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NO306:奥比叡の霊水(冷水)

2019、8,25比叡山 130-3q
「弁慶水」を汲んで、今度は西塔エリアへと車を進めた。
「西塔」
 東塔とは一転して静寂の地であるのがこの延暦寺西塔です。朱の色もあざやかな弁慶のにない堂(常行堂・法華堂)や椿堂、西塔の中心本堂である鎌倉建築の釈迦堂、また、何年もの間、風雪にたえた弥勒の石仏などあります。その他一般の人達の研修道場居士林もあります。あの有名な武蔵坊弁慶が住んでいたのもこの地域です。(東塔から西塔まで歩いて約20分)
2019、8,25比叡山 139-3w
西塔の駐車場に車はおいて、ここから西塔の境内に入って行きます。
チョイト解り辛いが西塔の各お堂の配置図です
2019、8,25比叡山 163-3e
参道に入り
2019、8,25比叡山 140-3r
東塔と比べると御参りの人達も半減ぐらいしているが、写真はなるべく人様を避けて逸しているのであります。
途中巡拝受付所があり、吾輩は諸堂(東塔、西塔、横川)巡拝見を買っているので、それを見せてスルー。
2019、8,25比叡山 141-3t
「にない堂」が見えてきた。その前の敷地に
2019、8,25比叡山 143-3t
「「真盛上人修学之地」と書かれた大きな石塔。恥ずかしいかな何者か吾輩は知らない・・・で
2019、8,25比叡山 142-3y
真盛上人修学の地:ここは、西塔南谷南上坊(後の真蔵院)跡です。伊勢大仰郷で御生誕の真盛上人(1443~1495)は、7歳、川口光明寺盛源律師に師事、14歳光明寺で剃髪出家得度、真盛と号され、16歳、尾張密蔵院に遊学、19歳、比叡山西塔南谷南上坊慶秀和尚の室に入られ、山を出ず、爾来の20年間ここで修業された。時あたかも、25歳から10年間応仁文明の大乱が起こり、41歳、上人が社会浄化のために黒谷隠棲へと決意されることになったのである。
というもの。
にない堂の右側「法華堂」
2019、8,25比叡山 144-3u
左側「常行堂」
2019、8,25比叡山 145-3i-3o
弁慶が渡り廊下の真ん中で二つのお堂を持ち上げたという事から「弁慶のにない堂」(重文)と言われている。
同じ型のお堂が並んで渡り廊下でつないでいる。法華と念仏が一体である事を示し、比叡山では「朝題目・夕念仏」といって両堂それぞれ法華三昧、常光三昧の修業の道場である。
法華とは
誰もが平等に成仏できるという仏教思想の原点が説かれている[1]。聖徳太子の時代に仏教とともに日本に伝来した
念仏とは
仏教における行のひとつで、仏の姿や功徳を思い描いたり、その名号を口に出して呼ぶこと。サンスクリット語では"Buddhānusmṛti(英語: Buddhānusmṛti)"で、仏陀に対する帰敬、礼拝、讃嘆、憶念などの意。日本では一般的には、浄土教系の宗派において合掌礼拝時に「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶ)と称える「称名念仏」を指すことが多い
      各ウィキペディアから
ブラタモリから、常行堂では、常に歩きながら(行)念仏を唱える修業をするお堂、中央に位置する阿弥陀仏の周りを90日間お堂にこもり「南無阿弥陀仏」を唱えながら日夜歩き回って修業をするそうです。
渡り廊下の下をくぐり抜けていくと、釈迦堂が眼下に見えてきます。
2019、8,25比叡山 147-3p
伝教大師ご自作の釈迦如来を奉っている。約四百年前織田信長焼き討ちのあと、豊臣秀吉が三井寺の金堂を移築したものである。鎌倉時代の建物で比叡山最古の木造建築である。(重文)
2019、8,25比叡山 152-3a
写真撮影禁止とは書いてなかったので、中の様子
2019、8,25比叡山 162-3d
境内の片隅には
2019、8,25比叡山 153-3f
広く静寂な境内を散策しながら
2019、8,25比叡山 164-3h
こちらには釈迦誕生の看板が
2019、8,25比叡山 155-3g
釈迦伝1
太子誕生:今から2500年ほど前、ヒマラヤの麓のカピラ国の浄飯王と后摩耶夫人との間に誕生されました。その頃カピラj城近くに住むアシタ仙人は、太子誕生にまつわる数々の奇端に驚き、太子に拝謁を願い出て抱かれる太子を拝し、はらはらと涙します。「なぜ泣くのか」とたずねると、仙人は「この方は王位つけば仏陀となられる方です」と予言しました。
続きは現地へ行かれて・・・
そして駐車場に戻り、出発
展望の良い「峰道レストランに到着
2019、8,25比叡山 135-3k
ちょうどお腹もへっこみ昼食時、食事を注文して待っている間散策
2019、8,25比叡山 134-3x
琵琶湖の対岸まで見渡せる展望レストラン。琵琶湖を映したが天気が良すぎてうまく写らず、おそらく技術が無いのだが(?_?)
そうこうしているうちに注文した「うな重」がきた。
2019、8,25比叡山 136-3c
いつもの事だが、食べ出してから写す事を築くのだが、見苦しい食事中パチリ
そして「横川」ゾーンへと移動して行った。
ドライブウェイを走っていたら、
2019、8,25比叡山 024-3m
歴史と修行の道の看板、その横の方には
2019、8,25比叡山 128-3b
東海自然歩道~行者道の看板後ろがその道である様子
千日回峰行←詳しくはこちら
千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)とは、滋賀県と京都府にまたがる比叡山山内で行われる、天台宗の回峰行の1つ。満行者は「北嶺大行満大阿闍梨」と呼ばれる。
「千日」と言われているが、実際に歩くのは「975日」である。「悟りを得るためではなく、悟りに近づくためにやらせてもらっている[1]」ことを理解するための行である。
そして横川の駐車場、その場所から歩いて横川境内へ
2019、8,25比叡山 025-3n
受付で参拝券を提示して入って行きます。
横川:比叡山の中でいちばん北に位置する延暦寺。横川には聖観世音菩薩をご本尊とする。
舞台づくりの横川中堂(新西国第18番札所)を中心に、おみくじの元祖・おつけものの元祖といわれる元三大師堂(四季行動)また念仏思想発祥のの基となった恵心堂などがあります。それに野鳥の声を聞きながら西国三十三か所観音石仏をめぐれるのも都会ではあじわえない趣を残している地域です。
横川地域の参拝図
2019、8,25比叡山 068-4q
そして参道には
2019、8,25比叡山 030-4e
お猿さんが出てきたら写真に収めてやろうと、カメラもスイッチを入れて持ち運ぶことにした。
2019、8,25比叡山 029-4w
またも参道には看板が立っている。どこまで書き出そうかと現在思案中(;一_一)
この参道だけでなく、別の場所にもこのような看板が設置してあったので、一枚だけを書き出していく事にした。
2019、8,25比叡山 032-4r
1、道元禅師様ご誕生(曹洞宗の開祖)
道元禅師様は正治2年(1200)1月26日(旧暦1月2日)久我通親公(みちちか)をお父さまに、藤原基房公の娘をお母さまとして、京都の地にご誕生になられました。
2019、8,25比叡山 044-4i
1、出家得度  親鸞聖人(浄土真宗)
親鸞聖人は、平安時代末期の1173(承安3年)年に、京都の南東にあたる、日野の里で誕生されたという。父は藤原氏の流れをくむ日野有範である。聖人9歳の春、叔父の日野範綱にともなわれて、三条白川にある慈円(慈鎭)和尚の白川房で髪をおろして出家得度された。そのとき範宴となのられた。
残りの看板は、拝観して頂き読んでもらう事にして、さらに参道を進んで行くと
2019、8,25比叡山 065-4y
龍ヶ池が出てきます。
2019、8,25比叡山 067-4o
この池を「龍が池」または「赤池」といい、中央には「龍が池弁財天女」をお祀りしていますが、古来からの伝説によれば、元三大師と大蛇の物語が伝わっております
 昔、此の池に大蛇が住みつき毒気をはいて修行僧や村人に害を与えていました。元三大師はこれを知り、大蛇に向かい”汝は身を自在に変化させる不思議な通力を持っていると聞くが本当か”とお尋ねになると、大蛇は本当だ俺にできないことはない、と答えました。そこで大師は、ならば大きい姿になってみよ、と申されると、”お安いご用”とばかりに数千倍の姿に変身しました。大師は再び、”では小さくなり私の手のひらに乗れるか”と申されると、”承知”とばかり小さくなり手のひらの中に入りました。そこで大師はすぐさま観音様の念力により閉じ込めてしまわれました。そして弁天様をここへお迎えして祀られ、小さくなった大蛇を弁天様の従者とされました。大蛇は大師に諭され、前の悪行を悔い改め、今後は弁天様のお使いとして「龍神」となり、自分の神通力を善行に向け、横川の地を訪れる人々の道中の安全と心願成就の助けをすることを大師に誓いました。
 別名、雨乞いの弁天さまとしても知られ、龍神さまとともに、霊験あらたかな法力により私たちを守護くださり、ご利益をを頂くことができます。ご信心ください。
    御用のある方は横川中堂受付にお申込みください。
と説明書きの看板には書いてあります。
その右上の方には
2019、8,25比叡山 069-4a
朱色に塗られた横川中堂の舞台造の橋げたが見えてきますが、行くのは後回しにして、先を進むと、左上には
2019、8,25比叡山 071-4s
根本如法塔が見えてきます。
慈覚大師が、石墨草筆をもって自ら書写した法華第一部八巻を納める宝塔を建てたのが起源であり、横川発祥の聖蹟であるところから根本如法塔と称している。との事、さらに
境内の地下からは如法経を埋納した銅筒や「金銅宝相華唐草文経箱」(国宝・延暦寺蔵)などが出土した。この塔は大正14年建てられた。
2019、8,25比叡山 072-4d
と説明札を読み、もとの参道へ、すると弁慶水の時と同じ建物に遭遇、
2019、8,25比叡山 077-4h
これも湧水が出ている井戸なのかと周りを見てみるが、汲める場所が無いので水汲みはあきらめさらにさらに進もうとすると場違いな近代的なものに
2019、8,25比叡山 079-4j
どうも歩いている参道は「元三大師道」と言うらしい。と言う訳でその奥に建てられている元三(がんざん)大師のいわれを
2019、8,25比叡山 082-4k
元三大師は、僧名を良源(912~985)といい、慈恵と「おくりな」する。正月の三日に亡くなられたことから、元三大師と称せられている。
近江の人で、少年の頃比叡山に入り、早くから学徳抜群の誉れ高く、将来を嘱望された。五十五歳にして比叡山の第十八代座主に昇り、僧儀を改革し、学問・修業の興隆をはかり、人材の育成に力を注ぎ、比叡山の最盛期を築き上げたことから、比叡山中興の祖と仰がれている。
門下三千人といわれ、この中からは、我が国浄土教の祖とされる恵心僧都源信をはじめ、檀那僧正覚運、慈忍尊者尋禅、兜卒僧都覚超など幾多の名僧を輩出した。
大師は、ここ横川の地に住し、優れた法力を以て、種々の霊験を現され、仏法を守護し、多くの人々を救い護り導かれた。
生まれながらにして如意輪観音の化身と仰がれ、今日なお除災招福、五穀豊穣、善願成就を祈る多くの人々より「厄除け大師」、「角大師」として信仰を集めている。
また大師は、我が国における「おみくじ}の元祖としても知られている。
  平成27年吉日  比叡山元三大師堂

