NO109:花の寺、如意寺の「閼伽井の水」

今回は天気が良かったので、急遽行ってきた関西花の寺、第七番札所・如意寺の「閼伽井の水」(あかすい)をお送りいたします。
京丹後市久美浜町にあるお寺で、この近辺のお寺としては観光客もお参りされるお寺として有名です。成相寺ほどではありませんが(^_^)/
こちらが仁王門

仁王門の前に開ける久美浜湾と兜山、

TOPの写真は兜山山頂からの眺めです。

如意寺縁起
天平年間(奈良時代)、行基菩薩が当地に留錫の折、山上より火出て海に入り、海より火出て山に昇るを見て網を引かせたところ如意宝珠を得た。菩薩は伽藍を建立しこれを納め、宝珠山如意寺と号された。これが当山の開基である。本尊は菩薩一刀三礼三年と伝えられる十一面観世音菩薩である。
鎌倉時代後期、伏見天皇は当寺に深く帰依され、正四位行左馬頭藤原定成を勅使として「如意寺」墨書の勅額を下賜された。当時は寺領五百石、院家十二坊の伽藍を有し栄えたが、応永年間(室町中期)の兵火でその多くを消失した。しかし、戦国期の天文、江戸期の寛文・寛延・寛政、また明治後半に大復興事業が行われるなど、往時より参籠・参拝する者常に絶えず、萬人帰依の寺院として今日に至る。宝永六年(1710)に宝珠を、大正七年には銅尖塔(平安後期)伽藍より出土し銅尖塔は国の美術品に指定されている。現在の伽藍は、参拝の便も考慮し、昭和38年より観音山から末寺大円寺跡であるこの飛び地境内の地に順次遷徒したものである。
御本尊は霊水「閼伽井の水」と共に眼守護のご利益で知られ本尊会である「千日会(8月九日)」には花火・灯篭流し大文字焼きなど町を挙げての夏祭りとなる。不動堂は昭和58年新改築で、当地出身の名工中村淳治棟梁の手による和・唐・天竺三様式融合、日本唯一の珍しい重層宝形造である。堂内には弘法大師爪彫と伝えられる日切不動尊をお祀りする。
庫裡の阿弥陀如来は平安後期、恵信僧都作と伝えられる桧の一木造の美しい坐像である。仁王門の金剛力士像は鎌倉初期の木像で重文級とされる。
また、当寺は「関西花の寺二十五ヶ所霊場」の第七番札所であり、年間約五百種類の花木や山野草が咲く。特に、境内周辺に密生する(みつばつつじ)自生林は四月初~中旬満開となり、一帯をピンク色に染めて見事である。
如意寺は高野山真言宗で無檀家。初詣をはじめ、厄除け・安産・病気平癒・交通安全・所願成就・七五三等の〈祈祷〉〈永代供養〉、また〈華寺巡り〉の団体参拝など、年間約十万人の参拝者が訪れる「花とご祈願の寺」である。
そして
吽形像(うんぎょうぞう) 阿形像(あぎょうぞう)


「阿」はものの「はじまり」を象徴し、万物の根源・真理に到達することを意味する。
「吽」はものの「おわり」を象徴し、一切の知徳がそこに帰結し悪の門を閉ざして罪悪を遮断する。
また、「阿」が出発点で、「吽」が結末であるというように、すべてには始めがあって終わりがある。
門を通るとき自分は今ちょうどその中間にいると自覚させてくれるのが仁王だと考えることもできる。
仁王は破摧(はさい)の武器である金剛杵を執り寺院の山門に立つ念弩の像である。
(如意寺の説明文から)
もう一つ珍しいモノが、曼荼羅宝壺(まんだらほうこ)

上からお賽銭を入れると、妙音を発し、胴体部分を手で静かに回せば、胎蔵界曼荼羅諸仏の高徳が得られます。当山・・・と書いてあります。寿円玉を入れるとい~い音色(*^_^*)
早速境内へ、
入って右の庫裡で「閼伽井の水」の場所を尋ねようと、宗教の小物を縁側に並べて販売しておられる所から声をかけたのだが「ふん」とも「すん」とも反応がない、そうこうしていると境内にお土産やら、大判焼きの露店を出しているおばちゃまが声をかけて下さり、尋ねてみると「上のお堂の奥の方にアルヨ」と親切に、とりあえずそちらの方に行って見る事に。
石段を登って行くと

