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NO109:花の寺、如意寺の「閼伽井の水」

    久美浜閼伽水 061-b
今回は天気が良かったので、急遽行ってきた関西花の寺、第七番札所・如意寺の「閼伽井の水」(あかすい)をお送りいたします。

京丹後市久美浜町にあるお寺で、この近辺のお寺としては観光客もお参りされるお寺として有名です。成相寺ほどではありませんが(^_^)/
こちらが仁王門
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仁王門の前に開ける久美浜湾と兜山、
   久美浜閼伽水 039-b
TOPの写真は兜山山頂からの眺めです。
   久美浜閼伽水 037-b
        如意寺縁起
 天平年間(奈良時代)、行基菩薩が当地に留錫の折、山上より火出て海に入り、海より火出て山に昇るを見て網を引かせたところ如意宝珠を得た。菩薩は伽藍を建立しこれを納め、宝珠山如意寺と号された。これが当山の開基である。本尊は菩薩一刀三礼三年と伝えられる十一面観世音菩薩である。
 鎌倉時代後期、伏見天皇は当寺に深く帰依され、正四位行左馬頭藤原定成を勅使として「如意寺」墨書の勅額を下賜された。当時は寺領五百石、院家十二坊の伽藍を有し栄えたが、応永年間(室町中期)の兵火でその多くを消失した。しかし、戦国期の天文、江戸期の寛文・寛延・寛政、また明治後半に大復興事業が行われるなど、往時より参籠・参拝する者常に絶えず、萬人帰依の寺院として今日に至る。宝永六年(1710)に宝珠を、大正七年には銅尖塔(平安後期)伽藍より出土し銅尖塔は国の美術品に指定されている。現在の伽藍は、参拝の便も考慮し、昭和38年より観音山から末寺大円寺跡であるこの飛び地境内の地に順次遷徒したものである。
 御本尊は霊水「閼伽井の水」と共に眼守護のご利益で知られ本尊会である「千日会(8月九日)」には花火・灯篭流し大文字焼きなど町を挙げての夏祭りとなる。不動堂は昭和58年新改築で、当地出身の名工中村淳治棟梁の手による和・唐・天竺三様式融合、日本唯一の珍しい重層宝形造である。堂内には弘法大師爪彫と伝えられる日切不動尊をお祀りする。
 庫裡の阿弥陀如来は平安後期、恵信僧都作と伝えられる桧の一木造の美しい坐像である。仁王門の金剛力士像は鎌倉初期の木像で重文級とされる。
 また、当寺は「関西花の寺二十五ヶ所霊場」の第七番札所であり、年間約五百種類の花木や山野草が咲く。特に、境内周辺に密生する(みつばつつじ)自生林は四月初~中旬満開となり、一帯をピンク色に染めて見事である。
 如意寺は高野山真言宗で無檀家。初詣をはじめ、厄除け・安産・病気平癒・交通安全・所願成就・七五三等の〈祈祷〉〈永代供養〉、また〈華寺巡り〉の団体参拝など、年間約十万人の参拝者が訪れる「花とご祈願の寺」である。
そして
 吽形像(うんぎょうぞう)    阿形像(あぎょうぞう)
 久美浜閼伽水 045-a     久美浜閼伽水 044-b
「阿」はものの「はじまり」を象徴し、万物の根源・真理に到達することを意味する。
「吽」はものの「おわり」を象徴し、一切の知徳がそこに帰結し悪の門を閉ざして罪悪を遮断する。
また、「阿」が出発点で、「吽」が結末であるというように、すべてには始めがあって終わりがある。
門を通るとき自分は今ちょうどその中間にいると自覚させてくれるのが仁王だと考えることもできる。
仁王は破摧(はさい)の武器である金剛杵を執り寺院の山門に立つ念弩の像である。
                    (如意寺の説明文から)
もう一つ珍しいモノが、曼荼羅宝壺(まんだらほうこ)
   久美浜閼伽水 041-b
上からお賽銭を入れると、妙音を発し、胴体部分を手で静かに回せば、胎蔵界曼荼羅諸仏の高徳が得られます。当山・・・と書いてあります。寿円玉を入れるとい~い音色(*^_^*)
早速境内へ、
入って右の庫裡で「閼伽井の水」の場所を尋ねようと、宗教の小物を縁側に並べて販売しておられる所から声をかけたのだが「ふん」とも「すん」とも反応がない、そうこうしていると境内にお土産やら、大判焼きの露店を出しているおばちゃまが声をかけて下さり、尋ねてみると「上のお堂の奥の方にアルヨ」と親切に、とりあえずそちらの方に行って見る事に。
石段を登って行くと
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不動堂:日切大聖不動明王が祀ってありるお堂が・・・ 日本で唯一の建築様式である「重層宝形造」らしい・・・で、中の様子は
    久美浜閼伽水 -b
お堂内での写真はキンシでしたのでこれでお勘弁を、その横には六角堂が
   久美浜閼伽水 002-b
沢山の絵馬や折鶴が奉納されている様子を見ると、観光のお寺ではなく信仰のお寺だと思い知ることができます。
そして、横からさらに後ろへ回ると、本堂がありました
   久美浜閼伽水 032-b
本尊は「十一面観音」で、眼守護のご利益で知られています。「十一面観音」は秘仏だそうで、
   久美浜閼伽水 033-b
奥に立っておられるのがそうです。
その「眼守護」の霊水が「閼伽井の水」であります。それはこの本堂の裏手にひっそりと、ひっそりと流れ出ていました。
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この祠の中を覗いて見ると
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な、なんと一筋の雫、そのパイプをよ~く見ると
   久美浜閼伽水 012-b
粋な計らいが・・・椿の葉と思われるものが、パイプの受水に利用されて。「閼伽水」が流れて来ています。
この水をペットボトルに入れるには何時間かかるかと・・・思案した挙句、祠に溜まっている水を頂く事に(^_^)/~
・・・ところが、三本ぐらい入れた所で異変に築き、よ~く見ると水が濁っている!一本目はまだ不純物が少なく飲めるようでしたが、二本、三本目はどうも祠の底に積年のヘドロが浮き上がって入ったようである。どうも欲を出したバツが降りたのではないかと思い、二本は地球にお返しして、一本だけは出てきている水を直接ボトルに入れて終わりにした。一本入れるのに15分ぐらいはかかってしまったが、納得の一本を持ち帰る事が出来ました。(^_^)v
例の如く後ろを覗いてみると
   久美浜閼伽水 013-b
パイプが山肌の中から、それより、この祠が明治の造りのようで今ビックリ(祠の横に明治三と書かれている)

