
「鍔市(つばいち)ダム」へ行く前に行ったようで行っていなかった「篠山城跡」へ寄って行く事に・・・
野瀬からは30分ぐらいで篠山城へ到着、駐車場からのお城の雰囲気でぇ~ス

引き続き相方さんにモデルをお願いして、お城の入口です。モデルさんは無料ですので、「スタイル」「美貌」の方は目をツブッテ下さいマセマセ。m(__)m

この石畳を歩いて行きます。その前に「篠山城跡の歴史」を

篠山城は、慶長14年(1609)に、天下を盤石なものにしようとする徳川家康が、豊臣方の拠点である大阪城を包囲すると共に、豊臣家ゆかりの西日本の諸大名を牽制するために、山陰道の要所であったこの地に築いた城です。築城工事は、旧豊臣大名の経済力を弱める事を目的に天下普請とされ、山陰道、山陽道、南海道(近畿・中国・四国地方)など15ヶ国20大名が動員されました。
城は、当時「笹山」と呼ばれた独立丘陵を利用して築いています。工事は、開始から1年に満たない短期間でほぼ出来上がるという突貫工事で進められました。笹山は全体が岩板で出来ていたため、難工事の中での完成でした。
篠山城の縄張りは、築城の名手と言われた藤堂高虎が行ったものです。堀を二重に廻し、外堀の三方へ出入口として馬出しを設け、防御に徹した城構えとなっています。天守閣は、城の完成を急いだことと実戦向きの城としたため築かれませんでしたが、二の丸には大書院に代表される御殿が建てられました。
大坂夏の陣を経て、江戸幕府が安定すると、篠山城は西日本の諸大名の押さえの城として位置づけられます。江戸時代を通して、幕府の信頼厚い譜代大名の4家が、藩主として次々と移って来ています。
名称:国指定篠山城跡
城の種類:平山城
城の形状:輪郭式と梯郭式の併用
面積:19,3万平方メートル
史跡指定日:昭和31年12月28日

城壁の中へ入ってきました。

防御に徹しただけある作りです。手前の黒い門が「鉄門跡」

二の丸へ至る最後の門の跡です。

二の丸へ至る最後の門の跡です。絵図によると櫓門形式の門があり、呼び名の通り門扉には、鉄板が張られていたのではないかと考えられます。
発掘調査の結果、門跡は廃城後に1,5m埋められていましたが、土を取り除いたところで、門跡の範囲を示す敷石と階段跡等の遺構が発見されました。これによって鉄門は東西の幅約5m、奥行き4,5mの大きさで、東側石垣高さ4mと、西側石垣高さ4,5mとの間に造られた厳重な構造であった事が明らかとなりました。
二の丸登り口の整備に当り鉄門跡の範囲を自然石による敷石で示しています。

大書院への入口で今は事務室になっています。大書院の入館、迷いに迷って入らないことに、決して入館料を惜しんだのではアリマセン(^o^)/その右横に

井戸の櫓、そこが見えない大きな井戸です

『この井戸は城北の玉水から、流れ出た水脈を利用していると伝えられており、厳しい日照りでも枯れたことがありません。』の井戸だそうです。玉水とは 【清らかな水、また、滝。2 雨だれなどの水滴の 美称】
大書院の後ろへ行く通り

本来は何か建っていた屋敷ですが、詳しい資料がないため更地のままの模様

大書院の大きさが目を引きます。

大書院跡
篠山城大書院は二の丸跡に所在した城主居館の中で、とくに歴代藩主による公式行事に使用された場所で、正規の書院造りの建物となっていました。
この建物は慶長14年(1609)の徳川幕府の天下普請による篠山城築城時に、京都二条城の御殿を参考にして建てられたと伝えられ、大きさは東西28m、南北26m篠山城最大の規模となっていました。内部には上段の間、孔雀の間などの多くの部屋があり、障壁画で飾られていたと考えられます。
廃城後もこれだけ残されていましたが、昭和19年失火により失われました。その後、焼失から56年たった平成12年3月大書院の威容が大書院跡地に甦りました。
篠山市教育委員会
篠山城の東側には

青山神社もあります

青山神社は、1882年に本丸跡に建立され、篠山藩主青山氏の遠祖青山忠俊と第12代藩主青山忠裕が祭神として祀られています。青山氏は譜代大名で幕府の要職を歴任した家柄で、中でも忠裕は30年余り老中を務め、その功績により篠山藩は5万石から6万石に増加されました。毎年4月の第一土曜日が(宵宮)と日曜日(本宮)に青山神社の祭礼が行われます。本宮では、春日神社へ渡御の行列ががあり、神輿と共に鎧や薙刀を身に着けた小学生たちが太鼓と法螺貝の合図で練り歩きます。
その神社の境内には

