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NO303:青垣町の「片渕の水源水(仮)」

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相方さんが映画「新聞記者」を観に連れていけというものだから、近くのイオンシネマ「三田ウッディタウン」に行く事になり、急遽この方面で水汲みを探す事にした。この方面はたいてい行っているので在るのか疑心暗鬼で探してみると、なっ!なんと地元でも知っている人が少ないであろう水汲み場が青垣町にある事を発見。
映画の方は1回目AM9時20分、2回目2時20分のスケジュールであったので2回目の時間に行くとして、始めに水汲みをしてからという事に相成った。
映画「新聞記者」は、最近安倍官邸から邪慳に扱われている女性記者「望月衣塑子」氏の原案という事で、おりしも参議院選挙が始まったばかりという事もアリ、面白そうだとワクワクしながらの出発であった。
場所は、福知山から以前書いた酷道429号線を走り、生野方面に行かず、酷道427号に入り多可町方面に行けばあるという、その道の播州トンネルを抜けた1,5kmほど行ったところに在るらしい。
・・・という事は、青垣側から行けばトンネルの手前という事で、探しながら行くもトンネルに入ってしまった。カーナビには多可町側にある道の駅「杉原紙の里・多可」道の駅入れといたので、そこに着いてしまった。
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駐車場に入ると、止める所がないほどの盛況ぶり(~o~)仕方なく道の駅の対面にある「青玉神社」の第2駐車場へ止める事に。
この神社があったので、道の駅も作ったのではないかと思い、参拝してから道の駅に行く事にした。
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「青玉神社」のイワレは
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 当社は、播州、丹波、但馬の境
三国山頂に鍛治業の御神徳をもって奉斎されていた
 明応二年 安政三年の火災で宝物と記録を消失し 万延元年に三回目を奉建したのが、現代の神殿である 加美町随一の古社で昔からこのあたりを神郷と称し「かみの里」の発祥の地でもある
  湯立て祭り
 狩人の身の安全を祈る湯立ての神事は毎年7月15日直近の日曜日行われる 現代では湯立ての玉湯を浴びると、無病息災であると言われ、祈願する多くの参拝者でにぎわう
                     鳥羽区
との神社でありましたが、この神社の見どころは
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「杉原の里」と地名が付いているほど杉が有名らしく
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県指定文化財 青玉神社の大スギ
指定年月日  昭和43年3月29日
所有者:管理者  青玉神社

