NO214:小野小町伝説「湯あみ池」

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NO213の「千手寺のお香水」と後先になりましたが、NHKテレビで福知山の紅葉の名所・長安寺を放送していたのを相方さんが見ていて、日曜日に連れて行けと駄々をこねる。それなら、近くにある「日本一のたい焼き」を買ってくれるかと問いただすと、OKだと言う。仕方なく行く事にしたが、近くに湧水が出ていないかと探すと、小野小町がキズを癒した湧水があるという。それも汲んでくるという事で出発した。
福知山の国道9号から酷道429号に入り、やく500m程走ったところを右に曲がり山へ向かって走ると
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さらに奥へ進んで行くと長安寺の駐車場へたどり着きます。
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思っていたより大きな境内を持つお寺さんであった。拝観料300円を仮の事務所で払い順路に導かれて歩いて行く
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石段にたどり着き見事な紅葉の景色を楽しむ。
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福知山十系景:臨済宗南禅寺派の禅宗寺院。境内には四季折々の景観と枯山水の庭があり、特に秋の紅葉は見事で「丹波のもみじ寺」として広く知られています。背後の姫髪山は「丹波大文字」で有名です。
しおりから~長安寺は第三十一代用明天皇の第三皇子、麻呂子親王(聖徳太子の御実弟)が勅命によって丹波の国大江山に棲む鬼征伐の途次、戦勝祈願のため薬師如来像を刻みこみこの地に奉祀されたと伝えられています。その後、再三の火災にかかり焼失しましたが、福知山初代城主、杉原家次公(豊太閤の正妻寧子の方の伯父)によって再建され、飛鳥後代の名作麻呂子親王御自作薬師如来像を安置し現在臨済宗南禅寺派別格地となっています。

本来ならこの石段を上って行くのだろうが、石段を上がらず紅葉の多いい方の左の地道へ進んで行くと
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売茶堂なる建物が、お茶を売る建物カイナ?と・・・横に石碑が
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売茶堂:日本和煎茶道の始祖売茶翁の木像月海元昭禅師を有する。日本最古の木造なり。
 翁は延宝三年(1673)佐賀県出る幼名山垣菊泉、12歳で出家得度し○を月海元昭と改む。禅を極め58歳で京都東山に通仙亭を構え文人墨客等と○○し自粛自戒・自在自由の境涯「雨よし○よし吉よし凶よし日々好日」又・・・読めない箇所がある為こちらを
参照月海元昭本殿木像は売茶翁研究家谷村為海氏の所蔵なるも昭和63年夏売茶真流の創流を賀し長安寺第30世正木義完家元に特志寄贈された文化財である。
 天井に描かれた墨彩画「飛龍」は日本南画院会長直原玉青画伯(96才)の名画である。
 脇に安置する像は中国茶聖「陸羽」唐時代(700)の人世界初の茶文化文学書「茶経」の著者である。本像は京都の通称だるま寺佐野大義宇師より拝受したものである。
 平成11年春 安置落慶の日誌す  
売茶堂の前を通り不動の滝へ、滝は写したつもりが・・・・(+o+)
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流れる水はどこかからパイプで、その横の石段から山門へ
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潜ると、四徳の庭園が
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すでに見ごろを過ぎた感の紅葉ですが
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四徳の庭園  作者:重森完途
 日本の庭園は二千年このかた池泉庭園は海洋の表現であり、流れの庭は、渓流や大河をあらわしてきた。
 上代庭園で、水に関連のあるものは、宮居における池と島で、それらの形態をもった宮居「池心宮」とか「瑞籬宮」と呼ばれていた。
 さて、古来から水は聖域を劃(わかつ)するものとして、仏教式庭園では盛んにとりあげられた。水そのものが、遠い彼方の理想郷を隔てるものとして、そして仏教では泮池がつくられた。泮池の泮は畔に通じ、その奥にある泮宮は仏教では仏殿となる。つまり聖域としての仏殿は泮水、すなわち泮池に囲われているのである。そしてこれらがのちに左右対称的な池泉となったが、もとは水をめぐらせたものであった。
 泮池と言えば、在来から仏教寺院にのみ構成されたものと考えられているが、それだけではなく、儒教、仏教、道鏡の三教にわたってつくられており、これが中世以降神道にも作られたが、その形は、まちまちである。我国の泮地の形態と思想、そして庭園は次のようになる。
           泮池
神道ー神道型ー鶴岡八幡宮A
儒教ー儒教型ー閑谷学校A       A-幾何学型
道教ー蓬菜型ー泳法時B
仏教ー浄土型ー毛越寺B        B-非幾何学型
   -禅宗型ー妙心寺A
 長安禅寺辯才天堂が、幾何学型の泮池になっているのは、すでに先人によってこの型のものが作られ、今回これを全面的に改修したものである。
 辯才天は、辯才天女と云い、また、妙音天女、功徳天女、美音天女、更には大辯財とも申しあげる。インドの五河地方の河神として崇拝され、後に梵天の妃とされた。我が国では吉祥天女とともに最も多く信仰され、仏教に入って「金明光最勝応経」大辯才天女品に詳述され、古くから造像がある。辯才天は、音楽、辯才、財福、智慧の四徳がある天女である。もともと河の神であったから、日本では辯天の祀堂は、湖のほとりや、海のほとりにある。
