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NO219:松尾大社の「亀の井」

    
またまた、映画を見たついでに水汲みに行くはめになりました。
母なる神への旅~遠藤周作・原作、マーティン・スコセッシ監督
「沈黙 サイレンサー」思いのほか重い内容だった(^_^;)
国会では「テロ等組織犯罪準備罪」元共謀罪を言い方を変えて提出されようとしている。
「沈黙 サイレンサー」は江戸幕府のキリシタン弾圧を題材にした映画である。
何か深~いところで繋がっているように思えてならないのである。

この映画、テレビでのCMを見て相方さんが観たいと言いだし、乗り気でなかった吾輩のおしりをたたいて実現したのであった。
吾輩も、伏見稲荷大社での「薬力さんのご神水」も3本しか持って帰ってこなかったのでスッカラカン、イオン桂川に行けば近くに「松尾大社」が在り、前々から行ってみたい神社でしたので併せて行く事でOKをだしたのである。
   2017・130松尾神社 008-1w
嵐山の渡月橋の手前に大きな赤い鳥居が有りますので一目で分かります。行ったのは映画終了後の4時ごろでしたので、人影もまばらで、まだ正月気分が抜けきらない吾輩は少々さびしい漢字を受けました。
   2017・130松尾神社 001-1e
参道から駐車場へ車を入れ
   2017・130松尾神社 002-1r
石畳を歩いて社の方へ
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松尾大社の境内全景絵図です。
途中にこのような資料館が
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なんでお酒の資料館なのか・・・と
    2017・130松尾神社 009-1u
松尾大社平成の御遷宮
      ご奉賛のお願い
 松尾大社は、京都最古の神社で、その創祀は遠く上代に遡ります。その後、文武天皇の大宝元年(701)に至り、秦忌寸都理が勅命を奉じて、松尾山に鎮まります神霊を山麓の原社地に神殿を営み遷座されてからも、千三百十余年を経てまいりました。
 特に平安時代にあっては、、「賀茂の巖神、松尾の猛霊」と並び称せられ、皇城鎮護の神として朝野の篤い崇敬が寄せられました。以来、洛西総氏神、醸造祖神として全国の酒造家をはじめ醸造関係者よりも格別な崇敬をいただいております。
 振り返れば、昭和42年から46年にかけての所謂「昭和の大造営」に始まり、「松風苑三庭」の築造、昭和天皇御在位60年記念諸殿舎修復事業。そして平成に入り、平安京遷都1200年記念大鳥居の建立、平成13年には御鎮座1300年を記念しての諸事業などを進めてまいりました。・・・・・・・・云々
世情いまだ厳しくご多端の折とは存じますが、本趣旨にご理解ご賛同頂き、皆様の格別のご奉賛を賜りますようお願い申し上げます。
     松尾大社 平成の御遷宮委員会  会長
     松尾大社                 宮司
との事、
ウィキペディアから朝鮮半島からの渡来集団秦氏との関わり
松尾大社は、古代から渡来系氏族の秦氏(はたうじ)に奉斎されたことで知られる。秦氏は、秦王朝の始皇帝の後裔とする弓月君の子孫を称したことから「秦」を名乗った氏族で[注 4]、同様に漢王朝の遺民を称した漢氏(あやうじ)とともに渡来系氏族を代表する氏族である[22]。同じ渡来系の漢氏が陶部・鞍作部・工人等の技術者集団から成ったのに対して、秦氏は秦人部・秦部等の農民集団から成り、これらの人々は日本全国に分布して古代日本において最も多い人口を誇ったといわれる[23]。