 県指定の大杉は、青玉神社の境内に7本あり、多可さ50~60M、根回り8~11メートル、目通り幹囲は4~8メートル、樹齢は約1000年といわれている。
 なかでも、社殿裏山にある高さ60メートル、根回り11メートルの大杉は、地上8メートルの所から2つにわかれているところから夫婦杉と呼ばれ、神木として住民から親しまれている。
   平成5年11月    兵庫県教育委員会
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これが御神木の夫婦杉です
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同じ内容は省略して、
 深き縁に結ばれた夫婦の睦まじき和合と行く末の長寿と繁栄を願う御神木として各地より広く信仰が寄せられている。
 又、幹や根にそっと手をあて、その霊気を頂くと「腰痛が良く直る」とも言い伝えられている。
   夫婦円満の秘訣
20代は  愛で
30代は 努力で
40代は 我慢で
50代は 諦めて
60代は 信頼で
70代は 感謝で
80代は 一心同体で
そしてそれからは  空気のようなふれ愛で・・・
身につまされる 思いの方 良いのか悪いのかワカリマシェンが一度実践されては・・・
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二股に分れています。
青玉神社の謂れ
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   「青玉さん」
 この神社の北西に聳える三国嶽の山頂に播磨踊場という広い平坦な所があり、今も御手洗池という小池が残っている。そこに青玉さんが鎮座まし斎祠されていたという。
 青玉神社がこの地に創建された年代は定かではないが、境内の6本の大杉は樹齢7・800年以上かといわれ、又御神木(夫婦杉)は千年杉ともいわれている。これらの巨木から見て神社が建てられたのは相当昔のことである。
  休み石の謂れ
 その昔、井ノ岡(猪ノ岡)という狩人が(のちに稲岡大明神として祀られている)三国山へ狩に行った帰道、背中が急に重くなり、ここ迄やっと辿りつき動けなくなった。この石に腰掛け、しばらく休んだ後帰ろうと立ち上がれば背中が急に軽くなった。急いで村に帰りこの事を村の人に話した。村の長老がそれはきっと神さまやと言った。それから村の人は口々に青玉さまを背負って来たのだ。ここに神さまを祀れということだといって、その後この地を拓き清め青玉神社として祀ったそうである。
   その石がこれであります
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足、腰の痛い人 肩がこる人 こんな方を知っている人
一度拝んで下さい
祭神:天戸間見命(あまとまみのみこと)
    別名:天目一箇命(あまのひとつのみこと)
      なまって青玉となったとの説も(?_?)
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境内の杉の木立により静寂な空気が漂っており、ネットで見るとパワースポットにもなっているとか、興味のある方は一度参拝してはいかがかな。
で、時刻も12時に近づいてきたので道の駅で昼食にしようと、そちらの方へ
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館内の売店風景。入る手前の入口の所には地元野菜や地どりのから揚げ等を販売食堂は
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シャルマン(フランス語で魅力的他)を感じの当て字にした食道。吾輩から来た「釜飯」
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相方さんの「地どりから揚げカレー」
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何時もは、食べている最中に写真を撮る事を思い出すのだが、今回は食べる前に思い出したので写真に残す事ができました。
釜飯の炊き込みご飯は、いろいろな倶が入っていて、あまがらく美味かった。
カレーのから揚げを一個拝借して食べたが、柔らかくサクサクして美味かったが、カレーに合っていたのかは判りましぇ~ン
窓ガラス越しに見えた風景には、杉原紙の里と書いてある建物があり、そちらにも行って見る事に
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杉原川に架かる赤い木造の橋
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橋の上から川を見ると家族連れが寒い中水遊び
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その内ラブラドール・レトリバーが川の中へ
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熱かったのか、川底に座ってしまった
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カメラを構えて居ると、私を撮ってくれとお願いされて
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はいパチリ・・・と、そして対岸へ
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その説明書きが横に
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播州は南にたいへん水運のいい内海を持ち、北に日本の背骨中国山脈を負い、肥沃な平野が広がり、早くから人文が開けたことは、明石原人が発見されたことに象徴されるように明らかである。
 製紙についても、奈良時代すでに美紙の産地として聞こえ、平安時代紙屋院(官用の製紙所)の機構が衰えるや、椙原庄紙の名がにわかに都の文献に出るようになる。
