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番外:今どきの「葬儀事情」

最近二つの身近な葬儀に接して、喪主を手助けする立場で参列してきました。
その葬儀の準備を進める内容を書き留める事によって、誰しもその立場に立たなければならない場面が出てきたときに参考にしてもらえたらとの思いで書いてみる事にしました。(実は、湧水を取りに行く事ができずネタ切れの為でありま~ス((+_+))          観音さんの山桜 105-b

葬儀といっても、地域性が出る為どこでも参考になるかどうかは分かりませんが、吾輩が生活している田舎と今回参列してきた衛星都市での葬儀の内容を加味した形で進めて行きたいと思っています。

当地田舎の葬式というものは、40年ほど前には(それ以前は記憶が薄い)祭壇は社協から貸し出しを受け、隣組で葬儀委員長を作り、総出で組み立てたりして葬式を出すに当ってのもろもろの準備を前日から進めていました。

そのうち、葬儀会社ができ、祭壇及び葬式を執り行うもろもろの備品や準備を隣組に代わってしてくれるようになってきました。そのうち準備の時の食事や出棺の後の食事なども葬儀会社が弁当を準備するようになり、隣組が葬儀に係わる手間が減ってきました。この時点で葬儀会社に支払うお金が付いて回って来るようになり葬儀委員長の出る幕も少なくなってきました。

最近は、都会と同じように葬儀会館が建ち出し、そこでの葬式が普通になってきています。そうなると、隣組の関わりと言えば受付と香典の整理ぐらいになってきました。お寺さんの送迎も、お寺によっては乗用車で来て下さるようになり、本当に少なくなってきました。

今では、葬儀屋さんと葬儀委員長と喪主が協力しながら葬式の段取りをしていきますが、喪主の場合いろいろな事に関わって行かなければならないので、どうしても喪主を補佐する「まとめ役」を喪主に近い親族から作る必要が出て来るのです。しかし絶対という訳ではないので、喪主なりその家族がしても良いのだが・・・
という訳で、喪主を補佐する「まとめ役」になった人がしていく事を書いていきます。

先ず葬儀会館使用の場合葬儀の流れとして、
①お通夜→身近な方たちの会食→本葬→火葬場→会食→お骨上げ→初七日→散会
②お通夜→身近な方たちの会食→本葬→初七日→火葬場→お骨上げ→会食→散会
③お通夜→身近な方たちの会食→本葬→火葬場→会食→お骨上げ→初七日→会食→散会
④身近な方の会食→本葬→火葬場→お骨上げ→初七日→会食→散会
①は最近行った衛星都市でのお葬式②は東京の郊外で体験したお葬式③我が地方の丁寧なお家のお葬式④我が地方の一般的なお葬式、このように所変われば・・・と言うように葬儀の流れも少しずつ変わっていますので、そこの葬儀の内容に即した準備が必要ですが、大まかには次の三つの段取りを世話役はしていきます。
1、献花お供え等のとりまとめ
2、お通夜、本葬、初七日後の会食のとりまとめ
3、火葬場への参列のとりまとめ(マイクロバス、自家用車の乗車確認)

