NO145:解雷ヶ清水(けらがしょうず)

シャトルバスからわが愛車に乗り換えて、越前海岸の観光巡りに出発した。
まずは玉川洞窟観音、玉川トンネルの手前に有りました。

この鳥居をくぐって進むと、もう一つ鳥居が現れます。

なぜ二つも鳥居が有るのか疑問に思ったのですが、後程分かったのです。
ともあれ、受付で協力金1人100円を払ってお線香とロウソクを頂き堂門内へ、入口に

玉川洞窟観音
玉川観世音縁起記によると「玉川十一面観世音菩薩」三国伝来の尊像で仲哀天皇が角鹿の湊から北上されこの窟の前を通られた時一天俄にかき曇り風波もの凄く今にも御船危うしと思われた時海底より龍に乗りたる尊像浮き上がり激浪を鎮められしにより天皇は此の洞窟に鎮座せしめられたと述べている。織田釼大明神記によると「仲哀天皇の皇子忍熊命 この辺の悪鬼退治の折この洞窟に身を潜められた時海底より楯岩つき立ち洞の入口を塞ぎ悪鬼の難をのがると記す」前方海中の高い大岩を楯岩と呼んでいる。漁夫は「たてんと」と称するが 楯戸の事である。
越前国名勝志など数種の江戸期編纂図書に「霊像は秦澄作」と記し、丹生郡誌は「古代唐製の青黒の金属製」と述べている。玉川浦永代記録には「古昔外国より渡り給う」閻淳檀金製にして慶応元年三月十八日と「明治十一年六月十九日の二回盗難にかかったがいづれも霊験により奪い去るを得ずして戻らる」と書いている。
閻淳檀金製は印度のエンプダーガナ河の砂金である。
この観世音は一度観世音経を唱えれば 首を斬る刀も折れ 大波浪も収まり 水難釼難をのがる と観音経に説かれている如く海上安全の守護仏として船員猟師の尊崇が篤い。
という十一面観音菩薩像ですが洞窟の中は

この様にコンクリートで作られていましたが、以前は洞門に安置されていたのを、危険だという事で新たに作られたようです。

西国三十三寺の石仏が安置してあり、我が成相寺28番札所の観音石仏もありました。
洞門から出て来ると、管理人のオジサンが正面の崖をさして下記の内容を説明してくださいました。

玉川岩盤崩落事故(ウイキペディアから)
1989年7月16日15時30分頃、越前町玉川の国道305号で高さ40m(推定重量1,500t)にわたる大規模な岩盤崩落が発生、落石防止用の覆道(ロックシェード)を突き破って、現場を走行中のマイクロバスを押し潰した。この事故でバスに乗っていた15人全員が死亡した。事故の瞬間はバスの後方を走っていた乗用車により偶然ビデオ撮影されており、轟音とともにバスが一瞬で押しつぶされる瞬間が写っていた。
この崩落の12年前の1977年5月にも現場付近で崩落が発生した。その措置として福井県はトンネル案と海上道路案を提示したが、トンネル案は玉川観音が素通りになり、海上案も水産資源への影響による反対があり、中間となる「現道にロックシェードを設置する案」で決着した。
崩落事故の後に迂回路として現場の海側を通る仮設道路が建設された。1992年に玉川トンネルが開通して、崩落現場を含めた約1kmの区間は立入禁止になった。
事故現場には1993年に慰霊碑が設置された。玉川観音も立入禁止区間に重なったことから、玉川トンネル南越前町側坑口の近くに人工洞穴を建設し、移設した。
現在でも旧道や仮設道路の橋脚は一部を除いて残っている。
写真の矢印の下に祠が設置されていて、第一の鳥居はそのためのではないかと、また洞門も、この事故の供養も合わせてなされているのではないかと、後から思えてきた次第です。拝観料100円で「お線香とろうそく」をお供えするのは事故に遭われた方々の供養の為ではないかと・・・。
それにしても、仏像に鳥居の組み合わせとは・・・イスラム教ももっと大きな心を持って日本的になれば・・・と思う、今日この頃デス。
さて駐車場を出発し先に進もうとすると、二回目のコールが鳴り出した。帰りに敦賀で温泉に浸かり、高速で一足飛びに帰宅する予定にしているので、「もう帰ろ~ぅ」コール。なんせ食べる物は食べ、後は寝るだけ、景色には興味ナシ、こちとらはブログに書く情報を仕入れせなアカン!まだ「千枚田を水仙に転作」した所を見なくては帰れん・・・と今回は強い決意の元、「もう帰ろ~ぅ」コールは右から左の耳に聞き流すことに・・・が相手もさることなかれ、事ある毎に叫んでくる。鎮まったと思ったら今度はイビキが聞こえてきた(これはウソ)
そんな中、呼鳥門(こちょうもん)に着き見学