秦氏発展の経緯として、『新撰姓氏録』[原 6]によるとまず秦氏は大和国の葛城に定住したという[24]。その真偽は明らかでないが、5世紀後半から末頃になると山背地方(のちの山城国)に本拠を置いたとされ[25]、以後は山背地方で経済基盤を築き、これが長岡京遷都・平安京遷都の背景にもなった[26]。山背地方のうち特に重要地とされたのが紀伊郡深草と葛野郡嵯峨野であり[27]、紀伊郡の側では現在も氏社として伏見稲荷大社(京都市伏見区)が知られる。葛野郡の側では桂川の葛野大堰に代表される治水事業によって開発がなされ[28]、現在も一帯には氏社として松尾大社のほか木嶋坐天照御魂神社・大酒神社、氏寺として広隆寺が残る。秦氏に関する文献は少ないため上に挙げた神社同士の関係は明らかでないが、松尾大社はそれらのうちで最も神階が高く、秦氏のゆかりとして第一に挙げられる神社になる[29]。

なお、前述のように松尾大社祭神の大山咋神・中津島姫命はそれぞれ日吉大社・宗像大社と結びつく神で、元々は秦氏特有の神ではなかった(他氏の神の勧請)とされる[25][30]。祭神が秦氏特有でないのは伏見稲荷大社・木嶋坐天照御魂神社も同様で、いずれの社でも秦氏が入植の際に入植以前の祭祀を継承する形を採ったためと見られている[31]。このように在地神を尊重・継承する傾向は、秦氏の祭祀姿勢の特徴に挙げられる[31]。
秦氏とは
『新撰姓氏録』によれば秦の始皇帝の末裔で、応神14年(283年)百済から日本に帰化した弓月君(融通王)が祖とされるが[1]、その氏族伝承は9世紀後半に盛んになったものであって[2]、真実性には疑問が呈せられており[3]、その出自は明らかでなく以下の諸説がある。
秦人が朝鮮半島に逃れて建てた秦韓(辰韓)を構成した国の王の子孫。新羅の台頭によりその国が滅亡した際に王であった弓月君が日本に帰化した(太田亮)[4]。
新羅系渡来氏族。聖徳太子に仕えた秦河勝は新羅仏教系統を信奉していたが、これは蘇我氏と漢氏が百済仏教を信奉していたのと対照的である[5](平野邦雄・直木孝次郎・上田正昭)[6][7][8]。
百済系渡来氏族。「弓月」の朝鮮語の音訓が、百済の和訓である「くだら」と同音・同義であることから、「弓月君」=「百済君」と解釈できる。また『日本書紀』における弓月君が百済の120県の人民を率いて帰化したとの所伝もこの説を補強する(笠井倭人・佐伯有清)[9][10]。
中国五胡十六国時代の羌族が興した後秦に由来する。また、羌族がチベット・ビルマ語派に属するチベット系民族であって、同言語においてハタは辺鄙の土地、ウズは第一、キは長官を意味することから、ハタのウズキとは「地方を統治する第一の長官」を意味する。同様に、マは助詞「の」、サは都を意味することから、ウズマサは「第一の都市」を指す(田辺尚雄)[11][12]。
五胡十六国時代に氐族の苻氏が建てた前秦の王族ないし貴族の系統とする説[要出典]。
景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人とする(日ユ同祖論)。平安京は碁盤の目のような十字路で構成されている為に景教と関連がある、とも言われている[要出典](佐伯好郎)[13]。

『隋書』には、風俗が華夏(中国)と同じである秦王国なる土地が日本にあったことが紹介されており[14]、これを秦氏と結び付ける説もある[15]。

本居宣長や新井白石は『新撰姓氏録』や『古語拾遺』に依ってハタでなく韓国(からくに)語のハダ(波陀)と読むとした[12]。

秦氏が創建に関係した主な神社・寺院[編集]
神社松尾大社
伏見稲荷大社
木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)
大避神社 - 兵庫県赤穂市坂越にあり、秦河勝を祀る。対岸の生島には秦河勝の墓がある。
敢国神社
寺院広隆寺