結局ポリ容器に二本頂いて帰る事に、その後少し山野草を楽しみ
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久美浜閼伽水 015-b 久美浜閼伽水 017-b
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久美浜閼伽水 024-b 久美浜閼伽水 030-b
   久美浜閼伽水 019-b
ミツバツツジの季節は終わっていたようです。
仁王門まで下りてきて、親切に教えてくれた露店で大判焼きを「かみさん」に買って帰ろうと、「子供も今は家におらず二人住まいなので」と言いながら、アン入りとクリーム入りを二個ずつ頼むと、なっ!なんと「一個ずつ二個おまけしてあげる」とサービスしてくれた、悪いと思いその半額を余分に払うと、いらない・・・と断られたのだが、気持ちだからと払って如意寺を後にしました。
いや~、こんなことはお互い気持ちの良いモノでー(向こうはどう思っているか分からないが)好い一日になりました。
それから、久美浜を紹介するために、久美浜湾を一周して帰る事に、
湾内の一コマ
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湾内と外海の水戸口に掛かる湊大橋
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砂州の中の一コマ
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そこから見た兜山
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ここから見ると兜の格好をした山に見えます。
そして、その頂上には
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     京都府選定文化的景観
文化財の名称 京丹後市久美浜湾カキの養殖風景
選定年月日  平成20年3月21日
所在地     京丹後市久美浜町
区域      京丹後市久美浜町河内、湊宮、久美浜1区の各一部
面積      約470ヘクタール
 久美浜湾は日本海の内湾にあたり、椀の周囲は約28㎞に及ぶ。久美浜町を流れる多くの河川を受け入れ、水戸口と呼ばれる部分で日本海に注いでいる。
 この湾口は幅30メートル、深さ3メートル、長さ300メートルと狭小であることから湾内は日本海の荒波を受けにくく、一年中波は穏やかである。
 日本海に面した潟湖は、原始、古代を通じて、大陸からの文物や高度な技術の導入をはかる上で欠かせない天然の良港であったため海上交通の基点となった。隣接している函石浜遺跡から中国「新」の時代に鋳造された「貨泉」が出土していることから当時の交流の様子がうかがえる。その後、こうした潟湖は、河川による土砂堆積により姿を消したものも多いいが、久美浜湾は現在まで潟湖が残る数少ない事例であり、現代では新たな生業の場として活用されている。
 湾内の波が穏やかな事に注目した地元有志は、昭和12年に試験養殖に成功し、昭和25年頃からカキ棚を作って養殖を開始した。
 その後養殖拡大方法の研究がなされ、昭和34年には久美浜湾に適した養殖技術が完成した。
 現在湾内4ヶ所でカキ棚が敷設され総数は合計300基を超える。特に河内湾は海底までの深さが数メートルと浅いこともあり、海面から杭を打ち込み、それに棚を敷設する昔ながらの方法が残っており、当地の文化的景観を特徴づける大きな構成要素となっている。
 波穏やかな久美浜湾にカキの養殖筏が列をなして浮かぶ風景は、京都府北部を特徴づける良好な文化的景観となっている。      京丹後市教育委員会
以前来た時より全体的に荒れ放題という感じですが、どちらが良いのか私には分かりません
登山道路の入口も分かりにくく、道も大分荒れてきていました。
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写真で見ると、道幅は余裕があるようですが一杯です。入口も海側の反対甲山地区の方から入りますが、できればハイキングで登られることをお勧めいたします。その入り口近くには
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ヒラヤ乳業(美味しい牛乳で有名)の丹後ジャージー牧場があり、数年前からミルク工房が出来ていましたので寄ってみる事に
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お店の前、人が写っていませんが多くのお客さんでごった返していました。中の売店御様子
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お客の多くは、カップルやら子連れのヤングママばかり、くるとこを間違えたかな~と感じながらも、ガンバって買ったのがコレです。
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かっこよくいうと・・・ストロベリーのジェラートです。すぐたべちゃいました・・・はい、おしまい

ところで、「閼伽井の水」はその後、家に帰ってみると、結局一本しか飲めるものは無く、味わって飲んだ結果
独断と偏見の味ランクは、近年ない爽やかな飲み口の水で、あんなチョロチョロしか出ていない水ですが、長年大切にされてきたのが分かるようです。ただ、眼に良いかどうかは分かりませんデスタ
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v
詳しい場所は

