NO245:多賀大社御神杉の近く「杉坂の清水」(仮)

橋を渡り

またも当てのない林道を進んで行きます。

車一台、対向車が来たらどうするべ~と思いながら上って行くと

先日登った霊仙山の山が・・・・この斜面を上って行ったんだな~と感慨ひとしお(*^^)v
さらに上って行くとスギ林に入って行った。

道も整備されていなく不安が募って来たが・・・・・・

スギ林を過ぎると視界が広がり人家が数件、もう少し走ると

出昭山・照西寺 というお寺の鐘楼がどっかりと、しかし、どうも様子が変だ、人の気配がしないのである。でもこちらには桜の苗木が植林してある

集落のはずれに「地域パトロール(うろ覚えのため違うかも)」と書かれた数台の軽トラが、尋ねてみると、ここは多賀町大字保月(ほうづき)という村らしく現在は廃村になっているとの事、保月を抜けて又もスギ林に入るところに

「鍋尻山登山道」と書かれた標識が、後程調べてみれば高くはないが「琵琶湖一望、後景の雄大な山々が見渡せる」名山と言われているそうです。
お天道様も大分傾いて来ているので先を急ぐことに、それにしても「クマ出没注意」の看板をいたるところで見たが、どうも加賀町内で襲われた人があったそうだ。まぁ車に乗っておれば大丈夫だと気にもしなかったが(^_^;)
で、そろそろ多賀大社の御神杉に出会えるかもと思いながら走っていると

大木とその下に在る祠の雰囲気から、これが例の「多賀大社の御神木」か(@_@;)
正面に回ると

立派なスギの木である。それも三本も!そしてそれに囲まれるように祠が鎮座している。神を信じない者でもこの雰囲気に出逢うと霊気を感じ圧倒される事違いナシ(@_@;)
吾輩はどうも裏口から登って来たようで、文脈的に前後するが、ここから降りて行く事?kmには

何時たてられたのか知らないが、「多賀神木」石碑、昔はここからが神木の参道になっていたの様で

スギ林の中に一路の道らしきものが続いていた。その横には

杉坂の御神木
昔、伊弉諾(いざなぎ)の神様がこの地に降り立ち、この峠を下って芹川の上流、栗栖の里に鎮まられました。
道中、村人に柏の葉に盛られた栗飯をだされ、たいそう喜んで召し上がられたそうです。
その時に地面にさされたお箸がやがて芽を吹き、現在の御神木になったといわれています。
と、思っていたが、この杉は「地蔵杉」と言うものらしく「多賀神木」はこちらが正しいのです(巨樹・巨木巡礼ブログから)
しっつれいしましたm(__)m
という訳で、その時は「多賀大社の御神木」を見つけたとルンルン気分で後にしたのであった。『多賀大社の御神木は石碑の横にある説明書きの奥の方に在るらしい』

杉木立の中をのびる道を走って、谷の山肌を縫う道に出て走っていると

山肌にプチ滝が見えた。そこで、車を止めて観てみると、道路から滝の縁に板が渡してありその上に片手鍋が置いてあり滝の水を汲めるようにと・・・おそらくそうであると解釈した。しかし、その鍋は最近使用したことがないのかミズゴケの様なものがこびりついていた。しかし吾輩は『水評論家?』そんなことはお構いナシ。滝の上部の山肌を眺めてみた。

これだけの水量が出て来るとなると、結構な谷合になっていなくてはならない、見るからに谷の様なV字形の山肌にはなっておらず、山の斜面がそそり立っている様子、右端に岩の溝みたいのが見えるが、斜面の何処からか水が湧き出して流れて来ているに違いないと、湧き水だと確信(^_^)v汲んで帰る事にした。

腐ったような板を伝いながら持参した片手鍋にて水を汲んでいると、後ろから先ほどのパトロールと書いた軽トラが迫って来た。車一台道を占領していたもので、あわてて汲み終えて車を移動、くれども追い越してもらう道幅は無く、結局廃村跡の雰囲気漂う所で

先に行ってもらった。が、距離にしてだいぶ降りて来たのでそのまま下山する事にして車を進めた。その後、多賀神木と書いた石碑の前を通り下って行った。

急斜面の山肌を縫うように作られた道を日田すら下り部分的には

斜面の上は今にも落ちそうな岩がはべり付き、谷側は路肩が今にも崩れそうな場所を何ヶ所か

九十九折れの部屋ピンカーブも何ヶ所か、気分にして30分ほど走って下って来た頃、ようやく

麓の集落にたどり着いた。ここは人様が住んでいる雰囲気(*^_^*)
そう、ここは多賀大社の奥宮「調宮神社」が鎮座する栗栖

調宮神社の由緒

祭神: 伊邪那岐命(イザナギ)・伊邪那美命(イザナミ)
祭日:春祭三月三日 秋祭九月十五日
由緒:神代の昔 伊邪那岐大神は杉坂山にご降臨なされ 次いでこの栗栖の里にて暫くお休みになられたことが當社の創輝とされる のち多賀の宮にお鎮まりになった大神は毎年四月の多賀大社古例大祭に先ず當神社へ渡御されて神輿鳳輦に境内の富の木を飾り打籠を圣て大社に還幸される これはご鎮座の昔を再現する神事といわれる なお11月15日の大宮祭にも大社より神幸がある
多賀大社宮司 櫻井勝之進謹誌
本殿です

