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NO267:竹生島の湖底深井「瑞祥水」

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琵琶湖バレーの頂上の神社に湧水がわいているとの情報を聞き、9月の連休16日に出発予定をしていたところ天候が思わしくなく、敬老の日17日に延期をして行くことになった。出発は天気も良く気分爽快に琵琶湖へと車を向けて走っていた。
いつもの事だが、京都東ICから西大津バイパスに入り湖西道路へと進んで行くと、四車線から二車線(片側一車線)へと減車線していくのである。ここで渋滞が発生、一度は1時間以上抜けるのにかかったこともあり、今回試しに、西大津バイパスの志賀里ランプ北で降りて、地道を走り再度湖西道路の坂本北ICで入って行くことにした。志賀里ランプ北を下りる時は車の流れは順調そのもの、下りるのに忍びなかったが心を鬼にして地道に降りて行った。そこから比叡山ケーブル駅の方面に向かい再度、京阪比叡山駅方面に下りて行き、そのあたりから坂本北ICに入り湖西道路へと上がって行ったのでした。坂本ICでは車線が片側一車線になっており、車の流れもユックリではあるが動いていたのであった。要した時間は10分もあっただろうか、渋滞にはまらず乗り切ることができ和邇ICで降りました。
ところが下界は晴天なのだが、ロープウェイが上って行く先の比良山系は山並みが雲に隠れ見えない^_^;
どうするか相方さんと協議の結果、とりあえずロープウェイの出発駅まで行ってみようと道を登って行ったのだが、ロープウェイ駅に行くまでに料金所が現れ通行料2000円と表示されていた。登るべきか引き返すべきか協議の結果、2000円がもったいないとの結論に・・・・・で、ど~するとなり、これまた協議の結果竹生島に行った事無いから行ってみようと・・・・
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・・・と、ここまでたどり着いた。
駐車場から乗り場まで歩いて行く途中、「琵琶湖周航の歌資料館」なるものが目に付いた。
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入場無料という事だったので、早速入ってみることに
館内の中心には
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漕艇が鎮座していた。
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日本独特の競漕艇で、固定席であることからフイックス艇とよばれます。
安定性があるため琵琶湖周航にも使用されましたが、昭和40年代に国体などでの競技種目からはずれ、利用者が減少、姿を消してしまいました。
平成5年に琵琶湖周航の復活を願う愛好者の手で2艇が建造され、後に今津町に贈られました。
全長13、7m 幅1,25m 乗員は漕手6人、コックス1人
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往年の写真、下は蓄音機
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それで聞く「琵琶湖周航の歌」
ところが、この琵琶湖周航の歌は、元歌があり「ひつじぐさ」という