大きな地図で見る

おわり
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NO92:甲坂のお不動さんの清水

1023,12,8 ワイフの○○歳の誕生日に行けなかった、うどん屋さんに日曜日の8日の日に行く事になっていた所、朝刊に、京丹後市久美浜町にナベ鶴が飛んで来ているという記事を読み、急遽久美浜まで足を延ばすことに!ついでに湧水も探して汲んで来ようという事に決定。
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パソコンで探した情報によると、京丹後市久美浜町杤谷甲坂という所に、「甲坂のお不動さんの清水」と言う湧水が出ている処が有り、その近くに滝が有ると書いてあったので、時間が許せば滝観にも行ってくる計画を組んだ。運がよければナベヅルにも出会えたらとの気持ちで・・・

「うどん屋さん」と言うのは、これも隣町の京丹後市大宮町に昨年開店したお店で、「さぬき風うどん」を出してくれるのです。注文してからうどんを湯がくので時間が掛かり、昼飯時に行けば長~く待っていなければ食にありつけないため、お客が減りそうな1時半過ぎ位を目指して行く事にして、AM9時過ぎ位に久美浜に向けて出発しました。
栃谷の甲坂に行くには、国道312号から集落に入って行くのだが、入口が分かりにくく、初めに入って行ったところにはイボ地蔵さんが祀ってあるとこに出てしまった。
甲坂地蔵菩薩 036-b
この地蔵さんの云われは
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       イボ地蔵尊の由来
◇杤谷・荒神下にある通称イボ地蔵尊は、六面の石に六体地蔵尊が刻まれている石造仏で、石屋弥陀六(いしやみずろく)の作と伝えられ、最も古い尊像と言われている。
◇この地蔵尊附近に、元和年代(1615年頃)には大阪城落城による落武者の子孫が住んだ十戸余りの村が有り、その村の辻堂に成ったものと言われている、明治初期には小字名にちなんで「ヲイカケ地蔵」と呼ばれたこともあったが、霊験あらたかで祈願すれば、イボをとったり、マラリアを治す奇瑞があり、多くの人々がお供えしお陰を受けたので「イボ地蔵尊」と呼称されている。
     祈願の作法
お参りの作法は、先ず礼拝し、その場で藁縄をなって、石像仏に結いつけて祈願し、お帰りには、後ろを振り向かない。これが祈願成就の作法と伝えられています。
 お陰を受けた後は、ワラ縄を取り外し「イボ地蔵尊祈願御礼、えと、男女別」を印した布旗を供えることも作法のうちと言われています。
  平成二年十月吉日    管理者 杤谷区

という事で、再度国道に出てから、杤谷の集落に入り甲坂へと車を向けた。
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こんな山道を登ってきた山の中腹に在りました。
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下から見たお堂
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正面から見たもので、お花が新しく、麓から歩いてくるには30分はかかる距離ですが、大事にされている事が分かります。
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筒から活きよい良く湧水は出ているのですが、後ろを見ると
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上の方から黒いパイプが引いてあるようだ。で、いつものスケベ心を出して、滑りながら道のない斜面を登って湧水が出ているであろう所へ
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コンクリートの貯水槽が作ってあり、溜まった水をパイプで降ろしているようでした。こんなところまで登って来れたのも、この季節吾輩の大大だ~い嫌いな「蛇や蝮」と出会う心配しなくて良いので登れたのです。

そこから降りようとしていたら、ワイフが「おと~さん滝が有るでー」と大きな声で知らせてくれた。で、そちらの方に行くと
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うむー、滝と言えば滝だが、滝を見物に来る値打ちのある滝とは言えねえな~、水を汲み終えてもう少し上へ林道を登ってみる事にした。
少し上がると行き止まりの広場に出ました。
甲坂地蔵菩薩 031-b 甲坂地蔵菩薩 032-b
右はNTTの中継基地への進入路の為、進入禁止の鎖が。
滝に上がる登山道は
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思いのほか整備されていました。右は、吾輩を置いてすたこらサッサと登って行くワイフであります。
上がりきると
  
a href="http://blog-imgs-46.fc2.com/m/i/z/mizukumiman/20131226215901394.jpg" target="_blank">甲坂地蔵菩薩 022-b
甲坂不動尊の立派なお堂が在りました。その横には
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         「天長の滝」整備事業
この事業は、本町が平成三年度に京都府の生活排水対策重点地域に指定されたことを受け、平成8年度に環境庁の身近な水辺環境再生事業補助金を受けて施工したものです。
 「天長の滝」は、古来より一年中枯れることもなく、「命の水」として利用され親しまれてきました。
この場所は、遠く久美浜湾、日本海を望み風光明媚な景勝地でもあります。
 恵まれた自然を生かし、豊かな水辺空間を整備しましたので、末永くご利用ください。
 吾妻屋:一棟 平石張り歩道:46,6㎡ 水路工:22,1m 玉砂利敷き:194,3㎡ 階段工:68,0m 植樹ほか
これが「天長の滝」です
  甲坂地蔵菩薩 016-b
先ほどの案内板の絵からすると、偽装の絵なんじゃなぁ~い、と言いたくなる滝ですが、後ろを振り向くと
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日本海と甲山(かぶとやま)が山間から見えます。
地元の人が誇りに思う天長の滝の良さは、日本海が見えるという位置に滝が有るというのがイイのではと思えてくる場所です。それも、年中水が枯れない滝の有り難さ、もしやこの水は湧水ではと、湧水にすると結構な水量ではないでしょうか。
で、この界隈の紹介を
お堂とその内部の甲坂不動尊です
  甲坂地蔵菩薩 024-b   甲坂地蔵菩薩 023-b