だいぶ流れがそれた様なので元に戻し
平成の修復のため
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神門となる楼門ですがテントで覆われ見る事できず(+o+)、そこを潜り抜けると目に飛び込んできたのが
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拝殿に大きな絵馬
日本一の絵馬かと思いきや、日本一は鹿児島霧島市の和気神社の絵馬のようです。
横から見れば
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境内マップには拝殿と書いてありますが、舞殿かな?と・・・
本殿はと言うと
   2017・130松尾神社 043-1k
こちらも、外装を修復中でしたが、本殿内では祈祷をされていました。
境内には
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当社が「日本一の酒造神」と仰がれている事から、新酒の樽が奉納されているのか飾ってありました。
その手前には
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樽の中に鉄板がはめ込んであるそうで、矢が当たると大きな音がするらしい。大きな穴なので誰でも当たるワナ・・・とたかをくくっていたら、なっなんと3本中1本しか当らなかった・・・あちゃ~((+_+))
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夫婦和合 相生の松 恋愛成就
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この古木はもと雌雄を同じくし相生の松として350年の樹齢を保ち、、さる昭和31・32の両年それぞれ天寿を全うした世に比類なき名松の大株である。昭和47年4月某氏天声によって神意を得、大〆縄を幹に巻き覆屋を設けてこれを保存せらるるに至った。
爾来人々は霊徳にあやからんものと本霊松を夫婦和合、恋愛成就の象徴として厚く信仰し今日に及んでいる。

他にも「幸運の撫で亀」寿命長久・家庭円満
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こちらにも:軽の石
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一、まず石を持ち上げる
一、願いを込めて、もう一度持ち上げる
一、最初より軽く持ち上がれば願いは叶う。重ければ叶い難し。

 松尾大社の神使が亀であることに由来するとされる[51]。神社文書によれば、松尾神は大堰川を遡り丹波地方を開拓するにあたって急流では鯉に、緩流では亀に乗ったといい、この伝承により鯉と亀が神使とされたとされる。(ウィキペディアより)

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「幸運の双鯉」もありました。  
さてさて「亀の井」は何処かいな~と境内を探すにもナイ、全景図も古くてよく判らない、社務所で尋ねてみると「盤座登拝道入口」から行けるとの事
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本殿右の奥にあり、その入り口に御触書が
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          「盤座登拝の心得」
松尾山は別雷山とも称し七谷に分れ、その一つである大杉谷頂上近くの斜面に巨大な岩石が有ります。これが古代の盤座で社殿祭祀以前に当社の神を祀っていた所です。昔からこの盤座をご神蹟とか御鎮座場と称して敬拝し、神職以外の登拝を禁じた神聖な場所です。従がって許可なく登拝することはできません。
但し、特に登拝を希望される方は登拝受付所に願い出の上、左の定めを守って参拝する事ができます。
定   遵守事項
一、一人での登拝は禁止します
一、お祓いの後、盤座登拝証を携帯の上、敬虔な気持ちをもって登拝しましょう。
一、登拝口以外よりの入山、下山は一切禁止します。
一、登拝道以外の脇道に入らないこと。
一、三時間以上の入山はしないこと。
一、タバコ、ローソク等、火気類の持ち込み禁止(火気厳禁)
一、カメラ、ビデオ等の持ち込み禁止(撮影禁止)
一、携帯電話の持ち込みは許可しますが、カメラ付携帯電話については下山時に撮影の有無を報告のこと。
一、草木、キノコ、鳥獣、土石類を取らないこと。
一、お供え物等は持参しないこと。
一、弁当など飲食はしないこと。
一、蜂や害虫の危害、落石等充分注意し怪我をしないよう気をつけること。
一、松尾山の清浄護持に心がけること。
     受付事項
○入山受付 午前9時より午後3時迄。
○下山受付 午後4時までに下山すること。
○ 1名に付千円  
     *二回目からは、1名に付500円
  ◎入山登拝禁止日(正月三ヶ日及び中大祭当日他)
で、廊下の下をくぐり入って行くと、右に受付所が有り「亀の井」を頂きに来たと申し出ると料金はパス。
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松尾山登り口の方へ少し行ったところに在りました。
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亀の口から出ていたので、持っていた漏斗は左のとこに置きペットボトルに注いだのは良かったが、最近年のせいか物忘れが激しく(~o~)帰ってから無いのに気付き(?_?)どうも置いたまま忘れてきたようです・・・
水を入れ終え帰ろうとすると、相方さんが赤い鳥居の方へ
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その方へ着いて行ってみると「滝御前」という水の神様が祀ってある
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「万物神が宿る」の如く、滝の神様でした・・・・・が、
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看板には天狗の岩が見えると書いてありましたが、どうあがいてもそれらしき物は見えなかった・・・おそらく、信心が足らんのだろうと相方さんとけなしながら帰途についた。
*「亀の井」の水を、お酒を作る時に入れると腐らないと言われ、昔から重宝されていたのが日本一の酒造の神社由縁足るところだそうです。
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独断と偏見の「亀の井」の水評価は、日本的硬水に感じ、コーヒーの後味に苦みが残る感じであった。吾輩的にはまろやかさも欲しいところであった。
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vでした
詳しい場所は