さらに静寂漂う杉木立の元三大師道を
2019、8,25比叡山 083-4l
進んで行き、坂道の登り切ったところに
2019、8,25比叡山 084-4z
「おみくじ」発祥の寺、元三(がんざん)大師堂にたどりついた。
2019、8,25比叡山 087-4x
寺門を入ると正面に元三大師堂が正面に
2019、8,25比叡山 093-4c
四季行動ともよばれ、第十八代天台座主として十九年間在職され、延暦寺中興の祖として仰がれる慈恵大師良源(元三大師)の住房であった定心房の跡をついでいるお堂で、村上天皇の勅命によって春夏秋冬の四季に法華経の論議が行われたので四季講堂の名がついています。また、はじめは弥勒菩薩を本尊としていましたが、、今は元三大師の画像を本尊としてお祀りし大師信仰の根本道場となっているので、元三大師堂の別名でも呼ばれ、親しまれています・・・との事です。
大師堂中庭の隅には
2019、8,25比叡山 091-4v
誇らしげに石碑が立てて有ります。   ここで「ブラタモリ」から
ココのおみくじは、住職直々にお出ましになり、「元三おみくじ申込み」の用紙に「占ってほしい悩み事」を書いて住職に渡すと、住職が人生の悩み事かどうか判断して、占いをするかどうか決められるそうで、それから住職が本堂でご本尊にお伺いをたてるお経をあげてから、住職がおみくじ棒の入った箱から番号札を引き、その番号の引き出しから紙をだし、別室でその紙の説明をしてもらうやり方の「おみくじ」であり、自分で引くという行為は無いおみくじの様である。
で、ご本尊・・・?弥勒菩薩?
2019、8,25比叡山 094-4b
何処を探しても張り紙が無かったので、そ~とパチリ
大師堂を出て、さらに道が奥に続いていたので行ってみると
2019、8,25比叡山 096-4b
「天台宗修行道場」「比叡山行院」と書かれた門柱の後ろには修業道場により立ち入りを禁ずる・・・賛同のあるがままにとの看板、奥からは集団のお経が聞こえてきた。くわばら くわばら とそこから引き返し、参道のあるがままに歩いていると
2019、8,25比叡山 097-4n
鐘楼が目に入り、近寄ってみると、柱の縁に小銭が高く積まれていた。おそらく参拝者が鐘をついてお供えしたお金ではないかと考え、吾輩も今度は一突きごぉ~~~と、ハイ50円をお供えしておきました。
鐘楼の場から右に折れていくと横川中堂に向かいますが、参道はまっすぐ伸びていたのでそちらへ行ってみると、
2019、8,25比叡山 099-5t
恵心院と書いた立札。そこを入ってみると
2019、8,25比叡山 100-5q
その奥に、小さなお寺が
2019、8,25比叡山 103-5w
そばには信者さんが参拝者の方々を接待されていました。こんなの比叡山では初めて
で、中のご本尊「阿弥陀如来像」を写真に収めても良いかと尋ねると、「本人だけが利用するなら構いませんが、それ以外に利用される場合はお断りしています」との事、本尊の阿弥陀如来像の写真が恵心院の右のパネルに出されていたのでそれは映してOKとの事であったので
2019、8,25比叡山 105-5r
ハイパチリと・・・
2016年は恵心僧都(えしんそうず)(源信)が入寂されて一千年を迎え、天台宗では恵心僧都を讃える年とし、ご修業を積まれていたこの横川の地、恵心堂においてご本尊の阿弥陀如来とご縁を結ぶ、五色の紐をご用意いたしました。これは恵心僧都が入寂されるとき、ご自身の合掌の手と阿弥陀如来の手を結ばれたことに由来します。叡山浄土教の聖地この場所で恵心僧都を讃え、阿弥陀如来とのご縁を深くお結びください。
その左には、大きな板に「念佛法語」 (恵心僧都)がいっぱいに書いてあるが、吾輩は略
来た道を帰り、鐘楼を折れて
2019、8,25比叡山 108-5y
この道を下って行くと、舞台造の橋げたが見えたお堂「横川中堂」が見えてきました。
2019、8,25比叡山 111-5u
お堂の前の広場の隅に、西塔地域にもありました「平和地蔵菩薩」といわれる石仏が、こちらでは服を着せてもらい立っていました
2019、8,25比叡山 112-5i
横のプレートには、「平和地蔵菩薩」の説明が
 天台宗では、青少年教化活動の一環として、毎年比叡山を会場に小・中学生を対象とした「天台青少年比叡山の集い」を開催しております。
 この『平和地蔵菩薩』は、平成二十七(2015)年八月に第五十回の開催を記念して建立されました。
 このお地蔵様は、右手指三本を上げ、左手に数珠を持ったお姿をされております。右手の三本の指は、研修生たちの「三つの誓い」を表しています。
「三つの誓い」
一、道心ある人となります。
         (仏さまのようになろうとすること)
一、能(よ)く行い、能く言う人となります。
         (良い事を行い、正しい主張が出来る人となります)
一、一隅を照らす人となります。
         (自分のいる場所で一生懸命に生き、無くてはならない人になります)

