差

四国の亀浦港から来たのであろう観潮船が渦の中に入っています

こちらも次第に渦の中へ

何処から来たのか渡船並の小さい船も

こちらの舟も渦の中へ

大橋と渦のコラボデ~ス

貨物船も渦潮見学か(?_?)

大きな渦が観れて満足の中帰途に

咸臨丸も夕焼けに染まりフィナーレを醸し出し

元来た桟橋へ

桟橋では大きな手のひらを持ってのお出迎え、手のひらには「おかえりなさい」と出港時とはいがった物、ご苦労さんデス

そして着岸

これで今回の旅は、おわり・・・・・とはならない吾輩(^_^)/
夕焼けも染まり、暗くなる前に最後の「筒井の清水」に寄らなければ・・・・・と車に飛び乗り急いで出発したのであります。
場所は「南あわじ市北阿万筒井」という所、30分もしない内に着いたのは好いのだが、それ以外のめぼしい資料は無く、それらしき場所を探してウロウロしていると、ちょうど車庫に車を入れている方を見つけ、出て来られた所を尋ねてみると
「この辺にはそんなとこないよ・・・ここは筒井というトコだが」
パソコンで探してきてみたのだがと
「そう言えば、小さいころ(30歳前後の男性)神社に出ていて飲んで遊んだことがあったが」
その神社を教えてもらえませんかと
「しかし、確か今は枯れたと聞いているが、ちょっと待ってくれ」
と携帯を取出し誰かと連絡を取ってくれている様子
「私の連れが神社の近くに住んでいるので聞いてみたのだが、やはり今は出ていないとの事でした」
と、御親切に対応して下さった。見ず知らずの者にそこまでしてくださり頭の下がる思いで、丁寧にお礼のあいさつをして帰途に着いたのであった。周りはにも落ちて真っ暗になっていた。
反省、遠くに行っても、せいぜい二つぐらいの目標で終わらせることがベストではないか・・・と
欲は禁物でゴザル。結局一箇所だけの成果に終わった南あわじの旅であった。
「午王水」の独断と偏見の水の評価は
軟水系で美味しく飲めた水でありました。
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vでした
詳しい場所は
スポンサーサイト