   

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NO188:朧の清水(おぼろ)

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ただ今インフルエンザビールスB型と闘病中・・・・・・((+_+))
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     平家物語(建礼門院)ゆかりの泉
今日からぼちぼち仕事ができるようになってきた。上のリレンザ、四つ粉薬が入った容器を専用吸入器にセットして、専用吸入器に付いているレバーを上げて粉薬の容器一か所に穴を開け、下の突起部分を思いっきり吸い込むこと約三回、朝2か所、夜2か所の粉薬を吸い込み5日間続けて無事回復いたしました(*^_^*)

「朧の清水」三千院から寂光院へ行く道中の大原散策路にあります。腰ぐらいの深さの石段下に水たまりがあり、掬ってみると意外と綺麗な水だったのでペットボトル1本入れて帰ることにしました。ここでも知らぬ間に
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『平家物語』の「大原御幸」に「おぼろの清水月ならで御影や今に残るらん」と出ている。建礼門院がこの清水に身を写したところ、老い果てて見る影もない自分の姿に驚き悲しんだという。大原の名所として有名である

で、われらの本来の目的が最後になった夜のお食事会の会場「うまもんや こむ」へと
  コムコース 2,850円 の紹介へ
食前酒(アルコールなし)
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おばんざい(京都市内で古くから食べられていた季節の食材を生かした食べ物)
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食い気が張ってつい食べようとしたら、保護者様が写真を撮ってからとのお叱りの後・・・横の麦ジュースは別注もん
海の幸カルパッチョ
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魚のカルパッチョ(日本発祥)[編集]
日本においては、生の牛ヒレ肉の代わりに、マグロやカツオ、サケなどの刺身を使用したカルパッチョが和洋折衷料理(西洋料理の日本風アレンジ)の代表例となっており、その創作者はレストラン「ラ・ベットラ・ダ・オチアイ」の落合務だといわれている[2]。カルパッチョの発祥国イタリアにおいても、世界的な刺身ブームの影響を受け、生の魚肉を使ったカルパッチョや、野菜やフルーツを使ったものも多くなってきている。(ウィキペディア)
焼き物
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牛のたたき、ビール二杯目(*^_^*)
揚げ物
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カキフライ、アツアツの出来立て・・・うまかったので吾輩はお替り
負けじと、保護者もかぶら蒸しの注文
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お互い満足満足(^_^)v
酢の物
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タコと藻ずくで、家で食べるより何倍~もうまかった(ナイショ)
椀物・ご飯物
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アサリの赤出汁・山菜おこわ・・・鞍馬山門前食堂で食べたものに匹敵・・・山菜おこわ自体が美味いのかも 
最後に、デザート
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コーヒーが付かなかった事が心残り・・・