今の自分を振り返ってみると、なんと恥ずかしい・・・失格デス(*^_^*)
2019、8,25比叡山 121-5p
横川中堂の「聖観音」でございます。撮影禁止の張り紙はありませんでした。
2019、8,25比叡山 120-5a
横川中堂
 このお堂は首楞(リョウ・ロウ)厳院と称し、横川の中心となる大堂です。
 第三世慈覚大師円仁上人が、嘉祥元年(848)に開創し、本尊に聖観音を祀った以来豊臣秀頼と淀君の再建したお堂は昭和17年夏、雷火で焼失しましたが、幸いに本尊聖観音は災火を免れ、昭和46年伝教大師入滅1150年遠忌の記念として、当時を偲ぶ朱塗の美しい舞台造が復元されました。
 また、新西国観音霊場第十八番の霊場でもあり、善男善女の信仰のメッカです。
 付近には横川全域に西国三十三か所の観音石仏めぐりも出来、静寂な霊域でもあります。
で、横川中堂の中へ参拝、
2019、8,25比叡山 122-5s
ご本尊が祀ってある周りには、信者さんがお供えした小さな観音像が沢山、こちらは本尊の横手、裏側は
2019、8,25比叡山 123-5d
しかしこれだけ並ぶと壮観な趣を感じます。お供えしか片の名前も書いてあったような・・・記憶があいまいになっており・・・((+_+))
と言う訳で、横川中堂からやっと駐車場絵たどりつき、奥比叡ドライブウェイの終点、仰木ゲートへ向けて出発
情報もとでは、この間に「奥比叡の霊泉」があるという、慎重に山肌を見ながら走っていると
2019、8,25比叡山 019-5f
それらしき雰囲気が見えてきた。気を付けて走っていなければ見落とししてしまうような所。
2019、8,25比叡山 023-5h
石垣の間から、結構な量の水が出ていた。その上水が汲みやすいようにと「とゆ」が入れてあった。汲みに来るのは良いが、通行料がいる事がネックになります。
水は冷たく、当時は陽気が暑かったので気持ちが良かった。
水をゲットし、ドライブウェイに時より出てくる展望台
2019、8,25比叡山 012-5j
こちらの琵琶湖は、琵琶湖大橋が一望でき、最後のゲート
2019、8,25比叡山 006-5k
仰木ゲートに到着。こちらからのゲートの雰囲気
2019、8,25比叡山 003-5l

「億比叡の霊泉(冷水)」の独断と偏見の水評価は
チョイト硬水寄りの水で、コーヒーがおいしく飲めた。
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_-)-☆
詳しい場所(たしかこの辺りで、正確では無いかも)





