NO201:石龕寺の「大槽谷の水」

    丹波化石 059-1q
前篇「64」を5月に見に行き、6月に後編が上映される。それに合わして三田のイオンシネマウッディタウンに見に行く事になった。
で、何時もの事で天然水が汲める所がないか探してみると、三田の近くの街、丹波市にある石龕寺にある事が判り寄ってから劇場に行く事にした。
何時もの如くナビは行先不明になってしまった。山の中にあるお寺なもので、進入して行く道が狭いのか適当に「目的地付近に到着しました」というアナウンスが流れるだけで、見渡してもそれらしき場所には来ていない(?_?)
仕方がないので、石龕寺がある山の周辺を探して見る事に・・・なんせ16年前のナビですんでCDを使用、容量も少ないのでしゃ~ないのだが(~_~;)
でも、探していると
    -1w丹波化石 037
石龕寺への入口が見つかり入って行った。道としては、カーナビに載らないような狭い道ではなく・・・しかし登るにつれて狭くなってきはたのだが・・・駐車場が出てきたがさらに進むと仁王門にたどり着いた。ここにも十台ぐらいは止めれる駐車場があった。
このお寺は丹波紅葉三山と言われるお寺の一つで、紅葉は立派らしい。今回は雨の新緑で我慢しなければならなかった。
    丹波化石 008-1e
そして
   丹波化石 004-1r
足利氏ゆかりのお寺
    岩屋山 :石龕寺(せきがんじ)
石龕寺は用明天皇の丁羊(ひのとひつじ)の年(587年)、聖徳太子の開基と伝えられ、太子が深く帰依された毘沙門天王を本尊として古くから栄えたお寺であります。
 鎌倉時代から室町時代にかけて隆盛をきわめた。山門の仁王像(金剛力士像)は、仁治三年(1242年)、大仏師定慶の作で、日本で屈指の名作として現在国の重要文化財に指定されています。
 南北朝時代、足利尊氏が弟直義の争い(観応の擾乱)に敗れ一時京都から播磨へ逃れるとき、嫡子稔義詮(第二代将軍)に仁木頼章、義長兄弟を添え、二千騎を当山へ留めました。(その時、院主雲暁僧都は勝軍毘沙門の法を修して祈祷、足利氏は深く帰依しました。このことは「太平記」二十九巻に記されています。)
 この時、当山の僧が足利氏に名物の丹波栗を献上、義詮公はその一つの栗に爪跡をつけ、
都をば出て落ち栗の芽もあらば
         世に勝ち栗とならぬものかと
 と歌を添え、もしこの栗が芽を出せば、都に出て天下を取ったものと思ってくれ、といって植えて去って行ったといいます。首尾よくその通りとなり、今もその栗を「爪あと栗」、「ててうち栗」として伝えています。
 その後、中世末期には織田信長の丹波攻略を受け、天正7年(1579年)一山ことごとく焼失、仁王門を残すのみとなりました。
 江戸時代以後、徐々に復興。奥の院、毘沙門堂(本堂)、持仏堂、庫裡、客殿等境内の整備を見るに至っています。
 また、紅葉の名所としても今日脚光を浴び、毎年11月には、”足利氏ゆかりの石龕寺もみじ祭り”が行われます。
 なお、当山は高野山真言宗に属しています。(参照太平記29巻)
              山南町  山南町観光協会