というわけで、帰りは相方様の運転で帰ってきました。・・・おわり

独断と偏見の水評価は:たいてい溜まり水は、掬ってペットボトルに入れると底の溜まり物がかき混ぜられて入るんだが、掃除が行き届いているのか、きれいな水でした。普通に飲ましていただきました。
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v
詳しい場所は

  

NO187:建礼門院ご使用の清水

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駐車場に着くとPM3:30、レストランのオープン時刻 PM5:00にはまだ時間にゆとりがあるとゆうことで、近くの『聖徳太子の御父・用明天皇と平清盛の娘・健礼門院』ゆかりの寺、寂光院まで足を延ばすことにした。(^_^)/  
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三千院から続く大原の里の小道を歩いて寂光院へ、途中
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大原の里の風景を
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落合の滝を見て寂光院に着きます。
受付で、境内に湧水が出ている場所はありませんか・・・と尋ねてみると、受付嬢は、裏方に聞きに行かれて「そのようなものはありません」との返事でした。・・・・・ガク(+o+)
趣のある石段を登って行くと
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この門を入ると
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本堂が正面に
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ここで、寂光院の案内
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 当院は推古天皇二年に聖徳太子が用明天皇御菩提のためと普く天下安穏のためにお建てになったのを開創とする
 本尊六万躰地蔵菩薩(重文)は太子が御父用明天皇の御菩提のためと天下万民平和安穏のためにお作りになったものである
     寂光院御詠歌
  浪速より小原の里にしたひきて寂光院のみ仏にぞなむ
     願えひと六万躰の地蔵尊わけてたまはる信の深きに
 初代の住職は聖徳太子の御乳人玉照姫である その後文治元年九月に高倉天皇の皇后建礼門院がお住まいになった それ以来御閑居御所とも高倉后大原宮とも称してやはり代々貴族の姫等が静かに清らかに法燈を伝えてきた 文治二年四月に後白河方法が御幸あそばされた平家物語や謡曲で有名な小原御幸である 後世小原を大原と書いた
 本堂は飛鳥、藤原、桃山の三時代の様式からなり内陣及び柱は飛鳥、藤原、及び平家物語当時の物で 外陣は慶長八年に豊臣秀頼卿が片桐其元を工事奉行として修理されたものである また内陣の床は秀頼卿がおはりになりそれ以前は支那式(中国)の土間であった
 これら歴史的貴重な文化財が平成12年5月九日未明放火全焼その貴重な美しい姿は永遠に忘れることなく惜しまれるものである
 本堂前西側の庭は古びた池、千年の古松、苔むした石、汀の桜等後白河法皇が「池水に汀の桜散りしきて波の花こそさかりなり」と御製をお詠みになった平家物語当時のままである 北庭園は回遊式四方正面の庭で林水 木立 清浄の池等古き幽翠な名作の庭で特に石清水を引いた三段の滝は玉だれの泉と言って一段一段高さと角度が異なり三つの滝のそれぞれ異なる音色が一つに合奏するようにできている