と言う歌だったの事。吾輩もこの資料館で初めて知ったのであります。
館内を一通り観終わって外に出て気付いたのが
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ひつじぐさ
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可憐な花は
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琵琶湖周航の歌原曲は吉田千秋作曲の「ひつじぐさ」です
 周航の歌発祥の地である今津ではこのヒツジグサを増やそうと努めています。ヒツジグサは富栄養化した水では育たないので、琵琶湖浄化のシンボルともなるのです。
 千秋は若くして亡くなりました。その前年、「サーワトキンス(大杯スイセンの仲間)」の球根2球を購入し自宅に植えたのですが、花を見ずして永眠しました。この水仙が現在千秋の実家で美しく咲いています。
 今津でも実家からいただいた球根をここで増やし、歌と花を愛した吉田千秋を偲びたいと思います。
そして観光船のりばへ
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切符を買いに中へ入ると
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人はあまりいない。やはり廃れているのかな・・・・と、心の中で思いながら時刻表を見ると30分以上出発時間に余裕がある。
職員さんに竹生島のレストランを聞くと簡単なものしかないらしい、ここで腹ごしらえをしていく事にして、
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二階の食堂へ,
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20人ぐらい座れる広さの食堂、正面のメニューに本日のランチ「厚切り豚のしょうが焼きー540円」お~安い!!
すぐさま決定・・・きました
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540円、如何でしょ~安いと思うか(*^_^*)高いと思うか(+o+)  食べていると沖の方から
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船影が、竹生島から帰ってきた定期船
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桟橋にバックで着けるようだ
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船内からは思っていたより多くのお客さんが下りてきた。
こちらも、この船に乗らなければならないので、レストランを後に下りていくと、下船した人たちと、昼飯を食べている間に乗船する人が増えていてごったがやしていた。23:10分発の船に乗り込む人の列
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吾輩も乗り遅れないように、写真を写してさっそく乗船
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乗船料:往復2500円出発進行(^_^)/
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一路竹生島へ25分の船旅(^_^)/~
竹生島に近づいてきました
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もうすぐ接岸です
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こちらの船は、彦根から来た船
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上陸してお土産店の前を歩いて奥に行きます
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4,5軒並んでいるお店の前を通り過ぎると受付があります
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券売機で、おひとり様400円を払い入山
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くぐり抜けると石段を上がって行くと踊り場があり、さらに石段を上がって行くと「宝厳寺」があり、上がらずに右の道を行けば「都久夫須麻神社(つくぶすま)」に行きます。われらは石段をさらに上るには体力が持たないので右へ行くことにした。
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昔ながらの神仏習合(混淆)が神仏分離によって仏と神に分けられた島のようです。ここで、パンフレットから「竹生島」の名前の由来を
「(神を)斎く島(いつくしま)」に由来し、そのなかの「いつくしま}が「つくぶすま}と変じ、「竹生島」になりました。
また、「竹生島」という漢字は、島の形が雅楽などで使われる楽器の笙(しょう)に似ていることから付けられたというせつもあります。
写真の上にある工事中の建物は唐門(国宝)と言うて「秀吉が建てた大阪城極楽橋の一部で現存唯一の大阪城遺構。
その下の通りを通り
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観音堂(西国三十三ヶ所の観音霊場三十番札所)の土台の横を抜けると
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弁財天が祀ってありました。日本五弁才天の一ヶ所だそうで、吾輩も財の方をあやかろうとお願いしときましたが、おそらく神はその下心を見透かしていらっしゃるであろう(?_?)
その奥に、龍神拝所がありその鳥居をめがけて「カワラ投げ」ができます
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かわらなげのお皿の売り場、
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2枚300円でお皿を買い求め、1枚のお皿に願い事を書いて、もう一枚には名前を書いて鳥居めがけて投げます
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鳥居をくぐれば願い事が叶うと・・・・・どうみてもくぐったお皿は少ないよう、自信のない吾輩はやめときました(~o~)
順路に従って、龍神拝所の後方に「都久夫須麻神社が構えています
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この本殿は国宝だそうで、秀吉が伏見城に天皇を迎えるために「日暮御殿」を作ったものを寄進されたもの。
豪華絢爛の本殿内を撮影賞しようとカメラを構えたところ「内部撮影禁止」を張り紙が・・・・
と言う訳で、見たい方は竹生島へ。
順路、正面の右側へ進み舟廊下へ
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重要文化財で、秀吉の御座船「日本丸」の船櫓を利用して建てられたと伝えられている。
