NO200:垂井町の「垂井の泉」

祝200回パンパカパ~ン
が、記念行事は何もしませ~ん・・・
「垂井の泉」は関ヶ原町の隣町垂井町に在るのだが、泉の名前が町名になったほどのスゴイトコらしい(?_?)
出発して間もなく、関ヶ原古戦場の看板が目に入る。とりあえず国道からそちらの方の脇道へ入って行った。
関ヶ原と言えば天下分け目の戦場、天下分け目と言えば今回の参議院選挙も、「護憲派」と「改憲派」との戦いであった。
「護憲派」の完敗に近い結果であった。吾輩は「護憲派」を応援していたのだが・・・((+_+))
将来を思うと
違憲と多くの学者が言っている「平和安全法制」を国会で通していく。今回国民はそれを是と判断した結果。
もう一つ
7月10日のA紙の朝刊に
自民党のHPで「学校教育における政治的中立性についての実態調査」を呼びかけている。記事が目に付いた。ホンマかいな~とHPを覗いてみると7/16現在も載せておられます。政党が偏向教育と判断するのは、誰が何をもって決めるのだろうか?関心のある方は覗いてみて下さい。
負けた者の嫉妬なのかも(^_^;)
本題に戻り

イロイロと陣跡があったが、やはり「笹尾山・石田三成陣跡」へ
駐車場から陣地へ登るところに

足軽に扮した関係者が迎えてくれた。写真を撮っても良いかと聞くと、450年前には肖像権は無かったと言ってくれた。・・・ので、ハイパチリ
まず前衛隊の陣地

島 左近(勝猛)陣跡

三成が家禄の半分を与えてまでも仕官させたといわれる左近です。
前日の杭瀬川の戦で中村隊を破り、本戦では石田隊の先手として布陣。黒田・田中らと奮戦後、家康本陣へ迫ろうとしましたが、銃弾を受けて討ち死にしたともいいます。
鬼の左近称され、謎に満ちた猛将
像は諸書に様々な姿で描かれています。 関ヶ原町
笹尾山の登り口

道中の様子

この柵を

矢来:竹や丸太を粗く組んで作った臨時の囲いの事です。竹矢来・丸太矢来(馬防柵とも)、組み方によって角矢来・菱矢来などが有ります。
これは敵の容易な侵入を防ぐのに利用したもので、三成は正面にこの柵を二重にめくらし、嶋と蒲生の指揮する弐隊を前面と中間に配し、自分自身は警固の兵と山頂に陣取りました。
関ヶ原町
さらに登りまもなく頂上

そして三成陣跡

多くの人達が説明を聞いていたが、女性(暦女という事も)が多かった感想です。

国史跡
石田三成陣跡:ここ笹尾山一帯の石田隊六千余は、正面に竹矢来の柵を二重に配置し、前衛隊長の島左近らの指揮のもと、すさまじい死闘を展開しました。
小早川らの裏切りは、戦況を一変させ、西軍の実践兵力は三万五千前後に激減し、西軍の敗色濃厚となるや、最早これまでと三成は北国街道沿いに敗退していったのでした。
関ヶ原町
そこから見た下界