山桜 004-sef

1、一番早くしなければならない、1番目の段取りから書いて行きます。
地元の葬儀場からは、銀蓮・金蓮・回転灯籠各一対と生花3対を段取りしてくれと言われます。
ところが、衛星都市の葬儀場からはこれだけは段取りしてほしいという請求は無かったが、祭壇一式の中に親族一同という大きめの生花が入っているのであった。つまり、名札は親族一同と書いてあるが喪主当家がお金も出しているのである。
又、請求がなかった蓮と灯籠はパンフレットは渡されますができたらしてくださいという程度の請求でした。が、蓮と灯籠は葬式が終わり49日の忌明けまで家の祭壇を飾る道具として必要な物です。ここの場合地元との違いは、回転灯籠と緑の蓮だけで良いようでした。
取りまとめ役としては地元の場合、喪主の当家以外、銀蓮が「故人」に一番近い親族・金蓮が二番目に近い親族・灯籠が三番目に近い親族がそれぞれ一対葬儀屋さんから買い取って飾ります。今では、名札にはその人の名前を書いても支払いのお金は三点セットの金額をまとめて三等分して割を払うといった方法が多いいいようです。
生花の三対も、予め献花をしてくださる人が分かっていれば、それをたして足らない分を親族にお願いして三対作ることが必要ですが、お願いする場合は、割り勘方式でも良いですし、その場合名札に連名するのも良しです。
その他盛籠もありますが、有れば良しという所で、取りまとめ役が関わる必要はないようです。
そして、まとめた品物の集金をしてして領収書を返さなければなりませんので、できれば親戚の頼める方に集金役をお願いするのがよいと思います。
また、都市近郊の葬儀会館では献花料受付というのが、香典受付の横に会館職員が出て金銭の事務をされていました。こちらに電話であらかじめ伝えておけば手を省く事も出来ます。しかし、地元ではまだそこまで発展していないようです。
(献花をされる方で、喪主宅に連絡してくる方もあります。その時は、手配と集金をしますが、お金の方は会館に来られた時に葬儀屋さんにお支払いくださいと言っとけば手が省けます)
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2、次に、会食のとりまとめに入ります。
これが一番厄介な段取りです。というのも、正確な人数が読みにくいという事です。
当地の昔のお葬式の場合は、隣組総出で食事の支度をして参列された方は、食事をして帰るという習わしがありましたが、食事が葬儀屋さんを経て弁当を出すようになると、自然と一般の参列者は足が遠のき、親族並びにお手伝いさんぐらいの人数になってきました。それは、会館で行う場合も同じようです。
お通夜、お葬式の後、当日の初七日等々食事の内容(喪主が決める)と人数は変わると思いますが、段取りは同じようにすればよいと思います。
「故人」に関わる、父方・母方の親族の出席者は、各親戚筋をよく知る人にまとめてもらい報告をお願いする。それにお手伝いに来られる人数と、喪主からも食べて帰って頂きたいと思われる名前を聞き、総てを計算してそれに『余分5人分前後』多めに(本葬の後の会食人数分)予約をすれば大体食べて頂く事ができます。
食券が有れば、それを親戚筋を取りまとめた人に渡して、各人に渡してもらう事。考え方としては、足らないより余ることを優先して人数を把握する。もし足らないことになれば、まとめ役が先頭に喪主に近い人から会食を諦めてもらう事デス。
お通夜、初七日の人数は、喪主が把握していると考えて、喪主の云う人数で注文すれば良いと思います。
都市近郊のお通夜は、オードブルで行われ、初七日の後は粗供養のお菓子を持って帰ることで終了しました。
地域差が有るので、その辺の事情を呑み込み、本葬の出席者を中心にお通夜、初七日共々それから割り出した人数(各人数を出し心配であれば多めに)を把握すればよいと思います。(それぞれ注文の時間制限が有ると思いますので、ぎりぎりの時間でOKデス)
*子供たちの数を忘れずに
山桜 008-abm

3、火葬場へ行かれる方の乗り物の用意をしなければなりません。
マイクロバスで行くのが主流ですが、乗れない時は、お手伝いさんか親族の方へお願いして自家用車を配車します。会館の中には、乗車券を作っている所もありますので、有れば活用して行かれる方を明確にしておけば出棺の運びがスムーズに執り行えます。
「故人」に近い人から行ってほしい人の名前を喪主から聞き、喪主並びにその身内の人から、その人達に乗車のお願いをしてもらい、乗車券も渡してもらっておく。マイクロバスの定員より5名前後差し引いた人数よりオーバーすれば、自家用車を配車する。
尚、親族以外の人で当日行きたいと言われる方も出てきますので、臨機応変に対処してください。
この計画がうまくいかなかったときは、「まとめ役」がマイクロバスの入口付近にいて、適当に乗車を促して定員がオバーしたら断って出発の運びとする。
以上の流れと内容ですれば「喪主」は大変助かります。

以上、私が経験した内容をもとに書きましたが、葬儀というもの地域性があり、そこの葬儀屋さんがよく知っておられるので、お訊ねしながら進めて行く事をお勧めいたします。
                           おわり
(写真は、我が家から見える観音さんの山桜です。春の花、夏の7月中旬に現れる色ずく葉、秋の紅葉)
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「一本の鉛筆」