「天長の滝」は、天長年間に弘法大師がこの地を訪れ岩に向かって印を結んで祈ったところ、水が流れ出して滝となったと言われています。その横には爪で彫ったという不動明王坐像が見られます。
  甲坂地蔵菩薩 026-b
水と、弘法大師の繋がりは相当強い様で、多くの所で弘法大師伝説がかたられています。
観るとこは見たので引き返す事に、次なる目的であるナベヅルを探しに!
情報では。久美浜湾にそそぐ川上谷川の河口付近に飛来して来ているとの事、河口から上流に向かって進むも居りそうな気配無く、あきらめて帰りかけた時に、ワイフが「おとーさん、あれは何」との声、そちらを見ると
  甲坂地蔵菩薩 039-b
田圃の中でエサを探している鳥の様子、しかし、ナベヅルにしては少し違うような
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もしかして!コウノトリではNO62の城崎強調文で写した鳥とは確かに違う!
甲坂地蔵菩薩 041-b
羽のクロさの位置といい、大きさとイイまぎれなもなく「コウノトリ」に違いない!そういえば、コウノトリの郷公園は、久美浜町の山を越えた所に在るのである。飛んで来ているという情報も聞く。
今回は、ナベヅルに逢う事はできなかったが、幸せを運ぶ鳥(我々はだいぶ年増なので関係ないが)コウノトリに出逢え幸せな気分で久美浜を後にする事ができました。
帰りに寄る「うどん屋・匠」に向けて出発、時間もPM1時で丁度頃合いでした。
店舗は、以前から店主が何回となく変わっている処で、うどん屋らしくない店構えです。
  甲坂地蔵菩薩 045-b
店主の出身は四国で、天の橋立のホテルでコックをしていて独立されたとか、お店にはうどんの仕込みのやり方が書いてあり、冬と夏で塩かげんやその他変えているとか、うどんも注文されてから湯がくので、少々時間待ちしなければなりません。
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店内御様子です。腰がしっかりしており、前回大盛(2束)を頼んでアワや食べきれないとこでしたので、今回は並のカレーうどん、ワイフはうどん通なので、釜揚げうどんをたべ、ワイフの誕生日安く上がりました(吾輩持ちなので)。
  甲坂地蔵菩薩 043-b
残念ながら食べ終わった後の情景です。  

「甲坂のお不動さんの清水」の味ランクは、この辺の湧水では美味しい方ではないかと思っています。
独断と偏見の
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v でした。

詳しい場所は 

大きな地図で見る


NO72:上山地区の「飲料水」

NO69:野間地区水源水「ガラシアの清水」(仮)、スイス村からの続きパートⅡをお送りします。
丹後半島の風景も案内しながら書いていきます。

スイス村を後に、「父の日」の愛妻?からの贈り物、碇高原ステーキハウスでのステーキお食事会。
NO26:野村の清水でも、少しカジリましたが、ステーキハウスです
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その店内は
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早かったので、お客様は二組でした。それで撮影をさせて頂きました。

早速、注文を!
特選和牛ヒレ・ステーキ(160g):4200円
特選和牛サーロインステーキ(180g):4200円
オージービーフ:ヒレ・ステーキ定食(160g):2950円

予算はステーキ定食の2950円と決めていたのだが、いざメニューを見るとオージービーフが・・・方や特選4200円コースは和牛と書いて有る。  愛妻と2950円を4200円にランクアップの交渉するも一蹴^_^;粘るも結果差額は吾輩持ち、ナンタルチーチの日か
まずは前菜のサラダ             続いてスープ
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 こちらが吾輩        こちらがオージービーフ定食
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吾輩にはライスはついていませんでしたが、腹いっぱいで満足の食事会デスタ(^^)/
碇高原の四季もいかがですか(^.^)/~~~