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 宝厳寺唐門、観音堂、渡廊(高屋根)、渡廊(低屋根)4棟全ての屋根檜皮葺は昭和47年度に葺き替えられ、その後、41年を経過したことから、屋根全面に苔の繁茂が見られ、経年による腐朽が屋根全体におよび、平葺は既に耐用年限に達し、軒付きは部分的に雨水が廻って腐朽しています。また、唐門、観音堂の色彩は剥落、退色が甚だしく、4棟全ての朱塗りも剥落、退色が甚だしい状態です。飾金具についても、金箔が退色している状況です。
 このため、平成25年度から平成30年度までの6ヶ年継続事業の予定で、宝厳寺唐門、観音堂、渡廊(舟廊下)における屋根葺(檜皮葺)の葺き替え、彩色・朱塗の塗り直し、および飾金具の金箔の押し直しを主な内容とした、保存修理事業を実施する事に成りました。
 なお、この事業は国(文化庁)・滋賀県・長浜市の補助を受けて実施しています。
 なお、平成25年度は、重要文化財の渡廊で、現場から文化財の魅力を発信するための再生活用事業も同時に行っています。
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宝厳寺渡廊  慶長8年(1603)
宝厳寺観音堂と都久夫須麻神社本殿を結ぶ渡り廊下。
竪連子窓を両側に配し、彫刻や天井板を廃したシンプルなデザインは、唐門・観音堂・都久夫須麻神社本殿とは少し趣を異にします。急斜面に建つため床下は足代を組んだ舞台造。
豊臣秀吉の御座船「日本丸」の部材によって建てられたという伝承を持つことから別名「舟廊下」と呼ばれています。
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宝厳寺唐門
 「唐門」とは、唐破風(中央が高く、左右になだらかな曲線で垂れる破風)を持つ門と言う意味です。
 この唐門は、京都豊国廟(秀吉の亡がらを葬った廟)に建てていたものを、慶長7年(1602)よよと見秀頼の命により片桐且元を普請奉行として移築されたものと考えられています。移築の際、土地の条件から観音堂に接して建てられています。
檜皮葺、建物全体を総黒漆塗りとした上に金鍍金(きんめっき)飾金具が散りばめられ、紅梁中央の蟇股(かえるまた)の周囲には鳳凰や松・兎・牡丹の彫刻を、二枚の大きな桟唐戸や壁には牡丹唐草の彫刻を極彩色塗りで飾っています。豪華絢爛と言われた桃山様式の『唐門』の代表的遺構です。
 平成18年(2006)、オーストリアにあるエッゲンベルグ城で豊臣期大阪図屏風が発見されました。絵中にはこの門が大阪城にあった姿で、本丸北方に架けられていた『極楽橋』の形が描かれています。
 唐門が付いたこの橋は、城内の堀などを超えて城主のいる本丸へと渡る廊下橋という形式の橋で、橋の上には屋根や望楼を持つ豪華なものです。大阪城の極楽橋は慶長元年(1596)に建造され、慶長5年(1600)に京都の豊国廟へ移築されたことが分かっています。エッゲンベルク城の絵図から判断して、竹生島の『唐門』は秀吉が建てた現存する大阪城唯一の遺構であることは、ほぼ間違いありません
慶長元年(1596)大阪城「極楽橋」建造
           ↓移築
慶長5年(1600)京都「豊国廟」
           ↓移築
慶長7年(1602)竹生島宝厳寺「唐門」
舟廊下を過ぎて観音堂に入り観音さんにお参りして外へ、本来は唐門を通って境内へ出て行くのだろうが改修中(すべて撮影禁止)
ということで、宝厳寺へ
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長い石段を上り本堂へ
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名前は、弁財天堂と言い、日本三弁才天(江の島・宮島)の中で最も古く、そのため大を付けて大弁財天と称すらしいようです。
開山は聖武天皇の勅命を受けて、行基が開眼(724)したもの・・・・が厳本堂は昭和17年に再建されたものです。
撮影禁止でしたので、代わりに買ってきた「弁財天小判」を
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歳をとっても『お金』の欲望は弱まるどころか強まるばかり、これを財布に入れとけばお金が寄ってくるらしい。念願が叶えば、お礼参りに行かねばならない。・・・再度行けるように頑張ってみよう・・と
本堂を出て朱塗の三重塔へその途中「五重石塔(重文)」
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比叡山山中から採掘される小松石によりつくられた石造りの五重の塔。初層には四方に仏を配し各屋根は反りを持ち鎌倉時代の特徴がみられます。重要文化財指定は全国に7基しかなく、これは、その1基です。
石塔を横目で見ながら三重塔へ
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本来文明19年(1487)に宮大工・7安部権守が建立したが、江戸時代に落雷で消失。図面が発見され平成12年古来の工法にに基づいて再建されたもの。四本柱に32体の天部の神々を描き、四方の壁に真言宗の八人の高祖をを廃しています。
との事ですが、その近くにあったもちの木が立派だったこと
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樹齢約400年、伏見城から久夫須麻神社本殿等の移築をした際に、片桐且元が自ら植えたと言われています。
で、肝心な水はと言えば手水ぐらいしか見当たらなかったので、和尚さんに尋ねてみた。
「竹生島の水はどうしているのですか」
   「水道は、雨水を集めたのと琵琶湖の水を浄化して使っている」との事
「湧水は、島にはないのですか」
  「湧水と言う訳ではないが、地底130mから湧き出している水は、この石段の下に出ている」
とのことであったので、石段の下へ
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下りていくと左に手水舎が
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ココの水かと思いきや、右には
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手水の立札に「湖底深水 瑞祥水 湖底壱参拾米」
と、しかし現在使用できません・・・と
どうしたものかな~・・・残念ながら・・・・手水舎の蛇口から出ている水を頂いて帰ることに
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しかし、水が貴重な島・・・ペットボトル1,5を一杯にするのに10分以上かかり、一本で断念
しかし、竹生島の水の味を試してみれる楽しみを持ち帰ることができた。
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帰りの汽船が着く間、門前町?でのんびりと一時を過ごし
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帰りの時間が迫ってきたので船着き場に行ってみると、どこからともなく人々が集まり長い列ができていた。