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NO305:比叡山延暦寺の「弁慶水」

2019、8,25比叡山 199-1q
だいぶ前から相方さんに「比叡山ドライブウェイ」に湧水が出ているところが在るそうな・・・と、比叡山延暦寺に誘っていたのだが、一向に良い返事が出ない。・・・で、相方さんの用事が有る日に、吾輩は待ちきれず一人で決行してきた。
比叡山奥ドライブウェイの道端に出ているという。ところが思いもよらなかった「弁慶水」と言う湧水がある事を知り2ヶ所の湧水を得る事ができた報告であります。(尚、湧き水が出ているのか確認するため奥比叡ドライブウェイの仰木ゲートから入り、田の谷峠ゲートから出たのですが、おはなしでは反対から行動したように書いています。あしからず)
京都と大津の比叡山越え、山中峠えの峠附近にある田の谷峠ゲートから入り
2019、8,25比叡山 262-1w
少し上がって行くと琵琶湖が眼下に見える駐車場が見えてきます
2019、8,25比叡山 260-1e
夢見が丘駐車場。そこには面白い石碑が立っていたので紹介
2019、8,25比叡山 261-1r
『比叡山野猿慰霊の碑』
     間  直之助 博士
 ひえい山のさると研究して
   えさを運びつづけた25年
      さるになった男に
         きようは 花吹雪
                  宮地傳三郎
良いか悪いかは別にして、日本で初めて猿の餌付けに成功された人物の様です。
2019、8,25比叡山 259-1t
ここから少し走った所から、本線をそれて比叡山山頂駐車場へ
2019、8,25比叡山 254-1u
周りを見渡せば
2019、8,25比叡山 250-1i
ガーデンミュウジアム比叡と、園内は有料の「陶板名画と季節の花の調和が美しい庭園美術館」だそうです。
京都からは比叡ケーブル、ロープウェイを乗り継いでここに到着で、ここからバスで比叡山延暦寺に・・・
下界の景色
2019、8,25比叡山 249-1o
ここから本線に戻り延暦寺の駐車場へ
2019、8,25比叡山 175-1a
比叡山の全体図
2019、8,25比叡山 176-1s
比叡山延暦寺の宗教施設は大きく分けて、中心の東塔エリア、修業施設が多く集まる西塔、奥比叡に当る横川エリアの三ヶ所に亘る。その延暦寺の国宝「根本中堂」が在る東塔エリヤからの案内です。
受付の手前にある看板「奥比叡八景」を見て
2019、8,25比叡山 182-111a
思いもよらなかった「弁慶水」なる湧水がある事をハッケ~ン(^_^)v地図も乗っていたのでそこには後程寄る事にして、受付で一枚の券ですべての施設が拝観できる「諸堂巡拝券」を700円で購入し境内に
この坂道を上って行くのですが、
2019、8,25比叡山 183-1g
国宝殿と書いてある看板が目に付き、写真撮影がOKなら入館して記事に書こうと尋ねてみたが×・・・((+_+))で、入館はやめて坂道へ、どこかの神社で見た図柄入りの「伝教大師・最澄」伝の看板
2019、8,25比叡山 185-1h
伝教大師(1)
    ご誕生:比叡山の東ふもと坂本には、後漢の孝献帝の子孫で日本に帰化した,三津首の一族が久しく栄えていた。ときに神護景雲元年(767)8月18日のこと、坂本の地には蓮華のはながふり、めでたいしるしがあらわれ、おりしも三津首百枝公の家に玉の様な男の子が生まれた。のちに日本天台宗比叡山の開祖となる、伝教大師最澄上人であった。
2019、8,25比叡山 186-1j
伝教大師伝(2)
神童広野さま:幼名は広野といい神童のほまれ高く、しかも敬虔(けいけん)な心の持ち主であった。7歳のころ村の小学に学んだところ、一を聞いて十をを知る天稟(てんぴん)の才能を発揮したちまち同輩を抜きんでて、ほぼすべての学芸をおさめ村人の師範と仰がれた。とくに仏道には、はやくから志があつかったという。
2019、8,25比叡山 186-1j
伝教大師伝(3)
仏門に入る:12歳の時、近江国分寺の大国師の行表法師(ぎょうほう)の門に入ることとなり、ご両親のもを離れて出家し仏法を学ばれた。そののち15歳に至って得度の許しをうけ、髪をおとし正式に僧侶となり、名も最澄と改めた。さらに20歳の春には奈良におもむき東大寺戒壇院において具足戒をうけ、僧侶としての資格をすべて具備された。
2019、8,25比叡山 188-1l
伝教大師伝(4)
仏舎利のふしぎ:出家ののち、行表法師のもとで勉学修業に励まれていたころのことである。父上のもとめに応じて故郷の比叡山のふもと神宮禅寺にこもり懺悔の行をおこなった。日ならずして香炉のなかに仏舎利を感得し、さらにその容器まで見つけられた。そこでこの仏舎利をまつり礼拝供養されたところ、多くの霊験があらわれた。
2019、8,25比叡山 189-1z
伝教大師伝(5)
比叡山に入る:奈良の都の仏教をつぶさにみて、清らかな山林こそまことの仏道の行われるべきところであると痛感された。そしてついに、延暦4年(785)7月に故郷の地にもどって初めて比叡山に登り山中に小さな庵を結んで、毎日大乗経を読誦(どくしょう)し、ひたすら座禅冥想につとめ一心に修業されたのであった。
2019、8,25比叡山 190-1x
伝教大師伝(6)
三尊仏を刻む:あるとき、庵室の北の峰に、昼は紫の雲がたなびき夜には白い光がたちのぼるのがみえるので、ふしぎに思ってたずねていくと香木のある古木がみつかった。それは仙人達がお譲りする霊木であった。大師は、早速身を清めて、一刀三礼のもと、薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来の三体の仏像をお刻みになった。
2019、8,25比叡山 191-1c
伝教大師伝(7)
比叡山の創建と不滅の燈:延暦7年(788)には比叡山寺(一乗仕観院、現在の根本中堂)を創建し、「阿耨多羅三藐三菩堤の仏たち我立杣に冥加あらせたまえ」(あのくたらさんみゃくさんぼうだいのほとけたちわがたつそまにめかあらせまえ)と祈られ、御自作の薬師如来を本尊とし、そのおんまえに永代不滅の常灯明を手づから供えて、「明らけく後の仏の御代まで光つたえよ法のともしび」と詠ぜられた。
2019、8,25比叡山 192-1v
伝教大師伝(8)
比叡山寺の落慶:比叡山のなかでまことの修行に励まれる大師の行動は、しだいに心ある人々の注目を集めた延暦13年(794)9月3日、めでたく竣工した比叡山寺一乗止観院(のちの根本中堂)の落慶供養の盛儀には、ときの帝桓武天皇が行幸され親しくこの法会に臨まれたと伝えられている。桓武天皇は平安京の鬼門にあたる比叡山寺を国家を鎮め護る道場とし、とくに大師の期待を表わされたのであった。
2019、8,25比叡山 193-1b
伝教大師伝(9)
法華の宣布と高雄講教:山中の堂舎の整備につとめる一方、比叡山新仏教の理念を中国天台大師(538~597)の法華経観に見いだされた大師は、この法華経の宣布に力を注がれた。そして、延暦21年(802)の夏和気氏の氏寺である京都高雄山寺でのせ盛大なる講演会に於いて、天台大師の三部作「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の各書を講ずるや、大師の名声はたちまち朝野になりひびいた。
2019、8,25比叡山 194-1n
伝教大師伝(10)
入唐救法:大師は、なお一層天台の教えを深く知るために唐(中国)に渡ることになり、弟子義真を通訳に連れて延暦23年(804)御年38歳の7月6日、遣唐使の一行とともに肥前国の田浦を出航された。たちまち暴風雨にあいいまにも船が沈みそうになったとき、大師は仏舎利を海に捧げて平穏を祈り、神仏の加護を得てようやく9月1日中国明州(寧波)の地に着くことができた。
2019、8,25比叡山 195-1m
伝教大師伝(11)
天台山での受法:中国における天台宗の祖山天台山(浙江省大台)に登り、天台大師の法灯を継ぐ道スイ?・行満の二高僧より天台の法門を残らず伝えられた。そのとき、天台の開かずの経蔵が大師の所持する八舌鍵で開くことができたので、天台山の僧徒はいずれも驚嘆し、秘蔵の典籍や法具までことごとく大師に授けたという。この八舌鍵はかって比叡山の土中より拾われたものであり、尓来、由緒ある重宝として今に秘蔵されている。
2019、8,25比叡山 196-2q
伝教大師伝(12)
天台宗の開立:八か月の在唐受法のすえ、当寺の仏教のすべてを学びとって延暦24年(806)7月に一年ぶりに無事帰国された。新たに将来された天台の法門や真言密教の教えを世に広めるよう、朝廷より、勅宣が下された。さらに、翌延暦25(806)1月26日には、南都6宗と並んで比叡山の天台法華宗(日本天台宗)が公認されるにいたった。
2019、8,25比叡山 197-2w
伝教大師伝(13)
弘法大師との交際:大師と共に平安初期、仏教界の二大名星と称される弘法大師(774~809)は、大師と同じくの延暦23年(804)に入唐留学された、両師のの交際は、大同4年(809)に弘法大師が比叡山に登ってこられたのに始まるという。その後しばらく親密な交際が続けられたが、弘法大師の真言密教至上主義は伝教大師の法華一乗の立場とは、思想的にあい容れないものであった
以上弘法大師の『絵巻物語』でありました。
開宗1200年落慶法要を記念して設立された「祖師御行績絵看板」
 この御行績を拝読されることを通じて、伝教大師による「一隅を照らす」人材養成の理念に触れていただき、また触れていただくことが国宝的人材のあふれる明るい社会の建設を資するものであると願ってやみません。
                    比叡山延暦寺
看板を詠み終えて坂を上り詰め広場に入ると
2019、8,25比叡山 201-2e
大講堂(重要文化財)が見えてきます。
2019、8,25比叡山 203-2r
 天台座主第一世義真和尚の建立によるもので、僧侶が学問研鑽のため論議する道場です。
 ことに慈恵大師が始修され、四年目ごとに行われる比叡山の古儀「法華大会広学堅議」は、一人前の天台僧となる為の重要な儀式、階梯として現在に続いています。
 現在の建物は昭和三十一年の旧堂焼失後、山麓坂本にあったものを移築したもので、堂内には比叡山で研修された各宗派の御開山の尊像が安置されています。
2019、8,25比叡山 202-2t
正面の写真ですが、堂内に自由に入ることができます。尚撮影は禁止との事です。
その端にある「開運の鐘」撞き堂で
2019、8,25比叡山 205-2u
情報では一突き50円との事、鐘楼の前では親子連れの記念撮影、邪魔をしてはと思いパスして次へ
2019、8,25比叡山 206-2i
この通りを下りて根本中堂(国宝)へ
2019、8,25比叡山 208-2o
チョイト変な根本中堂?・・・へ降りて行く参道へ
2019、8,25比叡山 209-2p
どうも改修しているらしく、根本中堂全体を工事用パネルで覆われていて、全くお堂が見えない・・・((+_+))
で、工事中だが内覧できるという事なので入ってみる事に
2019、8,25比叡山 215-2s
ここが根本中堂の入口で、工事中も同じ入口でした。
2019、8,25比叡山 216-2d
根本中堂を取り巻く回廊、これは実物デス
2019、8,25比叡山 218-2f
堂内に入る会談か?
そして、スリッパに履き替え
2019、8,25比叡山 219-2g
工事現場の様な通路を登って二階部分へ
『ところで今日9月21日、NHKのブラタモリ19:30~の放送で「比叡山~比叡山はなぜ母なる山になった?」をしていた。それを見ていたので、放送の内容を交えながら進めていきたいと思っています。後編は次の土曜日28日に放映されます。』
2019、8,25比叡山 220-2h
回廊の屋根を上からみた状態、檜皮葺きの屋根ですが、本殿の屋根は
2019、8,25比叡山 223-2j
こちらは瓦の様で、今は取り去っている状態。こんなことは珍しいので改修期間に来れたのがよかったのか・・・判らないが本来の姿の根本中堂デス
item_100681_5-111.jpg
堂内に1200年間消えずに燈る灯明があり、「油断大敵」の「油断」の語源になったとか、下記にウィキペディアから