 長安禅寺の辯才堂周辺の庭園はそのために、新しく滝の石組を設けて水を落とし、また泮池に石組をし、在来の枯山水とつながるような意匠としたのである。
 善男善女が、この辯才天女の四徳を受けられることを深く希望するものである。
見下ろした庭園
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今回のお気に入りワンカット
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ほかにも、散り始めている西国三十三ヶ所観音像庭園
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連れ合いは、年賀状に使用する写真を撮ることが目的の一つだったことを、小さい声で申し添えておこう・・・
紅葉を堪能して、次なる目的地小野の郷へ移動して行った。
国道429号線を挟んでその奥に小野脇の集落が有り
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そこに小野小町伝説が残る薬師堂が
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案内板の方向へ行くと
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それらしきお堂が見えたが、その手前に鳥居がある。たしか薬師堂の「湯あみ池」だったと思ったのだが鳥居とは(?_?)
薬師堂とは薬師如来が奉ってあるお堂の事だと思うのだが、薬師如来とは大乗仏教の仏のハズ、まぁ日本人は何でもアリの宗教観の所もあるので、OKとしといて、そこに上がってみると小野小町伝説がかかれてあった。
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さあ大変(@_@;) またまた説明書の書き写し(@_@;)
小野小町と薬師堂:平安時代の百人一首で知られた六歌仙の一人で、絶世の美女とも言われた小野小町は、旅の途中で病にかかり、顔も手も腫れ上がり、かさぶたが出来て、あわれな姿でこの地へ迷い込んで来ました。
この女の姿をを見て泊めてくれる家は一軒もありません。しかし、親切な村人から薬師堂へ泊るように教えられました。人目を避け、村はずれに在る湯の谷の出湯で身を洗い療養していました。
 ある日女は、近くの山に登り「みびらけば 法の声する正明寺 物さびしけば小野脇の里」と和歌を詠みました。これを聞いた村人は、ただの旅人ではないと思いました。
薬師堂にこもり出湯にひたり、毎日お祈りをしていましたがなかなか治りません。そこで、「南無薬師 頼む施療の願いなれば 身より薬師の 名こそ惜しけれ」とお願いすると、薬師様が夢枕に現れて「村雨は ただ一時のものぞかし おのがみのかさ そっと脱げ置け」とおさとしになりました。
女はおさとしの通り出湯にひたり、養生を続けるうちに日に日にかさぶたがとれて、元の美しい姿になりました。
近くの池で顔を映した女は喜びと感謝で胸一杯になりました。
 別れの際村人に、せめて名前だけでもと強くせがまれ、長い間の温情に涙し、昔、都の御所に仕えた小野小町で、山陰に人を訪ねての帰路病にかかり、お世話になったと語り、別れを惜しみつつ旅立って行きました。
・・・というお話
その湯あみ池は、薬師堂の入口の左下にあり、
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よく見・・・なくても
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泥水である((+_+))汲んで帰るべきか、それともパスするべきか・・・かれこれ○○時間・・・しかるに
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側溝を覗いて見ると割れ目から水が流れ出してきている。・・・と、いう事は水が湧き出しているという事であり、池を観察してみる事に
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五輪塔のようなミニ石塔の側に比較的透明度のイイ水が溜まっていたので、ペットボトル1本だけ汲んで帰ることを決断、しかし、なぜ濁っているのか分からずじまいで切り上げる事にした。モヤモヤな気持ちが
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野イチゴの可憐な赤に気持ちが和まされ、小野小町からの贈り物の思いで、最後の目的地「日本一のたい焼き」へと向かって行った。
国道429号から和田山方面へ行く国道9号に出る抜け道を走り、到着
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何時もここを通る時に気になっていた「日本一のたい焼」の看板、やっと実現した思いでお店へ
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駐車場も盛況で、お店の中でたい焼きを焼く姿を撮影許可をお願いしたがダメ((+_+))しかも、肝心なたい焼きがうますぎて写真を撮るのを忘れて食ってしまい、ここでは「日本一のたい焼」の姿を紹介する事はできません。
食べた感想は、小ぶりのたい焼きで、皮は薄めでカリカリ味(吾輩が探し求めていたたい焼き)餡は、適度な甘さの粒あん(他にもカスタード等ありましたが)満足で、今回の・・・今年の話もこれで終わりです。最後に申年もさることになりますが、お気に入りの猿の写真をお贈りいたします。
尚、「日本一のたい焼」とは、福岡市発祥のチエンテンでした
   三方五個 274-3m
独断と偏見の、「湯あみ池」の湧水評価は、飲んでみて案外うまいと思いましたが、水が水なので皆さんにお勧めできるものではないので、
(^_^;) (^_^;)にしました。
詳しい場所