碇高原の下に位置する上山地区に湧き水があると出ていたサイト を手掛かりに上山地区に行って見る事に、その道は碇高原の端から車一台が通れるくらいの道を降りて行けば着く予定で進みました。
集落の入口に、パート1で書いた金剛童子山の説明書きの中に出てきた上山寺が建っていました。
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その説明書き
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今日はビールを飲んで酔っていますので、次回書き出します。
     上山寺
市指定文化財:木造十一面観音菩薩像
市指定文化財:石造宝篋印塔 二基
市指定文化財:石造五輪塔
市 史 跡 :上山寺歴史環境地区
 上山寺は、丹後で最も古い由緒を誇る古寺の一つである。
伝えられる縁起によれば、開山は、隠岐国の佐々木隠岐守で、夜ごと十一面観音が夢に現れ、「東州へ行き仏閣を建て仏像を安置せよ」とのお告げがあり、名を明法上人と改め、海上に出て丹後国袖志浦に漂着の後、谷内村を越えて深山に入り、一堂を建て観音像を安置したのが始まりと伝えられる。時に天応元年(781年)のことという。
 当時に残る文化財には、木造十一面観音菩薩像、石造篋印塔、五輪塔があり、市指定文化財となっている。この他にも多数の石塔・石仏が伝えられている。
●木造 十一面観音菩薩像は内刳の全くない一本造で、その彫は素朴で平安時代後期の製作と思われる。
●石造 宝篋印塔二基も造形的に優美なもので、「永徳元(1381)大願主結集十三人」「永禄九(1567)八月日敬白」と刻銘があり、時代的にも明確である。
●石造 五輪塔も、上山寺に数多いい石塔の中でも優美なもんである。台座に「奉書写 大乗妙典 一字一石一部 当山開白天応元 開山明法上人 願主 寺尾 舜盛 永禄八年(1565)迄785年」と刻銘がある。
 このように 指定の優美ですぐれた文化財のみならず、多数の石塔・石仏が伝えられており、上山寺は丹後町における仏教文化を代表する古寺であり、上山寺歴史環境地区として地域全域を市の史跡として保全につとめている。
                   京丹後市教区員会
という事は、上山地区自体が丹後町の史跡となっている珍しい集落のようである。
後程聞いた話ですが、上山地区には現在5世帯の住民が住んでおられるとの事、週末には古民家を別荘代わりに使っている人や、別荘を建てて遊びに来る人が数世帯いらっしゃるとの事です。
その集落の様子        
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で、肝心な湧水を探し求めるも分からず、例によって地元の方に尋ねる事に、ちょうど炭焼き製造販売の幟が立っていたのでお邪魔して聞くことに、
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集落に溶け込んだログハウスの粋な建物、尋ねてみると上山地区にはそんなものは無い!でも集落で飲料水に使っている水は、山水をろ過したもので、塩素は使用していないとの事、よろしければと言う事で頂いて帰る事にしました。家の中では失礼にあたるので外に設置してある蛇口から頂いてきました。
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ホントは炭の話などもっとしたかったのですが、先を急いでいたので親切な心配りにお礼を言って山を降りて行きました。
丹後半島一周道路に出る手前に、吉野の里宇川温泉が有ります。
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ココの地名を「吉野の里」と言われているのは、推促ですが役行者が開山した「金剛童子山」と役行者ゆかりの地「奈良の吉野山」を重ねて昔から言われているのではないかな~と思えるのです。
写真写りが悪いので、詳しくは宇川温泉「吉野の里」で見てください。

今回行きたいと思っていた。航空自衛隊 経ヶ岬分屯基地を一目見るため・・・と言うのも最近になってこの周辺に「Xバンドレーダー」米軍専用基地を作る話が持ち上がってきているのです。この話は、北朝鮮がロットの実験を言いだしてから出てきた話で、日本の為と言うよりかアメリカ本国でミサイルを迎撃するための必要なレーダーという事らしい。

丹後半島一周道路に出て、経ヶ岬方面へ少し走ったところに見えてきました。
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そして、山の上には
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ドーム型のレーダーが見えるかな~
噂では、近辺の田んぼに米軍基地を作るとか・・・これ以上植民地の様に好き勝手させて良いものだろうか(?_?)
基地の正面入口は、さすが吾輩でも撮りにくかったのでパス。その基地に入って行く道をそれると、基地の横にはこの辺では有名な穴文殊のお寺さんが、
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その云われは
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       穴文殊(清涼山九品寺)
 文化11年(1810)に、当地を巡礼した修験者野田泉光院は、「本堂末向(ひつじむき)、桜門あり、前に松並木二丁ばかり、本堂後ろにくどの如き大石、双方より海中に出ず」と記してるが、本尊文殊菩薩の足下には海から続く大洞穴があるところから、穴文殊と呼び親しまれている。
 本尊文殊菩薩は、足利時代の作と言われ元は経ヶ岬の海蝕洞(海心洞)に安置されていたが、慶長14年(1609)この地に遷仏したと伝えられる。
 また、本堂及び山門は、江戸時代中期の建築である。  文殊大祭典 八月二十四・二十五日

穴文殊さんの境内一帯は基地のフェンスが張り巡らされていて洞穴には行けそうにありませんでした。
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で、経ヶ岬まではすぐそこなので、久し振りに寄って来ることに・・・向けて出発
駐車場に着いて分かったのですが、初めて来たときは、丹後半島一周道路から歩いて、一度海岸まで下りてそこから山道を登り約1時間ほど(記憶が定かではないでーす)かかった思い出が残っていましたが、今では車で半島の出っ張りの付け根の駐車場まで行けば、遊歩道を歩いて約10分ぐらいで行けます。
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山道になれない者にとっては結構しんどい10分です。
この日は暑い日でしたので、でっぱりの山頂に在る展望台には心臓の鼓動の関係上ドクターストップがかかり断念!
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入口を入った広場は一段高く、灯台のレンズがまる見えです。
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灯台から見た景色
左の方向(海だけ)       右の方
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経ヶ岬燈台の概略
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     ~日本初の水銀槽式回転機械~
 近畿地方最北の地に位置するこの燈台は、明治政府による富国強兵に伴う海運動成政策の一環として、明治三十一年(1898年)12月25日に設置されました。この燈台及び付属機械は、140メートル下の海岸で切り出した角閃石安山岩を加工、運搬して、約2年余りの歳月をかけ苦難の末に完成しました。また、近畿地方では唯一の第一等フレネル式レンズを使用し、レンズの回転をスムーズにするため、フランス人考案の水銀槽式回転機械を輸入使用した第一号の燈台でもあります。