時も遅くなったので、早々と引き揚げ橋を渡り多賀大社へと急いだ。帰りがけの夕日が余りにもきれいだったので

なお伊邪那岐命(イザナギ) 古事記では日本を作った神と言われている。詳しくはウイキペディアを読んで下さい。 が、多賀大社の由緒には疑問が投げかけられており、古事記では「伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)」 がある淡路島に降臨されたと言われる説が正しいようです。(吾輩は神話にウトイもので(?_?))
綺麗な夕日を見ながら多賀大社へ、到着したころには辺りが薄暗くなっていました。

通りを曲がれば大きな鳥居が目に入った。鳥居をくぐって多賀大社の駐車場(境内)へ・・・それからココの通りまで戻り、正式に正面から参拝

ここが正式な鳥居カナ(・・? くぐると大きな太鼓橋、なんでも豊臣秀吉が寄進したという「太閤橋」

結構高い橋で、偶然カップルが渡っていた所をパチリ

彼女は降りるのが怖くて「おしり」ですべって下りていて、彼氏がやさしく手を差し伸べていました。
でも、鳥居をくぐると正面に架かる橋、見ると圧倒されて「おそれおおくも」渡れなく、大方の人達はその両サイドに在る橋を渡って入って行かれるようで、吾輩も人並みにそちらの橋を渡って行きました。境内に入って行く御神門の手前に

多賀大社の概略
ご祭神: 伊邪那岐大神(イザナギ)・伊邪那美大神(イザナミ)
男女二柱の大神は、はじめて夫婦の道をおこされ、わが国土と万物の神々と、その主宰神として天照大神をお生みになられましたので昔から、わが日本国の祖神(おやがみ)さまと仰がれ、奈良時代の初めにできた「古事記」には、すでに淡海の加賀にご鎮座という記事が見えています。
そこで、早くより朝野の尊崇あつく、延命長寿、縁結び、厄除けの霊神と仰がれ、元生天皇や俊乗坊重源、太閤秀吉の母大政所の延命祈願、武田晴信(森厳)の厄除け祈願など数々のご社伝が伝えられています。
四月二十二日の多賀まつり(古例大祭)騎馬40頭に及ぶご神幸は天下に名高く、他にも節分祭、お田植祭り、万灯祭、九月古例祭、七五三なども大変なにぎわいを見せます。
室町時代以来の由緒を持つ全国各地の多賀講はあまりにも有名ですが、更に近年は崇敬会に加入して神縁を結ばれる人々も増加しています。
ご本社の左奥に在る参集殿では、これらの人々のお食事や、あるいは結婚式の披露宴なども行われています。
また、春の枝垂れ桜、秋の紅葉、国の名勝である奥書院庭園も見事で、年間を通じ厄百七十万人もの参拝者を数えております。
御神門を入ると境内には、秋にふさわしい

菊花展、その前には「杓子」がぶら下げてある

いわれは、元正天皇の病に際し、神主が強飯を炊き、しでの木で作った杓子を献上、天皇はたちまち治癒されたと伝え、そのしでの木が現存する飯盛木で、杓子は「お多賀杓子」として有名
杓子を、絵馬代わりに使われているようです。合格祈願等
そして立派な拝殿、写真ではお伝えする事ができませんので、参拝して確かめて下さいネ(^o^)/

境内にはおかしなものも

梵鐘が・・・ここは神社、しかしその昔『室町時代中期の明応3年(1494年)には、神仏習合が進み、当社には神宮寺として不動院(天台宗)が建立された。』この名残が残っているのでは?また築造に関して、室町幕府・佐々木六角氏や浅井氏らの奉賛によるものらしい。
時間も遅く、境内隈無く見て回る事ができず残念でしたが、境内を出ると到着した時と雰囲気ががらりと変わっていた。

ブログを書きながら、神話のふる里、日本を作ったとされる伊弉諾の大神が祀られている、もう一方の神社淡路島に在るとされる『伊弉諾神宮』へ行ってみたくなったところで終わりにします。
「杉坂の清水」(仮)の独断と偏見の水評価は
今回廻った三ヶ所の中で一番美味しくコーヒーが飲めました。まろやかさと言い、コクと言いちょうどいいコーヒーが飲めました。しかしチョイト残念な事に2週間前後で水の質がおって来たようでした。もしや湧き出してから滝までの道程が長かったのではと考えています。
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_-)-☆
詳しい場所は
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