 本堂前右側にある大きな南蛮鉄の雪見灯篭は太閤秀吉の桃山城にあったものである 書院前方の茂った山は平家物語に建礼門院が大納言佐局を供にみ仏にお供えになる花を摘んでお帰りになるところが書かれている翆黛山である
                          寂光院
本堂西側の庭
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四方正面の池
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西側の庭を通り「かって門」?を抜けると
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建礼門院御庵室跡である。そこに古びた井戸跡が
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その石碑には、御使用清水と書かれていた・・・やった~(*^_^*)
どこか汲む所がないかな~と探していたら
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井戸から流れている右の溝古をたどって行くと、水汲み場が作ってありました(^_^)v
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水を汲んでいると、だれかが盗撮をしていた・・・((+_+)) アップの写真もあったのだが、はずかし~ので、小さめの写真にしておきました。
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例によって、書き出しておきます。
        建礼門院御庵室跡
 ここは建礼門院御庵室跡と伝えられるところです。右手にある御使用の清水は、今もこんこんと湧き水をたたえています。
 『平家物語』のなかの悲劇のヒロイン建礼門院徳子。権勢を誇った平相国入道清盛の二女に生まれ、高倉天皇の中宮となって御子安徳天皇を生みました。絶頂の日々もつかの間のことでした。源平争乱が勃発するや、6歳の安徳天皇を奉じて平家一門とともに西国に赴くこととなり、ついに文治元年(1185)3月長戸壇ノ浦での合戦に義経軍に敗れました。女院は安徳天皇とともに入水しましたが、一人敵に助けられて生きながらえて京都に送還され落飾されました。秋も押しせまった9月末になって憂きことの多い都を遠く離れた洛北の地大原寂光院に閑居し、昼夜絶える事なく念仏を唱えて夫高倉天皇とわが子安徳天皇、および平家一門の菩提を弔う日々を送りました。
 文治2年(1186)の春、大原寂光院に閑居する建礼門院のもとを後白河法皇が訪れた話が『平家物語』の最終をかざる「潅頂の卷」に載っています。法皇が見た御庵室の様子は「軒には蔦槿(つたあさがお)這ひかかり、信夫まじりの忘草」「杉の葺き目もまばらにて、五月雨も霜もおく露も、もる月影にあらそひて、たまるべしも見えざりけり、後ろは山、前は野辺」という有様で「、「来る人まれなる所」でした。
 突然の法皇の行幸に、女院は翠黛山に女房らと花摘みに行って留守でした。待女の老尼阿波内待に案内を請うて御庵室の中を御覧になった法皇は、一丈四方の仏間と寝所だけという昔の栄華に比べて余りの簡素な生活にただただ落涙するばかりでした。いばらくして花摘みから帰ってきた女帝は、はじめ逢うことを拒みますが、阿波内侍に説得されて涙ながらに法皇と対面します。先帝や御子や平家一門を弔ながらの今の苦境は後世菩提のための喜びであると述べ、六道になぞらえて己が半生を語る女院に、法皇はじめ供の者も涙するばかりでした。
 建久2年(1191)2月中旬のころ、女院はこの地で往生の時を迎え、侍たちに看取られてその生涯をそっと閉じました。
はい、おわりました。