比叡山延暦寺の根本中堂内陣にある不滅の法灯(ふめつのほうとう)は、西暦788年(延暦7年)に最澄が根本中堂の前身である一乗止観院を建立した時に本尊の薬師瑠璃光如来の宝前に灯明をかかげて以来、1200年間一度も消えることなく輝き続けていると伝わっているため、「不滅の法灯」と呼ばれる灯火。最澄の「明らけく後の 仏の御世までも 光りつたへよ法のともしび(仏の光であり、法華経の教えを表すこの光を、末法の世を乗り越えて弥勒如来がお出ましになるまで消えることなくこの比叡山でお守りし、すべての世の中を照らすように)」との願いを込めたと伝わる。消えずの法灯(きえずのほうとう)とも。

現在も菜種油を燃料にして灯芯が浸り、火が点るという原始的な構造の灯篭内で燃え続けている。毎日、朝夕の2回、燃料の菜種油を絶やさないように僧侶が菜種油を注ぎ足し続けている。気を抜くと燃料が断たれて火が消えることから「油断」の語源になったと言われている。なお、比叡山延暦寺は歴史上、数度の焼き討ちに遭っており、元亀2年(1571年)9月の織田信長の比叡山焼き討ちの際には「不滅の法灯」は消え去っているが、法灯は山形県山形市立石寺に分灯されて灯し続けられていたものが、再度延暦寺に再分灯で戻された。

根本中堂改修現場から出て来た様子
2019、8,25比叡山 228-2k
正面の石段の上に「文殊楼」があります。何回も焼失され再建されたもの
2019、8,25比叡山 231-2k
ここで延暦寺の説明を
2019、8,25比叡山 210-2a
比叡山延暦寺
 比叡山延暦寺とは大きく東塔・西塔・横川(通称三塔)にわかれ、この御山にあるすべての堂塔伽藍を総称して言いあらわしたものです。1200年の昔、伝教大師(最澄上人)により開かれたのに始まり、のち法然・親鸞・日蓮・道元・栄西・一遍など各宗派の祖師方が若き日々をここで学ばれました。それゆえ山は日本仏教の母山として千古の歴史を今に伝えながら霊山としてたたえられています。
東塔(ゾーン)
このあたりは延暦寺東塔であり、1200年間絶えたことのない不滅の法灯が輝く根本中堂(国宝)はじめ、各祖師像を安置した大講堂や比叡山中一番清浄な浄土院その他戒壇院・阿弥陀堂・文殊楼などがあります。また昭和55年10月には法華総寺院東塔も再建落慶されました。
西塔と横川は後程
東塔ゾーンには法華総寺院等がまだありましたが、チョイト遠いいのでパスをして駐車場へ・・・と
帰り道、こんなモノも目に入りました。
2019、8,25比叡山 235-2x
来るとき見てきた看板の通りには、対面に比叡山で修業した祖師の方たちの看板が目に入って来た。・・・が、今回は一つだけ紹介しておきます。それ以外はお参りに来て見て頂くという事で
2019、8,25比叡山 236-2c
弁慶のひきづり鐘
 山門(比叡山)と寺門(三井寺)とが互いに抗争にあけくれている頃の話
比叡山西塔の武蔵坊に居たと云う衆徒の荒法師弁慶は、つねに三井寺焼打ちの先鋒として攻撃をしていた。
ある戦いの時、三井寺の伽藍を焼いたうえ名鐘の一つを奪った豪力をもって任ずる弁慶は一人で引っぱって帰り大講堂につるしたと云う。その時の鐘は現在三井寺にもどり、引っぱられた時の傷がついたままほぞんされている。
というもの、間もなく駐車場に着「奥比叡八景」の看板に書いてあった「弁慶水」を探しに、看板の地図によると西塔へ行く道中にあるもよう。・・・で、すぐに見つかり
2019、8,25比叡山 168-2v
比叡山ドライブウェイ検問所の出て100m程行ったところに在りました。
ドライブウェイの一段上の場所に
2019、8,25比叡山 169-2v
車が上がれないので、リュックにペットボトルと漏斗と片手鍋を担いで行く事に
2019、8,25比叡山 174-2n
小屋には旋錠がしてあり水を汲む事ができない、どうも比叡山の水源として利用されている様である。小屋の前の方は、溢れ出た水が流れている。これが何とか汲めないものかと辺りを探してみると
2019、8,25比叡山 172-2b
小屋の右端と杉の大木の間に溝が彫ってあり、後ろの方から湧き出た水が流れ出て来ていたので、片手鍋により少しづつではありましたが、2本何とか汲む事ができてメデタシメデタシという事で!(^^)!
『弁慶修業の比叡の霊泉』弁慶が千日の間この水を汲んで、山王院に参篭したのが由来の水
で、東塔から西塔までは歩いてでも行ける距離ですが、次なる「奥比叡の霊水(冷水)」を目指してドライブウェイを進んで行きましたトサ。

「弁慶水」の独断と偏見の水評価は
相方さんも言っていたが、酸味が強調される飲み口で、硬水に近い軟水の様であった。嫌味なく喉越しも良く
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v
詳しい場所は



               

NO288:建部大社の「頼朝公の出世水」

2019,5、建部神社 022-1r
その日は、2019年5月1日、天皇の代替わりの日、マスコミはどこもかしこもこの放送で一色、吾輩はそんな事「知ったことじゃない」とばかり、相方さんが仕事の為一人で瀬田川攻めに行ってきました、今までは瀬田川の右岸ばかりを攻めてきたので、今回は左岸側を探していたら、面白そうな神社に「名水」がある事を知り行く事に。
着いてみると、神社なのでそうなのだが、天皇の代替わりの祝典の催しがされていた。
2019,5、建部神社 045-1q
瀬田の唐橋を渡り県道を進んで行くと鳥居と長い参道に突き当たります。県道はそれてどこかに行きますが、車はまっすぐ進めば駐車場へ行けます。
2019,5、建部神社 046-1w
その鳥居の入口に大きな看板が二つ、一つは建部大社の見取り図。その横に建部(たけべ)大社の年表が書いてあった。
チョイト面白そうなので少々書き出してみる。
 