        暑中見舞い
          申し上げます

          
       奇しくも、今日は8月6日、最近きな臭い方向に日本を持って行こうとした動きが有ります。
       私の好きな歌の一つです。
   
平和でなければ「自由・民主主義」も守れません。日本国憲法の神髄を守るために、私は選挙権で意思を表していきたいと思っています。

尚、ネタがなくなりました。盆休みに入ります。盆明けには再開できると思っていますので、今後ともよろしくお願いいたします。

100号記念:印象に残った名水

100号達成記念に、心に残った名水を書き出しておきます。
NO16:大かつらの千年水(名水百選)
 人里離れた山奥に、この湧水が在るために植物園が出来たと思える地で、他にも、近くに同じような大かつらの下から湧水が流れ出ている珍しい地域の思い出の地

NO17:離宮の水(昭和の名水100選)
 サントリーで有名な大山崎に近いところの水で、汲みに来る人も途切れなかった思い出の地

NO20:神宮寺のお水送りの「閼伽水」
 東大寺三月堂の「お水取り」に送られる水が若狭の神宮寺から湧き出ている「閼伽水」と知った地

NO44:美山名水「神田の水」
 第三セクターで「神田の水」を利用して水やお茶を作っている・・・と、美山川下りをするときにその前を何回も行き来していたのだが、湧水に関心を持って飲んだ時の美味しかった記憶が残っている

NO45:瓜破の滝「駒清水」
 いろいろな人から、「瓜破の水」という美味い湧水が在ると聞いていたのだが、「神田の水」を汲みに行った時に、何時もは瓜破に汲みに行っているのだが、今日はここに来たと、京都市内から来た人の話を聞くと飲んでみたくなり行ったところで、今ではこの水を「最高評価5ランク」の基準にしている水です。

NO47:弘法大師の泉(浜の洗濯場)
 地元の人も今では行きたくないといわれる場所を、藪をかき分け蜘蛛の巣を払い除けながらその場所にたどり着いたとのだが、不気味な感じの所だったのでペットボトル一本を汲むのがやっとの思いで逃げ帰ってきたところ、思いの外美味しかった記憶が残る・・・でも一本では真偽のほどは・・・?

NO51:夏谷(なったん)の名水
 今ではあまりにも有名になった「天空の城・竹田城」を見に行った時に寄った地、マッタケ採りの名人が自慢していた水

NO54:二見の水源「無限水」
 積雪の多いい正月に、Webでの情報をもとに水を汲みに行けど、その地図の場所が違っており見つける事が出来ず、二回目の挑戦で見つけれたイワクつきの場所です。「無限水」の命名された方は、有名な観光地「玄武洞」の名を付けた江戸時代の儒学者である柴野栗山だそうで、歴史のある湧水で水道水源にもなっている。

NO56:湯村温泉の「荒湯」
 北近畿の温泉場として、城崎温泉に次ぐ名の知れた温泉地です。特に「夢千代日記」により有名になりました。そこの源泉が飲める温泉で、ペットボトルに入れて帰ると、熱で変形していた思い出のある地

NO59:浦島伝説の里に湧く「イボ池の水」
 台湾茶を販売しているお店のブログで知り頂きに行った地で、集落の中にひっそりと湧く水です。浦嶋太郎さんも愛飲していたとか・・・これウソ

NO66:洞川湧水郡「泉の森」(昭和名水百選)
 一回目の訪問で天川村の自然に惚れ、二回目の訪問で湧水に惚れ、三回目で豆腐に惚れた地、絶滅危惧種に指定されている「ベニマダラ」(番外)を知るキッカケになった赤い石を不思議に思ったところ。

NO70:保津峡の名水「保寿泉」
 カヌーを卒業する日、何回も下っていた保津川に「保寿泉」という湧水がある事を『水の神様』が導いてくれて、急遽持っていたペットボトル500mlのお茶を捨てて「保寿泉」を頂いて帰ってきた思い出の地、500mlを味わって飲みました。

NO86:わくわく街道⑥「天神水」
 十数年前、湧水というものを初めて汲んで帰って飲んだ思い出の地、当然うまかって義理の父母にもお土産代わりに・・・安ついたyo~

NO96:高蔵寺の名水「観音水」
 情報には、山から流れ出ていると書いてあったのであまり期待してなかった水だが、期待を裏切られ思いのほか美味しかった。また、水源からパイプで引いていると書いてあったので、美味さから判断して、湧水ではなかろうかと?湧水だけでなく、山寺の雰囲気がまた最高(*^。^*)

続いていたら、次回は200回目に(^.^)/~~~

番外:湧き出でる底に潜む「赤い石」の謎 (ベニマダラ)

