NO232:生野天神社の「湯上(ゆがみ)の泉」

60.小式部内侍
『大江山(おほえやま) いく野(の)の道(みち)の 遠(とほ)ければ
まだふみも見(み)ず 天(あま)の橋立(はしだて)』
小倉百人一首、地元の方ならだれでも知っている歌でありますが、その中の「いく野」の地の湧水をいただきに行ってまいりました。
というのも、前回の「ロクロ不動の観音水」が取れなかった場合に、補足として探しに行った水紀行であります。
この「いく野」の地は、福知山市内から9号線を京都方面へ走って行くと、高速の陸橋下を通り長~い直線道路が終わり急坂を上り切ったあたりの集落であります。登り切ったあたりに見出しの大きな看板が目に入るので分かります。
その集落に入った所に

これを読めばよ~く判るので
ようこそ 生野の里へ お越し下さいました
このあたりが、約千年前の平安時代から京の都と丹後の国を結ぶ京街道宿場町として栄えた「生野の里」です。江戸時代へ入っても貝原益軒の「西北紀行」にもその賑やかな様子が描かれており、丹後の宮津藩主は参勤交代のとき、この地で一泊したといわれ、今も本陣跡が残っています。
それだけに都では、生野の印象が強く、このことは当時の和歌に、生野を詠んだものが多いことによってもうかがえれます。
なかでも、有名なのは小式部内侍が詠んだ
「大江山生野の道の遠ければ まだふみもみず天橋立」
小倉百人一首にも詠まれたこの歌には、次のような秘話が残っています。
小式部は、平安時代の有名な女流歌人、和泉式部の娘であるが彼女自身は歌を詠むことは苦手だと思われていた。母(和泉式部)が再婚して丹後宮津にくだった後、都での歌合せの席で小式部は、母がいないと詠めないだろうからかわれたが、即座にその母を慕って詠い、一座の人々を驚嘆させた。この歌は、大江山や生野の道は都から遠いのに、さらに遠くの母のいる天橋立の地は、行ったこともなく(ふみもみず)、便りもなく(ふみもみず)その身を案じているという母思う切ない心を詠んだものだと言われている。
このほかこの地を詠んだものに
大江山遥かにおくる鹿の音は、いくのをこえて妻を恋ふらむ
(権中納言実盛)
大江山越えて生野の末とほみ 道ある世にも逢ひにけるかな
(新古今集)
近くには六人部七天神第五代の生野天神社があり、境内には椎の大樹にまつわる「金の椎の実」の民話が残っている。
また、式内社 生野神社が、ここから一粁程下った三保地区に鎮座する
西方には小倉山(通称 城山と呼ぶ)があり、地元の言い伝えによると、当地方は、綾部藩の領地で、山の中腹のとりで(見張所)から、藩の命を受けた生野の庄の住民が見張りにつき、異常があれば早馬で半に通報することになっていたとか・・・
平成八年三月 福知山市生野区
その近くの道端には

古道 京街道 (地域作り協議会)の道しるべが立ててあり、その道を行けばいくのであろう生野神社には、車ではチト無理なようで生活道路を使用して行ったのでありました。着いたところは