では、よいお年をお迎えください\(^o^)/


 
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NO131;元伊勢・皇大神社の「御神水」

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噂によると、福知山市大江町にある、元伊勢と呼ばれる皇大神社の「真名井の池」に湧水が湧いていると聞く。
以前から行かなくてはと思っていたが、季節を考えて今回11月中旬に行く計画をたてた。
全国に元伊勢と呼ばれる神社は多々あれど、ココの神社は地区名も内宮と呼ばれていて、地区内を流れる宮川に沿って数キロ離れた所に内宮の皇大神社と外宮の豊受大神社が鎮座しているのである。
近隣の天の橋立にも有名な籠神社も元伊勢である。しかし、ココの凄い処は、天照大神の神話に出て来る岩戸が有るのである。それがこれである
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渓流を岩で遮っているのである。
何時もの事でチョイト写りが悪いが、それは後程と言うことで話を進めて行きます。
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その日は残念な事に雨になり、もくろんでいた紅葉も今一の写りになってしまったがご勘弁を
駐車場には天気が悪いのに、たくさんの車が止まっていた。珍しい事もあるもんだと思い「皇大神社」の参道へ
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そこには誇らしげに石柱が
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石段を少し登った所に、丸太を模した石の鳥居が
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なぜかは後程、さらに石段を進んで行く
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正面に巨木が
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その根基には
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そして、少し行くと縁の方に
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「真名井の池」と書かれており、情報ではここが湧水と書いてあるのだが、どうもたまり水の様な一度社務所に確認してから汲む事にしてさらに進んで行くと、神殿境内に紅葉した樹がお出迎え(^_^)v
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次のネタを仕入れてきましたので急ぎます(*^_^*)
で、先ほどの「真名井の池」の件を、社務所に尋ねに行くと、「御神水は湧き水でなく伏流水ですが、本殿の右後ろの蛇口から出ますのでどうぞ」と言う気持ちのいい返事、真名井の池も同じ伏流水との事でした。気を良くしたのでこんな物を買っちゃいました。
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本殿へ参拝に
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この鳥居は皮つきの杉の木、古式といい、黒木の鳥居という、京都嵯峨野の野々宮神社以外には例がないといわれているが、田舎の小さな神社では有りそうな鳥居である。
そして拝殿と本殿
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神主さんが言われた通り右の後ろに回って行くと、全国の神々の社の後ろに
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ひっそりと蛇口が設置されていた
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車から水源が遠いい場合は、リュクの中にペットボトルと漏斗、片手鍋を入れて持って来るのです。ペットボトルに入れ終わり、フト崖の下を見ると
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池の周りに何かの祠が、早速そちらの方へ
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そこにはポンプが、そして
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天候が悪く周りが暗いので、分かりにくいデスが「天龍八岐龍神社」の祠です。おそらくこの池の地下から伏流水を汲み上げているのでしょう。本来は~の御神水と書かなければならないのかもしれませんが、何も書かれてなかったので「皇大神社の御神水」としました。
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元伊勢内宮 皇大神社
(御祭神) 天照大神
(御由緒)
 人皇大10代崇神天皇39年(紀元前59年)に「別に大宮地(どころ)を求めて鎮め奉れ」との皇大神の御教えに従い、永遠にお祀りする聖地を求め、皇女豊鍬入姫命 御杖代となり給え、それまで奉斎されていた倭(やまと)の笠縫邑(かさぬいのむら)を出御(しゅつぎょ)されたのが、いま(平成2年)を去る2049年の遥か昔であった。そして、まず最初にはるばると丹波(のちに分国、当地方は丹後となる)へ御遷幸(ごせんこう)になり、その由緒により当社が創建されたヒ伝えられている。
 皇大神は4年ののち倭へおかえりになり、諸所(二十余ヶ所)を経て、54年後の神皇第11代垂仁天皇26年に、伊勢の五十鈴川上(今の伊勢神宮)に永遠に御鎮座になった。
 しかし、天照大神の御神徳を仰ぎ慕う祟敬者は、ひき続いて当社を伊勢神宮の元宮として「元伊勢(内宮)さん」などと呼び親しみ、いまに到るし庶民の篤い信仰が続いている。
(例祭日)4月26日    (恒例祭事) 元旦祭1月1日 (節分祭)2月3日 (立春祭)2月4日 (八朔祭)9月1日
*天橋立:籠神社祭礼〈24日) 加悦谷祭り(元二五日) 皇大神社祭礼(4月26日)と続いている。 
*、ウィキペディアの中には、用明天皇の皇子麻呂子親王が当地の兇賊を成敗するに際して勧請したものであるとの異伝もある(宝暦11年(1761年)の『丹後州宮津府志』[4]所引『天橋記』)。
本殿の横には
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二本の杉の大木、その根元に
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「龍灯の杉」  
節分お深夜、龍が灯を献ずると言い伝えられている。幹廻り約7m、高さやく30m、樹齢2千年と推定される御神木

一通り見終えて、天岩戸神社へ
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順路に沿って歩いていくと
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何やら、怪しい?一団が・・・
近寄ってみると、ハンドマイクを持った人が唱えたお祈りを、みんなで唱えている。
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本来は人影の向こうにそびえる山(岩戸山、日室山、日浦岳、城山等々呼ばれている)が、表紙の磐を祀っている天岩戸神社の御神体山で、遥拝所になっているところであるが、見る事も、そこから天岩戸神社(あまのいわと)にも行けそうになく引き返す事に、
この山を別の所から写したもの
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京都府の案内板
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岩戸山(京都府歴史的自然環境保全地域)
 天岩戸神社の神域は二瀬側の両域に拡がり、左岸は皇大神社に連続し、右岸は標高427,3mの岩戸山となっています。皇大神社参道の遥拝所からは、この岩戸山東斜面の美しいピラミッド形の山の姿をながめることができます。この東側斜面は、天岩戸神社の御神体として古くから保護されてきたことから、ほぼ原生状態に近い植生が残されており、この地域の植生も知る上で極めて学術的価値の高い自然林となっています。  京都府

この集団の事を社務所で尋ねてみると、一月ほど前に「みごころの魂とかなんとか言って、連絡が有った。東京の方からも来ておられるようです」と言って当社とは関係のなさそうな事を言っておられた。
気になったので、帰ってパソコンで(11月9日、大江町、元伊勢)くぐってみたら
ドッコイセ観光ガイドか、それとも丹後・天橋立元伊勢パワースポットではないか(?_?)
で、元来た道を帰り、参道の入り口石段から見た麓の村
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そして、この道から天岩戸神社へ
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しかし二瀬川沿いに遊歩道があり、そこを歩いていく事に
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二瀬側の渓谷美を眺めつつ
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歩いていくと内宮発電所にぶつかった
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導水管が上の方から
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その縁には発電機らしきものが
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いまは使われていないので観光用かも
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〈あらまし〉
内宮発電所は大正6年につくられ古い歴史を有するダム水路式の発電所です。近辺には千年杉が生い茂る元伊勢内宮皇大神社、天岩戸神社があり、古代の雰囲気をかもし出しています。また、大江山鬼伝説が息づく歴史とロマンの神秘の里大江町には鬼の里散策路を通り抜け、四季折々のたくさんの人々が訪れます。この発電所は昭和52年12月に無人発電所となり、平成3年9月に関西電力の発電所として、地域の環境に合わせて建物や機械設備はすべて新しく生まれ変わりました。発生した電力は6KV配電線で送られ、大江町周辺の貴重な電源として活躍しています。
位地:京都府加佐郡大江町大字内宮小字上杉645
型式:ダム水路式
水系および河川名:由良川水系宮川
最大使用水量:0,557㎥/秒
有効落差:49,19m
認可出力:210KW
水車形式:横軸フランシス水車228KW 1台
発電機:三相交流同期発電機6,6KV230kvA1台
回転数:900回転/分