で、「「瑞祥水」の評価は、竹生島水道水かもの水ですが、今までに飲んだことのない『ほろ苦い』感じのする水でした。
独断と偏見の水評価は
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vにしました

詳しい場所は


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NO98:白龍神社の「堂来清水」

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連れ合いが数年前から連れて行けとせがんでいた、滋賀県長浜市の盆梅展に行く事に、それなら、どこか湧水を頂きに・・・と探していたら、アリマシタ!ありました!平成の名水百選に選ばれた「堂来清水」 お届けします。

最近は、高速道路の整備がだいぶ進み、滋賀県の高島市回りで約2時間弱、以前は3時間以上かかりましたので、お金を掛けるか時間をかけて早く出るかの選択です。

とりあえず、盆梅展の報告からいきます。
昭和27年に始まり、今回で63回目となるそうです。最近は長浜盆梅展の評判が良いのか、滋賀の米原、大阪の天満宮と開催されているようですが、歴史・規模とも日本一と自慢しておられます(^_^)v

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このパスポートを千円で買えば、長浜盆梅展プラス4施設の入館が無料となるため、駅前の案内所で購入して行く事にしました。
  白龍神社の湧水 023-b
      慶雲館
 慶雲館は明治20年(1887)、2月21日明治天皇、昭憲皇太后の御休憩所として、長浜の豪商、浅見又蔵氏が私財を投じて建設しました。命名は同行した初代内閣総理大臣、伊藤博文です。
 約六千平米の広大な敷地内には、地元の宮大工平山久左衛門(屋号 山久)により総檜造りの秀麗な本館や茶室などが整備され、以後も長浜の迎賓館として使われてきました。
 明治45年に道営された庭園は、京都の平安神宮神苑などを手かけ、近代日本庭園の先覚者と呼ばれた7代目小川治兵衛(屋号 植治)によるもので、国の名勝に指定されています。主庭となる南庭は、地形に大きな起状をつけた立体的な構造と巨石や大灯篭を用いた豪壮な意匠が特徴です。
 また、毎年1月20日から3月10日までの間、新春の風物詩「長浜盆栽展の」会場となり、見事な枝振りの梅と純和風の建物、そして雪吊が施された庭園の美しさに多くの観光客が訪れます。

白龍神社の湧水 029-b 白龍神社の湧水 028-b
大灯篭:推定重量20トンという自然石の石灯籠。慶雲館にはこの大灯篭をはじめとして、巨石がふんだんに使われているが、これらはいずれも近江の石切り場として良材を産出してきた滋賀郡志賀町から、琵琶湖上を船で運ばれたと伝えられている。
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等々
慶雲館の玄関と正面にある梅
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仁壽(ジンジュ)一重白梅 樹齢水底150年 論語の「仁者は壽長し」から命名
館内の様子
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古木
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梅より桃の花と間違えそうな・・・
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寂聴の掛け軸をバックに
出口で梅の盆栽を販売していましたので2500円で買ってきました。
木津川市 002-b
書き終わるまでに花が咲きましたらUPしたいと思っています(^_^)/ 

前後しましたが、白龍神社の「堂来清水」は、朝いちばんに行って来ました。
田園地帯を走っていた時の伊吹山の雄姿
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新しいカメラに今一なれませんので、チョイト薄いですが・・・やはり雪山はイイ(^_^)v

長浜からいうと、山を一つ超えた谷合に在りるという事で。途中祭りをしていた集落を通り
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山一つ越えた姉川ダムから水を送ってきているであろう草野川発電所の前を通り
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白龍神社に到着
  白龍神社の湧水 010-b
境内を見渡して見ると・・・
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手水舎が・・・龍の口から水が出ているのだがよく見ると水道の蛇口とホースが・・・