    位置:北緯35度46分38秒   東経135度13分24秒
   光り方:群閃白光 毎20秒に3閃光
  光の強さ:28,0万カンデラ
光の届く距離:22、0海里(約40,7キロメートル)
    高さ:地上から燈台頂部約12メートル
       水面から灯火 約148メートル
  
 管理事務所:舞鶴海上保安部
       電話0773-76-4120
    海上保安庁  橙光会  日本財団

さらに
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現地では、燈台の全体像を収める事が出来ず、この掲示板の写真が全体像です。
その横の説明書きは
 経ヶ岬は丹後半島の先端に突き出した近畿最北端の岬です。
 この岬の海岸には、規則的な縦の割れ目をもち、何本もの柱が積み重なった様に見える岩石が露出しています。この割れ目は噴出した熱い溶岩が冷え固まる時にできた柱状節理と呼ばれる割れ目です。
 この柱上節理のようすが、いくうもの経巻を立ち並べたように見える事から、「経ヶ岬」の名がついたと言われています。
 経ヶ岬には海抜140mの位置に燈台があり、ここから見える景色は京都百景に選ばれています。

この説明書きの内容は初めて知ったもので、吾輩は、岬の近辺の海は海流の流れが激しく、海が荒れやすいので航海の安全を祈って、お経が岩に彫ってあるところから「経ヶ岬」と名前がつけられた。と聞いていた。

日も傾いてきたので帰路につく事に、
景色の良い処を・・・丹後松島と呼ばれている景色
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屏風岩と呼ばれている景色
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天気が良かったので海の色もバッチリ(^_^)v
シーカヤックで丹後半島一周漕覇をしている時、吾輩の知り合いが雨が降らず、台風が来なければ、経ヶ岬周辺は沖縄の海より透明度が良いと言ってたのを思い出した。

ところで、上山地区の「飲料水」は飲み始めは美味しく頂けましたが、他の湧水から比べると日持ちが悪いようでしたので
独断と偏見の味ランクは
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v しておきます

詳しい場所は、上山地区を入れておきます。







NO69:野間地区水源水「ガラシャの清水」(仮)

今回は、「父の日」に碇高原・ステーキハウスに食べに行っても良いと、我が大蔵大臣が言って下さったので、ついでにその近辺の湧水も頂いてくる計画を立てました。今回もパートⅠとパートⅡに跨った(またがった)内容になります。
パートⅠの野間地区は丹後半島の中心部に在り、そこの大谷区に大量の湧水が出ており、野間地区の水源にも利用されているという情報を得て、そこに寄ってからステーキハウスに向かう事にしました。
その折、明智光秀の三女玉子(のちに細川ガラシャ)が幽閉されていた味土野地区を紹介したいがために、本来野間地区に行くコースは、京丹後市弥栄町黒部から入って行くのですが、そうすると湧水の出ている処からさらに奥に入って行かなければなりませんので、金剛童子山という面白い名前の付いた山の裾野の交通量の少ない林道のような道から直接味土野に行くコースを選びました。
それは弥栄町等楽寺から入って行くのですが、私は10年以上通っていなかったので不安な気持ちで行きました。
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こんな山道を登って行きます。
途中、離村した地区の石碑が
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その石碑を見守るようにお堂もありました。
この道を降りて行けばその集落跡に行けるのかも
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さらに山道を登って行くと見晴らしの良い所に、
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しばらくして、金剛童子山の登山道入口に、そこには
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金剛童子山の風変わりな名前の成り立ちが書かれてあった。
        役小角と金剛童子山
 役小角(えんのおづぬ)は七~八世紀に大和国葛城山にいた実在の人物であるが、後世修験道の祖として信仰を集め、役行者(えんのぎょうじゃ)とも呼ばれている。
全国各地には役小角が登ったと伝えられている山がたくさんあり、高下駄を履き鬼神を従え、独特の風貌をした像も多数残されている。
 『丹哥府志(たんかふし)』によると、役小角が金剛童子山を「業場」として、開いたとされている。
また金剛童子山の道筋に「休堂」「かねかけの業場」「ミタライの池」「行者堂」「西の業場」等があるとしている。現在それらのすべてを確認することはできないが金剛童子山周辺が、修業の場であったことは確かであろう。
地元では金剛童子山の事を熊野山、行者山とも呼んでおり、往時は七堂伽藍が存在していたと伝えられている。上山寺(京丹後市丹後町上山)は、明法上人開基を伝えるが、『丹哥府志』には役小角が金剛童子山を開いた際に、庵を結んだところといわれている。

追伸: 金剛童子とは密教の護法神  庵を結ぶとは小さな小屋を作ることらしい、上山寺はパートⅡでとりあげます。尚、役小角(役行者)はNO65の「ごろごろ水」で大峯山修験導師「母公堂」や龍泉寺の開祖として出てきていますが、この地元丹後にも関係があった人物として何か「奇遇」を感じます。地元では、上山寺あたり一帯を「吉野の里」と呼んでいるようです。  
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今回の収穫そのⅠでした。(以前から金剛童子山の名前の由来に関心があった)
金剛童子山へ行かれた方のHPです