ここから先ほどの車が通れる道へ上がり
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此の石段を下って行くと
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神社の祠が岩の上に鎮座しています
   その横のダムで水を取られた河原が
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その奥に御神体の天岩戸が川をふさいでいます
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これを見るには河原の岩伝いに対岸まで行かねばなりません
そこから眺めた天岩戸神社
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元伊勢皇大神社に来られたら、ここまで足を延ばして天岩戸を拝まなければ値打ちがありません。
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岩戸神社の記
 偉大な祖神である天照大神は速須佐之男命の乱暴な行いに耐え忍んでおられたが、とうとう我慢しきれずに天岩戸に閉じ籠りになられた。
 そこで、この世の中は真暗くなってしまい、悪い事ばかりが連続して起こり、拾収がつかなくなってしまったので、八百万神々は天安河原に集まられ相談された。
 そこで、天岩戸の前で長鳴鳥を鳴かせ
真榊の木に勾玉を飾り御神鏡をかかげ、御幣を持ち神饌物を捧げて、賑やかに歌い踊り音楽し祝詞(のりと)を申し上げた。
 この時、尊い天照大神は外の様子を不思議に思われ、天の岩戸を細めに開いて見られたので、御神鏡をさし出し申した。畏い天照大神はますます変だと思われすこし天の岩戸から出られたところをお引出し申したので世の中は明るくなり救われたのである。
 さて、この由緒ある御神鏡が神宝と信じられ、救世平和神とされている。
昭和47年9月    天岩戸大神宮

ここからは、車でさらに奥に進んで行きました。
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岩戸橋を渡り進むとダム湖が見えてきました。
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さらに進むと集落の中にこんな処が
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由緒
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真名井の池
昔この地に真名井ヶ池と云うのがあって七人の天女が天下って水を浴びていた。
 一人の老翁がその一人をとらえて我が子とした。
天女は善く醸造をつくった、一ぱいを飲めば吉く万の病悉くいえた。其の一ぱいの直材を車に積みて送ったところ其の家豊かに富んだので士形里という名が生まれた。天女は豊宇賀能貴命と云う。
 またこの水は眼病に良いと云伝えがあった。  
その井戸の中は、祟りに触れるかも・・・と思いながらふたを開けてみると
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カラ井戸であった。

これをさらに登って行くと、二瀬側の渓谷に着く
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そして、渓谷美
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その下流
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そして、宮津から大江山を越えた宮津(京)街道を利用した遊歩道で
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歴史の道百選にも選定されているみちです。京都では二か所で細野峠取材済みです。
府道をまたぐ吊り橋が見えてきます
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吊り橋から見た上流
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下流
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上流と下流には駐車場が有ります
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で、最後に外宮に御参りに
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此の石段を上ると
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黒木の鳥居が、そして
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創玄な古木にしめ縄が、古風を大切に、その本殿の後ろには
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こちらの杉の大木にも、龍塔の杉なるものが
御由緒:節分の深夜、龍神が燈火を献すると言い伝えられている。樹齢千五百年を超える御神木
目出度く内宮・外宮を御参りすることで終了できました。
元伊勢・皇大神社の「御神水」でコーヒを点てて頂いた結果は、伏流水と聞いてあまり期待はしていませんでしたが、思いの外最後まで嫌味なしで飲めました。
と言うことで、独断と偏見の味評価は
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vでした。
詳しい場所は

大きな地図で見る
   

NO73:山陰古道・細野峠の「観音清水」

今回は、NO67:畑地区の「観音名水」を偶然汲みに行く事になった時の、本来探していた福知山市三和町菟原中「観音清水」をお届けいたします。
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№71の時にサイトをイロイロと調べていて偶然引っ掛かった事がきっかけで、今回もお水を頂きに行く事にしました。
「轟水」の集落菟原下とは、谷を一つ隔てた京丹波町寄りの集落菟原中に在ります。どちらも谷を進んで行くと兵庫県篠山市で合流する道です。
現地に行ってみると、山陰道細野峠越えという京都・歴史の道百選にあたるらしい立派な看板が有りました。
その近くには、菟原小学校平成20年度卒業記念作品として、山陰道細野峠案内図が設置されていました。
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先ほど歴史の道・百選で調べてみると、京都の百選ではなく、文化庁が認定している立派な古道でした。それも、偶然に50番目のいい番号です。
恒例の写真下の説明書きを・・・
 細野峠は三和町菟原中から大身に越える、全長約2kmの峠を指し、「ほうの嶺「朴の峠」などの呼び名があります。山陰道の要衝として数多くの通行者が有り小式部内侍の「大江山生野の道のとおければまだふみもみず天橋立」にも詠まれているように、大江山生野道にあたります。
 江戸時代には参勤交代の要路ともなっており、福知山藩や宮津藩、出石藩他が通行しました。元禄2年(1689)にこの地方を旅した儒者貝原益軒は著書「西北紀行」に「是よりはほうその嶺(おおいなる坂にて険し)を越、菟原村を過ぎ、千束に至る、日既に薄暮なればココに宿りぬ」と記述を残し、文化11年(1814)に第二次丹波測量をおこなった伊能忠敬測量隊の分隊一行もこの峠を越えています。
 峠の頂上付近には、多くの通行人の信仰を集めた宝祚山(ほうそざん)百観音堂円通庵の跡地が残っています。百観音堂は弘化元年(1844)菟原中村龍源寺20世良英和尚と地元の有志によって建立され、西国・秩父・坂東の100ヶ所百体の観音像が道行く人の安全を祈りました。堂のカネノオの下には、100ヶ所のほかに四国八十八ヶ所その他札所の名所の砂が納められ、ここにお参りしただけで多くのご利益があったと言います。百観音堂は、のちに無住となり、お堂と観音像は大正年間に龍源寺に移転しました。
 明治以降は国道整備が進み、鉄道など交通網の発達に伴い、峠を歩く人も次第に減少しました。しかい、現代も峠には、百観音堂跡や茶屋跡、さらに万延元年(1860)に起こった大身騒動の首謀者の首が晒(さら)されたといわれる地や、旅人の喉をうるおした湧水が出てる中田の地蔵跡などが残っており、古(いにしえ)の姿を今なお色濃く伝えています。