年表
    景行天皇の第二皇子で名は小唯(おうす)と申し上げる
景行27年(300年)  小唯皇子九州熊襲を平定 これより日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と名乗る
景行40年(312年)  東征の途次駿河国にて草薙の剣(天叢雲剣)で難を逃れる
景行42年(314年)  日本武尊野褒野にて薨去
景行46年(316年)  御妃布多遅比売命が神崎郡千草嶽に社殿を創建し日本武尊を祀られたのが当社のはじまりである。
                                                          (上記は建部大社小史による)
白鳳4年(675年)   近江の守護人として瀬田大野山に遷し祀る
天平勝宝7年(755年)大巳貴命を権殿に祀る 近江国一之宮を宣る
永歴元年(1160年)  源頼朝平治の乱に敗れ伊豆に流される途次当社に参籠源氏再興を祈願する(平治物語より)
寿永2年(1183年)   木曽義仲軍が平知盛軍と当社の森にて野戦を行う
建久元年(1190年)  源頼朝右大将として上洛の折神恩に感謝し幾多の神宝を奉納
承久3年(1221年)   北条時房軍により焼き払われる(承久の乱)
貞応2年(1223年)   現在の地に奉還され一夜にして社頭に3本の杉が生える爾来三本杉を神紋とした
貞応2年(1221年)   北条頼経により社殿再建
建武3年(1336年)   建武の戦い 足利直義軍当社を中心に十万騎が駐屯  
正平4年(1350年)   足利直義軍と佐々木軍との戦いにより社殿ことごとく焼失
応永6年(1399年)   将軍足利義持社殿を再建
応永14年(1407年)  足利義満前途を祈願に参拝
応仁元年(1467年)   山名軍の兵火により社殿炎上(応仁の乱)
文久元年(1861年)   社殿総てご造営なる 現在の本殿
明治元年(1860年)   明治天皇奉弊使差遣
  伝々
との社歴があるそうです。まあ由緒ある大社という事です。さらにその横に建部大社の成り立ちの大看板が図柄も派手に
2019,5、建部神社 047-1e
近江国 一宮
    建部大社(たけべ)  御祭神:日本武尊
          由緒
 社伝によると、景行天皇46年(316)御妃布多遅比売命(ふたじひめのみこと)が神崎郡建部の郷(御名代の地)に日本武尊の神霊を祀られたのが始まりとされ、その後、天武天皇白鳳4年に、近江国の中心であった瀬田の地へと遷し祀られました。
 古来「唐橋(日本三大古橋の一つ)を制する者は天下を制す」といわれてきたように、瀬田川を挟んでの戦が数多く、当社も幾度となく戦火に見舞われていますが、その度に再建され現在に至っています。
 御祭神日本武尊は九州の熊襲(くまそ)族・東国の蝦夷(えみし)を平定され、日本の基を作られた英雄です。武勇必勝の神・厄除け開運の神として篤い崇敬を集めています。

という神社(大社)です。一之鳥居をくぐって参道を歩いて行くと、境内に向かって二之鳥居があります。吾輩は車で入って行ったので、二之鳥居の左横の駐車場へ入って行きました。駐車場からは垣根の間から手水舎に行きますが、二之鳥居からここまで来る参道には、先程の派手な看板と同じ図柄で日本武尊に因んだ物語が設置してあり
2019,5、建部神社 019-1r
一、ヤマトタケルの西征
ヤマトタケルノミコトは父(第十二代景行天皇)の御子:小唯命(オウスノミコト)として生まれています。
父はオウスノミコトに朝廷に従わない西国の九州:熊襲建(クマソタケル)兄弟を征伐するよう命じました。
熊襲建兄弟の館を見つけたミコトは、女装をして熊襲の女たちに混じり宴に紛れ込み、熊襲兄弟が酔ったところで忍ばせていた短剣で熊襲兄弟を討ちました。
熊襲兄弟を討った事から強者の称号である(タケル)の名をもらい、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の名で呼ばれるようになりました。
2019,5、建部神社 018-1t
二、ヤマトタケルノミコトと草薙の剣
西国征伐から戻ったヤマトタケルノミコトに景行天皇は東国征伐を命じます。途中、伊勢神宮に立ち寄り叔母のヤマトヒメから神剣:天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)と、火打具を授かりました。駿河の国に達したミコトに国造(クニノミヤツコ)たちは「沼に住む荒ぶる神に困っております」と、野に誘い出され四方から火を放たれました。
退路を断たれたミコトは、ヤマトヒメから授かった神剣で草をなぎ払い、、火打具で向かい火を放って野火から脱出します。
後に火で焼いた事からこの地を焼津(やいづ)静岡県といい、草をなぎ払った神剣は草薙の剣(クサナギノツルギ)と呼ばれるようになりました、
2019,5、建部神社 017-1y
三、后、オトタチバナヒメの入水
さらに東へ進んだヤマトタケルノミコトは、次に相模の国から船で海路を進み上総の国へ渡ろうとしました。
しかし、海が荒れ舟を進める事が出来ずにいると、同行していたオトタチバナヒメが、「私が海に入って海の神を鎮めましょう」といって自ら荒海に身を投じたのです。すると、たちまち荒れ狂っていた海は静まり、無事に対岸へつく事ができました。
2019,5、建部神社 015-1u
四、ヤマトタケルと伊吹山の神
東国を平定し尾張の国へ戻って来ると、今度は伊吹山に悪い神がいると聞きつけたヤマトタケルノミコトは、神剣:草薙の剣をミヤズヒメに預けて征伐に向かいました。
伊吹山を登る途中、牛ほどの大きな白い猪に出逢い、
「これは山の神の使いだな!帰り道で相手になってやろう」と大きな声で威嚇してやり過ごしました。
すると突然激しく雹(ひょう)が降り出し行く手をはばまれます。実は白い猪は山の神の使いではなく、山の神だったのです。怒りを買い雹に打たれて衰弱したミコトは、やっとの思いで山を脱出し故郷の大和の国を目指します。
2019,5、建部神社 014-1i
五、ヤマトタケルと白鳥伝説
大和の国を目指して歩き続けたヤマトタケルノミコトは、「足が三重弐に曲がり堅い餅のようだ」と嘆いた事からその地を三重(みえ)と呼ばれるようになりました。更に体調を悪くしたミコトは国偲びの歌を詠みます。
「倭は国のまほろば たたなづく青垣山隠れる 倭しうるわし」
と読み、伊勢の能褒野(三重県鈴鹿市)でついに力尽き息を引き取ります。・・・妻や子供たちが駆け付けると、ミコトの魂は白鳥にとなり能褒野から河内の志木(大阪羽曳野)へと飛び立ちました。今も白鳥伝説として語り継がれています。
看板の最後の止めに
2019,5、建部神社 020-1o
「幻の千円札」
昭和28年8月、日本で初めて作られた千円札。
東寺の最高額紙幣として発行されました。
図柄は御祭神である、日本武尊と当社の本殿が使用されています。
発光された枚数が極めて少なく、幻の千円札といわれています。
                        建部大社
初めて知ったこの事実、戦争終結で途絶えたのか?
2019,5、建部神社 006-1p
吾輩は、駐車場から神門へと進んで行ったので、仕切られた垣根を通り
2019,5、建部神社 008-1a
まずは手水舎
2019,5、建部神社 009-1s
手を洗っていると目の前の立札に
2019,5、建部神社 011-1d
御神水
当社では御神水として、エンコより自噴している霊水をお持ち帰りいただくことが出来ます。
エンコとは:地下100mぐらいの水脈より湧出する自噴式井戸のことです。
当地区独特の古くから伝わる呼び名であり、昭和30年頃までは瀬田のあちらこちらで見られ、共同で利用されていました。
と書いてあり、さっそく目的の名水がある事を確認、で神門へと
2019,5、建部神社 012-1f
あまり参拝客が写っていませんが、吾輩が滞在している間にも入れ代わり立ち代わりと、多くの人が来られていました、
神門をくぐって行くと、正面に
2019,5、建部神社 024-1g
一夜にして成長したといわれる三本杉のご神木と、その裏には拝殿が見えます。その横を通って裏に回りますと、本殿が
2019,5、建部神社 037-1j
本殿にも行って参拝する事ができます。
神門を入って左には社務所
2019,5、建部神社 026-1h
その奥の方にちょとした日本庭園がありますが、御神水はそちらの方に出ていました。
2019,5、建部神社 028-1l
手前に、水みくじ用の水盤があり、社務所で「おみくじ」を買ってきて水に浮かべると文字が現れてくるというもの
2019,5、建部神社 027-1k
御神水が頂けるところの手前にも
2019,5、建部神社 029-1z
水琴窟がありますが、普通瓶は土中に埋めてあるがここのは全体が地表に出してありました。水を早く汲みたさに、優雅に耳を澄まして聞く事はできませんでしたが、水琴窟の下の石碑には「重蔵窯:信楽伝統工芸士・五代目重蔵」と書いてあります。
ネットで調べた所、何代目の重蔵氏か分りませんが、水琴窟を地表に出して聞ける瓶を考案されたようです。
ソノの奥に「頼朝公の出世水」の出ているところが有り
2019,5、建部神社 030-1x
吾輩が着いた時には先客がおられ、話を尋ねると「彦根から週に一度くらい汲みに来ている」と、美味しい水ですかと尋ねると「ありがたい水で美味しいですよ」とのご返事、水を汲まれるのをお待ちして、吾輩はペットボトル3本頂きました。
本来は正面の柄杓が置いて有ります井戸から汲むのだそうですが、現在は、地下から直接汲み上げているとの事、その横の蛇口から水が出て来ます。
「頼朝公の出世水」の名前の由来は、『源頼朝が平治の乱に敗れて伊豆国に流される道中、建部大社に立ち寄って源氏の再興を祈願、後に大願成就したことから付けられたそうです』
水質検査成績表(2018年10月16日)
2019,5、建部神社 031-1c
主な項目を上げてみると
一般細菌:0  大腸菌:不検出  カルシウム・マグネシウム:18mg/L(軟水)  味:異常を認めず  臭気:以上を認めず
との事、安心して飲む事ができる水です。
汲み終えた後、境内を散策
2019,5、建部神社 033-1b
願石とお食い初めの石
2019,5、建部神社 036-1n
願石
当社に古くから伝承されています霊験あらたかな白石を持ち帰り願い事を石に書き朝夕、願掛けをしてください。
無事願い事が叶ったならば石は神様にお返しください。
神社で本殿にお供えいたし貴家の安泰を御祈祷させて頂きます。
                   【初穂料 千円】
お食い初めの石
お子様が一生食べ物に困らないように、生後100日に行われる儀式で歯固めの石と称し丈夫な歯が生えてきますようにという願いを込めて(お食い初めの石)を添えます。
当社では福石と申し無料でお分けしております。願い石の回りにございますのでお持ち帰りください。
他にも珍しいものが有ったようですが、吾輩はここまでで建部大社を後にしました。