 最も古いのは関白忠実の日記「殿暦」の永久4年の記事で、実に12世紀の初頭のことである。この事はおそらく紙を漉くのに適した椙原庄が、近衛家の領地だったことによるのであろう。
 それからこの紙は「椙原」または「杉原」と呼ばれ国内を風びし、人々の愛用を受け、中世には紙の品種を示す普通名詞となって連綿と近年にまで続いている。紙の歴史がこのように永いのは他に類のないことであろう。
 惜しむらくは現在杉原谷にこの紙を漉く者がいない。そこで歴史を考え、伝統を尊ぶ郷の人々が相談し、恰好の地を選んで杉原紙発祥の碑を建てようとするものである。
 播州は私の郷里でもあり、しかも先年杉原紙の源流を尋ね、帝国学士院会員京都大学名誉教授新村出博士に従って入村した縁によって、博士に題字を乞い、私が撰文した。
  甲南大学教授・文学博士  寿岳 文章
寿岳 章子さんお名前は聞いた事があるが、寿岳 文章さんが父親という事は知らなかった吾輩
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杉原紙と墨との融合展の立カンにつられて
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展示室:写真右が「文章さん」左が娘の「章子さん」
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 よい紙には不思議な魅力がある。質が与える悦びである。そこではいつも堅牢と美とが結ばれている。私はわけても和紙が好きである。日本への賛美をここでも味わふ。近代の知識は紙を西洋化さす事に急いでゐる。私達は量に於いて助けを得たが、質に於いて失った物は大きい。人々は、紙の粗悪に無関心にすらなった。省みればそれを正しい現象とわ誰も云ふまいと思う。質を失ふ事は凡てを失ふのに近い。私は和紙の美を忘れることができない。
  「民芸運動と和紙」  寿岳 文章
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売店も見回ったが買うものが無かったので道の駅にオサラバして、再度水探しに引き返した
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道の駅で聞いてきたので、今度は見つかるはず(^o^)/
播州トンネルを抜ければ青垣町側、そこから最後のカーブの手前らしい。
しかし、トンネルを過ぎるとゆっくり走り、相方さんにも小さい目を大~きく見開いて探しながら下って行くと
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(後程写したので向きが逆です)
大きなクレーンが作業をしている後ろの方にフェンスと人影が見えたので車を止めて行ってみると
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親子連れの三人が水を汲みながら談笑をしておられた。尋ねてみると、例の探していた水である。
順番を待つ間、この水の元はと回りを見渡すと、上の方から1本のエスロンパイプが
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それと、フェンスの後ろの方には
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井戸の様なものが設置してあったが、この付近「マムシに注意」のお触書がフェンスに張って有った。
順番がきたので吾輩も水汲みを、水溜の様なコンクリートの箱ものの中から、1本のパイプがフェンスの間まで出て来て、そこから水が出ていた。水汲みをされていた方は「昼の時間は出る量が少なくなる、地元の使用量が多いいのだろう」と言われていた。
吾輩も水を汲み終え、映画「新聞記者」を観に出発して行った。
「新聞記者」ドキュメンタリータッチの内容だろうと思っていたのですが、なにがなにが、終わるまで目も離せないストーリで釘付けにしてしまった。
内容は話せないが、原案・企画・制作者『河村光庸』氏の寄稿
     「映画」こそ真の自由であることを願って  をお贈りして終わります
 2019年、新しい元号「令和」が始まり、参議院選挙、翌年に控える東京オリンピックの開催。かって経験したことのないような時代の大きなうねりの中で、人々はどこからどのような情報を得ていかなければならないのでしょうか。
 第二次阿部政権の発足以降、下がり続ける「世界の報道の自由度ランキング」(国境なき記者団)で日本は2016年、2017年には連続72位と、ついにG7各国の中で最下位となったことはすでにご承知かと思います。
 フェイクニュース、メディアの自主規制は蔓延し、官邸権力は平然と「報道の自由」を侵す・・・・・。
 この数年で起きている民主主義を踏みにじるような官邸の横暴、忖度に走る官僚たち、それを平然と見過ごす一部を除くテレビの報道メディア。最後の砦である新聞メディアでさえ、現政権の分断制作が功を奏し「権力の監視役」たる役目が薄まってきているという異常事態が起きているのです。
 それとともに、そしていつの間にか暗雲のように社会全体に立ち込める「同調圧力」は、人々を委縮させ「個」と「個」を分断し孤立化を煽っています。そのような状況下、正に「個」が集団に立ち向かうか如く、官邸に不都合な質問を発し続ける東京新聞の望月衣塑子さんの著者「新聞記者」に着想して、企画構想したのが映画「新聞記者」です。
 そしてこの数年日本で起きた現在進行形の政治事件をモデルにしたドラマがリアルに生々しく劇中で展開していくという映画史上初めての試みとなる大胆不敵な政治サスペンス映画に着手しました。
 「これ、やばいですよ」「作ってはいけないんじゃないか」という同調圧力を感じつつ制作過程ではありましたが、映画『新聞記者』は完成しました。皆さま、この機会に是非この映画にお心を向けて下さい。「映画こそ自由な表現を」の旗を掲げ、ご覧いただいた皆様のご意見ご感想を糧に、映画『新聞記者』は前人未踏の道を進んでまいります。