醒ヶ井のテレビ放映で、偶然見つけた川底に潜む「赤い石」探し探して3千キロ!
初めて出合った「赤い石」は,NO66:洞川湧水群「泉の森霊泉」での出来事でした。
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湧水を咳止めている石が赤く染まり、その下の石ころも赤くなっている。この時は別段堂の項のとは思っていなかった、しかし、近くにある龍泉寺の湧水口に行ってみると、
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このように、水中の石が赤くなっていた。それも出口付近だけで、下流の方の石は普通の石の色をしているのである。この時点で、洞川の湧水には何かが含まれていて、それが色を付けているのかな~ぐらいにしか思っていなかった・・・しかし、洞川の水は美味しかった。  そのこともアリ、「赤い石」の謎は記憶にとどまる事になった。

・・・が、二例目の存在を知ったのは、近畿北部でも最高の美味しい水(コーヒーを沸かしての)だと思っている、NO45:瓜破の滝「駒名水」が出ているトコロでの事であった。
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NO45:を書いている時は意識もなかったし、写真も撮れていなかった。それが、NO71:「轟の水」で書いた、義兄を案内した時に、再度湧水口を覗きに行った時偶然「赤い石」を見つけ携帯のカメラで写してきたのです。
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この時から、この「赤い石」と美味しい水が関係しているのではないかとの思いを持つ様になったのですが、二例だけでは確信が持てず、その時は公表しなかったのです。・・で、三例目を探してから、水の味も確かめ確信を持っての公表としたかったのです。
それが三例目となった、NO83:醒ヶ井湧くわく街道「居醒の清水」で書いた「赤い石」の事です。
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年末、お正月には美味しいお水でコーヒーを飲みたいと思い、福井県にある神宮寺の「閼伽水」と瓜破の滝「駒清水」を汲みに、「閼伽水」は瓜破の滝に近く美味しい水であるところから、「ベニマダラ」
が生息しているのではないかとの推測の元、確かめにも行きたいと思っていた所でした。その結果
   神宮寺のみかすい 007-1
湧き水の壺から出てくるところの石に
神宮寺のみかすい 005-2 神宮寺のみかすい 006-3
赤い色が付いているのが確認。その水が流れて行く水路にも
  神宮寺のみかすい 012-4a
そして、排水の壺に「閼伽水」は流れて行きます。
  神宮寺のみかすい 008-5
「閼伽(あか)は、仏教において仏前などに供養される水のことで六種供養のひとつ。 サンスクリット語のargha(アルガ)の音写で、功徳水(くどくすい)と訳される」
つまり、案外、おいしい水の出てくる湧き水の周りは赤くなっているところから「閼伽水」と当て字に使われたのではと推測してみた。

コーヒーを入れての美味しい味は、常日頃「独断と偏見」を入れていますので、まずこの水が「本当に美味しい水」なのか、私の知り合いのコーヒー店主、F氏に吟味してもらう事に、「道場破りに来た~」とお願いして水を渡すと、「店で使っている地元の水は美味しいので、分からんだろう」との返事、とりあえず飲んでみてくれと私もコーヒー代を払ってのお願い、彼曰く、「スーと入って行く、これなら二杯飲んでもいける」との好評価。どうもコーヒー店主は、お客がコーヒーをたくさん飲んでくれるかどうかで判断するらしい。まっ、それもアリか。
次に、お茶をやっている師匠、私の同級生の嫁さんに吟味してもらう事に、結果塩気を感じるとの事、お茶の味は分からないという返事で、思っていた様な分析がしてもらえず残念でしたが無理も言えないので・・・

で、石を赤くしているものは何かを検索、・・・とひらめいたのが「瓜破の水」と「ごろごろ水」を販売している会社のHPを見れば何か分かるかもと覗いてみると、「瓜破の水」のHPに赤い石のなれ初めが書いて有り、石を赤くしているのは「ベニマダラ」と書いて有りました。
「ベニマダラ」とは、
世界中に分布しており、淡水産種と海産種があり淡水産種はコケが生えられない程度の流れの中で清流が洗い出している岩や石の表面に付着しています。また、海産種は大潮時には干出する潮間帯下部から推進20mより深い場所まで広く生育しているようです。淡水産種ベニマダラは環境省の準絶滅危惧種に指定されています。

洞川湧水郡と醒ヶ井湧水郡は鍾乳洞ができる石灰岩の中を通って出てきている湧水です。石灰岩は長い年月をかけて生物の死骸が海の中で積り固まってできたものです(他にもありますが)。
そのようなところに生存しているという事は、太古の昔海産種ベニマダラが雨水と共に流れ出して淡水の中でも生息するように成ったのではと推理してみるが・・・(?_?)。

湧き水の効能を東京医科歯科大学名誉教授藤田紘一郎氏が講演で言っておられます。
最近よく耳にする活性酸素、人間の健康を害するものとして出てきますが、この活性酸素を押さえる力が「石灰層や磁鉄鉱の層を通ってきた天然のわき水」にもあるという事を!!