今日こんな詐欺メールがまたも入ってきましたのでUPしておきます。
司法書士の半田です。
必要書類一覧及び御請求書を送信いたします。
よろしくお願い申し上げます。

全く身に覚えのない方です。

焼け残った仁王門の
 右の開口阿形
    丹波化石 010-1y
左の閉口吽形
    丹波化石 012-1u
門を潜り登って行くと
    丹波化石 014-1i
そして石仏石碑のお出迎え
    丹波化石 015-1o
境内の地図を見ると
丹波化石 004-1p
目的の「大槽谷の水」は地図とはチョイト違ったが、参道の横に沿って走る車道に看板が有ったので帰りに寄る事にして参道を登って行くと
    丹波化石 017-1a
水琴窟なる標識が、で石段を登って行くと何か騒がしい声が聞こえてきたが、庫裡まで行くと、どうも檀家さんたちの寄りあいみたいで、様子からしてお酒が入った宴会の様であった。・・・が、賑やかなせいで水琴窟の清爽な音色はちっ~とも聞こえなかった((+_+))そのせいか庫裡の横にある持仏堂は「もぬけの殻」
    丹波化石 019-1s
暗くて写りが悪い仏像をハイパチリと「聖観世音菩薩」の様
宴会の邪魔にならないよう、引き返し本堂へ向かって石段を登って行った
   丹波化石 021-1d
本堂の一段下に
   丹波化石 023-1f
コウヨウザンの木
   丹波化石 024-1l
郷土記念物:石龕寺のコウヨウザン
指定対象:コウヨウザン・・・1本
指定年月日:平成7年3月31日
地域の人々の暮らしを見守って来たこのコウヨウザシは、地域のシンボルとして親しまれている。コウヨウザシとしては県内最大の巨木である。
    兵庫県
そして、毘沙門天を本尊として奉る、毘沙門堂本堂
     丹波化石 025-1g
その横の方には、まだ新しい薬師堂デス
     丹波化石 028-1k
その間には大きな佛足石がありました。
    丹波化石 027-1h
丹波化石 026-1j
              佛足石
 お釈迦さん(釈尊)が入減された後、弟子たちが釈尊の徳を慕い、教えを敬うあまり、説法された霊地を訪ねその足跡を拝んだのが佛足石のはじまりです。
 佛足石の意趣は、お釈迦さんの足跡・佛教の教えを頂礼して佛徳を受け、健康を祈願するところにあります。
 お釈迦さんを礼拝するには、「帰依佛両足尊」とお唱えします。健康の基は足を鍛えることにあり、五臓六腑のツボも足の裏にあるといわれています。
 足を守ることは、身体健全・交通安全を祈願することにも通じます。
 この釈尊の足跡を礼拝して、心身ともに健康で長寿が保てるよう祈念いたしましょう。
             石龕寺奉賛会
との事、願いを念じて次へ進んで行った。
奥の院の入口があったが 
    丹波化石 030-1z
時間の関係上パスをさせて頂いた。本堂の少し下左側には
   丹波化石 032-1x
   丹波化石 031-1c
焼尾神社:この社は今から750年前、仁治2年(1241)の創建と伝えられている。(仁治3年に仁王像造立)
郡内最古の寺、石龕寺の鎮守として弁財天が祀られていましたが、明治維新のジンブツ神仏分離により、市杵島比売命を祀る事になり、ご神体の弁財天懸仏は、石龕寺に保管されています。
 しかしながら、住民は焼尾さんは弁財天でもあり弁財天ののぼりも立てています。
 美女神であることと幸運や財宝、福徳の神としてとくに作家や音楽家、歌手、俳優のあいだで人気があります。
           平成11年3月
来るときに確認しておいた「大槽谷の水」まで下りて行った。
    丹波化石 016-1v
○この谷に昔、大槽という清水をたたえた岩盤のへこみがあった。(聖徳太子が毘沙門天尊像をここで洗われたので、水はいつも黄金色に輝いていたという)
○この水でみぞやしょうゆを仕込むと腐ることがないといわれている。
             平成11年 森の径整備
と書かれてあった。撮ったはずの川の写真が行方不明(たまに写して帰ってきたはずなのに、その写真が見当たらないことが有るのだが、四次元ポケットへ入って行ったと思っているのだが)
その川は幅5mほどで丸太2本の不安定な橋が架かっていた。その端を渡ると
     丹波化石 033-1n
こんな感じの小さな谷合、ふつう大雨が降ればこの谷間に川ができるのだが、今は途中の岩場から流れ出している水(伏流水)が岩板のへこみに
     丹波化石 034-1m
水が溜まっているのが解るかなぁ~・・・でモトイ
    丹波化石 035-2q
この溜まった水を汲んで、帰りかえていると、宴会をされていた一杯機嫌のオジサン(吾輩とどちらが若いか?だが)本当の「大槽谷の水」は奥の院に近い谷の事だと言って機嫌よく帰って行かれた。
こちらはエ~~~てな具合だつたが、まぁいいか(*^。^*)・・・と汲んだ水を「大槽谷の水」にしておく事にした。(ただしナイショ)
無事水も汲めて三田のウッディタウンに向かって篠山川を篠山市街へ向けて走っていると田圃の中にジャンボ「ティタノサウルス」竜のモニュメントが目に飛び込んできた(@_@;)
    丹波化石 062-2w
そこは「丹波竜の里・かみくげ」という公園であった。

ここで下記の詐欺メールが入ってきましたのでUPしておきます。
「請求書は、商品と別送にてお送りしております。請求書がお手もとに届き次第お支払い期限を確認の上、お支払いをお願いします。