今回の選挙で安倍政権が大量に議員を獲得すると、ますます国民を『バカ』にした政治を繰り広げていく事でしょう。吾輩のブログの読者は少ないですけれど、心ある方は是非選挙に足を運んでください。
日本国憲法の 国民主権・基本的人権の尊重・平和 の三原則を守るためにも!

尚、吾輩の人生哲学は「人間は人間のために生きる」を心に秘めて生きています。

「片渕の水源水(仮)」の水の評価は
集落の水源に使用されている様で、一杯目を飲んだ時には硬水系かなと思ったが飲んでいるうちに、やっぱり軟水だ!と思えてきた水でした。水道水として無難な水でありました。
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v でした
詳しい場所は



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NO236:野瀬の「シイタケ山の清水」(仮)

  2017,8,20多紀連山 001-1w
篠山市の裏、東西に峰々が連なる「多紀連山」という連峰が有ります。その山中に鍔市ダムが在りその周辺のどこかに湧水が出ているという情報をもとに出発したのだが、偶然通りかかった風景にシビレて、さらに絶景ポイントがないか探し回るうちに偶然見つけた湧水でございます。
上の写真は、そのシビレた絶景であります。今までに「NO120:水分れ公園・いそべの湧水」の訪問の時に栗柄峠へ寄った時に通っていたのですが、その時も一つの山に見とれていたようですが、今回の様な感動はしてなかったようです(読み返しての話)
この山々は、多紀連山の西の果て西紀という所で、今話題の高速道路「ガチャガチャ食券の西紀サービスエリア」が在るところデス。
この氷河に削られたような斜面を観れるのは、舞鶴若狭道春日ICを下りて県道69号を栗柄峠へ向かう途中の道端から見れるのですが、気を付けて通らなければ見落としてしまいます。この山々に魅せられて計3回足を運んでの今回の記事を書いています。ので、前後左右とまではいきませんが、3回の写真をごちゃまぜにしての内容となっておりますので、あしからず\(^o^)/
という訳で、この山々の雄大な姿が撮れるポイントがないか探しまわっりました。
その一つ三尾山(みつおやま)
  2017,828, 001-1e
さらに走り回り
   2017,828, 027-1t
「堂の峰」か「御在所山」か名前判らずアップ
   2017,828, 029-1t
写しながら徐々に谷合の村「野瀬」まで来ると
  tたきれんざん3、2017 050-1y
山奥にブドウ園が・・・・ 興味半分に寄って冷かして「こんな山奥で販売していても売れるんかいな」と、すると「うちはブドウ園でもぎ採って買ってもらうやり方でお客さんに買ってもらっている」との事
   tたきれんざん3、2017 052-1i
奥に見える青色のネットの中にブドウが、その他にも無道農園が
   tたきれんざん3、2017 051-1o
で、この庭先で売っていた「ぶどう」を買ってから、車をUターンするために奥に進んで行くと
   tたきれんざん3、2017 046-1y
道端に山の裾から引いた水が竹筒から出ているではないか、早速頂く事に
   tたきれんざん3、2017 047
竹で作った「ししおどし」が上手く作ってあったが、古くなって正常には動いてない様子、また、山から流れてくる水も竹筒から漏れて届いた時は量が半減、おかげで相方さんは「腕がいたいよ~」と
  tたきれんざん3、2017 048-1u
その上にはシイタケ園の札が、これを借れて、名もない水を「シイタケ園の清水」とかりに命名させて頂きました。
で、次の訪問地「鍔市ダム」へ車を進めて行きました

独断と偏見の水評価は、軟水の水の様で普通の水でした
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)vです
詳しい場所


NO201:石龕寺の「大槽谷の水」

    丹波化石 059-1q
前篇「64」を5月に見に行き、6月に後編が上映される。それに合わして三田のイオンシネマウッディタウンに見に行く事になった。
で、何時もの事で天然水が汲める所がないか探してみると、三田の近くの街、丹波市にある石龕寺にある事が判り寄ってから劇場に行く事にした。
何時もの如くナビは行先不明になってしまった。山の中にあるお寺なもので、進入して行く道が狭いのか適当に「目的地付近に到着しました」というアナウンスが流れるだけで、見渡してもそれらしき場所には来ていない(?_?)
仕方がないので、石龕寺がある山の周辺を探して見る事に・・・なんせ16年前のナビですんでCDを使用、容量も少ないのでしゃ~ないのだが(~_~;)
でも、探していると
    -1w丹波化石 037
石龕寺への入口が見つかり入って行った。道としては、カーナビに載らないような狭い道ではなく・・・しかし登るにつれて狭くなってきはたのだが・・・駐車場が出てきたがさらに進むと仁王門にたどり着いた。ここにも十台ぐらいは止めれる駐車場があった。
このお寺は丹波紅葉三山と言われるお寺の一つで、紅葉は立派らしい。今回は雨の新緑で我慢しなければならなかった。
    丹波化石 008-1e
そして
   丹波化石 004-1r
足利氏ゆかりのお寺
    岩屋山 :石龕寺(せきがんじ)
石龕寺は用明天皇の丁羊(ひのとひつじ)の年(587年)、聖徳太子の開基と伝えられ、太子が深く帰依された毘沙門天王を本尊として古くから栄えたお寺であります。
 鎌倉時代から室町時代にかけて隆盛をきわめた。山門の仁王像(金剛力士像)は、仁治三年(1242年)、大仏師定慶の作で、日本で屈指の名作として現在国の重要文化財に指定されています。
 南北朝時代、足利尊氏が弟直義の争い(観応の擾乱)に敗れ一時京都から播磨へ逃れるとき、嫡子稔義詮(第二代将軍)に仁木頼章、義長兄弟を添え、二千騎を当山へ留めました。(その時、院主雲暁僧都は勝軍毘沙門の法を修して祈祷、足利氏は深く帰依しました。このことは「太平記」二十九巻に記されています。)
 この時、当山の僧が足利氏に名物の丹波栗を献上、義詮公はその一つの栗に爪跡をつけ、
都をば出て落ち栗の芽もあらば
         世に勝ち栗とならぬものかと
 と歌を添え、もしこの栗が芽を出せば、都に出て天下を取ったものと思ってくれ、といって植えて去って行ったといいます。首尾よくその通りとなり、今もその栗を「爪あと栗」、「ててうち栗」として伝えています。
 その後、中世末期には織田信長の丹波攻略を受け、天正7年(1579年)一山ことごとく焼失、仁王門を残すのみとなりました。
 江戸時代以後、徐々に復興。奥の院、毘沙門堂(本堂)、持仏堂、庫裡、客殿等境内の整備を見るに至っています。
 また、紅葉の名所としても今日脚光を浴び、毎年11月には、”足利氏ゆかりの石龕寺もみじ祭り”が行われます。
 なお、当山は高野山真言宗に属しています。(参照太平記29巻)
              山南町  山南町観光協会