という万葉の時代から止まることなき湧き出ている水を汲めた事は、至宝の賜物である。・・・・・と書いてみた(・.・;)
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帰りに、建礼門院徳子の大原西陵の前を時間の都合上素通りして、また来た道を引き返して行った。

独断と偏見の水評価は、華麗なる水の漂いが感じられました…と書きたいところですが、残念なことに井戸の水でした。
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v でした

詳しい場所は 




    
   

NO186:三千院門前町漬蔵の「清和井」の名水

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結局「カッパ村」が何なのか分からずじまいで、大根炊きが呼んでいる大原「三千院」へ向かった。
駐車場もすんなり見つかり、
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真ん中の通り600m先に「三千院」があるそうな・・・歩いて10分と書いてある。
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しばらくは、こんな路地を歩いて行きます。途中
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和紙の店「もとしろ」さんの黒板には「ようこそ大原の里へ  三千院:幸せを呼ぶ 初午 大根炊き 2月11日~14日 9時~4時30分
横の花のつぼみは  和紙の材料の三ツ又です  3月15日ごろきれいに咲きます  3月15日は、わたしの誕生日(これは番外)
こんな掲示板もいいな~と思いながら歩いて行くと
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「女ひとり」の石碑がひっそりと立っていた。デュークエイセスが歌う歌、大原の地:三千院を一躍有名にした立役者?女性の憬れの地となって行った。
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川沿いの坂道になり
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左:なるほど大原の里⑦「呂川の清流」
  滋賀との県境の比叡の山麓に源をもつ呂川は、大原川、高野川、鴨川、淀川と名前を変えながら大阪湾へ注いでいきます。
源流である大原の里では、きれいな水を保つように地域をあげて努めています。 呂川を美しくする会
右:なるほど大原の里⑧「里の藪椿」
  早春から咲き出す藪椿は、大原の里の花の一つです。
この大椿は樹齢250年以上と言われています。椿は(木も良し、散ってなお良し) 花言葉はひかえめな優しさだそうです。呂川を美しくする会・・・藪椿の写真は無いョ~
川沿いには
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を見ながら
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もう少しで「三千院」の雰囲気が出だした・・・・そして角を曲ると
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そして、この石段を上がって本堂へ
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この参道の左側にはおしゃれなお店が並んでいます。そして
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 三千院:天台宗五箇室門跡の一つ。最澄(伝教大師)が比叡山に庵を結んだ時、東塔南谷に一堂を建立したのが起こり。
 本堂往生極楽院(重要文化財)は、江戸時代に大修理を行ったが、内陣は比較的古形を保つ。殊に山形に板を貼り、二十五菩薩の来迎図をを描いた船底天井は有名で、堂内に阿弥陀如来両脇士坐像(三体・重要文化財)が安置される。
 大正初年に修補された客殿内部各室の襖は竹内栖鳳等、当時の京都画壇を代表する五氏の筆により飾られている。
                   京都市
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拝観料をたしか700円払い客殿へ。院内は撮影禁止にて、周りの庭園のみ撮影OKとの事…本来は春、秋に来るべきところなのだが、大根の匂いに導かれて冬に来てしまった(*_*;撮影はへたくそなので聚碧園(しゅうへきえん)・有清園はパス・・・で、堂内を回り回ってから裏庭へ
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その出口の様子
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その先にある、往生極楽院の阿弥陀如来(国府)堂内での撮影禁止により、外からの撮影
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お堂には、三仏が祀られ右に観世音菩薩、左に勢至菩薩合わせての国宝です。詳しくは拝観してくださいねぇ~(*_*;
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このい左に有楽園の一部の池があり、そこに「金色水」という湧水が出ているはずだったのだが、当日は池が改修工事中水も泥色でしたのでパス。
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ようやく目的の大根焚きの場所に到着・・・・ここでも運が付いていた。
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お椀の中に・・・みんなは1個・・・それも若い大原女が「おにいさ~ん、2個はいかがですか~」 即「頂きマ~ス」
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金色不動堂で、ここで朱印を頂いたり、お坊さんに相談事を聞いてもろたり・・・・・と人間的な営みがされていた。

吾輩は大根も食べたし、目的の湧水は出てなかったし帰るのみ、そういえば参道の途中に湧水の看板があったのを思い出し、帰りに寄ることに、相方さんの機嫌取りに少し庭園内を散策していたが足と気持ちは帰る方向を向いていた。
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で、帰り道「漬蔵」とゆう漬物屋さんに
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「清和井の湧水」(せがい)という案内板が立ててあった。尋ねてみると、ご自由にとの事
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この奥に入ったところに
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頂いたお礼に、3つ千円の袋に入った漬物を買って帰路に就いた。・・・そうそう、今評判の一本100円のアイスきゅうりを販売、食べたかったが、食べながらの姿を思い浮かべると、この歳では抵抗があり止めときマスタ(*^_^*)

独断と偏見の水の評価は、良くも悪くも普通の水でした。
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v

詳しい場所は
   
   
  