=============================================

株式会社オンリー 」

で、寄って行く事に、駐車場では
   丹波化石 060-2e
化石発掘調査 体験料 1人300円
    丹波化石 061-2r
小さな石をもらい、金槌で割って真剣に体験?されていた。吾輩は、そこから500mほど先の化石が発見された場所を見に行く為農道を歩いてそちらの方へ
    丹波化石 058-2t
向こうに見えるのが「丹波竜の里・かみくげ」で、この道を歩いて行くと
    丹波化石 042-2s
旧発電所跡があります
   丹波化石 055-2u
   丹波化石 046-2i
         旧上久下村営水力発電所跡地
当時、村一帯がランプ生活だった大正9年、上久下村になんとかして電気を引きたいと、村長 平藤徳蔵氏らが相談されて、水力発電を行う協議が整い、発電用水は上滝下滝水利組合の灌漑用水を利用して導水する事になり、子の地に建設されました。
大正9年12月に当時の予算約8万円で着工され、大正11年6月に竣工しましたが、総工事費10万9,800円を費やしての完成となりました。配線整備が行われ、大正12年1月8日から本送電を開始しました。八ヶ集落は、山林の売却等により資金をつくり大変な苦労がありましたが、当時としては近隣にその比をみない施設の完成であり、村民の喜びは格別でありました。
しかし、昭和17年電気事業統合令により、昭和18年関西配電株式会社に統合され、始業以来わずか20年で、旧上久下村営水力発電所は閉鎖されました。その後関西電力株式会社に引き継がれ昭和38年まで運転されてきましたが、電力需要の増大により大規模な発電施設が整備されたので廃止になりました。現在この川代渓谷に静かにとどめる姿は、まさに村民の文明に取り組みした歴史を物語っています。
      丹波市  丹波市観光協会
中は、化石発見の模様の展示がしてあり無料です。横の階段を
    丹波化石 047-2p
降りて行くと河原が見えます
   丹波化石 049-2a
川原のコンクリートで覆ってある場所から化石が発見された模様で、次回の発掘まで保存のためにコンクリートで覆っているのだそうです。
     丹波化石 051-2d
         丹波市恐竜化石保護条例に基づく「保護区域」
 本区域で、恐竜化石等が発見され今後も発見される可能性があることから、保護を図るとともに市民の共有の財産として継承するために、柿の区域を「保護区域」として指定します。保護区域において、化石の採取及び化石若しくは化石含有地の破壊を目的とした土地の区画形質の変更などは行ってはいけません。
■指定区域
    一級河川 篠山川   発掘現場区域から上流20m及び下流20mの河川区域
■指定年月日  平成25年3月8日
●お問い合わせ先  丹波市役所 産業経済部 恐竜を活かしたまちづくり課
丹波化石 052-2f
丹波竜化石の産出部位:産出した部位は、彩色したまたはその前後に相当すると考えられています。この骨格図は特定の竜脚類その物ではなく、オビストコエリカウディアおよびラべトサウルス形類一般に広く見られる形態を想定して描かれたものです。
産出部位の名称:1、尾椎 2、血道弓 3、腸骨 4、恥骨 5、肋骨 6、脳函・環椎 7、歯
恐竜発見
平成18年8月7日ー世紀の大発見(写真1・2)
美しい川代渓谷に夏の太陽が照りつける中を、長年、生痕化石の調査を続けてきた足立洌(きよい)さんは旧友の村上茂さん(共に丹波市在住)と2人で山南町上滝へ地質調査へ出かけ、篠山層群の泥岩層の表面から、1センチほど突き出た灰色がかったものを発見し、ハンマーやタガネを使って長さ15センチ程度の化石を彫り出しました。
8月9日ー化石確認(写真3)
2人は6時間かけて約30センチの棒状の化石2本、塊状の化石1個を掘り出し、この化石を兵庫県立人と自然の博物館に持ち込み、同定してもらいました。すぐに恐竜の化石と判断されたため、直ちに現地に向かい埋蔵状態を確認し、9月下旬に試掘調査を行うことになりました。
 その結果、白亜紀前期の泥岩層(約1億4千万年前~1億2千万年前)からティタノサウルス形類の肋骨などの化石10数点が発掘されました。
第一次発掘調査
平成19年3月6日ー連なる尾の化石発見(写真4)
 尾椎および血道弓の化石約数十点がまとまった状態で産出しました。恐竜の化石が元の位置関係が概ね保ったまま産出したのは日本では初めてのことです。
6月26日ー脳函の化石発見(写真5)
 クリーニング作業により、頭骨のうち脳が入っている部分(脳函)の化石が確認されました。恐竜の頭骨の一部が発見されたのは国内で7例目で、竜脚類としては国内初めてのものです。また、世界的にも竜脚類の頭骨の発見は少なく大変貴重なものです。
第二次発掘調査
平成20年2月7日ー肋骨などを大量に発見(写真7)