今日こんな詐欺メールがまたも入ってきましたのでUPしておきます。
司法書士の半田です。
必要書類一覧及び御請求書を送信いたします。
よろしくお願い申し上げます。

全く身に覚えのない方です。

焼け残った仁王門の
 右の開口阿形
    丹波化石 010-1y
左の閉口吽形
    丹波化石 012-1u
門を潜り登って行くと
    丹波化石 014-1i
そして石仏石碑のお出迎え
    丹波化石 015-1o
境内の地図を見ると
丹波化石 004-1p
目的の「大槽谷の水」は地図とはチョイト違ったが、参道の横に沿って走る車道に看板が有ったので帰りに寄る事にして参道を登って行くと
    丹波化石 017-1a
水琴窟なる標識が、で石段を登って行くと何か騒がしい声が聞こえてきたが、庫裡まで行くと、どうも檀家さんたちの寄りあいみたいで、様子からしてお酒が入った宴会の様であった。・・・が、賑やかなせいで水琴窟の清爽な音色はちっ~とも聞こえなかった((+_+))そのせいか庫裡の横にある持仏堂は「もぬけの殻」
    丹波化石 019-1s
暗くて写りが悪い仏像をハイパチリと「聖観世音菩薩」の様
宴会の邪魔にならないよう、引き返し本堂へ向かって石段を登って行った
   丹波化石 021-1d
本堂の一段下に
   丹波化石 023-1f
コウヨウザンの木
   丹波化石 024-1l
郷土記念物:石龕寺のコウヨウザン
指定対象:コウヨウザン・・・1本
指定年月日:平成7年3月31日
地域の人々の暮らしを見守って来たこのコウヨウザシは、地域のシンボルとして親しまれている。コウヨウザシとしては県内最大の巨木である。
    兵庫県
そして、毘沙門天を本尊として奉る、毘沙門堂本堂
     丹波化石 025-1g
その横の方には、まだ新しい薬師堂デス
     丹波化石 028-1k
その間には大きな佛足石がありました。
    丹波化石 027-1h
丹波化石 026-1j
              佛足石
 お釈迦さん(釈尊)が入減された後、弟子たちが釈尊の徳を慕い、教えを敬うあまり、説法された霊地を訪ねその足跡を拝んだのが佛足石のはじまりです。
 佛足石の意趣は、お釈迦さんの足跡・佛教の教えを頂礼して佛徳を受け、健康を祈願するところにあります。
 お釈迦さんを礼拝するには、「帰依佛両足尊」とお唱えします。健康の基は足を鍛えることにあり、五臓六腑のツボも足の裏にあるといわれています。
 足を守ることは、身体健全・交通安全を祈願することにも通じます。
 この釈尊の足跡を礼拝して、心身ともに健康で長寿が保てるよう祈念いたしましょう。
             石龕寺奉賛会
との事、願いを念じて次へ進んで行った。
奥の院の入口があったが 
    丹波化石 030-1z
時間の関係上パスをさせて頂いた。本堂の少し下左側には
   丹波化石 032-1x
   丹波化石 031-1c
焼尾神社:この社は今から750年前、仁治2年(1241)の創建と伝えられている。(仁治3年に仁王像造立)
郡内最古の寺、石龕寺の鎮守として弁財天が祀られていましたが、明治維新のジンブツ神仏分離により、市杵島比売命を祀る事になり、ご神体の弁財天懸仏は、石龕寺に保管されています。
 しかしながら、住民は焼尾さんは弁財天でもあり弁財天ののぼりも立てています。
 美女神であることと幸運や財宝、福徳の神としてとくに作家や音楽家、歌手、俳優のあいだで人気があります。
           平成11年3月
来るときに確認しておいた「大槽谷の水」まで下りて行った。
    丹波化石 016-1v
○この谷に昔、大槽という清水をたたえた岩盤のへこみがあった。(聖徳太子が毘沙門天尊像をここで洗われたので、水はいつも黄金色に輝いていたという)
○この水でみぞやしょうゆを仕込むと腐ることがないといわれている。
             平成11年 森の径整備
と書かれてあった。撮ったはずの川の写真が行方不明(たまに写して帰ってきたはずなのに、その写真が見当たらないことが有るのだが、四次元ポケットへ入って行ったと思っているのだが)
その川は幅5mほどで丸太2本の不安定な橋が架かっていた。その端を渡ると
     丹波化石 033-1n
こんな感じの小さな谷合、ふつう大雨が降ればこの谷間に川ができるのだが、今は途中の岩場から流れ出している水(伏流水)が岩板のへこみに
     丹波化石 034-1m
水が溜まっているのが解るかなぁ~・・・でモトイ
    丹波化石 035-2q
この溜まった水を汲んで、帰りかえていると、宴会をされていた一杯機嫌のオジサン(吾輩とどちらが若いか?だが)本当の「大槽谷の水」は奥の院に近い谷の事だと言って機嫌よく帰って行かれた。
こちらはエ~~~てな具合だつたが、まぁいいか(*^。^*)・・・と汲んだ水を「大槽谷の水」にしておく事にした。(ただしナイショ)
無事水も汲めて三田のウッディタウンに向かって篠山川を篠山市街へ向けて走っていると田圃の中にジャンボ「ティタノサウルス」竜のモニュメントが目に飛び込んできた(@_@;)
    丹波化石 062-2w
そこは「丹波竜の里・かみくげ」という公園であった。