写真の道と、説明書きの絵から想像すると車で現地まで行けそうなので、気分よく峠に向けて車を進めました。
人家が終わると思しきあたりで、盆を迎える家の付近の草刈りを家族でしておられたオヤジさんに尋ねてみると、「湧水は出てるかどうか判らないし、車を置いて800mは歩かんなんで」との返事。
チョイト気分がへこむも、とりあえず行ってみますと、返事をして前進。
少し行ったところに標識が
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さらに進むと、道が二股に、当然広い方へ進む。
最近林道を走るとこのような鉄版を埋め込んだものをよく見かけるように・・・何の意味が有るのだろう?タイヤが切れないか心配しながらの運転。
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そして、オヤジさんが言っておられた場所、まだ行けるので車で前進する。 
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ココで、道幅が狭くなり、車で行く事を断念!まだ、400mも登って行かなければ・・・  
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心細さもあったが、ここまで来たので体力・気力?の持つとこまで行く事に・・
山陰古道も荒れかけている様子
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さらに登ると
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ところどころこのような状態、しかし、「観音清水」に近づくと石畳に変わってきた。
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けっこうな坂道で、湧水の関係か濡れており滑るので要注意である。吾輩も、水を入れている時に不覚にも滑ってしまいズボンが汚れ、後で嫌味のお言葉が待っていた ^_^;

で、歩いて約15分ほどで「観音名水」に到着 !(^^)!
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水が出ているか心配だったが、その方は一安心しかし水量が少ない!結局ペットボトル三本だけにした。これでも約10分ぐらい入れるのに掛かった。まぁ持って帰るのも大変だし・・・

云われの立札が
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      観音清水  -細野峠ー
観音山は往古より観音の霊場なり、古くより観音屋敷あり、観音のおわす山なりと伝え聞く観音山にこの観音清水
あり
 百観音堂円通庵跡の古井戸より湧出るこの清水は、山陰道の要衝として行き交う多くの旅人の喉を潤し、観音に参詣する一時の安らぎを与えていた。
 向かい側にあった峠の茶屋では、菟原産の銘茶を清水で点てた煎茶が振舞われ、峠を越す力を得たことでしょう。
 先人の残した貴重な遺産として、この清水を細野峠を、そしてふるさとの自然をいつまでも大切に守り伝えていきます。
       細野峠を守る会
       福知山環境会議
               平成十九年十二月

お水も頂いたし、チョイト周辺を散策
まずは「観音清水」の源流である古井戸を・・
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水を導いて来ているパイプは、埋めてありその先がどこに行っているのか分からず。

次に、円通庵の跡地
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  百観音堂 円通庵
弘化元年(1844)龍源寺良英和尚と地元有志の発起でかっての観音屋敷由縁により、ここに建立された。
 百観音堂には、西国・秩父・坂東合せて百カ所の百体観音像が安置され、四国八十八カ所や全国各地の名所の砂が収められ、京街道を行き来する人々を見守った。
 のちに円通庵は無住となったため、観音堂と観音像は龍源寺に移転した。

そして峠の頂上まで散策へ
 こちらが来た峠道        越えて下る峠道
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実は、初めの部分に出ている小学生の卒業記念作品(細野峠の案内図)は細野峠の帰り道で見つけたもので、このような説明書きが書いて有りました。
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この峠を降りて行けば大身騒動晒(さらし)場跡が有るそうですが、そんなことを来るまでに読んでいたら幽霊が怖い吾輩はここまで(観音清水)たどり着いていなかったことでしょう。

そして峠を降りた出口は9号線に当たり、そちらも注意して走っていればこのような看板を見る事が出来ます。
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無事一人で何事もなく車まで帰ってくる事ができホッとした「観音清水」の水汲み行程でした。
帰りには、来るときに道案内をしてくれたオヤジさんが、吾輩が帰って来るのを見届けようと家の前におられたのでお礼と報告をして、百体観音像が移されて祀ってあるという龍源寺に向かった。

龍源寺は9号線(福知山→京都)から菟原中の集落方面を見ると、山の中腹に少し古い本堂が大きな構えで見えます(わき見運転で事故に注意)。
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  こちらが本堂        右 新円通庵百体観音堂
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そして
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百体の観音様がいるのでしょう・・あまりにも黄金色に輝いているので尋ねてみると、阪神淡路大震災の揺れで仏像が倒れ、これを機会に修復されたとか
堂内に移築した円通庵の写真が飾ってありました。写真の写りが悪く見えにくいデス^_^;
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百体観音堂の云われが書いたしおりを頂きましたので、書き出しておきます。
     円通庵百体観音堂の由来
観音堂は、その昔京街道菟原中村の細野峠頂上近くに建立されていました。観音堂再興の趣意書によれば、細野峠は、往古から観世音の霊場であり、今も観音山、観音屋敷の地番、名称があるので、峠にも観音の由緒が、あったと思われます。
観音堂は、江戸時代の末期、弘化元年(1844年)10月に当時の龍源寺第二十世住職円通良英和尚様や地元の人々の発願いよって建立されることになりました。その頃の世相は大変暗く、人々の生活は苦しかったゆです。そえ故に、この世の中を少しでも明るくしたいと願う良英和尚様の観音に帰依される熱い思いが、人々を動かしました。最初は、西国三十三ヶ所の観音様を納める予定で志を募りましたが、街道を通る丹後、但馬、京近隣の人たちが多く、思いの外浄財が集まったので、秩父三十四ヶ所、坂東三十三ヶ所の観音様も合わせ、百体の観音像を安置されました。さらに、村の山内善四郎さんが、四国八十八ヶ所霊場を巡拝し、土石を拝請したので、これらの霊場お砂を踏石の下に納めました。それ故にこの踏み石に立ち観音様に手を合わせお参りすると、これらの霊場へ詣でたのと同じ霊験があると伝えられています。
その後、国道9号線が開通して峠を通る人も少なくなり、大正9年頃に龍源寺境内に移築され、檀家や観音講の皆様によって守られて来たのですが、峠に建立されてから既に約160年経過しており、観音像の損傷も大きくなり、平成6年12月より修復に掛かり、平成8年6月に多くの人々の寄進によって、観音様は往時の姿に復元完納されました
   そうして平成12年3月27日地鎮祭を行い、5月11日に上棟式の法要を修め平成12年10月22日新築建立なった観音堂で落慶入仏法要を厳修し、百体の観音様と開山円通良英和尚様の御尊像を奉安することが出来ました。
 多くの十方信心の方々に観音妙智力の功徳を授かって頂けると思います。
  