 肋骨の化石がほぼ並んだ状態で発見されました。長い物で1,5メートルほどあります。発見された部分は、胴体右側の後部にあたるとみられ、この様に肋骨が並んで発見されたのは国内では初めてのことです。また、恥骨とみられる化石も合わせて発見されました。
2月21日ー環椎(首の骨)発見(写真8)
 環椎(第1頸椎)はU字形で、縦約8センチ、横約6センチ、厚さ約3センチほどです、世界で数百十種の竜脚類が発見されていますが、環椎は小さく発見が難しいため、十数例しか発見されていません。
2月28日ー竜脚類の歯発見(写真9)
 竜脚類の生える前の歯、つまり顎(あご)の中に入っていた未崩出の歯の化石が発見されました。歯は、長さ4,5センチ、幅約1センチで、表面に摩耗した形跡がなく、顎の骨の中にあったと考えられます。国内で発見された例はなく、大変貴重な標本となります。
第三次発掘調査
平成21年3月12日-記者発表(写真10・11)
 生える前、生えた直後、使用中のすり減った歯など様々なな状態の竜脚類の歯数十点と、胴体の前半分とみられる肋骨6点が発見されました。
 また、発見直後のクリーニング作業によりティラノサウルス類の前顎の歯が産出している事が分りました。
             発掘調査の成果と今後
 第一次・第二次発掘調査が終わった時点で、推測される丹波竜の姿を形にした模型で、恐竜模型製作の第一人者である荒木一成氏の製作によるものです。
 今後の発掘調査によっては、更なる進化を遂げる可能性もある事から、「丹波竜フィギュア2007年版」としており、丹波竜化石工房で展示していますのでご覧ください。
発掘調査の成果と今後
 第三次発掘では、竜脚類の化石の発見のほか、獣脚類、鳥脚類の歯の約60点を含む2883点の化石が確認され、発掘調査を開始してから現在までに骨片を含め、約9000点もの化石が確認されています。
 多くのボランティアの協力を得ながら実施している発掘調査は、現場が河川敷にあるため、春から秋にかけての増水期を避けて実施しており、発掘調査は長期にわたる計画で、今後の調査で更なる発見が期待されます。
丹波竜化石工房も見て下さい。
尚この場所に来た時に、以前所属していました「福知山カヌークラブ」のメンバーとここを下っていいたときに、あわや重大事故になりかけた事を思い出すにはいられない場所であった。
と言っても、吾輩は陸上からレスキューメンバーとして同行していたのでした。その当時は、まさか恐竜が眠っているとはつい知らず、岩の上を駆け回っていたのでした。
その日は、上流にある川代公園から出発
   丹波化石 064-2c
一行が下り終えるのを見て、我々レスキュー組は先回りして発電小屋の河原に下りて待っていた。
   丹波化石 057-2z
小さな滝の様な落ち込みを無事通過する者、ポテージ(落込みを迂回する事)する者と各自各様の思いで発電所跡の瀬まで無事下って来た。
   丹波化石 048-2x
しかし、発電所の瀬は全員パス(@_@;) 写真の下流から再度カヤックに乗り込み下る事になった。
写真には写っていないが、流れが右から左の岸へ向かって進み、その流れが造ったであろう岸の岩場に小さな洞窟が掘られていた。このような穴を「アンダーカット」と言い、ひとたびこの穴に入るや否や水流の圧力で出て来ることが不可能に近い状態になり、最悪天国へ行かねばならない結果になるのです。と言うのも水流により掘られた穴は天井が水面ぎりぎりの場合が多く、入ると水中に持って行かれ窒息するのです。また、洞窟内は流れが入り込み渦を巻いて出にくくしている事も一因であります。
そのことをカヌーイストは認識して遊んでいますので、今回も、陸上から万が一の場合を想定して、救助用のレスキューロープを持って待機していたなかを、一番にくだって行った某会員さんが下るや否や複雑な流れに巻き込まれカヌーもろと転覆((+_+)) ロール(起き上がって再度カヌーを漕ぐ)を2~3回試すも失敗力尽きて沈脱(カヤックから脱出)・・・これをすると普通カヤックを持って泳ぎながら安全な岸へ向かって上陸するのだが、この時はカヌーもろと洞窟へ流されていたので、カヤックを離せと叫びながらレスキューロープを投げたのでした。運良くカヤックを離しレスキューロープを捕まえ無事メンバーは陸上に救助する事ができましたが、案の定カヤックは洞窟にはまり込んで水圧でもがいていた。
アンダーカットにハマり込んだカヤックウをいかに回収するか・・・協議の結果、穴から自然と出て来るのを待つ事でそれを回収する・・・しかし、一向に穴から放出される気配は無く、次に考え出したのが、カヤックオーナーのライフジャケットにレスキューロープをくくりつけ、カヤックで穴の下流から穴に向けてカヤックオーナーを引っ張って行き、カヤックオーナーがもがいているカヤックを捕まえると同時に、陸上で待機しているレスキュー部隊が頑張ってカヤックオーナーを陸地まで引き寄せる方法でやることになった。
待機組は固唾を呑んで見守っていたが思いの外うまくいき、無事回収できたという、一歩間違えばニュースになっていた事故でした。