ここで下記の詐欺メールが入ってきましたのでUPしておきます。
「請求書は、商品と別送にてお送りしております。請求書がお手もとに届き次第お支払い期限を確認の上、お支払いをお願いします。

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株式会社オンリー 」

で、寄って行く事に、駐車場では
   丹波化石 060-2e
化石発掘調査 体験料 1人300円
    丹波化石 061-2r
小さな石をもらい、金槌で割って真剣に体験?されていた。吾輩は、そこから500mほど先の化石が発見された場所を見に行く為農道を歩いてそちらの方へ
    丹波化石 058-2t
向こうに見えるのが「丹波竜の里・かみくげ」で、この道を歩いて行くと
    丹波化石 042-2s
旧発電所跡があります
   丹波化石 055-2u
   丹波化石 046-2i
         旧上久下村営水力発電所跡地
当時、村一帯がランプ生活だった大正9年、上久下村になんとかして電気を引きたいと、村長 平藤徳蔵氏らが相談されて、水力発電を行う協議が整い、発電用水は上滝下滝水利組合の灌漑用水を利用して導水する事になり、子の地に建設されました。
大正9年12月に当時の予算約8万円で着工され、大正11年6月に竣工しましたが、総工事費10万9,800円を費やしての完成となりました。配線整備が行われ、大正12年1月8日から本送電を開始しました。八ヶ集落は、山林の売却等により資金をつくり大変な苦労がありましたが、当時としては近隣にその比をみない施設の完成であり、村民の喜びは格別でありました。
しかし、昭和17年電気事業統合令により、昭和18年関西配電株式会社に統合され、始業以来わずか20年で、旧上久下村営水力発電所は閉鎖されました。その後関西電力株式会社に引き継がれ昭和38年まで運転されてきましたが、電力需要の増大により大規模な発電施設が整備されたので廃止になりました。現在この川代渓谷に静かにとどめる姿は、まさに村民の文明に取り組みした歴史を物語っています。
      丹波市  丹波市観光協会
中は、化石発見の模様の展示がしてあり無料です。横の階段を
    丹波化石 047-2p
降りて行くと河原が見えます
   丹波化石 049-2a
川原のコンクリートで覆ってある場所から化石が発見された模様で、次回の発掘まで保存のためにコンクリートで覆っているのだそうです。
     丹波化石 051-2d
         丹波市恐竜化石保護条例に基づく「保護区域」
 本区域で、恐竜化石等が発見され今後も発見される可能性があることから、保護を図るとともに市民の共有の財産として継承するために、柿の区域を「保護区域」として指定します。保護区域において、化石の採取及び化石若しくは化石含有地の破壊を目的とした土地の区画形質の変更などは行ってはいけません。
■指定区域
    一級河川 篠山川   発掘現場区域から上流20m及び下流20mの河川区域
■指定年月日  平成25年3月8日
●お問い合わせ先  丹波市役所 産業経済部 恐竜を活かしたまちづくり課
丹波化石 052-2f
丹波竜化石の産出部位:産出した部位は、彩色したまたはその前後に相当すると考えられています。この骨格図は特定の竜脚類その物ではなく、オビストコエリカウディアおよびラべトサウルス形類一般に広く見られる形態を想定して描かれたものです。
産出部位の名称:1、尾椎 2、血道弓 3、腸骨 4、恥骨 5、肋骨 6、脳函・環椎 7、歯
恐竜発見
平成18年8月7日ー世紀の大発見(写真1・2)
美しい川代渓谷に夏の太陽が照りつける中を、長年、生痕化石の調査を続けてきた足立洌(きよい)さんは旧友の村上茂さん(共に丹波市在住)と2人で山南町上滝へ地質調査へ出かけ、篠山層群の泥岩層の表面から、1センチほど突き出た灰色がかったものを発見し、ハンマーやタガネを使って長さ15センチ程度の化石を彫り出しました。
8月9日ー化石確認(写真3)
2人は6時間かけて約30センチの棒状の化石2本、塊状の化石1個を掘り出し、この化石を兵庫県立人と自然の博物館に持ち込み、同定してもらいました。すぐに恐竜の化石と判断されたため、直ちに現地に向かい埋蔵状態を確認し、9月下旬に試掘調査を行うことになりました。
 その結果、白亜紀前期の泥岩層(約1億4千万年前~1億2千万年前)からティタノサウルス形類の肋骨などの化石10数点が発掘されました。
第一次発掘調査
平成19年3月6日ー連なる尾の化石発見(写真4)
 尾椎および血道弓の化石約数十点がまとまった状態で産出しました。恐竜の化石が元の位置関係が概ね保ったまま産出したのは日本では初めてのことです。
6月26日ー脳函の化石発見(写真5)
 クリーニング作業により、頭骨のうち脳が入っている部分(脳函)の化石が確認されました。恐竜の頭骨の一部が発見されたのは国内で7例目で、竜脚類としては国内初めてのものです。また、世界的にも竜脚類の頭骨の発見は少なく大変貴重なものです。
第二次発掘調査
平成20年2月7日ー肋骨などを大量に発見(写真7)