 この世にて  まいれ細野の観世音  西国 秩父 坂東の阿弥陀

神仏習合のお寺なのか、横には立派な鳥居のある八幡宮が有ります
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鳥居とのギャップが大きい、だいぶ古そうな神社でした。
その石段から菟原の街並みを写したものですが、見晴らしの良い景色でこんな所に住んでみたいと思いながら龍源寺を後にしました。
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で、観音清水の水評価は、3本しか持ち帰る事が出来ませんでしたので十分な吟味することはできませんでしたが、なぜか飲むと疲れが取れるような気がしたお水でした。しかし、コーヒーを飲んでみると・・
独断と偏見の味評価は
(^_^)v (^_^)v (^_^)vデスタ
細野峠「観音清水」の場所は

山陰古道の道が載っていませんので、大体の場所です。
   ーおわりー


NO71:三和町の「轟水」

本来は丹後半島の続きを書かなければならないのですが、
先日ミステリアスな湧水探しとなった、三和町菟原下に在る「轟水(とどろきみず)」の記事を書いていきます。
大モミの木の元から湧く「轟の水」
ここのHPを見て、水をもらいに行こうと思い立ったのでした。


その日は大阪方面に行かなければならない事になり、帰宅の時間に余裕が出来れば寄り道をしてお水を頂戴して来ようと出発しました。
用事も終わり、帰りに寄り道をして福知山市三和町菟原下に四時ごろには着くと計算して、夏場なので6時ごろまでには何とか探せるとの思いから寄り道をする事に。
鹿倉山の麓に到着した時刻が四時前で日も高い。
篠山方面から行くと、箱部峠を越すと到着します。
 P6230044-b.jpg   P6230045-b.jpg
峠を降りてくると地蔵小屋があり、中のお地蔵さんの足元にかわゆいカエルの瀬戸物が置いてあったのでツイ撮りました。
兵庫県と京都府の県境を越えた辺りから、ゆっくりとそれらしきものがないか車を進めて行きましたが、ちょうど鹿倉山に入って行く深山林道という標識を見つけたので、その付近で畑の作業をしていた年恰好40代半ばぐらいの「おねえさま」に「轟の水」を尋ねてみると、来た道の方を指して「そちらの道縁に出ている水を多くの人が汲みに来とられる」と教えてくださったので引き返してみると有りました!
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急傾斜の工事コンクリートを利用して、エスロンパイプでうまく水を引いて汲み易く作ってありました。
何時ものスケベ根性が顔を出し、エスロンパイプの先がどのようになっているか見たくなり、土手を上がって行くと
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で、パイプの元は
   P6230010-b.jpg
湧き出してきている水を、トユで引いてパイプに導いてきている様子でした。

私は、てっきり轟水満宮から湧き水を汲み易いようにパイプで道端まで引いて来ているものだと思っていましたが、どうも急傾斜の工事で湧水が出て来たのか、もともと湧水が湧いていたのか、とりあえず写真で分かるように神社からの水ではない事が分かった。
水汲み場の道を隔てたところで建築工事をされていた大工さんにそのことを尋ねてみると、本当の「轟の水」は深山林道を登って行くと左手にパイプから水が出てきているので、それが本当の「轟の水」だよ。と教えてくれました。
まだ、コンテナボックス一つ水を入れる事が出来たので、その深山林道へ行く事に
   P6230041-b.jpg
で、写真では車は下りて来た状態ですが、この道を登って行きました。
途中、堰堤とその近くにパイプから水が出てきて汲めれるようにして在りましたが、ここは右手になりますのでパスすることに
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さらに左を注視しながら奥に登って行ったのですが、林道終点には熊野神社という祠が鎮座しているだけでした。
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その左横にはこのようなものがもありました。
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石碑には、   遷宮の磐
神気漂う鹿倉の深山に万古より鎮座する熊野神社再建の偉業を称? 御神体仮遷座の岩を「御遷宮の磐」と名づけ玆に記念碑を建立する   平成十二年十月吉日   喜寿 藤田隼甫

HPには鹿倉山の頂上近くと書いて有ったが、これ以上車では行けなく、周りを見渡しても水が出てきているような雰囲気もなく、一人という事もアリ、気味が悪くなって退散することに、帰りにパイプから水が出ていた処で「この水の事」だろうと汲んで帰る事にしました。
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麓に降りてきて、先ほどの大工さんにそのことを話たら「おかしいな~、そんなことないのだが」そして、
その堰堤のところで、以前自殺した人がおり、気持ち悪がって人が行かないのだ。オレも最近登ってないのでハッキリしたことが分からないと、はぐらかされ・・・・その日は薄暗くなってきたのでとりあえず帰る事とにした。