篠山川を下っておられるYOUTUBEが有りましたので、お借れしました。
       

という事で、篠山市街に出て、一路三田のイオンシネマへ「6・4」後編を見に行きました。今回長文の記事になりましたので感想は×という事にしました。「いや~久し振りに手に汗を握る納得のサスペンスを観ました」

元に戻って、「大槽谷の水」の水の評価は、沢水、伏流水にしては美味しかったが5ランクまでにはもう一越え欲しいところでした。
独断と偏見の水評価は
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v
詳しい場所は


続きを読む

スポンサーサイト

NO159:稲土渓谷「廃鉱の飲み水」

   銚子ヶ 084-ww
     引き続き書いてまいります(^_^)/~
浄丸の滝へ行くにはゲート・・・そんないい物ではないのだが・・・開けて前に進みます。
   銚子ヶ 071-ee
開けて中に入れば閉めておきます・・・これ鉄則 m(__)m 

 

続きを読む

NO158:一休さんの「銚子ヶ水」

    銚子ヶ 023-q
一週間遅れの「父の日プレゼント」でステーキを食べに行ったついでに、丹波市といってもレストランとだいぶ離れていますが旧青垣町内にある「一休さんの銚子ヶ水」を頂きに行ってきました。
父の日のステーキと言えば、二年前丹後半島碇高原のステーキハウスに行った記憶がよみがえる。この時は、お値段に対して今一の肉質だったという思いを今でも思い出す。今回はスコ~シ高め、前回同様予算をオーバーした分は吾輩持ちとなった。お値段は ひ み つ であります。

   ↓

続きを読む

NO141:木彫仏像の原郷・達身寺の「たるみ山・自然水」

   達身寺 012-a
中山寺・奥の院、亀岡の出雲大神宮と天然水をもらってきたのですが、どちらもじゅうぶんな量を得る事ができず、近場でどこかないかな~と探していたら、上の写真の本堂がある達身寺というお寺が目に留まり行って見る事に。
この本堂を観たいあまり行ったのだが、行ってみてビックリ!パンフレットの説明文を引用すると
「丹波の正倉院と呼ばれている。その歴史は不明な点が多いが、8世紀ごろの建立とみられ、市内では最も古い時代に開けた寺の一つである。」

・・・と、まぁこうである。行は福知山市街から国道429号を通り兵庫県の丹波市青垣町に入り氷上町まで下るルートで、途中カーナビがストライキを起こし、自車位置が動かなくなり一時はどうしようかと((+_+)) なだめすかして、なんとか動くようになり、チョイト遠回りの気もしないではないルートを走らされ何とか近辺まで、「三方の大かつら」の案内板が、寄ってみる事に
   達身寺 027-a
カツラの多くは根元から枝分かれしているものが多く
   達身寺 025-a
大木と言われても、このように枝分かれしていると感動する部分も半減してしまう。やはり大木は一本もんがイイ
こんな面白いものが
    達身寺 029-a
古来より、幹の空洞をくくると神護があると伝えられ、神木としてあがめられている。
樹齢:約350年    
全部の幹廻り:12m 内主幹の目通り幹は2,8m   
高さ:26m
   達身寺 031-a
入ってみようと思ったが、よそ行きの服が汚れるのでや~めた^_^;・・・と言うことで建身寺へ向かった。
達身寺 006-a
上の写真が達身寺の正面から見た全体の建物です。その手前が道路でその手前の白線が駐車場になっていました。
もっとひっそりとしたお寺かなと思っていたのですが、駐車場が20台前後駐車できる白線が引いてある広さです。
知る人ぞ知る観光地になっているようです。吾が目的である自然水は一目で場所が判り、とりあえず頂いてからお参りする事に。
   達身寺 008-a
正門の左側にあり、水はホースから出てきておりホースの口には藻の様なものが下がっていたので、連れ合いは気持ち悪がって入れるのをためらっていたので、それを取り払って入れてもらう事に
   達身寺 009-a
最近は、彼女は入れ役、吾輩はスナップ撮影と分担して合理的にやっております(*^^)v
水は柄杓が掛けてある真ん中から水道水のように出ていますが、後程聞いた話によりますと、裏山(たるみ山?)から水を引いているそうで、それが湧水なのか沢水なのか、はたまた地下水なのか分からなかった。しかし、三週間過ぎた今でも水は綺麗な透明で、浮遊物は見当たらない!という事は、湧き水か地下水をポンプで汲み上げているのかどちらかであろう(?_?)
水も汲み終え、拝観へ石段を登って行った。
この茅葺の本堂は、昔十九山にあった達身堂(たるみどう)をこの地に移し達身寺(たっしんじ)という寺名になったとの事
本堂の入口右手には、重要文化財の仏像の数々が明記してあり、来た人の気持ちを高ぶらせている
   達身寺 013-a
本堂に入ると右側に受付があり拝観料お一人様400円を払い、説明の順番を待っていると一行5人ぐらいの人を引き連れて案内係であろうおば様が帰ってこられた。そういえば石段を上がって来る時も4人の女友達風な人たちとすれ違った。チョコチョコ観光客も来ている様である。で、我々2人ともう一組2人計4人で案内してもらう事になった。本堂内部からは写真撮影禁止の為、拝観のしおりから抜き出した写真で案内いたします。
   達身寺 014-a
ここには、国重要文化財12躯、県指定文化財34躯、市指定文化財33躯、破片134片
達身堂の本堂を突き抜け、裏手にある第一宝物殿へ
達身寺の前身は、よく解ってないが、寺伝によると織田信長の丹波平定の命を受けて明智光秀が丹波攻めをし、篠山城や保月城などが攻められた。達身寺は当時、僧兵を抱え山岳仏教の強権を張るような大寺院であったと言い伝えられている。その僧兵が保月城に加勢をしたという事で保月城を落とすまでに寺が焼かれたと言われている。寺を焼かれる前に、仏像を守ろうと僧侶達が谷へ運び下した。仏像だけがそのまま長い年月置き去りになってしまったと伝えられている。
   img112-a.jpg
第一宝物殿に入って行くと、部屋いっぱいに仏像が置かれていた。総ての仏像が「しらき」のままで、というより流木が長い年月が経った雰囲気の仏像であった。朽ち果てた仏像も大切に保存し展示されていた。