不動堂:日切大聖不動明王が祀ってありるお堂が・・・ 日本で唯一の建築様式である「重層宝形造」らしい・・・で、中の様子は

お堂内での写真はキンシでしたのでこれでお勘弁を、その横には六角堂が

沢山の絵馬や折鶴が奉納されている様子を見ると、観光のお寺ではなく信仰のお寺だと思い知ることができます。
そして、横からさらに後ろへ回ると、本堂がありました

本尊は「十一面観音」で、眼守護のご利益で知られています。「十一面観音」は秘仏だそうで、

奥に立っておられるのがそうです。
その「眼守護」の霊水が「閼伽井の水」であります。それはこの本堂の裏手にひっそりと、ひっそりと流れ出ていました。

この祠の中を覗いて見ると

な、なんと一筋の雫、そのパイプをよ~く見ると

粋な計らいが・・・椿の葉と思われるものが、パイプの受水に利用されて。「閼伽水」が流れて来ています。
この水をペットボトルに入れるには何時間かかるかと・・・思案した挙句、祠に溜まっている水を頂く事に(^_^)/~
・・・ところが、三本ぐらい入れた所で異変に築き、よ~く見ると水が濁っている!一本目はまだ不純物が少なく飲めるようでしたが、二本、三本目はどうも祠の底に積年のヘドロが浮き上がって入ったようである。どうも欲を出したバツが降りたのではないかと思い、二本は地球にお返しして、一本だけは出てきている水を直接ボトルに入れて終わりにした。一本入れるのに15分ぐらいはかかってしまったが、納得の一本を持ち帰る事が出来ました。(^_^)v
例の如く後ろを覗いてみると

パイプが山肌の中から、それより、この祠が明治の造りのようで今ビックリ(祠の横に明治三と書かれている)
結局ポリ容器に二本頂いて帰る事に、その後少し山野草を楽しみ










ミツバツツジの季節は終わっていたようです。
仁王門まで下りてきて、親切に教えてくれた露店で大判焼きを「かみさん」に買って帰ろうと、「子供も今は家におらず二人住まいなので」と言いながら、アン入りとクリーム入りを二個ずつ頼むと、なっ!なんと「一個ずつ二個おまけしてあげる」とサービスしてくれた、悪いと思いその半額を余分に払うと、いらない・・・と断られたのだが、気持ちだからと払って如意寺を後にしました。
いや~、こんなことはお互い気持ちの良いモノでー(向こうはどう思っているか分からないが)好い一日になりました。
それから、久美浜を紹介するために、久美浜湾を一周して帰る事に、
湾内の一コマ

湾内と外海の水戸口に掛かる湊大橋

砂州の中の一コマ

そこから見た兜山

ここから見ると兜の格好をした山に見えます。
そして、その頂上には

京都府選定文化的景観
文化財の名称 京丹後市久美浜湾カキの養殖風景
選定年月日 平成20年3月21日
所在地 京丹後市久美浜町
区域 京丹後市久美浜町河内、湊宮、久美浜1区の各一部
面積 約470ヘクタール
久美浜湾は日本海の内湾にあたり、椀の周囲は約28㎞に及ぶ。久美浜町を流れる多くの河川を受け入れ、水戸口と呼ばれる部分で日本海に注いでいる。
この湾口は幅30メートル、深さ3メートル、長さ300メートルと狭小であることから湾内は日本海の荒波を受けにくく、一年中波は穏やかである。
日本海に面した潟湖は、原始、古代を通じて、大陸からの文物や高度な技術の導入をはかる上で欠かせない天然の良港であったため海上交通の基点となった。隣接している函石浜遺跡から中国「新」の時代に鋳造された「貨泉」が出土していることから当時の交流の様子がうかがえる。その後、こうした潟湖は、河川による土砂堆積により姿を消したものも多いいが、久美浜湾は現在まで潟湖が残る数少ない事例であり、現代では新たな生業の場として活用されている。
湾内の波が穏やかな事に注目した地元有志は、昭和12年に試験養殖に成功し、昭和25年頃からカキ棚を作って養殖を開始した。
その後養殖拡大方法の研究がなされ、昭和34年には久美浜湾に適した養殖技術が完成した。
現在湾内4ヶ所でカキ棚が敷設され総数は合計300基を超える。特に河内湾は海底までの深さが数メートルと浅いこともあり、海面から杭を打ち込み、それに棚を敷設する昔ながらの方法が残っており、当地の文化的景観を特徴づける大きな構成要素となっている。
波穏やかな久美浜湾にカキの養殖筏が列をなして浮かぶ風景は、京都府北部を特徴づける良好な文化的景観となっている。 京丹後市教育委員会
以前来た時より全体的に荒れ放題という感じですが、どちらが良いのか私には分かりません

登山道路の入口も分かりにくく、道も大分荒れてきていました。


写真で見ると、道幅は余裕があるようですが一杯です。入口も海側の反対甲山地区の方から入りますが、できればハイキングで登られることをお勧めいたします。その入り口近くには

ヒラヤ乳業(美味しい牛乳で有名)の丹後ジャージー牧場があり、数年前からミルク工房が出来ていましたので寄ってみる事に

お店の前、人が写っていませんが多くのお客さんでごった返していました。中の売店御様子

お客の多くは、カップルやら子連れのヤングママばかり、くるとこを間違えたかな~と感じながらも、ガンバって買ったのがコレです。

かっこよくいうと・・・ストロベリーのジェラートです。すぐたべちゃいました

ところで、「閼伽井の水」はその後、家に帰ってみると、結局一本しか飲めるものは無く、味わって飲んだ結果
独断と偏見の味ランクは、近年ない爽やかな飲み口の水で、あんなチョロチョロしか出ていない水ですが、長年大切にされてきたのが分かるようです。ただ、眼に良いかどうかは分かりませんデスタ
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v
詳しい場所は
大きな地図で見る
おわり
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