そこを後にして進むと、間もなくガラシァ隠棲の地味土野地区に着きました。
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ココでも離村された方たちが記念石碑を建てられていました。多いい時で160人ぐらいの住民が住んでいたという、今では移住者3世帯5人らしい。
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こんな雰囲気の中、ガラシャ記念碑の周辺は整備されていました。
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少し長くなりますが・・・
        細川ガラシャ略伝
細川忠興の妻、玉子(玉)。永禄六年(1563年)明智光秀の三女として生まれる。天正六年、16歳の時織田信長の命により後に丹後田辺城(減舞鶴市)の城主となる細川幽斎の嫡子忠興に嫁いだ。天正10年6月本能寺の変により、父光秀が信長に謀反を起こした。光秀は忠與を味方に誘ったが、忠與はこれを聞かず玉子を離別幽閉し自分は羽柴秀吉軍として出陣し、光秀と山崎で戦った。玉子の父光秀の死後、家臣は自害を進めたが「私は忠與の妻、主人の命を聞かずして事を決することは婦道にそむく事です」とこれを聞き入れず、愁思のうちに二年の月日をこの地で過ごすことになった。秀吉はこれを憐れ忠與は再び妻として玉子を迎えた。
その後、キリスト教に入信し、「ガラシャ」の洗礼名を受けた玉子は、忠隆、忠秋他三子を授かった。しかし、平穏な日々も束の間、慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いで、徳川家康に従い東征についた夫忠興の留守に大阪細川邸にあった玉子は石田光成の軍勢に囲まれ、人質として大阪城へ入城を迫られたが、「私が人質として入城すれば堅武士の夫忠與の足手まといとなります」と自ら邸宅に火を放ち壮烈な最期をとげた。享年38才夏の事である。辞世の句は有名である。
  散りぬべき時知りてこそ世の中の
            花も花なれ人も人なれ
数奇な運命に彩られ、夫忠與のため殉じて果てた玉子の生涯は戦国の世に咲いた一輪の花として現在に語り伝えらえている。
   身をかくす里は吉野の奥ながら
            花なき峰に呼小鳥啼く  玉子
                     京丹後市教育委員会

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昭和11年当時の味土野(「細川忠興夫人隠棲の地記念碑除幕式記念」)

女城跡 「御殿屋敷」ともいわれ、細川ガラシャ夫人の城跡と伝えています。
男城跡 女城と谷を隔てた向かい側の尾根にあり、細川ガラシャを警護するために作られた城跡と伝えられています。

この場所は「御殿屋敷」とも言われ、天正10(1582)年の本能寺の変の後に、2年間、細川ガラシャが隠棲した時の居城があったと伝えられています。周囲には、ガラシャが信仰したと伝えられている観音跡や古井戸、蓮池跡などがあります。
              京丹後市教育委員会
この女城は石碑の立ってるところのようです。
ガラシャの取材?を終えたので、次なる目的地・湧水探しへと下って行った。途中味土野の大滝があったと探すのだが見つからずパス。
しばらく走って行くと、カーナビが目的地付近につきましたとアナンウンスしたので、ゆっくり走っていると見つかりました!、須川上水道
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その反対側には、湧水を利用している養魚場が有りました。その近くに湧水が汲める様に
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その上には、源流から来ているであろう水がパイプから出ていました。よく見ると、ソコから下のタンクへ水は流れているようでしたので、汲むのはもちろん上でという事でそちらで頂きました。
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源流はどうも草むらの奥の方です
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一つ目の湧き水は無事ゲットできたので、ステーキハウスへ!  昼飯には時間の余裕があったので丹後半島の避暑地?スイス村へ寄って行く事に・・・
野間地区の中心野中から丹後縦貫林道に入って行きます。味土野側からは橋を渡って右に少し走ると道の上にハイカラなレストランが見えています。 その名も天風~イイ名前 写真がチョイト小さい^_^;
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さらに進むと、山の上から風力発電が・・・
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縦貫林道に入るとさらに不気味に立ち上がっているのが見えてきます。
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その方向へ進むと、スイス村へ
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施設の状況、時期的に休業の様子・・・山の家付近や風の学校京都 三階レストラン等々営業をしています。
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雪のないスキー場
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駐車場には面白い車
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詳しくは="森林公園「スイス村」">森林公園「スイス村」のHPで見てね(^_^)/

・・・という事でスイス村の紹介も無事終わり、待望の碇高原「ステーキハウス」へ、
第一部 終わり

第二部に入る前に保津峡の名水「保寿泉」をお送りいたします。

で、野間地区水源水「ガラシャの清水」(仮)の水評価は、現時点一月たってもおいしく飲めますので
独断と偏見の味ランクは
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v です

詳しい場所は


NO57:正徳院の越水

今回は隣町京丹後市網野町の正徳院の裏山から湧き出ていると言われています「越水」をお送りします。
網野町浅茂川という所に出ている水で、近くには静御前の生誕の地があります。
静御前といえば、源義経の愛妾として有名である。後程生誕の地を尋ねる事にし、まずは浅茂川へ

正徳院の「越水」はWEBで見つけたのですが、詳しいことが出ておらずタダ浅茂川に在るという事だけでした。
そのため、農協の保険外交員で網野町からこちらに来ているという方に聞くと、なんでもお寺の入口に在るらしい・・・?という事でとりあえずお寺を目指して出発した。
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網野町浅茂川に着いてお寺はすぐ見つかった。しかし、お寺の山門前を走ってみるのだが見つからない、他のお寺が在るのか探してみるのだが他にはない、思い余って地元の住民の方に尋ねる事に、すると、先ほど走ったお寺の石段の左の路地を入ったところに在る事を教えてくれました。上のお寺の写真がそのお寺です。
そのお寺の山門の横には、イロイロとユニークな石仏が置いて在りました。
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どうです、この石仏群  面白いでしょう(^_^)/