元禄8年(1695)、この村に疫病がはやり、多くの人々が亡くなった為に、占い師に占ってもらった結果、「三宝を犯した仏罰である」と言われ、村人達は山に登り放置された仏像を集めて、破損していた達身堂をこの地に下ろし、修復し、仏像を安置し奉った。

第一宝物殿から、文化庁によぅて建てられたという第二宝物殿へ案内された。
   達身寺 015-a
写真もこの角度しか撮る事ができませんでしたが、災害に強い立派な建物でした。
中に入って正面には達身寺の本尊、阿弥陀如来坐像が
   img113-e.jpg
正面に展示されていた仏像は保存の良いモノでした。
 img113-b.jpg
達身寺の仏像は木彫仏であって、大半が一本造りである。寄木造りも数多く作られたはずだが、長い間放置された為、寄木では仏像の姿で今の世に残る事ができず、破片化してしまった。(その破片も大切に保存展示されていた)
  img113-d.jpg
又、一寺に一躯奉ればよいと言われている兜跋毘沙門天が十六躯もあると言うこと、本尊仏になる仏像が多いこと、未完の仏像がある事
郷土史家船越氏の説と古文書
 達身寺に言い伝えているのは事実とは少し違うのではないか、大寺院で山岳仏教の強権を張ったと言うよりは、お堂を多く持った工房であったのではないか、そこに丹波仏師がいて造仏していたのではないかと言うのが船越氏のせつである。
 達身寺では丹波仏師がいたことを認めれば昔からの疑問はいくつか解る(未完の仏像、本尊仏が多い、同名の仏像が多い等)。
 奈良の東大寺の古文書の中に丹波講師快慶と記されている、「私は丹波仏師である。もしくは丹波の地とつながりの深い仏師です。」と言っているのである。とすれば鎌倉時代の有名な仏師快慶は、達身寺から出た仏師もしくは、達身寺とつながりの深い仏師であるといる。ところが残念ながら達身寺には、古文書が何もない為はっきりしたことはわからない。鎌倉初期から平安弘仁期の古い仏像が沢山おられると言うことだけははっきりしている事実である。
案内のおば様が、戦前は此の仏像群は国宝に指定されていたのだが、戦後再度見直され、実証されるものが無いという音で取り消され、現在は重要文化財で終わっているとの説明でした。 
そして達身寺様式と言われている仏像
img113-c.jpg
今仏像ではチョイt判りにくいが、お腹がポッコリ出ている仏像、それも観音系に多いいのですが、案内のおば様に冗談で先日行った中山寺のように安産のお寺と銘打ったらお参りが多くなるのではと言うと、実は中山寺にそのポッコリ仏像が秘仏として祀られていうそうな・・・とお参りの人から聞いtことがあり、その後中山寺の門前に住んでいる人が、帰って聞いてみて連絡してやると言ったまま、今だに連絡してくれないとの事、事実は定かではない・・・(?_?)

一通り見る物は見たし、もらうモノももらえたし帰る事に、しかし達身寺のさらに奥に行ったところには、やすら樹苑なるものが、地図には達身寺は載っていなくても「やすら樹苑」は載っていた。まさか介護施設ではないだろうなと言いながら寄ってみると
達身寺 022-a 達身寺 023-b
公営の宿泊施設でした。食堂もあると言うことでしたのでコーヒーを飲んで帰ってきました。チャンチャン(^_^)v

たるみ山・自然水の評価は、良くも悪くも普通で地下水を汲み上げている水カナ・・・と思えました
で、独断と偏見の水ランクは
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v デスタ
詳しい場所は

大きな地図で見る

 

NO102:水分れ公園の「いそべの湧水」

   P3160212-b.jpg
今回は日本一低い分水界(本当は千歳空港内・本州一)、兵庫県丹波市氷上町石生(いそう)の水分れ公園内に在る「いそべの湧水」をご案内いたします。

       日本一低い谷中中央分水界
 ここは、日本列島の背骨にあたる中央分水界が通っているところです。
 ここに落ちた雨粒は、二方に分かれて、一つは瀬戸内海(太平洋)側へ、一つは日本海側へ流れて行きます。
 水分れ公園奥向山の尾根が平地におりたところから、だいたい高谷川右岸(北側)を通り新町(行者山東端)まで、約1250メートルの間
 海抜、100メートル前後で分水界を形作っており、日本一低い分水界として、有名です。
 最も低いところは、新町交差点で標高95,45m、水分れ橋では102,04mです。
(平地で水が分かれる場合は分水界、山で水が分かれる場合は分水嶺という)
水分れ公園の中にいそべ神社があるのか、神社の周りに水分れ公園が在るのか判んないが、ソコの名前を取って「いそべの湧水」と言われているようです。