二回目挑戦
帰って、デジカメの写真を整理しながらゆっくり見てみると、熊野神社に参拝する石段の横に鹿倉山の全体図を書いた看板が有り、その中に轟水満宮の場所もバッチリ書いて有りました。
   P6230026-b.jpg
この図で見ると、熊野神社より大分下に在る様で、この案内板には
         鹿倉山について
鹿倉山は、海抜548米で三和町最高峰の山、歴史と観光の山として町民に愛されている。
標高548米  釣鐘地蔵  熊野神社(熊野三権現の一つ)  轟水満宮  
中腹にある熊野神社の近くには、「とどろきの泉」湧く水源もアリ、約350年前(西暦1634年)に発見されたいう、近郷稀なる清水として有名である。
伝説によれば、その昔末期の水として遠くからこの水を求めて来た者もあったと云う。
今は水道組合の管理下にあり、菟原下住民の貴重な飲料水となっている。

といった内容で、この鹿倉山のどこかに「轟水満宮」は有るはずであり、その入り口(進入路)もどこかに在るはずである。  と確信を持てた。

本来なら、「轟の水」と言われていた湧水も、湧水か沢水か判らないが山水も汲んで帰ってきてるので、記事を書こうと思えば書けるのだが、自称『湧水評論家?』としては心に引っ掛かるものが有り、再度「轟水満宮」を探しに行く事にした。
イロイロとサイトを物色して、「轟水満宮」に行くには、参道が有るが廃道になっていて判り辛いとの事、とりあえず今回も深山林道をゆっくり走り探してみる事に、
P6230039-b.jpg  P6300047-b.jpg
林道を登って行くと見晴らしの良い場所も
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 地元の人の憩いの山か?登山コースの標識が・・ きれいに植林された間を林道が走る森林浴に気持ち良さげ
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林道行き止まり  帰りに脇道へ・・江戸時代に開かれたという上井根(うわいね)水路コースの標識が有りこの水源が「轟水満宮」か?
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ともかく深山林道を往復したが参道は判らず・・・で、林道入り口右に作業小屋があり、ちょうど家主が居られたので尋ねてみると「オレも地元の人間でないのでよく判らない。いちど探しに行ったが判らず山水を利用しておる」との事、参道入り口もそこより少し上の左の草むらから行くらしいと教えてくれたが、そこに行ってみてもそのような雰囲気もナイ。
思い余って、一回目に水を汲んだ府道沿いに入口が有るか確かめる事に。
しかし、雑木が生えているだけで山に入って行くような道もない。マタマタ近くに居られた方に尋ねる事に、
すると、南丹市八木町から来ているが生まれはここの山奥だとの事、子供の頃に遊びに行ったで、今から家に帰るついでに教えてやるから待ってろとの有り難いご返事!シメタこれで行けると待つ事に!(^^)!
で、待つ事30分(多い目に書いているかも)親父さんの軽トラの後について再度深山林道に、親父さん曰く、林道から少し下りたとこに在る!車から二度ほど見渡すも無い、終点の熊野神社へ到着(?_?)
おかしいな、入口が判らない!「以前、湧き水に悪さをしたものが居り、地元の人間もハッキリ教えてくれないところがある」とボソッと・・・
しかし、親父さん集落で友達に聞いてやると心強いお言葉、引き続き軽トラの後ろから付いていく事に・・・
集落に入るや否や、田んぼの草刈りをしておられた40代の兄ちゃんに聞いてくれたが「知らない」の一言
再度車に乗ろうとしていた所に、例の友達らしきオヤジさんが通りかかり、呼び止めて「このひとが轟の水を探しているのだが、林道に登って行ったが判らずで、どう行くのだったか教えてくれないか」と尋ねてくださいました。
そのオヤジさん「行っても水を汲む事が出来んで行ってもアカン!やめときなはれ」と話もうやむやにされ、案内してくれた親父さんも・・・という事なのであきらめナ ちゅうことで今回も「轟水満宮」には行けずバツ、夕方になったので帰宅する事に^_^;

三回目挑戦
このまま終わる事は気持ちの上で納得できず、必ずや探してみると決意!
前回の「保寿泉」で書いた、最後の保津川下りの計画もこの時点で入っていた(7/7)ので、一週間遅らしての日曜日(7/14)の行動となってしまった。
前回案内してくれた親父さんが、林道から少し下りて行った所に在ると言っておられたので、確かサイトの中に登山用の山道を記載した図面があったはずと確認してみると、轟水満宮の印と点線の山道が載っている図面が有りましたので、三回目の鹿倉山へ行く事にした。

図面から察すると、どうも林道から徒歩で行く事になる。そうなると、ヘビと幽霊が苦手な吾輩にとぅて心細い行動となる。その上熊も出没するかもしれない。そう思うと、益々不安が増幅して行く事に躊躇するようになった。
・・・で、親戚の義兄にお願いして水汲みに行ってもらう事に、実は、義兄も吾輩の影響で最近湧水にはまっているのである。そういう事もあり二つ返事でOKしてくれました。

林道に着き、図面からここであろう所に車を止め、その下の方を覗いてみる・・・
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下の方へ山道が延びている。シメタこの道だ!と確信、しかし、どのくらい歩いて行かなければよいのか分からない。
義兄が持ってきたペットボトルは置いて、吾輩のコンテナだけを持って行く事に、近ければ再度水を汲みに行くといことで出発した。

こんな山道を下って行くと・・・
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かすかに
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鳥居が見えた。

その鳥居が目の前に
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その奥には
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そう「轟水満宮」とモミの木
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そして、鉄柵には看板が
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三和町指定有形文化財 天然記念物第一号
轟水満宮のモミ 一点
指定年月日 平成15年2月10日 
管理者 轟水道組合
幹回り 483,5cm
府内のモミでは最大の幹周りを持つ
京都自然200選に選ばれている。また、民話「轟水」の舞台にもなっている。
              三和町教育委員会
轟簡易水道水源地
●許可無く立ち入りを禁止します
●この水は、未処理のため飲めません
●ゴミは持ち帰りましょう。タバコの吸い殻も、持ち帰りましょう
               福知山市ガス水道部
と書いて有ります。

湧き水の取出し口
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バルブのレバーを捻れば活きよい良く出てきます。 その横には
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轟水の云われを彫った石碑が・・・書いてみると