ホントかどうかは知りませんが、これらの湧水は悪い物ではないようです。

現地でも水を汲む事はできますが、下記の所でも販売しています。
ごろごろ水
わかさ 瓜破の水
尚、わたくしは、これらの会社の回し者ではございません。あしからず




番外:平地峠の「お地蔵さんの真実」

         蓑を着て冬支度で有名
NO:11 平地峠の「お地蔵さんの清水」の項で腑に落ちない部分があったのですが、今回資料が入りすっきりしましたので、その内容を書いていきたいと思います。
「平地地蔵の清水」を汲みに行った折、お堂の横に立てかけてあった地蔵さんのいわれが書かれた看板です。
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         平地地蔵
天保の頃、この地方に山賊が出没して通行人や、地域の人々を苦しめていた。天保三年(1832年)当時の常林寺住職月海龍吟は衆生を救うため、多くの信者から浄財を求め、近くの谷より仏相をそなえた石を見つけ、鱒留の石工松助に依頼し蓮華座の上に身丈一丈六尺(約五メートル)の地蔵尊を建立した。爾来、その功徳により山賊残らず退散したと言われる。
立像の石仏としては、府下でも有数のものであり、あざとり地蔵として信仰されている。
〇山門鎮静〇諸災消除〇万邦租楽〇諸録吉祥
                     大宮町

私はこれを読むまでは、江戸時代・文政五年(1822年)12月13日宮津藩下の百姓が一斉蜂起した、「文政百姓一揆」
その時に中心的人物であった石川村の「吉田新兵衛」を偲んで建立されたものだと思っていました。
しかし、大宮町という 町名が書かれてあったので、この内容が真実だったのかと思ったわけです・・・が、
書いてあっても今一腑に落ちない気分でした。

今回、安田正明 安田千恵子 夫婦 が歴史を掘り起こし 津田櫓冬氏の絵・文による絵本を読み、以前から思っていた事実を再確認した次第です。

著作権の関係上、歴史的な考証となるような事を大まかに書かして頂き、詳しく知りたい方は絵本を読んでいただくという事で進めて行きたいと思います。

大宮町作成の平地地蔵のなれ初めの説明内容は、当地常吉に昔から伝わってきた話である。
それが、なぜ地蔵さんを作った真実からかけ離れた内容で言い伝えられたのか?その辺を書きたいと思います。

まずは文政百姓一揆の事から
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        義士義民の碑(天橋立に建立)
宮津藩においては幾度か全藩的な百姓一揆があった。
わけても文政五年(1822)の一揆はもっとも大規模なものであった。江戸時代後期にかけて、藩財政窮乏化の一方で、藩主本庄氏は幕府要職について出費も嵩み、遂に来年年貢の三分の一銀納分の先納め、五万の領民に一律一日三文(のち二文)の日銭をかけるに至った。そして、その徴収のために役得公認の徴収役人を任命した。
加悦谷石川村枝村奥山村の新兵衛・為治郎・元蔵や、城下宮津の大工長五郎らは、同志を語らい、広く藩民を組織し、文政五年12月13日蜂起、村々の大庄屋・庄屋を襲い、城下に押し寄せ、日銭取りやめその他諸要求を藩庁につきつけた。藩士栗原理右衛門・百助父子、関川権兵衛らは百姓に同情的であったが、藩ははじめ栗原らを使って一揆鎮圧に当らせた。
鎮圧後藩は嫌疑のせんさくを厳しくし、多くの入牢者を出し、文政7年4月、為治郎は獄門、新兵ェ衛は打ち首、元蔵・長五郎永牢(牢死)、併せて関川は死罪、理右衛門・百助も牢に入れられた。百助は江戸の藩邸に訴えんと牢を出て逃走をはかったが、宮津領近江において捕史に囲まれ自殺した。文政9年2月のことである。文政7年大方の処分は終わったが、奥山村の多数犠牲者の家では、罰金の支払い等にも困ったので、この後長く村民は金を出しあって、犠牲者の家庭に同志的援助を続けた。
    宮津市教育委員会
    宮津市文化財保護審議会