 肋骨の化石がほぼ並んだ状態で発見されました。長い物で1,5メートルほどあります。発見された部分は、胴体右側の後部にあたるとみられ、この様に肋骨が並んで発見されたのは国内では初めてのことです。また、恥骨とみられる化石も合わせて発見されました。
2月21日ー環椎(首の骨)発見(写真8)
 環椎(第1頸椎)はU字形で、縦約8センチ、横約6センチ、厚さ約3センチほどです、世界で数百十種の竜脚類が発見されていますが、環椎は小さく発見が難しいため、十数例しか発見されていません。
2月28日ー竜脚類の歯発見(写真9)
 竜脚類の生える前の歯、つまり顎(あご)の中に入っていた未崩出の歯の化石が発見されました。歯は、長さ4,5センチ、幅約1センチで、表面に摩耗した形跡がなく、顎の骨の中にあったと考えられます。国内で発見された例はなく、大変貴重な標本となります。
第三次発掘調査
平成21年3月12日-記者発表(写真10・11)
 生える前、生えた直後、使用中のすり減った歯など様々なな状態の竜脚類の歯数十点と、胴体の前半分とみられる肋骨6点が発見されました。
 また、発見直後のクリーニング作業によりティラノサウルス類の前顎の歯が産出している事が分りました。
             発掘調査の成果と今後
 第一次・第二次発掘調査が終わった時点で、推測される丹波竜の姿を形にした模型で、恐竜模型製作の第一人者である荒木一成氏の製作によるものです。
 今後の発掘調査によっては、更なる進化を遂げる可能性もある事から、「丹波竜フィギュア2007年版」としており、丹波竜化石工房で展示していますのでご覧ください。
発掘調査の成果と今後
 第三次発掘では、竜脚類の化石の発見のほか、獣脚類、鳥脚類の歯の約60点を含む2883点の化石が確認され、発掘調査を開始してから現在までに骨片を含め、約9000点もの化石が確認されています。
 多くのボランティアの協力を得ながら実施している発掘調査は、現場が河川敷にあるため、春から秋にかけての増水期を避けて実施しており、発掘調査は長期にわたる計画で、今後の調査で更なる発見が期待されます。
丹波竜化石工房も見て下さい。
尚この場所に来た時に、以前所属していました「福知山カヌークラブ」のメンバーとここを下っていいたときに、あわや重大事故になりかけた事を思い出すにはいられない場所であった。
と言っても、吾輩は陸上からレスキューメンバーとして同行していたのでした。その当時は、まさか恐竜が眠っているとはつい知らず、岩の上を駆け回っていたのでした。
その日は、上流にある川代公園から出発
   丹波化石 064-2c
一行が下り終えるのを見て、我々レスキュー組は先回りして発電小屋の河原に下りて待っていた。
   丹波化石 057-2z
小さな滝の様な落ち込みを無事通過する者、ポテージ(落込みを迂回する事)する者と各自各様の思いで発電所跡の瀬まで無事下って来た。
   丹波化石 048-2x
しかし、発電所の瀬は全員パス(@_@;) 写真の下流から再度カヤックに乗り込み下る事になった。
写真には写っていないが、流れが右から左の岸へ向かって進み、その流れが造ったであろう岸の岩場に小さな洞窟が掘られていた。このような穴を「アンダーカット」と言い、ひとたびこの穴に入るや否や水流の圧力で出て来ることが不可能に近い状態になり、最悪天国へ行かねばならない結果になるのです。と言うのも水流により掘られた穴は天井が水面ぎりぎりの場合が多く、入ると水中に持って行かれ窒息するのです。また、洞窟内は流れが入り込み渦を巻いて出にくくしている事も一因であります。
そのことをカヌーイストは認識して遊んでいますので、今回も、陸上から万が一の場合を想定して、救助用のレスキューロープを持って待機していたなかを、一番にくだって行った某会員さんが下るや否や複雑な流れに巻き込まれカヌーもろと転覆((+_+)) ロール(起き上がって再度カヌーを漕ぐ)を2~3回試すも失敗力尽きて沈脱(カヤックから脱出)・・・これをすると普通カヤックを持って泳ぎながら安全な岸へ向かって上陸するのだが、この時はカヌーもろと洞窟へ流されていたので、カヤックを離せと叫びながらレスキューロープを投げたのでした。運良くカヤックを離しレスキューロープを捕まえ無事メンバーは陸上に救助する事ができましたが、案の定カヤックは洞窟にはまり込んで水圧でもがいていた。
アンダーカットにハマり込んだカヤックウをいかに回収するか・・・協議の結果、穴から自然と出て来るのを待つ事でそれを回収する・・・しかし、一向に穴から放出される気配は無く、次に考え出したのが、カヤックオーナーのライフジャケットにレスキューロープをくくりつけ、カヤックで穴の下流から穴に向けてカヤックオーナーを引っ張って行き、カヤックオーナーがもがいているカヤックを捕まえると同時に、陸上で待機しているレスキュー部隊が頑張ってカヤックオーナーを陸地まで引き寄せる方法でやることになった。
待機組は固唾を呑んで見守っていたが思いの外うまくいき、無事回収できたという、一歩間違えばニュースになっていた事故でした。