生野天神社、此の石段の所に椎の木が有り

それほど大きな椎の木ではないが、これが伝説の「金の椎の実」のようである

生野の天神さんの森には椎の古木がたくさんありました。この椎は、大昔、大神宮さまが丹波から伊勢へ移られる途中、ここでお休みになりました。その時におともの者が、食用としてもっていた椎の実をまいたのがもとになり、立派な氏神さんの森になったと伝えられています。
この生野の里にみいちゃんと呼ぶ十歳位の女の子がおりました。お父さんはなくなり、お母さんと二人暮らしの気のやさしい女の子でした。お宮さんの下にある雲田たんぼに黄金の波を打たせてみんなを喜ばせた稲がすっかり刈り取られた頃、お母さんは病気になりついに寝込んでしまわれました。
心配なのはみいちゃんです、何とか早く元気になってもらいたいと毎朝早く起き出して天神さんへお参りしました。
今日もお参りして帰ろうとしますと、大きな椎の木の根元に白いものがうずくまっているのが目に付きました。何だろうかとこわごわ近づいて見ますと、鉄砲で打たれたのか、あるいは木の上の巣から落ちたのか、白い羽を血染めにした、こうの鳥が傷ついていた両足でヒナ鳥をかかえてうずくまっているではありませんか、みいちゃんは「かわいそうに」といいながらだきかかえて自分の家に帰り、近所で大きなかごを借りてきてわらを敷き、その上に親子鳥を入れてやりました。水を与えたり、たにしやカエルを捕らえて来てエサにしました。親鳥は二、三日で死んでしまいましたが、小鳥は日増しに元気になり、飛び立てそうになりました。
お母さんの看病の上、毎日鳥のえささがしに困り、仕方なく小鳥をかごから出しました。小鳥は喜んでバタバタと音をたてながら飛び立って行きました。
それから二、三日たった静かな夜の事です。みいちゃんの枕もとで声が聞こえるので目をさますと、頭巾をかぶり紫色した衣をきた少女が、「私はお世話になったコウノトリです。そのご恩返しにお母さんのご病気をなおします。あの月が満月になったら、森の中の池のつつみに金色の椎の実をおいて置きますから、それをせんじてお母さんに飲ませなさい。お母さんはきっと元気になられます。さようなら」といってきえました。みいちゃんは、「待って下さい」と後お追いかけましたがもう姿は見えません。しかし飛び去った後に一本の黒い羽が落ちておりました。みいちゃんは夢であったかと思いながら、満月の夜、池のほとりを探しますと、金色の椎の実が落ちております。喜んでこれをひろって家へ飛ぶようにして帰り、いわれたとおりこれをせんじて母に飲ませますと、母はめきめきと元気になりました。
女二人暮らしの家ながら、近所の人々もうらやましがるような明るい楽しい毎日を送るようになりましたが、みいちゃんの床には一本の黒い羽が飾ってあったということです。
福知山市老人クラブ連合会発行「福知山の民話」より原文のまま
この話はテレビの「マンガ日本むかし話」でも放映されたことがあります。
昭和10年頃まで椎の巨木が残っていました。
という話でした。「湯上の泉」も福知山HPでは
『湯上(ゆがみ)とは三俣の小字名である。地域内にある生野神社の森
の続きに三俣の田園が一望できる丘がある。ここに、むかし、山間か
らこんこんとお湯が湧き出る小さな泉があった、という言い伝えがあ
り、今ではお湯の代わりに水が湧いている。』
で神社の境内を散策、椎の木の写真は、物語の椎の樹ではなかった(+o+)

荘厳な佇まいではないが、時代を感じさせる本殿には「由来記」が書いてあり、それによると「用明天皇の頃約1500年前、丹波の国七天神の一社として建立された」と、しかし肝心なコンコンと湧き出る泉の池は見当たらず、あきらめて車に乗り込もうとしていた所

丘を切り裂いて作った直線道路、もしやと思い、その先の方へ歩いて行くと

池の雰囲気が漂い、その先まで行くと

祠が草にかくれて頭を覗かしている、さてはこれが伝説に書かれていた「杜の中の池」で「湯上の泉」ではと・・・

泉というより蓮の沼と言ったところの池であった。

池に降りて行くと、誰かが草刈りをされた後の様子

この溝をたどって行くと、

その奥に土管の中から水が出て来ていた

結構な量の水が流れていたが、草刈と池の泥上げをされた為水も汚れていた。最近どこかの県で、小学生が湧水を課外授業で汲んできて家族と飲んだ後腹痛をおこしたという事件がありましたので、水を汲むべきか汲まざるべきかかれこれ数分思案した後、とりあえず二本汲んで帰る事にしました。

で、帰ってコーヒーを沸かしたのだが、やはり泥臭さが強く、おまけに綺麗な流れ出てきた水を汲んで帰って来たのですが、一日たった時にはオラオラが目立つようになり、腹痛予防のため捨ててしまいました。
独断と偏見の水評価は
((+_+)) にしました
詳しい場所は
生野神社と生野天神社と思い違いをしていたかもしれません、再度本来の生野神社をたずねて『湯上の泉』がどちらの神社に在ったのか確認してきたいと思っています。
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