記念碑
昔此処にモミの木が二本あり、その一本の根元から湧き出る水の音が地鳴りのように響き遠くまで聞こえたことから誰云うとなく轟水と呼ぶうようになったと云う。また、このきれいな水の話を聞いて時には末期の水として病人に与えたとも伝えられる。今より350年前この村に住む水口次郎左衛門翁が中心となり水不足に悩む村人と共に苦心の末鹿倉山中腹にこの水源を発見二キロメートルに及ぶ用水路を引いたという記録も残されている。
第二次世界大戦後昭和三十七年永年に亘って〇〇〇戸水に依存してきた兎原下区民の願望を実現するため〇水道組合を結成此の霊地に水満宮を祀り現在百五拾戸がこの水の恩恵に浴している。
この神水の由来と自然の恵みの歴史をいつまでも後世に語り伝えるため轟水道組合結成二十周年の年にこの地にこの碑を建立 先人の労苦を偲び
  昭和五十七年八月    轟水道組合

以上、字がかすれ読みにくく、吾輩の『創造』の部分が有ります。水道組合に失礼な事が有れば、この場を借れて「お許し下さいますよう」申し上げます。
轟の水・民話
以上で、ミステリアスな「轟の水」の水汲みは無事終了しました。
尚、鳥の手前参道の様子は
P7140104-b.jpg
荒れて歩けたものではない様子です。


義兄の水は、再度取りに帰るのは大変でしたので、北近畿で一番美味しいと思っている、福井の「瓜破の水」を頂きに行く事にした。少し遠いいがお礼方々・・・

独断と偏見の、「轟の水」の水評価は、三つ平均して
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v でした

詳しい場所は、地元の意向を尊重して府道沿いの取水地を入れておきます。


    

NO25:長谷の一杯水

今回は、前回汲みに行った養老水があまりにも期待はずれでしたので、福知山「三名水」名誉回復のために次なる湧水を求めに行ってきました。
ところで「長谷の一杯水」が福知山三名水にあたるのかどうか知りたかったので、福知山市役所にTELして尋ねてみたのですが、古くはあったのかも知りませんが現在は水量も変化しているのでそのようなところは決まっていないとの事でした。
これではらちがあかないと思い、養老水公園に立てて在った看板を提供された「つりぼり つり一番」に電話をしたのですが、今は使われていないとの事NTTの音声でした。  いつか誰かから教えてもらうことに・・・
・・・という訳で「長谷の一杯水」が福知山三名水の一つと思っていたのですが当てが外れかがっかりのトコロですが、とりあえず汲みに行ってきましたので記事は続けて書きます。
検索で場所を調べたのですが、確実な場所が分からず、在るであろう地名が荒木という事でしたので、カーナビに荒木をセッティングして出発しました。福知山駅の南側で陸上寺自衛隊福知山駐屯地の裏側あたりという事が分かっていたので、そこまではスムーズに行けました。福知山は数知れず遊びや用事で来ていたのですが、荒木方面は一度も行ったことがなく興味心神で九号線を南に曲がり山手の方に入って行きました。思いのほか新興住宅街に開発されたところを通り過ぎて荒木地域あたりに差し掛かり道端を探して走るのだがそれらしきものが見当たらずそれらしき道を往復してみても分からず、結局畑仕事をしておられた「おば様」に尋ねることにしました。
「おば様」は親切にすぐそこの三叉路のところに在りますよと指を指して教えてくれました。残念なことにそちらの方は道が峠に差し掛かり、その向こう側が全く見えなかったのでお礼を言って車を進めることにしました。
車を峠を越えて進めると、すぐに三叉路に出ましたがそれらしきものは無く、車を降りてあたりを見渡してみるとアリマシタ!アリマシタ!・・・三叉路を近道する、おそらく旧道であろう道端にそれらしきものが在りました。
P3110030-a.jpg     P3110019-b.jpg
左の写真ですが、見えにくいですが手前の道を右に入ったところです。
という訳で無事現地に到着しましたが、一見祠の横の像が何か雰囲気にマッチしないようで、恐る恐るお水を頂戴しにかかりました。
P3110015-w.jpg

P3110020-c.jpg  
下の写真が湧水が出ているパイプです。前回の養老水と量的には同じぐらいでした。
入れだして間もなく、一緒に行っていた嫁さんが向こう側にも水が流れてきて瓶の中に溜まっているよとの事、
水入れ作業を代わってもらいそちらの方に視察に行くと「一杯の水観音」が祠の中に祀ってあり、その横の方に瓶が置いてありそこにトヨを伝って湧水が流れてきて水が一杯に溜まっていました。

P3110022-e.jpg   P3110023-f.jpg

どこから流れて来ているのだろうと見たくなりトヨの先の方にたどって行くと、山の土手の割れ目にトヨが刺し込んでありそこから水が伝ってきていました。こんなの初めての光景でした。

P3110027-g.jpg P3110026-h.jpg

ところがそのトヨの中というと、落ち葉がたまっており御世辞にもきれいに掃除がしてあるとは言えない様子、これではいくらなんでも飲み水にはだめやろ~と思いつつ、飲み水にふさわしいパイプから出ている湧水の方に帰って行きました。
ところで、この湧水の名の由来ですが、一説によればこの山の反対側に自衛隊福知山駐屯地があり、又この水汲み場の先の方には射撃練習場が在るのですが、隊員さんが訓練の後にこの湧水で「柄杓に一杯」喉を潤したとの事、どこまで真実かわかりませんが納得できる話です。
この近辺は福知山の学園都市と言ってもよいほど私立校が建っている地域で、野球で名が通っている成美高校や、共栄学園、女子校の淑徳高校などです。

尚、長谷の一杯水の場所に行くには、この看板を目印に行くとすぐわかります。
           P3110029-j.jpg
地図上ではこちらです。


で、湧水の味ランクは独断と偏見の
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v でした。

津波の防災グッズにライフジャケットを!(^^)!
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