   P3160168-b.jpg
水分れ公園の前を流れる高谷川の右の道が分水界の境界線になっているそうです。
この上流には、おそらく人工的に作ったと思われる
   P3160198-b.jpg
高谷川の水は、瀬戸内海へ約70km・日本海へ約70kmの標識の下で分けられて、それぞれ別の海まで旅に出ます。

高谷川は
P3160225-b.jpgP3160229-b.jpg
左の川筋を下って右の写真の加古川へ合流して瀬戸内海へ

もう一方の別れた水は
P3160232-b.jpg 水別れ・磯部の湧水 006-b
左の写真黒井川が竹田川に合流して、右の写真土師川へ合流して由良川へ入り日本海へ流れて行きます。
といっても、
大昔の由良川の流れは瀬戸内海へ流れていたという説があります。

大きな声で言えない「裏話」
水分れ資料館が公園内に有ります。入館料200円で職員さんが説明案内をしてくれたので、先ほど見てきた高谷川の分けられた水は何処を通って流れて行っているのか?(この時点で、分けられた川の水が道路の下へ入って行くのだが、どこに出でているのか判らなかった)質問したら、職員曰く、あの水は元の高谷川に帰っているとの答え!、という事はあの分けられた所は や・ら・せ なのか^_^;
という訳で、再度探求しに行った、分かれて道路の下に入った水は、だいぶ下流の集落の
左の側溝に勢いよく流れ出ていた。そして田を潤し
P3160217-b.jpg P3160221-b.jpg
石灯籠が在る少し大きな側溝へ流れ込んで、市街へと流れて行っていた。
P3160222-b.jpg
事実は、分かれた水は二度と会うことなく海へと行くようでありました。(^_^)v

水分れ資料館の展示品から
石生周辺はもともと沼地であり、そこに高谷川の土砂が扇状地を造って二つに区切られたという写真
   P3160208-b.jpg
中国山地と丹波山地の境界線が加古川・由良川水系となっている
   P3160211-b.jpg
で、「いそべの湧水」は何処に出ているのか・・・
いそべ神社
   P3160166-b.jpg
その前に立ちはだかる「夫婦スギ」
   P3160170-b.jpg
太陽の加減で薄くなっています・・・と言って太陽のセイにしておく。
   P3160197-b.jpg
        いそべの神
 剣爾山は、三角形の美しい形をしています。
 こういう山を昔の人は「神奈備山(神様の山)」と言いました。
 山上近くにある大岩は、神様が天から降りてこられる拠り所と考えて、こういう岩を「磐座」(いわくら)と言いました。
 その山の前に建てられたのが、いそべ神社です。
 このあたりのご先祖は、いそべの民は、大きな岩を使って、古墳を造ったり、たんぼを造ったり(後には条里制水田造りもした)する土木工事が得意な人達でした。
 そのいそべの人達の祖先、奇日方命(くすひがたのみこと)をおまつりしたのがいそべ神社、の始まりは(和鋼三年、今から約1300年前頃)です。
 後に八幡宮を勧請(神様のおいでを願う)して、八幡さんとなりました。
 なお、この八幡さんは、柏原の八幡さんより歴史が古く、昔から、このいそべ神社のお祭りをして、その次の日に神様を、柏原の八幡様へお送りする事になっておりました。
 その後、礒部神社には、いろいろな神様をお招きして、たくさんの神様がおまつりされて、石生の人達の守り神様としてお祭りされています。

で神社の手水舎に水が出ていたのですが
   P3160202-b.jpg
情報では水分れ公園内に有るとの事、とりあえずそちらの方も覗いて見る事に
   P3160175-b.jpg
水のカーテンから
   P3160190-b.jpg
公園内を一巡した水が川に流れず、どうも再循環利用されている感じで、どうも汲むに値しない水みたいだと感じつつ滝の縁の方を見ると
   P3160179-b.jpg
水のカーテンの水系から離されて一角に「幸運の泉」と書いてある場所が目に入り、これに違いないと例のペットボトルに汲んで帰宅の途に就いた。ここで、資料館によって見学をして行こうと先に書いた事を見聞きしてから、職員さんと雑談の中で、「幸運の泉」に流れて来ている水は「いそべの湧き水」ではないと言われ、案内してやると連れて行ってくださいました。それがコレです。
  P3160193-b.jpg
で、これは間違いないと、先ほど入れた水を捨てて、再度入れ替えをして頂いて帰りました。しかし、引いているパイプを見る限り、滝の方から来ているようですが、職員さん曰くただ今公園内でも水が汲めるよう工事をする予定であるとの事でした。ただし、山水か湧水か定かではない、あやふやな返事でした。

今回の水汲みはこれで終わりですが、由良川水系を地図で調べていたら、どうしても行って確認したい場所を見つけ、帰りに寄る事にしていたので、そちらの方へ車を向けた。その地図がココです。栗柄峠付近です
  