・・で、水を汲む場所はどこに有ったかというと、山門の左に路地が在り、その路地の片隅に下の写真の汲み場所が整備されて在りました。
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蛇口が付いていてどこかから水を引いているようです。
横に、京丹後市教育委員会作成の「網野ふるさと自慢百景」の一つになっているそうで、古くから地域の人たちに親しまれているようです。
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水を入れて本来なら水源地を探しに行くのでですが、お寺に入って行くには敷居が高かったのでやめました。
説明書きを書いておきます
『越水(コシミズと呼ぶのだろうか?):正徳院裏山の岩の間から湧出する清水で、お茶の湯に使われています。
なお、長禄三年(1459)に記された「丹後国郷保庄惣田数帳」浦富保の「性徳院」は「正徳院」の事と思われます』
と書かれてあります。
この正徳院の裏山には、水無月神社も祀った日吉神社がありますが、その裏には「静の里:浅茂川温泉」もあり、「越水」が湧き出してきている山も近年は開発されて湧水は大丈夫なのかなと不安もよぎります。
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この水無月神社の祭礼が7月下旬に盛大におこなわれています。その祭りはカワソッサンと言われていますが、この地に残る浦島伝説の島児神社と水無月神社を取り合わせた祭りのようです。

水も頂き、次に村おこしとなる地元の観光地巡りに、とりあえずその浦島伝説の神社に行って見る事にしました。
お寺の前の河口です
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その河口を海の方へ行くと、浦島太郎が祀ってある神社の鳥居が在ります。
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島児神社
京丹後市網野町および浅茂川には、浦島伝承が伝わっています。島児神社は浦島子(浦島太郎)を祀る神社です。この近辺には網野神社(京丹後市網野町網野)と六神社(京丹後市網野町下岡)にも祀られています。
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砂浜に在る可愛い社の神社です。 この辺の人は石仏が好きなのか横にはこのようなものもありました。
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次に紹介するのは、鳥居の写真の裏に移っている浅茂川温泉:静の里。紹介すると言っても、当日風邪気だったので温泉に入るのは止めたので写真だけですが紹介しておきます。
この浅茂川温泉は、丹後地方の日帰り公営温泉の先駆けとして設立され、以後京都北部には多くの日帰り温泉が出来ています。この温泉はプールもついていて幅広く利用されているようです。
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詳しくはHPを見てください。

その浅茂川温泉の下を通り過ぎて、静御前の神社があるという磯地区に向かいました。断崖絶壁の道を進んで行くと
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子午線公園なる看板が見えてきました。こんな所にこんなものが有ったかな?と初めて見るものだったので、降りて見学に行く事に、な!なんと日本子午線最北端の地という素晴らしい?ところでした。
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この階段を上って行くと
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子午線塔のモニュメントが立っていました。
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この公園の入口の石垣に面白い説明書きが在りました
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読めない人のために書いておきますネ  

      日本中央標準時 子午線最北の塔
このモニュメントは、網野町のローマ字の頭文字「A」をデザイン化したもので、統計135度の子午線上最北の地に位置し、日本標準時、世界標準時をデジタル時計で表示しています。時差は軽度15度ごとに1時間ですので、日本とイギリスの間は9時間差があります。時計の電源には太陽電池を利用しており、昼間太陽電池によって太陽の光エネルギーを電気エネルギーに変換し蓄電池に蓄え、その蓄えた電気エネルギーを利用して時計を動かしています。
また、昔から「北は子の方角」「南は午の方角」と呼んでいましたので、経度線を子午線といい、このモニュメントの土台には「十二支」と「東西南北」が刻んであります。

と書かれていますが、子午線の意味を初めて知りました。^_^;
子午線公園から見た海の景色です。
丹後半島方面            磯地区方面
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次に向かったのは静神社。
静神社は、浅茂川地区から写真のような道を約2kmほど行った磯地区に在ります。
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このような絶壁に近い海岸べりに食らいつくように家々が建てられています。長年平安時代以前から居住されているので、住めば都なんでしょうね。
そのの家並みを過ぎたあたりに静神社がありました。
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説明版は
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       静神社
悲劇の英雄、源義経の愛妾であった静御前を祀っているのがこの神社です。
静は磯の禅師の娘として生まれ、京に出て、白拍子になり義経に見初められたのですが、義経が追放された後は故郷の磯に帰り晩年を過ごしたという事です。
義経が磯の惣太という船持ちの豪族にあてた手紙が残っていたという江戸時代の記録もあります。しかし、この手紙や多くの遺品は天明二年の大火で神社と共に消失してしまい、残念ながら残っていません。現在の社も、元の所から西へ200m離れた位置に建てられ、静御前の木造が祀っています。

独断的な考察:まず白拍子とは遊女らしい、それも高級がつくらしい。 静御前をウィキべディアで探しても現地の磯の事は伝説の項にも載っていない。静御前の伝説は各地に残っているようですが、ココ磯地区の伝説は、静御前の母親といわれる 磯禅師 の名前に磯という字がついているから、それに結びつけてまことしやかに伝えられてきたのではないだろうか?しかし、行方知れずで・・・静御前は吾妻鏡という物語に出てくる人物のようで実在してたのかどうか? デス

という事でこんかいの「正徳院の越水」の旅はこれで終了しました。

「越水」の評価は、独断と偏見の
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v 
でした。美味くもなくそれとてまずマズクもないといったところデス。

詳しい場所は
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