もっと詳しく知りたい方は「建部大社のHPを見て下さい」

「頼朝公の出世水」の独断と偏見の水評価は
琵琶湖の伏流水だとばかり思っていましたが、一般細菌・大腸菌が検出されていないという事は、別の水脈の水なのだろう
軟水で、爽やかな美味しい水でありました。(コーヒーにして)
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v
詳しい場所





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NO279:岩間寺の「雷神霊泉」

2019,1、岩間寺 010-1y
つづき、受付の管理人さんいわく、「雷神霊泉」も今は出ていない。台風で山が崩れでなくなったとか、途中に在った「地蔵湧水」もそのときから出が悪くなったとの事。
入山料も払った後に聞いたので、岩間寺におまいりする事に、
2019,1、岩間寺 003-1u
この下の方に、以前出ていたという「雷神霊泉」が在るらしい、と歩きながら帰り寄ってみるかと、
2019,1、岩間寺 006-1i
本堂へ向かって歩いていると、まず目に入ったのが「ぼけ封じ観音」と鐘楼
その中に、ぼけ封じ近畿十楽観音霊場めぐりの看板も
2019,1、岩間寺 004-1o
吾輩はもう少し時間の余裕がありそうなのでパス、そして、次に目に入っ多あらたかな石堂。「白姫竜神」
2019,1、岩間寺 007-1p

2019,1、岩間寺 008-1a
  白姫(白山比咩)龍神
開山泰澄大師が加賀の白山で修業中白馬に乗った美女に会って尋ねられると「余は白山妙理大権現である。」と言われありがたく感じた。大師は当岩間山に白姫龍を勧請された。
女人がこの神を崇めると美女になるという伝承されている。
      岩間山 正法寺
との事、相方さんを連れてくるのだった。と、悔やんでみたが、厚かましいと・・・聞こえて来そうであった。
そして、岩間寺には仁王門が無いので近代的な
2019,1、岩間寺 009-1s
仁王像のお出迎え、そして、岩間寺の縁起
2019,1、岩間寺 011-1d
岩間山 正法寺(通称 岩間寺)
宗派  真言宗
本尊  秘仏千手観世音菩薩立像
ご詠歌  みなかみは  いづくなるらん  いわまてら  
          きしうつなみは  まつかぜのおと
 創建は、養老6年(722)越前の生まれの泰澄大師が、時の女帝元正天皇(第44代)の三十三歳の厄年の際のご病気を自らの法力により治されたほうびに勅命により建立したことにはじまる。西国33所観音霊場第12番ぼけ封じ十楽観音霊場第4番である。
 御本尊は泰澄大師が当地の桂の木より千手陀羅尼を感得し、自らその木で千手観音を刻み、胎内佛として元正天皇より賜った千手観音を込めたという。
 現在の御本尊は、その元正天皇の御念事佛、千手観音立像で、御丈4寸8分(約15センチメートル)、三国伝来のエンブダゴン(印度エンブ川より採れる砂金)金銅佛で『通称汗かき観音』『雷除観音』『厄除け観音』と呼ばれている。
 寺伝によれば、汗かき観音とは、御本尊は日没と共に御厨子を抜けだされ、毎夜136地獄をかけめぐり、苦しむ衆生を済度し、明け方お帰りになられた時には汗びっしょりになられていることに由来する。
 また、大師が七堂伽藍建立の際、度々雷が落ち、堂宇をことごとく焼失した。困り果てた大師は、自らの法力で雷を捕らえ、佛弟子にしたところ、雷は大師に二つの約束をした。すなわち、当山へお参りする善男善女には雷の難を及ぼさないこと、岩間山に先年万古つきることのない水を湧かせることの二つである。これが、『雷除観音』と呼ばれる由来で、毎年春に行われる雷神祭には多くの参詣者で賑わう。
 境内には、雷自らの爪で掘ったという「雷神爪堀の霊泉』があり、現在も絶えることなく豊かな水をたたえており、その霊泉には元正天皇御製の
  湧き出づる 岩間の水は いつまでも
            つきせぬ法の み佛のかげ
が伝えられている。
 往昔は、後白河帝、後宇多帝、正親町帝等の歴代天皇の尊崇篤く、日本三霊場の一つとして隆盛していた。