NO148:花背峠の清水

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そのⅡ
僧正ヶ谷界隈は鞍馬天狗を題材にした謡曲の舞台にもなっている。
帰りがけにふと目に留まったものが、
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       謡曲「鞍馬天狗」と僧正ヶ谷
 謡曲「鞍馬天狗」は、源義経幼時の武勇説話を現代物に脚色した曲である。
 鞍馬山の東谷の僧が、西谷の花見の招きを受けて修業中の稚児平家の公達や牛若丸を連れて出かけたが、見知らぬ山伏が来たので気を悪くして帰ってしまった。ただ一人残っている牛若丸の素姓を知り憐んだ山伏は諸所の花の名所を案内し「自分は大天狗である、平家討滅の望みの達せられるように兵法の秘伝を授けようといい、翌日からのはげしい修業の末、約束の如く兵法を授け再会を約して大天狗は立ち去ったという豪壮な物語である。
 僧正ヶ谷は牛若丸が天狗僧正坊から武芸を習った処で、老杉高く聳え、巨根地を這って昼なお暗く神秘感をただよわせている。    謡曲史跡保存会
吾輩は「鞍馬天狗」と言えば、白馬にまたがり何処からともなく駈けつけて、悪党どもを退治してどこかに去って行く、というドラマのシーンを思い出すが、それを言えば歳がバレバレになる。

引き返すのに、背比べ石までは上りで「奥の院」まで行かなかった事が正解だったと思いながら、やっとこさで上り詰めた。まだPM3時ごろだが、雨降りの中木立の中という事もあって薄暗く一人で歩くのは寂しく、人の後を追うように下って行った。
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帰りは、本参道・通称九十九折参道から帰る事にしてそちらに入って行った。昔からの参道だけあって史跡も多いいようだ。
ご案内は写した写真のみで、重要な史跡を撮り忘れている場合もある。あしからず(^_^)/
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九十九折れ参道を下りてくると双福苑という場所に出て来る。福徳の神である玉杉大黒天と玉杉恵比寿尊を結ぶ赤い橋「双福橋」が有ります。その下には、鞍馬山の訓えのシンボル『愛と光と力』の像・いのちが建っている
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えらい近代的なオブジェだなぁ~と見ながら下りて行くと、
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由岐神社に着きます。こちらは鞍馬の火祭で有名です。
その下の石段の両サイドには歴史を感じさせる大杉が
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そして、由岐神社の鳥居と拝殿?が
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たしか、この拝殿?の二階をタイマツ持った方が走り回るのだと思っていたのだが・・・どうも奈良のお水取りの行事とごちゃ混ぜになっている様で(?_?)

由岐神社から下って来ると鞍馬寺の山門、仁王門に到着。すると、急に腹が減ってきた。ちょうど仁王門の前に雍州路という名の食堂があり暖簾を潜った。
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ここで食べたものは見出しの蕎麦と左に有る「山菜おこわ」、この「山菜おこわ」一日限定数量もの、人気メニューだそうで幸運にも今日は残っていたそうで注文する事ができた、腹が減っていた吾輩は特別うまく感じた。蕎麦は固めで、他に田楽と和え物が附いて2000円でなにがしのおつりがきた。満足お一食であった。
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雍州路の箸袋には、「雍州路・その昔木をきり石をきざんで都に運ぶ牛車にも、うず桜の一枝をさす風流がありその風雅は今も鞍馬の里に偲ばれます。越前若狭より都に通じるこの路を雍州路と呼びました。
その後
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この道を花背峠に向けて出発。町はずれに
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鞍馬温泉なるモノが、連れ合いがいたら門を潜らなければ帰してもらえないが、今日は独り身、さらに峠に在るという湧水をめざし進んで行った。そのうちジムニーが後ろに迫ってきた。負けてなるモノかとヘアピンカーブの連続する道を走って行く、道も狭くジムニーが有利離してもすぐ追いついてくる(~_~;)、とあるヘアピンカーブで
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水らしきものが
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これぞまさしく「花背峠の清水」止めるやいなや、ジムニーにあっさり追い越されてしまった。吾輩は、無事湧水にありつけたことで満足。汲み終えた後はのんびり花背峠まで
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雨降りの為峠は靄に霞深山の漂い深く
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花背の里に下りて行った。
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独断と偏見の湧き水評価は、
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vでした。
詳しい場所は
  
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