以上は宮津市が建てた立札であるが、大事な部分が抜け落ちているようですのでその部分を書きだします。
・・・と思いましたが、
 文政百姓一揆・・・ここのホームページに詳しく載っていましたので読んであげてください。

・・・で、「平地地蔵」は、ここ常吉の地に打ち首となった吉田新兵衛氏を悼んで建てられたものです。

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吉田新兵衛は幼少の頃、常吉の常林寺の寺子屋で円通住職に学んでいた。(新兵衛は石川・奥山【当時現川上】に婿養子に行ったのではないか)

円通住職をはじめ幼馴染や常吉の住民は新兵衛の打ち首に心を痛め、新兵衛を偲んでお地蔵さんを立てる話し合いが常林寺で持たれた。お地蔵さんを立てると住民も捕まってしまうという事から、常吉のもう一つのお寺 光明寺の鳳山住職が、平地峠の一番高いところに建て、そこを幕府が直接治める「天領」にしてもらえばと提案した。
それから三日後、常林寺・光明寺の住職ら三人で久美浜の代官所に人知れず出発した。
その当時久美浜の代官所に赴任してきた「蓑 笠之助」という人物は百姓たちの事を気づかっておられるとの事であった。
代官に出会えた三人は、それまでのいきさつを話し代官も尽力する約束をしてくれた。その後二年を経て常吉村は「天領」となり、久美浜代官所がおさめる領地となった。
それ以後、50もの寺の住職を中心に、丹後、但馬の村々から、京都・大阪からの旅人も含め75、000人もの人々がお米やお金を出し合い資金を工面した。
山々を探し求め地蔵の石を見つけ、石工の松助にお願いし四人の弟子たちと二年がかりで地蔵さんを彫り上げた。
2570人もの人たちが交代で平地峠に今でいう公園が作られ、そこにお地蔵さんが立てられた。
その後、「地蔵院」という草庵が建てられ新兵衛と幼馴染の、家族を飢えや病気で亡くした「恵照禅尼」がお守りするために住み続けた。
そして、地元の人々によって冬が来る前に蓑とわら帽子を着せる風習が今も続けられています。
また、宮津藩からこの件が怪しまれないように常林寺の古文書には、平地地蔵と新兵衛とのかかわりは一切触れられず、代わりに昔話風の「山賊退治に感謝して」という説明文となっているのだろうと、安田正明・安田千恵子夫妻はそのように解釈されているようです。
この本以外にも、「平智地蔵の謎」調査・分析/安田正明 安田千恵子  編著/福井禎女 が出版されています。

この事を書いていく中で、石川にも「大地蔵尊」がある事を思い出し、平地地蔵とのかかわりを調べてみた。

      新兵衛・為治郎等追弔「大地蔵尊」
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この地蔵尊は石川の神宮寺の境内に安置されており、大正15年ごろには地蔵堂の中に安置されていたが現在は写真の通りです。

石川村誌より(大正15年10月1日発行)   地蔵堂

一、本尊 大地蔵尊
一、由緒 嘉永二年建立
一、建物 梁行壹間四尺桁行尺壹四尺 
一、信徒人員 1849人 

与謝郡誌 曰
地蔵堂には一丈六尺の大地蔵尊を安置し文政五年冬12月宮津封内苛酷の誅求に堪へかねて一揆を起こし骸骨を刑場に捨て、領民を救いし義民吉田新兵衛同為治郎討追弔の為に常吉村平治庵の大地蔵と共に建立する所となりと。蓋し常吉村は吉田新兵衛(幼名・滋藏)の産地にて下常吉鈴木氏は其家なれになり。

以上石川村誌に記載されていた内容で、私も石川の歴史を勉強していればこのように悩まなくても済んだ事なり。反省
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12月23日には平治地蔵(新兵衛地蔵)には蓑と笠が着せられ冬支度がされていました。一説には代官様の「蓑 笠之助」に感謝しての行いだとか・・・。

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              おわり

                年表
         1822年:文政五年  百姓一揆
         1824年:文政七年    処刑
         1830年:天保元年 平治地蔵建
         1849年:嘉永二年 大菩薩蔵尊  
         1868年:明治元年  明治政府




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