神社の後ろに回ってみると、
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ここにも小さな白龍神社の社が有りました。なぜ二つあるのか分かりませんが、全国にも数か所「白龍神社」というものが有るようです。
その横に「堂来清水」の水汲み場が有りました。
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白龍神社の湧水 001-b
      平成の名水
 『白竜霊水』  堂来清水の由来
・堂来清水は、永年にわたって地元高山町の水環境保全活動が認められ、1009年環境省から、平成の水百選に選定された。
・堂来清水は、遠く三国峠の夜叉ヶ池を姉池とし榧谷(かやだに)山腹の妹池に発すると伝えられている。
・堂来清水は、往古より湧出て年間水量に大きな変化はなく、道行く人々の心を癒し、渇きを満たしている接する堂来地蔵尊は、厚い信仰の対象となっている。
・堂来清水は、時代の変遷を経て地元では、神事の洗米水としても活かされて、遠方からは清澄な水を求め訪れる人は多いい。
2009年(平成21年)10月   長浜市役所  高山町自治会

この石垣の間から水が湧き出ています。
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上記の説明書きの中に出てきている、姉池・妹池が出ているサイトがないか探していたら、「山たまごの東岳行」というサイトに詳しく出ていましたのでご案内します。
〇姉池:福井県側からの夜叉ヶ池
〇姉池:岐阜県側からの夜叉ヶ池
〇妹池:カヤ谷妹池

水を汲んでいると、長浜市内から来たというオジサンと話が出来ました。コーヒーお茶を飲むのに毎回水をもらいに来ていると、その中で「湧水の水量は結構増減があると」聞いたりしました。説明書きとチト違うような・・・
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という訳で、「堂来清水」をもう少し詳しく知りたい方は、滋賀文化のススメ『長浜市:堂来清水』で
白龍神社の由来も書いてありますよ~(^_^)/

水汲みを終えた次は、長浜市内へ・・・盆梅展から次へ・・・
長浜盆梅パスポートでは、入館料のサービスだけでなく飲食の割引にも適用してもらえるところがあり、当然食事はそれらのお店を利用することに、今回はここに行きました。
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長浜浪漫ビールです。ビールも良いのでしょうが、運転する身ではままならず×、近江牛を使ったメニューの金額もピン~キリまで、目の前に大蔵大臣の目が光っていますので、ランチ相応の金額に落ち着き無事食事も終わりました。

長浜には黒壁エリアには一度観光で来ていますので、今回は足早に見て回る事に・・・
一つは、室町時代から住んでいたといわれる豪商安藤家を
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大正時期、北大路魯山人が逗留(とうりゅう)していたという。大看板「篆刻(てんこく)」を残していた。
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目障りな人がいますが無視して下さいネ。北大路廬山人

最近旧家から出たといわれる大判小判、曳山博物館に展示してあると・・・、時間が無い事からパス・・残念

最後に行ったのは、もちろん長浜城
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正式な名前は、長浜市長浜城歴史博物館というだけあって、昭和58年(1983年)コンクリートで再建、秀吉が建てた城は天正3年に住みだし天正10年まで在城した。その後、天正10年の清州会議で柴田勝家に譲られ、甥の勝豊が入城。
しかし、その年の12月には勝豊を攻め、翌年4月には柴田勝家と賤ヶ岳の合戦に勝ち軍事拠点として活用した。
 天正13年から18年まで山内一豊が入城、以後次第に荒廃していったが、慶長11年(1606)徳川家康の異母弟内藤信成が城主になり、慶長17年にはその子信正が城主になったが、元和元年(1615)摂津高槻城へ移り、長浜城はその役目を終えて、石垣などは彦根城へ運ばれ完全に失われた。再建された時の名称は市立長浜城歴史博物館でしたが、今の名称には平成18年に改名されました。(シオリから抜粋)
館内は黒田官兵衛展と長浜ゆかりのひな人形展が開催されていましたが、撮影は禁止との事天守閣最上階からの見晴らしです。
山側
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琵琶湖側
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これで長浜観光は終わり。ところが、帰りの湖周道路では珍しい・・・鳥、コハクチョウがため池で休んでいる所をハッケーン(^_^)v。
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後で調べたら、湖北野鳥センター近くの湿地のようでした。
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予定外のものが見られて、幸せ気分で家路に就く事ができました。
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その後、梅の盆栽は無事開花、
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3月3日、我が家の「桃の節句」ならず『梅の節句』です。  その後すべて我が家の腹の中に(^_^)v
盆栽 001-b
その後、満開近くまで咲きました。

で、「堂来清水」の評価は、「平成の名水」に選ばれただけあって美味しくコーヒーが飲めました。
独断と偏見の評価は
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vでした

詳しい場所は

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