青山忠誠公追慕碑が立っていましたが、

教育の礎を築いた「あおやまただしげ」公の偉業についてー雅号は環峰ー
『学舎を創設』 明治9年郷土に教育の息吹
青山家21代青山忠誠公は、篠山に人材を育てる学校がなければならないと考え
慶応義塾の創立者福沢諭吉氏にはかったところ、福沢氏は、極めて秀れたことであると賞賛、弟子である二人の教師(英語、物理化学)を篠山に送ってきました。
かねて廃藩後まもなく藩士の有志が、春日神社の境内の小桃源に師弟教育のためにつくった「共茂舎」を明治9年12月28日に「私立篠山中年学舎」と改めて、とり敢えず子弟をを集めて、漢文、数学、英語教授を開始しました。忠誠公は”旧藩領に永遠に残す置土産は、子弟を教育する事である”と私財を投じて学舎を建設しました。
『教育に名言』 忠誠公情熱こめて教育を振興
学舎が変災に遭ったときに忠誠公は、
学舎は焼くとも教育焼くな
との名言の意志のもとに、直ちに巨費を投じて、学舎を再建いたしました。まことに、藩民に対する温情は、熱意のこもったものでした。
明治11年には「公立篠山中学」に改め、同18年にはこれを廃校して「私立鳳鳴義塾」を創設して多くの人材を育てました。また東京への進学の子弟のため寄宿舎を設けて「尚志館」(しょうしかん)を開きました。このように忠誠公は偉大なる育才事業をなし遂げたのです。
今日郷土篠山市には、この伝統の教育精神が脈々として流れ、県立高等学校を始め郷土は教育の市として、伝統の歴史と共に盛り上がっています。
忠誠公は明治20年(1887)7月23日逝去(享年29才)
明治25年11月七日正四位子爵を遺贈表彰されました
『追慕碑』
この大きな追慕碑は、昭和11年7月に、忠誠公の遺徳と数々の功績を追慕して建立した碑です。
しかし、今書いていて思う事は「将来を見据え、享年29歳という若さで大事業を成し遂げられた」という事に感慨深い思いをもつものです。それに引き替え我が国の総理大臣は・・・・・(+o+)
青山神社の右奥には、城内で一番高い天守台「殿主丸」が有ります

その下には篠山小学校が在りました。

お城を出て、簡単に武家屋敷めぐりへ
まずは、篠山藩主別邸「桂園舎」

今は、篠山市青山歴史村として篠山藩の資料館となっています。
次に、小林家長屋門

文化年間(1804年頃)に、当時の篠山藩主青山忠裕がその老女小林千枝の多年の労に報いるために修築したと伝えられる。
古い武家屋敷群

こちらは近代的な通り

最後に外堀を見て

鍔市ダムへと車を進めた。県道301号京都の三和町菟原へ抜ける道へ入って行くところに地元の地図が目に入った。早速停まって

この県道は多紀連山の「御嶽と小金ヶ嶽」へ登る大埞(峠)へ登る道で、そこの地図に予定にない水場が書いてある。これは行かなくっちゃ~♪と、ダムの湧水を汲んでから行く事にした。

農業用ダムとして作られています。

兵庫の山奥へ行くとこの手のダムはよく見られますが、農業用ダムというよりもジャンボ釣り堀と言った方が似合っているようです。
ダムの周りの道を進んで行くと

写真を撮り忘れていましたが、トイレと併設の休憩小屋が在り、その先に

草むらから鉄管が日本出て来てソコから水が出て来ていた。はぁ~んこれが「鍔市ダムの湧水」かなと、しかし、出て来る水の所にはゴミを濾すための布の袋が下げてあり、どうも山水か湧水か区別がつかない(・・?
その下流には
、「クリンソウ」という珍しい花が池に自生しているとの事

その手前の山側には、

石で組んだ水溜が作ってあり、上から一筋の水が流れ出て来ていた。おそらく源水は同じであろうが、こちらの水の方が湧水らしいので、こちらの水を汲む事にした。奥の鉄幹の横には
『ここはみんなの水汲み場です。きれいに使っていただきありがとうございます』
『バーベキュウをされる方へ、他へ移動して頂き、ありがとうございます。御不自由をおかけいたします。御協力ありがとうございます』
・・・・と、注意書きですが、なんか心が温まる文句デスね(*^_^*)
水が出ていた石垣の上に登ってみると

木々の間からコンクリート壁のような遺跡(そう古くはないが)が見える。その昔、今の日本製鉄の社宅が在ったの跡ではと

篠山を支えた、畑の硅石鉱山
篠山の硅石は最初に1913年(大正2年)大芋(おおくも)地区で発見され、1920年(大正9年)には畑地区でも発見されました。篠山の硅石はとくに良質で、主として製鉄所の溶鉱炉の原料に用いられました。
1923年(大正12年)に八幡製鉄所(のちに日本製鉄に統合)が畑鉱床を買い取り、1926年(大正15年)には畑鉱山が開かれました。採掘が本格化すると、篠山を支える中心産業のひとつとなりました。
奥畑・火打岩にある二つの赤い鉄橋は、木橋が当たり前の時代に、重い硅石をトロッコで運ぶために架けられたものです。
1941年(昭和16年)、アジア太平洋戦争の開始とともに、硅石の需要はいっそう高まり、多くの朝鮮人労働者も鉱山労働に従事する事になりました。戦争末期には「徴用」という名目で強制的に連れてこられた80名の朝鮮人もその中に含まれて入ました。
当時、瀬利の八百里(やおり)にあった日鉄鉱業の宿舎から隊列を組んで鉱山に向かう朝鮮人の姿が、毎朝見られたといいます。
一方、地域の中では、「菅硅石運搬組合」を作るなどして、鉱山産業を支えました。
戦後も、日本人と朝鮮人が鉱山で一緒に働いていましたが、硅石需要の後退によって鉱山は次々と閉山され、1979年(昭和54年)の畑鉱山の閉山とともに篠山の硅石産業は実質的に終わりを迎えました。
2012年2月1日
篠山市人権・同和教育研究協議会
篠山市教育委員会
みたけの里づくり協議会
看板の地図によると、この辺にも鉱山と社宅が在ったように書いてありますので、コンクリート遺跡はその当時の遺物ではないかと見受けられます。
という事で、水も汲めて、次は地図に載っていた峠の水場に寄ってみる事にしました。
独断と偏見の水評価は
軟水系の水で、我が家の水道水と変わらないコーヒーの味でした。
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vです詳しい場所は