以前は、越前海岸道路として使われていたようですが、崩落事故後、新たにトンネルが出来て観光資源となっているようです。千枚田に行く途中から見た呼鳥門

そして、あちらこちらの山肌一面水仙で埋め尽くされた山道を進んで行った

細い山道をくねりながら登って行くと、正面が開けその前方に千枚田が目に入った

その横に案内板と説明書きが


千枚田(梨子ケ平 )
越前海岸には海ばかりでなく、山の方にも豊かな自然が残されている。その山村の奥深いところに突然広がる幾何学妙が一際目を引く。今はほとんどの田が越前水仙に転作されてしまったが、冬の水仙が咲き誇る頃には自然の美しさを堪能させてくれる。また、田を開墾した先人たちの苦労が伺える。 越前町歴史探訪
写真の右手に在るお城のような建物から見ればもっと良かったのだろうが、「変えろ~ぅコール」の為にパスして帰路についた。
それにしても、こんな急傾斜によくもまあ田圃を作り米を生産していたとは!頭の下がる思いと、先人の営みが今につながっている感謝の気持ちが湧き出る風景である。
又、山道を走っていて数か所の滝を見てきたが、水が豊富な一帯である事も生産できた一因であったと思える。

帰り、越前海岸道路から県道19号に入り、千飯トンネルを過ぎると上水道の横に見出しで出した「解雷ヶ清水」の大きな看板と、由来の書いた看板が在る所に着いた。


上の内容を書くにはへこたれるので、下の簡略した内容を写し書します。
解雷ヶ清水の由来
今から1400年以前の昔、西暦570年頃朝鮮半島の百済の国、都城が、高句麗に攻められた時王女「自在女」が国の難を避ける為に、従者を従えて干飯浦「現在の米の浦」に上陸し、安住の地を求め奥地へ奥地へと志向し、峻険なる六呂師峠を越えて山干飯の里「現在の千合谷」へと向かった。途中、従者達は喉の渇きをおぼえ清水を求めたがなかなか見つからず、これを見ていた自在姫が従者達を哀れみ、静座して神仏を念じ水を求めてたところにわかに空がかき曇り、雷雨と共に落雷がありその響きとともに岩間から、たちまち清い水がこんこんと湧き出て、従者達の喉の渇きをいやす事が出来たと言われている。これが今に伝えられている解雷ヶ清水の起こりであり、それ以来、この清水は天王川の水源となり現在に至っている。
その後、この解雷ヶ清水は、いかなる旱魃のときにでも清水は渇れることがなく、由緒深い霊地として社殿「不動明王」を建て、毎年7月7日には礼祭を行い霊水として奉っている。又、雨乞いの神としても慕われている。これが、今に残る「解雷ヶ清水自在姫伝説」の起こりであり、現在まで言い伝えられている。


県道19号から入って車一台がやっとの道を約200mほど登ったところに社が見えてきました。

そして、「不動明王を奉る社殿」

着いてビックリ、玉手箱!社殿の周りから湧き水が「うんじゃか、うんじゃか」出て来ているではないか!「段田清水」の比ではない(^_^)v
社殿の右奥から湧き出る水が

左側から湧き出てきた水が

そして、上から出てきた水は

おそらく先代の住人達が湧水を利用するために作ったと思われる水路
その水を我々はこちらから頂きます

そうこうしている間にも、地元福井ナンバーと隣の県石川県ナンバーの車が上がって来ました。
こちらは汲み終えて、連れ合いが早く行きたいという温泉へ向かって行くことに。

・・・でも、その前に、忘れた水をもらいに寄らなければならないが、PM4時になると管理人のおば様が帰られるが間に合うのか~(?_?)現3時半
解雷ヶ清水の味は、コーヒで何時もながら判断するのだが、期待に反して大味であった。大味とは何ぞや?と言われても答えられないのである
で、独断と偏見の水の味評価は
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vでした
詳しい場所は
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