そして東軍の徳川陣地が置かれた場所

真ん中に見える松林が最後の陣地になったそうで、そちらの方へ行って見る事に

行ってみると松林の横を立派な道路が走っていた。その横には関ヶ原町役場、その向かいが

古戦場の場所だが、先ほど行った石田三成陣地に比べひっそり、資料館ぐらいしか見えなかったのでそのままパス「垂井の泉」目指して車を進めた。

垂井の街中を走っていると「この道は中山道」の看板。しかし、街中を回るも探せず、工場入口に在った守衛事務所で尋ね、やっとの思いでたどり着いた。

玉泉禅寺の境内の池に湧き出ていて

何処から水を汲めばよいのかな~・・・と

垂井の泉と大ケヤキ
この泉は県指定の天然記念物である、大ケヤキの根元から湧き出し、「垂井」の地名の起こりとされている。「続日本記」天平12年(740)12月条に見える。美濃行幸中の聖武天皇が立ち寄った「曳常泉」もこの場所と考えられており、古くからの由緒がある。近隣の住民に親しまれる泉であっただけでなく、歌枕としても知られ、はやく藤原隆経は
昔見し たる井の水はかわらねど うつれる影ぞ 年をへにける 『詞花集』
と詠んでいる。のちには芭蕉も
「葱白く 洗ひあげたる 寒さかな」
という一句を残している。岐阜県名水50選(昭和61年)に選ばれている。
この大ケヤキは、樹齢約800年で、高さ約20メートル、目通り約8、2メートル。このようなケヤキの巨木は県下では珍しい。この木にちなんで、木が堅くて若葉の美しいケヤキを垂井の木とした。

*大ケヤキは昨年の台風で倒れたとの事です。今はブルーシートで覆われています。
で、湧いていそうな所を探して、持って行っていた片手鍋で汲んでいると、どこからともなく現れたオジサンが、きれいな湧水だったらこっちに出ていると、横の路地へ連れて行ってくれた。

路地の水路で、川いと(川でいろいろなものを洗う場所)のような所で仕事をされているご婦人の後ろが

石垣で囲われて水槽が作ってあった。その上には何が祀ってあるのか解らなかったが祠が設置されていた。その水槽の奥に

お地蔵さんが安置された水たまりが、その奥側から水が湧いて出て来ていた。この玉泉禅寺のいたるところから水が湧いて大切に保存されている様で「ありがたいお水」をここで頂く事にした。横には「こころざし」を入れる賽銭箱があったが、お地蔵さんの足元にもお金が投げ入れられて、多くの方が御参りされている様子。水を汲んでいると、洗い物されていたご婦人がやって来られ、少々世間話を・・・近くに立派な神社が有るので寄って来られたら・・・と紹介してくれました。
あまり乗り気でなかったのだが、よくよく考えてみると、垂水町の紹介するものが無い(^_^;)、
で、行ってみる見る事に

見上げる大鳥居が出迎えてくれた。そして駐車上場へ入って行くと

大きな境内全体の案内図が立っていたが、こんな全部まわれねぇダ・・・と、「美濃国一宮南宮大社」本殿だけお詣りしてくることに
まず見えたのが大きな楼門

近寄って観ると大きな門である

この手前に、車で隠れて見えにくい石の橋が

神様が渡る橋で「石輪橋・そり橋」と言い、人は通れないらしい
その、下側に「石平橋」というのがあり

国重要文化財「下向橋」竣工祭並渡初め式 平成28年6月5日(日)
祭のときに、神輿が下って通る事から「下向橋」とも言われていて、こちらの橋は人様も通れるらしい。
こちらは普通の石橋だったので、写すのを忘れていましたダ~((+_+))
どちらも重要文化財らしい。そして楼門から写した

高舞殿ですが、楼門内撮影禁止の為朱色の広大な社殿は紹介できませんデス。・・・・・デ

南宮大社御由緒
御祭神:金山彦大神
御鎮座は古く人皇十代崇神天皇の御代と伝えられ、国府から南方に当る故南宮大社と称せられている。
古代金宝の守護神 破魔除災の神と御神威高く、既に千年前延喜の制に国幣大社に列せられ一宮として亦広く金之総本宮として崇敬厚い名社である。
御神殿は関ヶ原合戦の兵火に遭いて炎上の為徳川家光公旧に復して再建され、明治維新の神佛分離令に依り堂塔は他に移建され今日に至る。本殿以下18棟が国の重要文化財の建築である。
節分祭 二月節分 大的歩射神事
例大祭 5月4被・5日 御田植神事蛇山神事
御輿渡御国指定無形文化財
金山祭 11月八日 通称ふいご祭
(どうもこの近辺は古来鋳造施設が盛んだったのではと思われる)
ところで、「垂井の泉」の評価は「玉倉部の清水」より残念ながら少し落ちたのでありました。やはり街中に湧き出る水は当世何かしらの混ざりものがあるカモです。
独断と偏見の水評価は
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vでした
詳しい場所
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