ふむふむ、読んでみてやはり水は枯れていると言われても、古来から絶えることなく出ていた現場を見ておかなければとの思いが一層強く湧いてきた。
そう言えば、駐車場の管理人さんが本堂で霊泉を販売しているとの事であった。
さらに歩いて行くと、こんな石柱が
2019,1、岩間寺 020-1f
左 石山観音堂 38丁(約109m×38=41,42kmでマラソンで走る42、195kmに近い)、今でこそ車でスイスイと来れるが、昔の人は山道でもあり、一日仕事であったであろう(*_*;
2019,1、岩間寺 021-1g
本堂が近い雰囲気が見えてきた。右に見えるのは信者さんの集会所、その奥の左に
2019,1、岩間寺 022-1h
かっこいいお堂「大師堂」おそらく泰澄大師がまつってあるのだろう。撮影禁止の張り紙が無いので、恐るおそる
2019,1、岩間寺 023-1j
ズームでパチリと、その奥に
2019,1、岩間寺 024-1k
稲妻龍王社:稲妻龍王は当山護法善神でこの銀杏の大樹に住む、よく水を司り雷難火難を除き大魔から護り給う  岩間寺
だそうです。その後ろに見えるのが「不動堂」
2019,1、岩間寺 026-1z
こちらも、パチリと拡大。
2019,1、岩間寺 028-1c
そして、「不動堂」のイワレは
2019,1、岩間寺 027-1x
不動堂は、寛政、・文化・昭和年間に再建を繰り返しているが、虫害ひどく、現不動堂は平成5年に再建。
○不動明王・二童子(せいたか・こんから)像(平安中期・重文)
 不動明王は、大日如来の使者または、大日如来が教化し難い衆生を救うために恐ろしい姿をとる。“教令輪身”であり、二大童子は、不動明王の使者八大童子の一つで、こんから童子は慈悲の化現で小心随順する意、せいたか童子は、こんから童子と共に不動明王の化身で、方便心行を司る。
○薬師如来坐像(藤原期・市重文)
○阿弥陀如来坐像(藤原期)
との事、あまりにも達筆な文字のため間違いがあるカモ(?_?)
そして本堂がこちら
2019,1、岩間寺 029-1c
こちらも拡大
2019,1、岩間寺 031-1v
・・・と写した後で、賽銭箱の後方下の方に撮影禁止・・・と、手遅れであった。
こちらは、長年の風雪にさらされ文字がかすれ読み取りにくく、内容的には岩間寺の縁起と同じだと思うのでパスさせて頂きますネ。
御霊木の由来
養老6年(722年)泰澄大師が元正天皇の勅を奉じて霊地を求めこの地に行脚された時傍らの桂の大樹内より千手陀羅尼経が聞こえた。そこで、その霊木を以て千手勧世音 吉祥天  婆蘇仙の三尊を刻まれ、その胎内に天皇の御念持佛を納め本尊と為し当山を開創されたと伝えられる
現存するこの桂は、その子孫に当る。
夫婦桂:第二室戸台風で二代目が倒れ時に残った、ひこばえて(切りかぶから出た芽)三代目霊木
それ以外にも境内には、西国三十三所観音堂、芭蕉の池等が在りますが、カメラに映ってませんでした。((+_+))
「古池や 蛙飛び込む 水の音」は、その池で詠んだと言われている。
その本堂で買った「ご霊水」がこちらである。
柏原のめいすい 126-2q
この「ご霊水」、NO265で書いた、岩間山の麓にある桜峠にほど近い「岩深水」のミネラルウォーターを製造する会社に委託されているとの事、岩間山の麓にある事から、「雷神霊泉」と同じと考えて良いのだろう。そこの社長さん、最近頓に話題になっている「ボランティアおじさん」ではないけれど、災害あれば自社の水をトラックに詰め込み現場にいち早く持って行かれるというボランティア精神旺盛な方らしい。岩間寺もその方を応援されて、「ご霊水」を委託されているという話を、駐車場の管理人さんから聞いたのである。この水かこの水で美味しい水であるが・・・
元来た道を引き返し、白姫竜神の石碑の後ろから
2019,1、岩間寺 012-2w
「雷神霊泉」へ行く通路があり、こちらから降りて行くと
2019,1、岩間寺 013-2e
さらに進むと
2019,1、岩間寺 014-2t
そして、小屋らしきものが見えてきた
2019,1、岩間寺 015-2y
そして下の方に池も見えてきた。
2019,1、岩間寺 018-2u
お堂に近づきパチリと
2019,1、岩間寺 016-2i
やはり、山が荒れてお堂も荒れ放題の様子、が横には
2019,1、岩間寺 017-2p
雷神霊泉  元正天皇 御製
わきいづる  岩間の水は  い津までも つきせぬ法の  み佛の影

で、どこか水が漏れてないかいな~と、周りを見回してみた。
・・・と、足元の斜面から
水が出て来ている
2019,1、岩間寺 037-2a
出ているのが判るかな~・・・この写真は水を汲んでから写したもの
で、このようなときにリックに入れてくる三種の神器(片手鍋・漏斗・ペットボトル)を取出し、しょんべん程の水量を根気よく片手鍋で受け取り、ペットボトルをいっぱいにするのに5分以上、、くたびれて1本で終りにした。まあ、地蔵湧水と合わせて2本取れたので良しとした。
カメラで当てずっぽうで出ている所を写したもの
2019,1、岩間寺 038-2s
「雷神霊泉」の独断と偏見の評価は
岩間山の「地蔵清水」と同じ飲み口で、硬水ポイ水で、こちらも見た目より美味しかった。ただ、上には境内が広がっている事から大腸菌には注意するべし!
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v
場所はこちら




NO278:岩間山の地蔵湧水

2019,1、岩間寺 001-1q
年も開けて、2019年初めての水汲みへ、年末行った石山寺の近くに西国三十三番札所「岩間寺」があり、この近くに2ヶ所湧水が出ているということから、引き続き瀬田川~宇治川流域の天然水を探すシリーズ第三弾と言う事で、行ってきました。
石山寺から瀬田川の下流方面へ少し行ったところから山側へ入って行き山道を上って行きます。
情報元ではこの山道の途中に地蔵さんの辺から水が出ているという、走っているとそれらしきところが見えてきた。
2019,1、岩間寺 041-1w
停まって水の出ている所を見てみると
2019,1、岩間寺 040-1e
エスロンパイプから出て来ている量は「雀の涙」これでは汲むのに15分以上はかかる(@_@;)・・・で、その為にポリバケツが設置してあるものだと・・・・という訳で、このバケツから頂く事にした。入れる事30秒、しかし1本でやめにした。雨水やほこりもバケツの中に含まれて入る・・・かも、と思いそれだけにした。
それから走る事スグ、
2019,1、岩間寺 002-1t
岩間寺の駐車場へ到着。正式名称は「岩間山・正法寺」です。
管理人さんと話をする中で、管理人さんも地蔵湧水をよく汲みに行っとられたとか、その時はもっとたくさん出ていたらしい。

「岩間山の地蔵湧水」の独断と偏見の水評価は
ポリバケツに溜まった水ですので、正真正銘の湧水かもどうかも判らないが硬水ポイ水で、思っていたとより美味しかったので
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vしときます
詳しい場所(少々クルっているかも



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