篠山川を下っておられるYOUTUBEが有りましたので、お借れしました。
       

という事で、篠山市街に出て、一路三田のイオンシネマへ「6・4」後編を見に行きました。今回長文の記事になりましたので感想は×という事にしました。「いや~久し振りに手に汗を握る納得のサスペンスを観ました」

元に戻って、「大槽谷の水」の水の評価は、沢水、伏流水にしては美味しかったが5ランクまでにはもう一越え欲しいところでした。
独断と偏見の水評価は
(^_^)v (^_^)v (^_^)v (^_^)v
詳しい場所は


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NO159:稲土渓谷「廃鉱の飲み水」

   銚子ヶ 084-ww
     引き続き書いてまいります(^_^)/~
浄丸の滝へ行くにはゲート・・・そんないい物ではないのだが・・・開けて前に進みます。
   銚子ヶ 071-ee
開けて中に入れば閉めておきます・・・これ鉄則 m(__)m 

 

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NO158:一休さんの「銚子ヶ水」

    銚子ヶ 023-q
一週間遅れの「父の日プレゼント」でステーキを食べに行ったついでに、丹波市といってもレストランとだいぶ離れていますが旧青垣町内にある「一休さんの銚子ヶ水」を頂きに行ってきました。
父の日のステーキと言えば、二年前丹後半島碇高原のステーキハウスに行った記憶がよみがえる。この時は、お値段に対して今一の肉質だったという思いを今でも思い出す。今回はスコ~シ高め、前回同様予算をオーバーした分は吾輩持ちとなった。お値段は ひ み つ であります。

   ↓

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