大きな地図で見る
下の川が宮田川で篠山川に入り、加古川を経て瀬戸内海へ。上の川が杉谷川で、滝の尻川から竹田川に入り由良川を経て日本海へと流れて行きます。
水分れ公園の後ろにあたる谷合を行き
   P3160147-B.jpg
これが、美しい三角形の剣爾山か?県道69号線を進んで行くと栗柄峠へと入って行きます
P3160144-B.jpg
谷の下には、滝の川尻川が流れています。峠を超す少し手前で、道を煙が覆っていたので、対岸を見てみると
   水別れ・磯部の湧水 022-b
お宮さんのお掃除をされている様子、道から覗いてみると
   水別れ・磯部の湧水 023-b
滝のようなものも見え、これは取材に行って来なくっチャ・・・と参道を探してそちらの方へ、
  水別れ・磯部の湧水 024-b
これが観音堂
   水別れ・磯部の湧水 025-b
で、そのイワレ
   水別れ・磯部の湧水 026-b
手にむすぶ滝の白糸 くりからの くりかえしつつ祈る観音
栗柄観音堂
本尊 聖観世音菩薩
創建 平安時代
もと 御嶽山養福寺と称したが後廃寺となり、今の観音堂が再建された、聖観音のほか栗柄部落内の仏像を集めまつってある。
栗柄不動尊
現存の石仏不動尊は明暦二年(1656)建立された。
倶利伽羅明王ともいい栗柄の地名はこれより出たといわれる、〇福徳貴寺の祐盛法印(ゆうじょうほういん)が滝壷に住む竜女を成佛させたという。
この竜が法印に謝し残したという鱗が今も福徳貴寺の寺宝となっている。
俗に「腹痛なおしの北向き不動尊」として多くの尊信をうけている。
                        西紀町郷土史を考える会
という看板の前を通り過ぎ、歩いていくと
   水別れ・磯部の湧水 027-b
←不動の滝 蛇の枕→  という看板にあたった。
水別れ・磯部の湧水 031-b
竜女が使っていたと言われる枕デス?
その他にも、横の方に
   水別れ・磯部の湧水 029-b
   水別れ・磯部の湧水 030-b
ただ今調査中(?_?)   不動の滝へ
   水別れ・磯部の湧水 032-b
宮掃除が終わり、滝の横で「綺麗にできた」と 地元の方が雑談中
  水別れ・磯部の湧水 038-b
滝の横に在る赤いお堂の中に有るのか、それとも滝の右側に鎮座していた写真の石仏が「倶利伽羅明王」なのか確認できずじまいで、先へ急ぎました。それから、峠を登りきると三叉路へでた。
左の写真が栗柄峠方面       右の写真が篠山市街方面
水別れ・磯部の湧水 014-b水別れ・磯部の湧水 015-b
     二つの川が流れる川上の峠方面
   水別れ・磯部の湧水 016-a

そして三叉路の看板の後ろの白いモノが、杉谷川(左の谷)を堰止める不釣り合いなダム(兵庫県はこのような物がお好きなようで)
    水別れ・磯部の湧水 019-b
右の谷を流れる宮田川
   水別れ・磯部の湧水 018-b
この狭い谷合から、二つの川が奇遇にも別々の海へ
   水別れ・磯部の湧水 012-b
くりから谷中分水界
河川争奪の見える不思議な水分(みくまり)の里
 栗柄は、三方を山で抱かれた山間盆地の狭い平地で水田が開けていますが、この付近は、たいへん珍しい谷中分水界の地形を形成しています。
 右側の県道(丹南三和線)を2㎞ほど進むと、鼓(つづみ)峠の頂上に至ります。この鼓峠も日本海と瀬戸内海への分水界で、鼓峠から瀬戸内海側へ分かれた水は「宮田川」(右側の河川)となり、篠山川、加古川をへて瀬戸内海へ注ぎます。
 正面の谷から流れる「杉ヶ谷川」は、この辺りで宮田川合流するのがごく自然な形と思われますが、前方観音堂横で、突如西へそれ倶利伽羅不動の滝で4m近く落下し、滝の川尻、竹田川、由良川を経て日本海へ注ぐ不思議な谷中分水の地形となっています。
 約2万年前、河川争奪によって形成されたと言われるこの二つの川が谷中の平地内で百数十米まで相寄り、しばらくは同じ方向に流れながら、突如方向を転じる地形は実に珍しく、しかも、二つの川が見通せる位置で、中央分水界の形状が目のあたりに観察できる希少な地形です。一つの地区に二つの分水界があるというのも、またきわめて珍しいことです。     兵庫県多紀郡西紀町 
・・・という事でした。

肝心な「いそべの湧水」のコーヒーを沸かして飲んだ評価は、4つか5つ、どちらにしようか迷った結果、資料館のおば様、水分れ茶屋のおば様が親切でしたので、独断と偏見の水評価は
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vにシマスタ 
詳しい場所は
 
大きな地図で見る
     



プロフィール

Author:水汲みマン
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
湧き水のおすそ分け
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR