
滋賀県の湖北高島市にある「海津天神社」に『知恵の泉』と言う名水が出ていると、情報を得た。
海津と言えば「海津大崎の桜並木」が有名である。東京では満開になっているという。シチュエーションにもってこいという訳で行く事に(^_^)/
今回も前回同様数回の取材で書いているため、いろいろと無理を感じる事があるかわかりませんが、その辺は愛嬌として受け止めて下されm(__)m
今では合併して高島市になっているマキノ町。「海津天神社」と海津大崎はそのマキノ町に属しますので、我が町からは小浜周りで行くのが一番。
マキノ町と言えば、最近CMにも出て来る「メタセコイア並木」も有名で、一度行ってみたいところであったのでまずはそこから行く事にした。
新たな車に付くカーナビに目的地を入れ出発。高島市まではおおよそ2時間。

今津町方面からのとっかかり。思いのほかダイナミックである(^_^)v
一目で感動(^_^)v
新緑の並木通りも良いのかも知れないが、枝葉の並木通りも最高ヽ(^。^)ノ通りを走って行くと公園の駐車場があり、それ以外の場所では駐車しないでくれとの看板が立っていた。

ここの奥が駐車場でレストラン・物産館も常設されている(吾輩は寄らなかったが)来た方向から並木通り三分の一ぐらいのところに在りました。駐車場から出た所に石碑が

「新・日本の街路樹百景」に選定
マキノ高原のメタセコイア並木 関西随一の規模を誇るここマキノ観光栗園を縦貫する町道沢牧野線とこれに続く県道小荒路牧野沢線には、延長2,4kmにわたってメタセコイア約500本が植えられ、マキノ高原、マキノスキー場へのアプローチ道として、高原らしい景観を形成している。
この並木は、1981年に学童農園「マキノ土に学ぶ里」整備事業の一環としてマキノ町果樹生産組合が植えたのがはじまりであるが、組合関係者をはじめとする地域の人々の手により慈しまれ、育まれて、その後さらに県道も協調して植栽され、延長が延ばされたことから、現在のこの雄大な姿となったものである。
メタセコイアは中国原産、ひのき科メタセコイア属の落葉高木で、和名はアケボノスギ。樹高は35mに及ぶ。最大樹高が115mにも及ぶと云われるセコイアにその姿が似ていることから、メタ(変化した)セコイアと名付けられている。
春の芽吹き、新緑、夏の深緑、秋の紅葉、冬の裸樹・雪花と四季折々に美しい円錐形のメタセコイアの並木とまっすぐに伸びる道路が作り出す対称形の整った景観は、遠景となる野坂山地の山々とも調和し、訪れる人々を魅了してくれる。
1994年11月、読売新聞社の「伸・日本の街路樹百景」に選定され、衆目を集めるに至っている。
1997年3月 マキノ町
写真を撮っていると、前の方で若いカップルが

中央線で二人並んで自撮をしたいのだが、イイ所までいって車が来たりして何回もトライ(吾輩もトライ中・・・・・カップル達の様子は見出しの写真)

やっと撮れたとスマホの画面を二人で見て喜んでいる

記事の初めに数回の訪問により記事を書いていると書きましたが、あるチョンボにより昨日4月1日に三度目の高島市訪問の運びとなりました。その事についてはおいおい分ると思いますが、タイトルも「平成の名水百選・針江の生水」から「海津天神社の手水(知恵の泉)」に変更いたします。
と言う事で、メタセコイア並木から海津大崎の桜並木を見に行きました。
一回目は

三月も初めの11日に行ったため、桜の「さ」の字も咲いていなかった為、桜並木の風景を写真に写すのを忘れていたが、この雰囲気で桜の状態も察して下され。

大崎観音寺の前には桟橋が在ったが、まだ観光シーズンではないのか、扉も閉まっている。
サクラの代わりに、観音寺にお参りしてくることにして行きかけると

数匹のお猿さんが出迎えてくれた。
階段を上がって行くと山門があり

お願いの立て看板
山内の保全、美観維持のため、お一人百円の御志納をお願い申し上げます 住職
と書いてある。吾輩も百円入れてさらに奥へ

さらに石段が続き

上に本堂が見えてきだした。

本堂の前には大きな提灯が・・・・・・しかし人気がしないお寺だ

しかし本堂には沢山の札所になっているのだだが

書いてみると
○ばわ湖108霊場 湖西27名刹・第25番 〇近江西国大9番札所 〇近畿楽寿観音霊場第29番札所 〇西近江七福神 毘沙門天 〇本尊十一面千手観世音寺 と7つも誇れるお寺であるのに、である。
当日不在だったのかも・・・・・はたまた観光シーズンともなれば掛け持ち住職が来るのかも・・・

大崎寺
真言宗智山派石立山大崎寺宝光院といい、本尊は泰澄大師の作と伝えられる千手観音である。元は奈良の興福寺の末寺で僧房39院を有する大寺であったが、鎌倉時代以降荒廃していたが天文5年(1536)法印が中興し、それ以来真言宗となり宝幢院の末寺となった。
豊臣秀吉が諸国仏閣復興のとき、安土城の残材をを用いて復修を行った際、血痕の残る天井板を使用したことから「安土の血天井」として知られている。その後、本堂は改築され、使われていた用材は昭和41年(1966)阿弥陀堂改築の際、阿弥陀堂の天井に使われた。
また、阿弥陀堂の本尊は阿弥陀如来像、聖徳太子の作と云われている。
とお寺の由来でした。

こちらは琵琶湖の眺めの良い境内で、そこには「観世音菩薩」も建立されていた。

近江法性観世音菩薩由来
今から十年前、湖畔で宿を取りました時夢枕に立たれたお方が
「我は湖をのぞみて建つ」
とおっしゃるので
「あなたはどなた様ですか」
とお尋ねしますと
「法性観音である」
と仰せられました。
法性とは、宇宙にある一切の者は、御仏の智慧によって生かされている言葉だそうです。
今地球が大変な危機を迎えようとしています。
この地球を、日本を、お救いになる為、日本の中心である琵琶湖のほとりに観音様がお姿を現して下さいますのは、誠にありがたいことと思います。
御仏のお力により地球の平和と、この宇宙に生きとし生きた御魂の御救い上げ、生きとし生きる者の幸せを念じ、この観音様を建立させて頂きます。
この宇宙守らせ給う観世音
遠律御親の住みし地に建つ
平成16年11月3日
観音奉賛会世話人
後藤田みどり
境内のさらに奥には阿弥陀堂が建っていた

こちらが、本堂の「血天井」の廃材を利用したと言われる。更に詳しい説明

安土の血天井(阿弥陀堂)
天正10年6月2日払暁、明智光秀が主君織田信長を京都本能寺に殺害した後、信長の居城安土城を攻めた。そのさい城を守っていた蒲生賢秀は変を知るや信長の夫人、幼児らを奉じて日野城にに難を避けたが、襲撃の目的が達せられなかった光秀はせめて金銀なりとも奪って家臣へ与えようとしたため、攻撃は惨めを極め、、城に居座っていた信長の家臣は、皆奮戦のち切腹して果ててしまった。
天正晩年、豊臣秀吉が、このとき戦死した菩提を弔うため、その忠血で彩られた城財をもって大崎観音堂の修繕に充て、大に法要を営んだ。これが安土の血天井と呼ばれ、昭和41年の観音の改修に際し本堂阿弥陀堂に移されたものであるが今も梅雨期には、血痕が滲み出し、その痕跡が現れると云われている。
と、怖い話でございます。

その横には、これぞ重要文化財?と思われる年代物のお釜が設置してあった。
で、2回目に行った時の海津大崎の桜の様子

さらに3回目1週間後に訪れた時の様子

1週間で3分咲きまで咲いていました。
桜並木を歩いていると観光船?乗り場が目に付いた。
不安定な花道を歩いて

乗船数4名で出発、

さびし~い、舟の中の雰囲気

まぁ満員になるまで待っていると、出港が何時になるか・・・も困るが
で、サクラを湖面から見た雰囲気デ~ス

満開の桜並木に見えるのは、カメラの操作方法を買えたから

山側のサクラ(上の方)が8分咲きです
海津大崎の桜並木の雰囲気デ~ス

そして帰りがけに、また一隻出て来た

そして戻ってきました。

船乗り場の横には、サクラの古木が

海津大崎の老木桜(NO0598)
この桜の樹幹周囲3,2m樹高11mであります。
海津大崎桜並木で最大級の老木(そめい吉野)です。
樹齢は約70年と推定され、昭和11年当時の宗戸清七さんらの手によって植えられたものです。
今年も老木に鞭打って立派に花を咲かせてくれました。
この老木が一年でも長生きしてほしいと願い、桜守活動をしています。
平成22年4月 美しいマキノ・桜守の会 樹木調査チーム
それがこちらですが、余分な桜美人も写っています

で、第一回・第三回目の時は、海津大崎から目的地である海津天神社へ「知恵の泉」を探しに行ったのでした。
名前の通り同じ地域に在り、車で5分もかからない所にありました。

正面の鳥居から見た神社

海津天神社:大鍬神社(おおすき)、小野神社の創祀は9~10世紀頃と伝えられている。現在の主最祭神は菅原道真公で、建久二年(1191)の勧請であり、以来学問の神様として広く崇められてきた。
天神社のほか、恵比寿神社、貴船神社、国狭槌神社など大小10とうの社が鎮まり、荘重なたたずまいを見せている。
昔から勅願所で社領130国を受けていた。
元亀二年(1571)織田信長の兵火にあう。天正四年(1576)高島郡司磯野員昌が本殿を寄進し、天正13年(1585)豊臣秀吉が社領を寄進している。慶安元年(1648)には徳川家光が社領10石を寄進し、以後代々の将軍から朱印状が与えられている。
当社には、平安末期の紙本墨書法華経10巻(重要文化財)や狩野山楽筆板著色絵馬(県指定文化財)、長谷川左近筆の板絵著色36歌仙篇額などのすぐれた神宝が多い。
鳥居をくぐって行くと、右手に

手水舎があり、そこの蛇口からは水がドウドウと出ていた。もしや、これが「知恵の泉」なるものかと、
早速社務所に行尋ねてみると、
「この神社に名水が出ていると聞いてきたのですが、どこに出ているのですか」
巫女さん
「うちにはそのようなものは今は無い、その昔出ていたが水は枯れて出ていない」
との事で、情報元が違っていたのか、また、別の場所の勘違いだったのかと、その時は諦め神社境内の散策をする事に
境内の見取り図
「

あまり広くはないが、歩いてみる事に
まずは拝殿

この社が一番大きい社の様で
本殿は、三社合同社の中央

小野社 本社 大鍬社 その両サイド左に貴船社右に恵比寿社と並んでいますが、この中で注目するのは貴船社で、貴船神社は水の神さんですので、やはり水が湧いていたのではと・・・?
また左の山の中には金毘羅社

そして右の山の中には

さらに奥に愛宕社

ところが途中から下を覗くと

境内の下をトンネルが抜けて湖西線が走っていた。あはぁ~ん、これが水枯れの原因だなと納得
で、30分も回れば一巡退散する事に、帰りには

梅の庭園?が、紅梅は美しい
そして、神社を後にしようと車に乗っていると

観光バスが入って来た。ビックリ仰天(@_@;)そんな有名な神社だったのか・・・・・と(?_?)
神社を出て、その時点で情報元の神社を間違えたかもと思い、近くに孫のもうりをしとられた老夫婦に「この辺に名水が出ていると聞いてきたのですが」と尋ねてみると、「この辺には聞いた事がない」と、で、海津天神社に行ってきたのだが今は出ていないと言われたことを言うてみると「あそこには昔、京都からタンクローリーで水を取りに来ていた事があった。なんでもお酒を造るのに使っていたらしい」だいぶ前の話だが・・・と教えてくれた。しかし、それ以上の情報は聞けずその日は帰宅する事となった。
二回目に来た時は、時間がなくて神社に寄る事ができず、それから再度情報元を見てみると、どうも海津天神社の手水舎に出ている水は山からパイプで引いて来ているとの事、訳あって三回高島市に行く事になり、その時に再度寄ると

手水舎 ポリタンク等での水のお持ち帰りは固くお断り申し上げます。
と手水舎に張り紙がしてあった。どうも吾輩以外にも水を汲みに来ている方がおられるのかも、しかし、ホントに天然水か確認するため、吾輩では顔お覚えておられると思い、相方さんに水を頂く承諾と水源を尋ねて来るように頼み行ってもらうと、水は山水を引いているとの事、水もペットボトル一本ならよいと承諾して頂いた。
『この神社のモットウであるので、水はどうししても欲しい時は必ず社務所で許可を得て頂く事、そして気持ちのお賽銭も忘れず』
私の方からもお願いいたします。

本殿の前に在る奇妙なモノ、おそらく井戸の跡ではないかなと
そして、こちらも満開に

という事のオチで終りにします。
独断と変更の水評価は
飲みやすく、コーヒーの甘さも案じれる水でした。
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vです。
詳しい場所は